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『古代に真実を求めて』 第二十五集

九州王朝の全盛期 -- 伊勢王の評制施行と難波宮造営 正木裕

九州王朝 大化改新はなかった 論文一覧
YouTube講演 大化の改新はなかった 正木裕 https://www.youtube.com/watch?v=YJ7AEk0YX5k
大化の改新の真実 -- 2つの大化と2つの改革 正木裕 https://www.youtube.com/watch?v=AaPoM9HTi8c

伊勢王(いせのおおきみ)の時代⑴ -- 盗用された常色の天子の事績 正木裕 https://youtu.be/Q8w91y8o-jc
伊勢王の時代⑵ -- 『書紀』に盗用された伊勢王の事績 正木裕 https://youtu.be/hEw996sHQ0A


九州王朝と大化の改新

盗まれた伊勢王の即位と常色の改革

正木裕

一、『日本書紀』と九州王朝の天子の事績

 本書の『二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」』では、六世紀末から七世紀前半の我が国の統治者は、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)(在位五八九~六二二)及び、その太子の利歌彌多弗利(りかみたふり)(在位六二三~六四六)であり、命長七年(六四六)に崩御した利歌彌多弗利を継いだのは、常色(じょうしき)元年(六四七)に即位したその王子であることを述べた(注1)。
 本稿では、常色元年に即位した我が国の天子(大王)は、『書紀』に記される「伊勢王(いせのおおきみ)」であり、その様々な事績が『書紀』に剽窃され、孝徳・斉明・天武・持統などヤマトの天皇の事績とされたことを明らかにする。 なお、本稿では伊勢王の事績のうち、常色元年の利歌彌多弗利の法要や伊勢王即位の神事と、即位直後の「常色期の改革」を中心に明らかにする。

 

1、「伊勢王」は常色の天子

 『書紀』には白雉元年(六五〇)~持統二年(六八八)の三十九年間に十回「伊勢王」と呼ばれる人物の事績が記されている(注2)。
 伊勢王の初見は、白雉元年(六五〇)の白雉改元儀式で、それ以前の誕生や年齢、出自等は何ら記されていない。そして、斉明七年と天智七年の二度「薨去記事」があるが、薨去以後も持統二年(六八八)までの間に七回事績が記され、しかも、諸国の境界を決める(限分する)、高市皇子と「無端事(あとなしこと)」の功績で恩賞を得る、天武の葬儀を主催するといった、重要な役割を果たしている。
 そして、「伊勢王」は「諸王五位」、或いは「浄大肆(じょうだいし)(注3)」とあることから一般にはヤマトの天皇家の配下の有力な豪族の長(氏の上)の呼称で、年代を異にする複数の人物だと考えられている。
 しかし、「伊勢王」の各々の記事・事績の内容と「九州年号」から、「伊勢王」は常色元年(六四七)に即位し白鳳元年(六六一)に崩御した倭国(九州王朝)の天子であることがわかる。
 まず、伊勢王の逝去記事に記される「薨去」という用語が問題だ。
 「伊勢王」には、斉明七年(六六一)六月②と天智七年(六六八)六月③の二つの「薨去記事(注4)」があるが、実は、この「薨」は、律令制では、皇太子や大臣を含む親王や三位以上の逝去に用いられる用語だ。
◆『養老令』(第二十六喪葬令十五薨奏条)凡そ百官(*散官・女官・無位皇親等全てを含む)の身、亡(みまか)れば、親王及び三位以上(*皇太子・大臣が含まれる)は薨と称す。五位以上、及び、皇親(*親王以下四世王まで)は、卒と称す。六位以下、庶人に至るまでは、死と称す。

 そして、「薨」は『養老令』だけでなく、律令制定以前の『書紀』記事でも「皇太子・大臣・親王及び三位以上」に用いられている(注5)。
 伊勢王は「諸王五位」で(天武十二年記事)、五位なら卒とあるはずだが「薨去」と書かれており、これは不自然だ。しかし、「薨」を三位以上とする定めには例外がある。それは「他国の王・皇族の死」だ。
 『書紀』では「百済肖古王、百済国貴須王、百済阿花王、百済枕流王、百済王昌成、狛国香岡上王、百済義慈王の母、高句麗太陽王」など他国の王・皇族の死に「薨」が用いられている。
そして、『旧唐書』には「倭国」と「日本国」は別国と記され、倭国は、光武帝から金印を下賜された倭奴国を継ぐ九州の国=九州王朝を指し、日本国は元小国だが倭国を併合したヤマトの天皇家の国=大和朝廷を指すと考えられる(注6)。従って、大和朝廷の編纂した『書紀』の編者は、伊勢王を「別国=九州王朝の王」として扱っていることになる。
 また、「伊勢王」の薨去時(六六一)に九州年号が「白鳳」に改元されており、天子が崩御すれば年号は必ず改元されるから、「薨去」のみならず、「九州年号」からも伊勢王が倭国(九州王朝)の天子だったことが分かる。

 

二、『書紀』に盗用された伊勢王の事績

1、『書紀』編者の「三十四年繰り下げ」盗用

 利歌彌多弗利や伊勢王が、当時の我が国の天子なら、その崩御や即位に関する記録・記事が『書紀』にも何らかの形で残っていても不思議はない。
 こうした記録を探るうえで参考になるのが、古田武彦氏が、その著『壬申大乱』で明らかにした、「三十四年繰り下げ盗用」という『書紀』編者の盗用手法だ。具体的には、
◆持統三年(六八九)から、持統十一年(六九七)の九年間に『書紀』に記される持統天皇の三十一回に及ぶ吉野行幸は、斉明元年(六五五)から天智二年(六六三)の、九州王朝の天子の行幸が「三十四年繰り下げ」られた記事で、行幸の目的地は「奈良の吉野」ではなく「佐賀の吉野」であり、その目的は軍事基地吉野への督戦・軍事行動である、というものだ。(注7)

 そして「三十四年間」とは、白村江敗戦の翌年天智三年(六六四)から持統の末年・『書紀』の最終年の持統十一年(六九七)までだ。従って、『書紀』編者は、白村江敗戦以前の三十四年間の九州王朝の顕著な事績を、六六三年→六九七年、六六二年→六九六年・・・というように「順次白村江以後の三十四年後に繰り下げた」ことになる。そうであれば、「天武・持統紀」に三十四年前の九州王朝の事績が残されている可能性があろう。
 もちろん天子をはじめとする人物名や位階などは「繰り下げた年代にあわせ潤色」されているはずで、その点に留意して、『書紀』記事の資料批判を行うことにより、『書紀』で隠されていた数々の九州王朝の事績を明らかにできると考える。

 

2、繰り下げられた利歌彌多弗利の崩御と伊勢王の即位の神事

 「三十四年繰り下げられた」九州王朝の事績として、まず取り上げるのは「利歌彌多弗利の崩御と伊勢王の即位」だ。
 『書紀』を見ると、利歌彌多弗利が崩御したと考えられる「九州年号命長(みょうちょう)七年(六四六)」の三十四年後、天武九年(六八〇)に天皇・皇后の「病気平癒」記事がある。
◆天武九年(六八〇)十一月癸未(十二日)に、皇后、体不予(みやまひ)したまふ。則ち皇后の為に誓願(ちか)ひて、初めて薬師寺を興つ。仍りて一百僧を渡(いへで)せしむ。是に由りて安平(い)ゆることを得たまへり。是の日に、罪を赦す。(略)。丁酉(二六日)に、天皇、病したまふ。因りて一百僧を渡せしむ。俄(にわか)に愈えぬ。辛丑(三〇日)に、臘子鳥(あとり)天を蔽(かく)して東南より飛びて、西北に渡れり。

 この記事の趣旨は「十一月に皇后と天皇が相次いで病に落ち、皇后の平癒祈願に薬師寺を建てる事とし、又、各百名の僧侶を得度させたところ共に回復した」というものだが、この記事にはいくつかの不審な点がある。
①『書紀』で天皇・皇后が「病気になったがすぐ治った」と言う記事は異例。天皇の病を記す推古紀、孝徳紀、天智紀、天武紀すべて「病」は治癒することなく崩御に結びつく。
②「臘子鳥天を蔽す」との記事は、病気平癒の「吉兆」とは逆に、天武七年(六七八)十二月に筑紫大地震の「凶兆」として記されている(注8)。
③天武は、「すぐ平癒した」はずの皇后(後の持統)の「平癒祈願」のため薬師寺を創建したとしている。

 こうした天武九年(六八〇)の「天皇・皇后の病気平癒記事」の疑問は、命長七年(六四六)の「九州王朝の天子崩御」記事が、『書紀』では「三十四年後」に移されたものとすれば解消する。  つまり本来、
①九州王朝の天子と皇后の「病」は治癒することなく崩御した。
②その「凶兆」として臘子鳥の大群が飛来した。

という記事だったと考えられる。「九州王朝の天子」が我が国の支配者であれば、天子と皇后の崩御が、六四六年当時広く一般に知られていたことは疑えない。『書紀』編者は、その記事を三十四年繰り下げることにより、「ヤマトの天皇天武と皇后持統が共に病に落ちた事件」に「書き換え」て、世間の記憶を改ざんした。もちろん天武も持統も逝去していないので「すぐに平癒した」と記したが、その結果、病が平癒した直後に「凶兆」記事がある不自然さや、本薬師寺の創建の経緯に不審な点が生じたと考えられる(注9)。

 

3、天武十年(六八一)に頻出する祭礼・法要記事

 そして、命長七年(六四六)に「利歌彌多弗利」が崩御し、伊勢王が常色元年(六四七)に即位したなら、六四七年には利歌彌多弗利の法要と伊勢王の即位行事と祭事があったはずだ。そこで、三十四年後の「天武十年(六八一)」記事を見ると、祭礼・法要記事が頻出していることがわかる。
㋐(幣帛の頒布と天社地社の修理)天武十年(六八一)の春正月壬申(二日)、幣帛(みてぐら)(*神への捧げもの)を諸の神祗(じんぎ)(*天つ神と国つ神)に頒(あかちまだ)つ。癸酉(三日)、百寮の諸人朝庭拜(みかどおがみ)(*朝廷に参拝)す。丁丑(七日)・・大山上草香部吉士大形小錦下位を授け、仍りて姓を賜り難波連と曰ふ。(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。
㋑(祭礼法要の実施)五月己卯(十一日)に、皇祖の御魂を祭る。
㋒(大解除挙行)七月丁酉(三〇日)に、天下に令して、悉(ことごとく)に大解除(おほはらへ)せしむ。此の時に当りて、国造等各祓柱(はらへつもの)奴婢一口を出して解除す。
㋓(皇后の誓願)七月の戊戌の朔壬子(十五日)に、皇后、誓願して、大きに斉(をがみ)して、経を京内の諸寺に説かしむ。

 天武十年(六八一)の正月の「天社地社の神の宮の修理(寺社修理)」の詔が何を意味するのか、何故この時期に寺社の修理を命じたのか、その理由は記されておらず不明としか言いようがない。

 

4、「赤渕神社」の縁起書が示す三十四年前の利歌彌多弗利の法要

 ところが、近年「赤渕神社」の縁起書が発見され、この記事が三十四年前の常色元年のものである可能性が高くなった。
 「赤渕神社」(兵庫県朝来市和田山町枚田二〇一四)は、『延喜式神名帳』に記される古社で、但馬国の朝来郡に鎮座。祭神は大海龍王神・赤渕足尼(あかぶちのすくね)の神・表米(ひょうまい)の宿禰の神」とされる。「社伝・縁起」によると、赤渕・表米は日下部氏に属し、「赤渕神社」は継体代に国造となった赤渕足尼の逝去をうけ、継体二五辛亥年(五三一)九月に創建されたという。これは九州年号「教到元年」にあたる。
 縁起には異本も多いが、もっとも古い写本と考えられる『赤渕宮神淵寺』(天長五年(八二八)丙申三月十五日付け手書き写本。ただし天長五年は「戊申」)には、次の六か所に常色元年・朱雀元年という九州年号が記されている。
➀孝徳天皇御即位時五畿内定京之条坊門町定田町段定絹布之疋端定年号也。常色元年丁未 (資料1)。
➁表米宮可然任御託宣有宣旨即表米宮常色元年二月十四日上洛□宝剣与旗注御簀紋木瓜一被副下 (資料2)
③常色元年九月三日忽平悪鬼
➃先船之知辺常色元年十一月三日本地御座船寄給
⑤常色元年(注10)六月十五日在還宮為修理祭礼・・・又卯日定縁日十二之御僧禰宜神主十二人宮奴神前祭不断也 (資料3)
⑥表米朱雀元年甲申三月十五日崩御

 この➀の記事の「五畿内定京之条坊門町定田町段定絹布之疋端」では、孝徳時代に「畿内」と「京の条坊(京之条坊門町)」が定められ、「班田収授(田町段)」や「租庸(絹布之疋端)調」という税制も定められたとする。これは『書紀』大化二年(六四六)の大化改新詔にも見える(「大化改新詔」では、一戸あたり「庸布」一丈二尺を徴収)。その一方、『縁起』には、「孝徳天皇御即位時・・・定年号也 常色元年丁未(六四七)」とある。『書紀』どおりなら「大化」とあるべきだが、孝徳時代に定められた年号は「常色」だとする。これは、『書紀』からは導けない内容だ。つまり、『赤渕宮神淵寺』は『書紀』からは消された倭国(九州王朝)の歴史を残していることになる。
 そして、常色元年(六四七)六月十五日の記事(⑤)では、表米宮が赤渕神社を「修理(をさめつくり)」て、祭礼を行った(神前に祭りごと断(たや)さず)という。これは、三十四年後の『書紀』天武十年(六八一)の「天社地社の神の宮の修理」と同じ趣旨だ。

 従って、『書紀』天武十年(六八一)の「天社地社の修理」記事は、九州年号常色元年(六四七)から「三十四年繰り下げ」られた可能性が生じる。
 そして、『書紀』では「天武十年(六八一)正月壬申(二日)、幣帛を諸の神祗に頒つ(㋐)」とあるが、この記事を日の干支(暦日干支)の「壬申」付きで、三十四年前の常色元年(六四七)に移せば、一月に「壬申」は無く二月十五日「壬申」の記事となる。
 そして、『赤渕宮神淵寺』で表米宮が「宣旨により上洛」したのは「常色元年二月十四日」だから、「幣帛が頒布される前日」となる。また『書紀』に「百寮の諸人朝庭を拜す」とある一月三日「癸酉」は、六四七年では二月十六日「癸酉」となる。
 つまり、表米宮(宿祢)は「宣旨」を受け常色元年(六四七)二月十四日に上洛、二月十五日「壬申」に「幣帛」を賜り、二月十六日「癸酉」に「百寮の諸人とともに朝庭に伺候したことになる。

 

4、「赤渕神社」の縁起書が示す三十四年前の利歌彌多弗利の法要

 また天武十年(六八一)五月己卯(十一日)に、「皇祖(すめおや)の御魂を祭る(㋑)」とあるが、通説でも、「皇祖」とは誰か何故この時期に祭るのか不明で、岩波『書紀』注は「祖先に当る歴代の天皇とする説、天皇の祖父の彦人大兄皇子とする説、神武天皇とする説等がある。」とする。
 一方、表米宿禰が宮に帰還したのは常色元年(六四七)「六月十五日(庚午)(⑤)」で、『書紀』で「皇祖の御魂を祭った」「己卯」の日は、六四七年だと五月に無く六月二十四日「己卯」となる。
 そして、『赤渕宮神淵寺』の六月十五日記事の後には、「卯の日を縁日とし多数の僧侶や神官が神前で法要を絶やさず行った」とある(「又卯日定縁日十二之御僧禰宜神主十二人宮奴神前祭不断也」)。何故「卯の日」にこのように盛大な神事を行ったのか不明だが、この「卯の日」こそ『書紀』に「皇祖の御魂を祭る」とある「己卯」にあたるのだ。  従って、表米宿禰は六月十五日「庚午」に宮に帰り、「修理(宮を整える)」などの準備をして、二十四日「己卯」に、全国的に実施された「皇祖」「利歌彌多弗利」の法要を行ったことになる。
 また、七月丁酉(三〇日)には「天下」に大解除の祭事が盛大におこなわれ(㋒)、翌閏七月壬子(十五日)には皇后が経を京內諸寺で説かせている(㋓)。大解除は『延喜式』に「六月晦大祓、十二月此准」とあるように六月の晦日が通例だが、ここでは七月三〇日で、何等か特別の事情があったと考えられる。ところが、七月丁酉(三〇日)は六四七年では七月十三日「丁酉」だ。本来の旧暦のお盆「盂蘭盆会」は七月十三日から十五日だから、大解除の祭事は「利歌彌多弗利の初盆の法要」のために挙行されたことになる。
 また、何故皇后は京内での大規模な説法を行ったのか不明だが、これも「『皇祖』利歌彌多弗利の一連の法要」だと考えれば大解除や説法の意味が分かる。
 このように、『書紀』天武十年(六八一)の祭礼・法要記事を、『赤渕宮神淵寺』と対照することにより、『書紀』から消されていた、三十四年前の常色元年(六四七)に伊勢王が挙行した利歌彌多弗利の法要や、伊勢王の即位に伴う祭事を知ることができる。
 さらに、「草香部吉士大形」が「小錦下」の位と「難波連の姓」を授けられた(㋐)天武十年(六八一)正月丁丑(七日)は、常色元年(六四七)二月二〇日「丁丑」となるが、先に述べたように表米宿祢は「日下部(草香部)氏」だから、この時に日下部の一族として「伊勢王」より剣と、旗注(はたじるし)御簀(みす)に、日下部氏の家紋である「紋木瓜」を賜ったことになる。

 

三、盗まれた氏姓改革

1、繰り下げられた「難波連」の賜姓

 次に、この「難波連の賜姓」に関連する事績として、伊勢王即位年の「常色元年(六四七)」の「氏姓改革」について述べる。
『書紀』の天武十年(六八一)記事には「天社地社の神の宮修理」とともに、「姓を賜り難波連と曰ふ」とあるが、「難波連」の賜姓は、二〇〇九年に韓国扶余双北里(さんぶっり)遺跡(韓国忠清南道)から発掘された「那尓波連公(なにわのむらじのきみ)(難波連公)」木簡から、六六〇年以前の事実であることがわかっている。

 扶余はかつて泗沘(しび)と呼ばれ、五三八年から、唐・新羅の連合軍によって義慈王が降伏し、百済が滅亡する六六〇年まで古代百済の首都であった。双北里遺跡は泗沘都城内(扶余邑官北里、双北里一帯)の住居生活遺跡であり、木簡も七世紀半ば、六六〇年までのものと推定される。

  つまり『書紀』では六八一年に初めて与えられたはずの「那尓波連(難波連)」の姓は、六六〇年以前に存在していたことになる。六六〇年の泗沘都城滅亡は動かしがたいから、天武十年(六八一)の「難波連賜姓」も六六〇年以前、おそらく「神の宮修理」記事と同様、三十四年前の六四七年から繰り下げられたものとなろう(注11)。

 

2、繰り下げられた「八色の姓」

 『書紀』では、この「難波連」賜姓を皮切りに、天武十三年(六八四)にかけ、大規模な氏姓改革が行われており、その中で、よく知られるのが「八色(やくさ)の姓(かばね)」制定だ。  『書紀』天武十三年(六八四)十月記事に「真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」という新たな身分制度を定める「八色の姓」が制定され、これをもって「天武」が「天下萬姓を混(まろか)しめた」とある。
◆『書紀』天武十三年(六八四)冬十月己卯の朔に、詔して曰はく、「更た諸氏の族姓(かばね)を改めて、八色の姓を作り、以て天下の萬姓を混(まろか)す。一に曰はく真人、二に曰はく朝臣、三に曰はく宿禰、四に曰はく忌寸、五に曰はく道師、六に曰はく臣、七に曰はく連、八に曰はく稻置。是の日に、守山公・路公・高橋公・三国公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏に姓を賜ひて眞人といふ。
 そして、十一月朔(戊申)には、大三輪君以下「小野臣」ら五十二氏に「朝臣」が賜姓されている。
 この記事によれば、小野臣は天武十三年(六八四)に「朝臣」の姓を賜り、「小野朝臣」となったはずだ。ところが、慶長十八年(一六一三)に京都市左京区で発見された金銅製の「小野毛人墓誌」には、次のように記されていた。
(表面)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏面)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬

 小野毛人(えみし)とは、『続日本紀』和銅七年(七一四)四月(十五日)条に、
◆中納言従三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨(みまか)りぬ。小治田朝の大徳冠妹子が孫、小錦中毛人が子なり。

 とあるから、毛人は遣隋使で著名な「小野妹子」の子で、かつ「小野毛野」の父に当たる。墓誌では「大錦上小野毛人朝臣」が「丁丑年」、つまり天武六年(六七七)に没して埋葬されたとあるが、これは『書紀』記事で「朝臣」の姓が作られ、小野氏に授けられるより七年も前の事だ。従ってこの「朝臣賜姓」記事も「繰り下げ」られていたことになる。

 そして、「難波連」賜姓が「三十四年繰り下げ」られた六四七年の伊勢王の事績なら、同様の「氏姓改革」である天武十三年(六八四)の「八色の姓」制定も、三十四年前の『書紀』白雉元年(六五〇・九州年号常色四年)の伊勢王の事績となろう。

 

四、繰り下げられた伊勢王の「律令制定」

1、伊勢王の「小郡宮新築」と「礼法の制定」

 常色元年(六四七)に即位した伊勢王は、こうした氏姓改革のみならず、法制・地方統治・官僚制・宗教など様々な分野で大胆な改革に乗り出した。そのことが『書紀』天武十年(六八一)~同十三年(六八四)の記事でわかる。  天武十年(六八一)には、天武による「律令制定」を命じる記事がある。
◆天武十年(六八一)二月庚子朔甲子(二五日)に、天皇・皇后共に大極殿に居して、親王・諸王及び諸臣を喚(め)して、詔して曰はく、「朕、今より更た律令を定め法式を改めむと欲す、故に倶に是の事を修めよ。然も頓(には)かに是のみを務(まつりこと)に就(な)さば公事闕(か)くこと有らむ、人を分けて行ふべし。」とのたまふ。

 これは通説では天武による「飛鳥浄御原令(律令)制定」の詔とされている。ところが、『書紀』には三十四年前の大化三年(六四七)・常色元年に「小郡宮」で「礼法」を定めた記事がある。 ◆『書紀』大化三年(六四七)是の歳、小郡を壊ちて宮営る。天皇、小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有(たも)ちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列(つら)なりて、日の初めて出ずるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩(おそ)く参む者は、入りて侍べること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鍾の台は中庭に起てよ」といふ。

 こうした「礼法」の内容は、律令の「令」(官衙令、開閉門条ほか)にあたるから、常色元年(六四七)には、既に「令」で「礼法」が定められていたことになる。
 そして、天武十一年(六八二)には唐突に「礼」に関する記事が現れる。
◆『書紀』天武十一年(六八二)八月壬戌の朔に、親王以下及び諸臣に令して、各法式として用ゐるべき事を申さしむ。(略)丙寅(五日)に、造法令殿(のりのふみつくるみあらか)の内に大なる虹有り。 八月癸未(二十二日)に、礼儀・言語の状を詔したまふ。且、詔して曰はく、「凡そ諸の考選はむ者は、能く其の族姓及び景迹(こころばせ)を検へて、方に後に考(しなさだめ)む。若(たと)ひ景迹・行能灼然(しわざいちしろ)しと雖も、其の族姓定まらずは、考選はむ色(しな)には在らじ」とのたまふ。 九月壬辰(二日)に、勅したまはく、「今よりは以後、跪礼(きれい)・匍匐礼(ほふくれい)並に止めよ。更に難波朝廷の立礼を用ゐよ」とのたまふ。

 ここに記す「礼儀・言語の状」とは、大化三年(六四七)是歳条の「小郡の宮で定められた礼法」の内容にあたる。従って、翌年の常色二年(六四八)に「各法式」の一つとして「礼法」が公布されたことになる。
 なお、天武十年(六八一)三月記事に「新宮」とある。これは、伊勢王が常色元年(六四七)に新築した「小郡の宮」にあたり、天武十一年(六八二)八月記事に「造法令殿」とあるのは、「小郡の新宮の法令を制定するための執務殿」にあたることになる。(*「小郡の宮」については4で述べる)
◆天武十年(六八一)三月(略)甲午(二十五日)、天皇、新宮の井の上に居しまして、試に鼓吹の声を発したまふ。仍りて調へ習はしむ。

 六四七年の小郡宮の造営記事に「鍾の台は中庭に起てよ」との詔がある。その後「鐘」はどうなったか『書紀』は記さないが、実は天武十一年(六八二)に「鐘」本体の献上記事がある。
◆天武十一年(六八二)夏四月癸未(二十一日)に、筑紫太宰丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。

 天武紀では何故、何の為に鐘が献上されたか不明だが、三十四年前は大化四年(六四八)だ。従って、六四七年の「鍾の台設置の詔」により小郡宮に「鍾の台」が起てられ、翌年筑紫太宰が「鐘」を献上した記事となる(注12)。そして、小郡宮で臣下は「礼法」に基づき、その鐘の音を聞いて出退勤することになる。

 そして九月には、「難波朝廷之立礼を採用する」との具体的な「礼」の作法についての勅が出されている。「跪礼」とは「ひざまづき、両手を地につけて行う礼」であり、「匍匐礼」とは「宮門の出入りに際し、両手を地につけ、足をかがめて進む礼」のことだ。
  『魏志倭人伝』には「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲(つくば)い、或は跪(ひざまづ)き、両手は地に拠り、恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という、比するに然諾の如し」と跪礼・匍匐礼の原型が記されている。これは「跪礼・匍匐礼」が邪馬壹国以来の伝統であり、九州王朝の旧来の「礼」だった事を示すものだ。
  「難波朝」とは『書紀』では孝徳時代を指すが、孝徳紀に「立礼」を採用したという記事は無いし、一旦採用された「立礼」が廃止され、天武時代には跪礼・匍匐礼が復活していたという記事も無い。
 従って、この十一年(六八二)の「立礼を廃止」する記事も、「礼法」の制定に伴い、三十四年前の常色二年(六四八)に、九州王朝により「初めて跪礼・匍匐礼が禁止され、立礼が採用された記事」が天武紀に「繰り下げ」られたものといえよう。

 

2、「七色一十三階の冠」と「禁式九十二条」

 さらに、天武十年四月には服飾を素材や色で規定する「禁式九十二条」が出されている。
◆『書紀』天武十年(六八一)夏四月。辛丑(三日)に、禁式九十二条を立つ。因りて詔して曰はく、「親王以下、庶民に至るまでに、諸の服用ゐる所の、金・銀・珠玉・紫・錦。繍(ぬひもの)・綾・及び氈褥(おりかものとこしき)・冠・帯、并て種々雑色の類、服用ゐること各差有れ」とのたまふ。辞(ことば)は具(つぶさ)に詔書に有り。

 「辞は具に詔書に有り」と書かれているが、そのような「辞」はどこにも見えない。ところが、『書紀』大化三年(六四七)・常色元年是年条に「七色一十三階の冠」という「冠位」制度が創設されたと書かれている。これは位階を冠・服の色や素材で示すもので、冠位ごとの服飾(色と素材)が「つぶさ」に記されている(注13)。
 従って、『書紀』天武十年(六八一)の「禁式九十二条」制定が、三十四年前の常色元年(六四七)のものであれば、「七色一十三階の冠」と合わせて「無かった具(つぶさ)な辞(具体的条文)」が備わることになる。
 そして、「七色一十三階の冠」については「この冠どもは、大会し、饗客し、四月・七月の斎の時に、着る所なり」とあることから、天武十一年(六八二)三月の「位冠・装束をとどめる」記事(後掲)は、常色二年(六四八)のもので、前年に定めた新たな礼法や位階・服飾令を「四月」に、「施行」することし、そのため旧制の運用・適用を停止せよとの詔ということになる。また、食封(へひと)の返上は、新冠位の施行に際し、旧冠位に基づく食封を一旦返上させ、新冠位に基づき再配分するためだったと考えられよう。
◆『書紀』天武十一年(六八二)三月辛酉(二十八日)に、詔して曰はく。「親王より以下、百寮の諸人。今自り已後、位冠及び畢(まへひも)・褶(ひらおび)・脛裳(はばきも)、著ること莫かれ。亦膳夫(かしわで)・釆女等の手繦(たすき)・肩巾、〈肩巾、此を比例と云ふ。〉並に服ること莫かれ」とのたまふ。是の日に、詔して曰はく、「親王より以下諸臣に至るまでに、給りし食封(へひと)皆止めて、更た公に返せ」とのたまふ。

 そして、「常色」の「常」は「のり。典法」。「色」は「色法」すなわち仏・物質の法をいう(諸橋轍次『大漢和辞典』)。従って、「常色」年号は「律令・法令・宗教」全般の大改革の行われた年号として誠に相応しいことになる。

 

3、伊勢王による「常色律令」の制定

 このように天武十年(六八一)の「禁式九十二条・律令制定」、天武十一年(六八二)の「法式発令」、天武十三年(六八四)の「八色の姓」などが、三十四年前の常色元年(六四七)~常色四年(六五〇)に遡るなら、天武十一年十一月の「『杖』などの刑罰を定める記事」も、当然同時期のものということになる。
◆『書紀』天武十一年(六八二)十一月乙巳(十六日)に詔して曰はく、「親王・諸王及び諸臣、庶民に至るまでに、悉に聴くべし。凡そ法を犯す者を糺弾(ただ)さむときには、或は禁省之中にも、或は朝廷之中にも、其の過失発らむ処にして、即ち隋見随聞(みきかむまま)にして、匿蔽(かく)すことなくして糺弾(ただ)せ。其の重き事犯しし者あらば、請すべきことは請せ。捕ふべきは捉へよ。若し対捍(こば)みて捕はれずは、当処の兵を起して捕へよ。杖の色に当らば、乃ち杖一百より以下、節級(しなじな)にして決(う)て。亦、犯しし状灼然(いちしろ)きを、欺きて無罪と言して、伏弁(うべなは)ずして、争ひ訴へば、累ねて其の本罪に加へよ」とのたまふ。

 「杖」は、律令では笞(ち)(むち打ち)・杖(じょう)(つえ打ち)・徒(ず)(強制労働)・流(る)(島流し)・死という「五刑(大宝律では五罪)」の一つで、「律令」の「律(刑法)」にあたる。
  「飛鳥浄御原律令」は、持統三年(六八九)六月に「令二十二巻を斑賜」とあるため「令」のみが制定されたとの見解があるが、九州王朝では、伊勢王が常色二年(六四八)に、「律」も含めた「常色律令」を制定していていたことになる。

 

4、筑紫小郡宮と「浄御原律令」

 通説では「小郡の宮」は難波にあった行宮とされているが、そうした遺跡は発見されていない。一方、『書紀』には外国要人を迎えた式典の執り行われた場所として、「筑紫大郡と小郡」の存在が記されている。
◆天武二年(六七三)十一月壬申(二十一日)に、高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。祿(もの)賜ふこと各差有り。
◆持統三年(六八九)六月乙巳(二十四日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に設(あへ)たまふ。物賜ふこと各差有り。

 福岡県小郡市には「小郡官衙遺跡・下高橋遺跡・上岩田遺跡・薬師堂遺跡」等、概ね七~八世紀と見られる大型遺跡が集中し、中でも、「旧御原郡」に属する小郡市井上・岩田地区一帯には上岩田遺跡・井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。上岩田遺跡では東西約十八米、南北約十五米、高さ約一米強の基壇と、その上の瓦葺き建物や、柵に囲まれた大型の建物群が確認され筑紫大地震(六七八)によると見られる亀裂倒壊の跡がある事から、七世紀中盤から後半にかけ存在したことが確実で、「筑紫小郡宮」の候補といえよう。

 また、天武十年(六八一)三月条に「天皇、新宮の井上に居しまして、試に鼓吹の声を発したまふ」とある。この「新宮」が何かも不明とされるが、三十四年遡上すれば『書紀』大化三年(六四七)・常色元年となり、同年に造られた「小郡の新宮」のこととなる。そして、筑紫太宰が「小郡宮」に「大なる鐘」を献上したとあるから、小郡宮は筑紫にあった可能性が高い(注14)。

 このように天武紀の記事を三十四年前と対比することにより、伊勢王の即位後の様々な改革が明らかとなってくる。常色年間は『書紀』の大化時代と重なっており、いわゆる「大化改新」には伊勢王による「常色の改革」が含まれていることは確実だろう。『書紀』編者は利歌彌多弗利や伊勢王が九州王朝の天子であることを隠し、諸臣に姓と冠位を与え、律令を制定したのはヤマトの天武天皇だったと偽装したのだ。

(注1)九州年号「常色」は六四七年に「命長(六四〇~六四六)」から改元され、六五一年まで五年間続き六五二年に白雉に改元される。なお、『書紀』の白雉は六五〇年が元年で「二年間繰り上がって」いる。九州年号白雉は六五二年から六六〇年まで九年間続き、六六一年に白鳳に改元される。

(注2)『書紀』の「伊勢王」に関する記事は次の通り。
①白雉元年(六五〇)二月甲申(十五日)、朝庭の隊仗、元会儀の如し。左右大臣・百官人等、四列を紫門の外に為す。粟田臣飯蟲等四人を以て、雉の輿を執らしめて、在前(さいだ)ちて去く。左右大臣、乃ち百官及び百済君豊璋・其弟塞城・忠勝・高麗の侍医毛治・新羅侍学士等を率て、中庭に至る。三国公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穂・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を執りて、殿の前に進む。時に左右大臣、就きて輿の前頭を執り、伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執りて、御座の前に置く。天皇即ち皇太子を召して、共に執りて観す。皇太子、退りて再拝みたてまつる。
②斉明七年(六六一)六月、伊勢王薨(みうせ)せぬ。
③天智七年(六六八)六月、伊勢王と其の弟王と日接りて薨せぬ。(未だ官位を詳にせず)
④天武十二年(六八三)十二月丙寅(十三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分(さか)ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。
⑤天武十三年(六八四)十月己卯朔(中略)辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。
⑥天武十四年(六八五)十月己丑(十七日)、伊勢王等、亦東国に向る。因りて衣袴を賜ふ。
⑦朱鳥元年(六八六)正月癸卯(二日)に、大極殿に御して、宴を諸王卿に賜ふ。是の日に、詔して曰はく、「朕、王卿(おほきみまへつきみ)に問ふに、無端事(あとなしこと)を以てす。仍りて対(こた)へて言すに実を得ば、必ず賜ふこと有らむ」とのたまふ。是に、高市皇子、問はれて実を以て対ふ。蓁揩(はりすり)の御衣三具・錦袴二具、并て絁廿匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端を賜ふ。伊勢王、亦実を得。即ち皁の御衣三具・紫の袴二具・絁七匹・絲廿斤・綿四十斤・布四十端賜ふ。
⑧朱鳥元年(六八六)六月甲申(十六日)に、伊勢王及び官人等を飛鳥寺に遣して、衆僧に勅して曰はく、近者、朕が身不和(くさや)む(*体が臭くなるという病の兆候)。願ふ、三寶之威(*仏・法・僧、即ち仏教の功徳)に頼りて、身體、安和(やすらか)なることを得むと欲す。是を以て、僧正僧都及び衆僧、誓ひ願ふべし」、則ち珍寶を三寶に奉る。
⑨朱鳥元年(六八六)九月甲子(二十七日)の平旦(とらのとき)に、諸の僧尼、殯庭に發哭(みねたてまつり)て乃ち退でぬ。是の日に、肇めて奠進(みけたてまつり)て卽ち誄(たてまつ)る。第一に大海宿禰荒蒲、壬生の事を誄たてまつる。次に浄大肆伊勢王、諸王の事を誄(しのびことたてまつ)る。
➉持統二年(六八八)八月丁酉(十一日)淨大肆伊勢王を命(め)して、葬儀を奉宣(のたま)はしむ。

(注3)、天武天皇十四年(六八五)制定の冠位「諸王十二階」では、「諸王五位」は「浄大肆」ではなく「浄大壱」で、その上の「明位」を授けた実例はなく、伊勢王は事実上「諸王の最上位」となる。
◆「諸王十二階」⑴明大壱、⑵明広壱、⑶明大弐、⑷明広弐、⑸浄大壱、⑹浄広壱、⑺浄大弐、⑻浄広弐、⑼浄大参、⑽浄広参、⑾浄大肆、⑿浄広肆。

(注4)この二つは「重複記事(同じ記事の再出)」であり、「斉明七年」と「天智七年」の混同によるものとされている。
 ただ、最も整った九州年号資料である『二中歴』には見えないが、『襲国偽僭考』(鶴峯戊申一八二〇年頃)『和漢年契』(高安蘆屋(ろおく)。高昶とも)一七八九)には天智七年戊辰(六六八)を元年とし、天智十年(六七一)の天智崩御まで四年間続く「中元」年号がみられる。「中元」は長い年号の途中に設けられる年号で、この場合「白鳳八年」にあたるから「白鳳中元」ともいえよう。そうであれば「白鳳元年と(白鳳)中元元年」という「元年どうし」の入れ替え(混同)ということになろう。

(注5)『書紀』で「薨」と記される人物一覧。
(神武紀)五瀬命、(綏靖紀)神八井耳命、(崇神紀)倭迹々姬命(孝霊の皇女)、(垂仁紀)天皇母弟倭彥命、皇后日葉酢媛命、(景行紀)皇后播磨太郎姬、彥狹嶋王(崇神の孫)、(神功皇后紀)百濟肖古王、百濟国貴須王、百濟枕流王、(応神紀)百濟阿花王、百濟直支王、(仁徳紀)太子菟道稚郎子、皇后磐之媛命、(履中紀)皇妃黑媛、(雄略紀)大將軍紀小弓宿禰、百濟文斤王、(継体紀)彥主人王(継体の父)、百濟太子淳陀、百濟武寧王、巨勢男人大臣、日本天皇及太子皇子、(宣化紀)物部麁鹿火大連、(欽明紀)狛国香岡上王、箭田珠勝大兄皇子(欽明の第一皇子)、蘇我大臣稻目宿禰、(敏達紀)皇后廣姬、(用明紀)酢香手姬皇女、舍人姬王(當麻皇子の妻)、厩戸豐聰耳皇子命、(推古紀)來目皇子(用明の皇子)、大臣蘇我馬子、(欽明紀)泊瀬王(厩戸の皇子)、(皇極紀)百済義慈王の母、高句麗太陽王、吉備嶋皇祖母命、(孝徳紀)阿倍大臣、(斉明紀)左大臣巨勢德太臣、皇孫建王、伊勢王、(天智紀)蘇我連大臣、嶋皇祖母命、間人大后、伊勢王與其弟王、藤原內大臣、(天武紀上)韋那公高見(大紫)、(天武紀下)百濟王昌成、大分君惠尺(小紫)、栗隈王(大紫)、十市皇女(天武の第一皇女)、三位稚狹王、吉備大宰石川王(二位)、阿倍夫人(天智の嬪)、當摩公豐濱(小紫)、新羅文武王、氷上夫人(天武夫人)、大伴連望多(大紫)、三位高坂王、鏡姬王(鏡王女・舒明の皇女か)、(持統紀)草壁皇子(天武の皇子)、春日王(不明)、川嶋皇子(天智の皇子)、高市皇子(天武の皇子)

(注6)
◆『旧唐書』(倭国)倭国は古の「倭(委)奴国(ゐぬこく)」なり。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五十余国、皆付属す。・・王の姓は阿毎氏。一大率を置き、諸国を検察す。
 阿毎氏は、『隋書』の阿毎多利思北孤で、その国は阿蘇山のある九州。光武帝以来歴代の中国王朝と交流していたなら「九州王朝」といえる。

◆『旧唐書』(日本国)日本国は、倭国の別種なり。・・・日本はもと小国にして倭国の地をあわせたり。  『旧唐書』には「日本国」の使者粟田真人が武則天から冠位を授かっており、粟田真人は大和朝廷の臣下。「倭国の地をあわせたり」とは、七〇一年に九州王朝から王朝交代を果たし、律令を制定し、大宝と建元したことをいう。

(注7)「三十四年繰り下げ盗用説」の詳細は『壬申大乱』(東洋書林 、二〇〇一年十月。ミネルヴァ書房より二〇一二年八月復刊)に詳しいが、大要は以下の通りだ。
①厳冬期の頻繁な行幸は高齢の持統にふさわしくない。
②行幸時の人麻呂の万葉歌の「舟遊びができる滝の宮処」という情景は奈良吉野にふさわしくない。
③佐賀には吉野ヶ里など吉野地名があり、滝も舟遊びできる川もある。また大宰府と堤上道路で結ばれ、海軍の拠点にふさわしい有明海に面している。
④最後の行幸の三十四年前は白村江直前で、以後行幸が途絶える。
⑤行幸月には存在しない干支の日が記されるが、三十四年前なら同じ月に存在する、などだ。
 そして、その後の検討で「三十四年繰り下げ盗用」は、「九州年号」と「日の干支(暦日干支)」に依拠していたことがわかってきた。
  「九州年号」で見ると、最初の行幸の持統三年(六八九)は「朱鳥四年」、三十四年前の斉明元年(六五五)は「白雉四年」。最終の持統十一年(六九七)は「大化三年」、三十四年前の天智二年(六六三)は「白鳳三年」と「九州年号同士の入れ替え」になっている。これは「三十四年繰り下げ」が「九州年号史料をもとに行われた」ことを示している。つまり、『書紀』編者は「九州年号史料=九州王朝の史書」をもとに伊勢王ら九州王朝の天子の事績を盗用して、「三十四年繰り下げ」ヤマトの天皇の事績としたのだ。

 さらに、『書紀』編者は、元記事に記す「日の干支(暦日干支)」によって移動(繰り下げ)先の月日を決めたと考えられる。つまり、『書紀』編者は「日の干支付き」で「九州年号で記された原資料」の記事を切り取り、「三十四年後の同じ月の同じ干支の日」に繰り下げ挿入した、若し同じ月に同じ干支の日が無い場合には「前後の月でその干支に合う日」に繰り下げたと考えられる。
 『書紀』では干支で日を記す「干支紀日法」が用いられているが、併せて月朔日干支も記す。一方、中国では『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』ほか、どの史書も月朔日干支は記さない。従ってこれは『書紀』独特の記述方法といえる。『書紀』が必ず月朔日干支を記すのは、暦法博士が「カレンダー」を作成し、あとから九州王朝の「干支付き記事」を当てはめるために、必要があるからだと考えられる。

 ちなみに、『書紀』斉明二年(六五六)に「吉野宮造営記事」があり、三十四年後の持統四年(六九〇)は十二月までの「帰還日」が記されていない。これは「宮完成」までは日帰りの視察で、完成後は宮に滞在したことを意味している。

(注8)◆天武七年(六七八)十二月癸丑朔、己卯(二七日)に、臘子鳥、天を蔽ひて、西南より東北に飛ぶ。是の月に、筑紫国、大に地動(なゐふ)る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。 天武七年の「筑紫大地震」は筑紫の出来事であるから、その「凶兆」たる臘子鳥飛来の場所も筑紫と考えられる。従って天武九年記事の臘子鳥飛来と「病(みやまひ)」記事も筑紫での事と考えるのが自然だ。

(注9)『書紀』に言う「薬師寺」は平城京の薬師寺ではなく、藤原宮に遺構の残る「本薬師寺」とされる。しかし、『続日本紀』に本薬師寺が文武二年(六九八)に「構作略ね了(おわ)って、僧を住まわせた」とある一方、『書紀』ではその十年も前の持統二年(六八八)正月丁卯(八日)に天武の無遮大会(かぎりなきをがみ)を薬師寺で開いたとする。この時点では建設も未了、僧もいないはずで、本薬師寺に関しての『書紀』は極めて疑わしい。ここの「薬師寺」は、本来利歌彌多弗利と皇后のために、倭国(九州王朝)が常色年間に建立した別の寺なのではないか。

(注10)「元」と「三」は紛らわしく書写誤りが発生しやすい。ここは「三」に近い字形だが、「但州朝来郡牧田郷内高山赤渕大明神表米大明神」には「常色三年丁未六月十五日遷宮」とあり、「丁未」は六四七年常色「元年」。また『赤渕宮 神淵寺』では、初出の年号には「干支」を記し、二度目からは記さないが(*「常色元年丁未」「朱雀元年甲申」「天長五年丙申」)、六月十五日の前に干支は記されていないから初出の「三年」ではない、等から「元」が本来の字と判断できる。

(注11)「難波」氏は安康元年(四五四)二月に「難波吉師日香蚊夫子」が見えるなど、古くから有力な氏族で、『書紀』には十八回見えるが、「連」姓を与えられたのは『書紀』では六八一年が初。

(注12)鐘の献上が六四八年記事であれば、丹比真人嶋は六四七年では二十四才で太宰職には若い。父の丹比麻呂か筑紫に赴任した記録がある丹比真人笠麿の潤色となろう。

(注13)「七色一十三階の冠」是歲、制七色一十三階之冠。一曰織冠、有大小二階、以織爲之、以繡裁冠之縁、服色並用深紫。二曰繡冠、有大小二階、以繡爲之、其冠之縁・服色並同織冠。三曰紫冠、有大小二階、以紫爲之、以織裁冠之縁、服色用淺紫。四曰錦冠、有大小二階、其大錦冠、以大伯仙錦爲之、以織裁冠之縁。其小錦冠、以小伯仙錦爲之、以大伯仙錦、裁冠之縁。服色並用眞緋。五曰靑冠、以靑絹爲之、有大小二階、其大靑冠、以大伯仙錦、裁冠之縁。其小靑冠、以小伯仙錦、裁冠之縁。服色並用紺。六曰黑冠、有大小二階、其大黑冠、以車形錦、裁冠之縁。其小黑冠、以薐形錦、裁冠之縁。服色並用緑。七曰建武初位、又名立身以黑絹爲之、以紺裁冠之縁。別有鐙冠、以黑絹爲之、其冠之背張漆羅、以縁與鈿異高下、形似於蟬。小錦冠以上之鈿、雜金銀爲之。大小靑冠之鈿、以銀爲之。大小黑冠之鈿、以銅爲之。建武之冠、無鈿也。此冠者、大會・饗客・四月七月齋時所着焉。

(注14)古田氏が「飛鳥浄御原」に比定している筑紫小郡の井上地区では、「井尻」から噴出する浄水が「長者濠」となり本山という台地上にある広大な「長者屋敷」遺跡(未発掘)を巡っている。「筑紫小郡宮」が御原郡の「浄水」に囲まれた井上地区にあったとすれば「浄御原宮」と呼ばれ、そこで制定された律令を「浄御原律令」と呼んだ可能性もある。


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