2010年6月5日

古田史学会報

98号

1,禅譲・放伐
 木村賢司

2,九州王朝
の難波天王寺
 古賀達也

3,越智国に
紫宸(震)殿が存在した
 今井 久

4,「天 の 原」はあった
古歌謡に見る九州王朝
 西脇幸雄

5,「三笠山」新考
和歌に見える
九州王朝の残映
 古賀達也

6,能楽に残された
九州王朝の舞楽
 正木裕

7,穴埋めヨタ話3
一寸法師とヤマト朝廷

 西村

 

古田史学会報一覧

「三笠山」新考 -- 和歌に見える九州王朝の残映 古賀達也(会報98号)

仲麻呂の命運 Be fated of Nakamaro
古代史再発見 独創古代1-- 未来への視点 古 田 武 彦 一 天の原 ・・・三笠の山に出でし月かも

「天の原」はあった(その二) 古歌謡に見る九州王朝 西脇幸雄(会報99号)


「天 の 原」はあった

古歌謡に見る九州王朝

東京都世田谷区 西脇幸雄

 これまで古田武彦氏は、古代史の常識を覆す数々の発見をされてきました。古事記、日本書紀に隠された九州王朝の発見から、新説多元的古代史観を生み、縄文時代の倭人が太平洋を渡ったという気宇壮大な学説は、多くの考古学者による縄文都市の発見、発掘(発掘した当の人々は未だに「クニ」、「集落」などと誤魔化している始末ですが)とあいまって縄文人が野蛮な狩猟・採集の民であると教えられてきた私たちの目を覚ますに十分すぎるものです。それによって、日本史や国語学、文学などあらゆる分野にわたって一から再検討を加える必要がでてきました。本稿はこの視点から古歌謡に見える九州王朝について、その痕跡をさぐるべく新たな解釈を試みたものです。すでに古田氏は万葉集の解釈においても新しい発見を述べられていますが、筆者も氏の発見に触発されて自分なりに気づいたところを以下に述べたいとおもいます。

 

一、「天の原」考

 有名な安倍仲麻呂(注1)の歌

 天の原ふりさけみれば春日なる
       三笠の山にいでし月かも

 このあまりにも有名な、古今集に採択されて古来名歌とされ、親しまれている歌に詠われる“天の原”をそもそもどう理解するべきかという問題です。古くからこれは、海原が海を指すと同じように大空を指す異名と解釈されてきました。武田祐吉著「通解名歌辞典」によれば、

 大空を遠く望むと、今しも月がのぼってきた。あの月は、その昔わたくしが故郷にいた時見た、春日にある三笠の山に出た月と同じであろうか。ああなつかしい月だ。

と解釈されています。また、「新日本古典文学大系 古今和歌集」にも、大空をふり仰いで眺めると、空にかかる月、そうだあの春日の地にある三笠山に出た月なのだなあ。

と説かれています。もちろん、“春日”は奈良の春日で、三笠山は奈良の三蓋山または三笠山(標高三四二m・現在の名は若草山)を指すことは、何の疑いもないものとされています。また古今集の左注の詞書(注2)にあるように、この歌の作歌地は唐の明州で、仲麻呂の送別の際の歌であるとされています。これに対し、古田武彦氏は「『君が代』は九州王朝の賛歌」において、春日と三笠山のワンセットが、九州王朝の地、筑紫にもあることを見出だされ壱岐に「天の原遺跡」があることから、この歌が歌われたのは、断定はできないとしながらも、この壱岐の近くであろうと次のように推定されています。

 大陸へ向かう使者が博多湾を出て玄界灘を北上する。(中略)さて、壱岐の北端部、「天の原」を通りすぎると、もう「日本」は見えない。九州本土、筑紫の地は“過ぎ去って“しまう。その筑紫の地には、春日があり、そこに三笠山があるのだ。“昨夜”は夜の月を眺めた。「日本最後の夜」だった。しかし、今、この「天の原遺跡」を西行すれば、その「日本」は見えない、なつかしい筑紫の地を見ることはできないのだ。使命を帯びて異国へ行く。もう再び、「日本」に帰ってこれるかどうか。これが見おさめかもしれぬ。これは「日本」に別れる歌だったのである。

との解釈を示されました。壱岐を過ぎる船上で詠んだものという考えです。筆者も“天の原”が壱岐の地名「天の原」を指すというこの説には大筋で賛意を表したいと思います。しかしながら、まだ納得できないところがあります。当然、筆者独自の考えもあってしかるべきでしょう。ここで、歌の原点に立ち返って考えることで、“天の原”は“大空”などではないことを、以下に明らかにします。
 この歌の骨子は、“空を眺めると三笠山に月がでたなあ”ということに尽きます。卑近な例を挙げることを許していただければ、現代にも似たようなモチーフの歌があります。そう、民謡「炭鉱節」です。

 月が出た出た 月が出た 三井炭鉱の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ サノヨイヨイ

 和歌と民謡は違うとおっしゃる向きもあるでしょう。また、これは曲あっての詞であり、陽気な曲調とはうらはらに、夜遅くまで、つらい坑内作業を行う炭鉱労働歌です。旅の歌と労働歌との違いもあり、現代の民謡と、恐らくは作歌時期が奈良朝を下らない(後述)この和歌とを同日に論じることはできませんが、仲麻呂の歌が従来の解釈のままで名歌とよびうるかは若干疑問がわかないでしょうか。日本の下級官僚から、後には唐朝の高級官僚にまで上り詰めた仲麻呂の盛名をもってすれば、名歌とするに吝かでないところですが、仲麻呂が唐の明州で送別の宴に詠んだとするには、あまりにも歌意がそぐわないのです。

一の一、作歌地は明州ではない 

 なぜなら仲麻呂が日本を偲んで三笠山の月を詠んだとすると、三十数年間唐朝に仕えて、おそらく彼の地で数限りなく月の出を見てきたことでしょう。ことさら送別に臨んで詠む題材とは思えません。また、そこで詠んだとしても、仲麻呂にとって極めて重要でかつ懐かしい“三笠の山”という言葉が唐朝の人にとって理解しにくいものであることは否めません(もっとも近畿天皇家の官吏であった仲麻呂にとっては、大和なる春日の三笠山であったかもしれませんが)。ただし、次のように考えることも可能です。それは、仲麻呂が唐の地で送別の宴にすでに倭国で(近畿天皇家にも)知られていた有名な歌をその場で引用したというものです。なぜそう言えるかは筆者の解釈であきらかになります(後述)。古今和歌集には、仲麻呂が、唐の明州で詠んだ旨の注記(注2)がありますが、「完訳日本の古典第九巻 古今和歌集」によれば、

 本集の左注の記述は必ずしも信用できないので、この歌の所伝も一応は疑えるのである。しかし、歌の用語は古い時代のものが多く、線の太い無技巧なうたいぶりから見ても古い歌であるとはいえるだろう。『続日本後記』承和三年(八三六)五月の条によれば、当時すでにこの歌は仲麻呂の作と信じられていたようである。

一の二、作歌場所は船上ではない

 ここで言っている、古い用語とは何でしょうか、それは、“天の原”“ふりさけみれば”“かも”の三語に尽きます。そして、“天の原”と“ふりさけみれば”の二句は実は分けて理解することはできないのです。“天の原”を従来どおり“空”と解釈すると、この句は“大空を振り仰いで見ると”とならざるをえません。ところが、この歌では、“三笠の山に”と視線の先を明確に指定しているのです。そうなると、“天の原”が単なる冗語となってしまうではありませんか。船上での作歌とした場合、船頭(パイロット)でもない仲麻呂は、舳先に立ついわれがありません。船が港を出たときからズッと艫から三笠山を見ていることができるのです。いったん「振り仰がないと」三笠山が見えないわけではありません。まさか三笠山の位置がわからないわけではないでしょう。従って、“天の原”は文字どおり地名の天の原と理解するのが正しいのです。前述のとおり、古田氏が、この歌は天の原を過ぎるあたりで船中で詠まれたとする解釈に筆者が概ね賛成したのはこの意味です。しかし、この解釈でも、まだ十分ではありません。というのは、氏の読解では、“ふりさけみれば”が十分解釈されていません。もし(おそらく)九州北岸から船出した(難波津からでは三笠山が見えず論外です)船中の作歌とすると、月の出を詠んでいるので夜の船出となります。ただでさえ当時として危険な航海をしなければならないのに、夜船出する必然はありません。たとえ航海に十日ほどかかるとしても、風待ち、潮待ちの必要があった時代です。中国への遣使と考えた場合でも、時間はたっぷりあるのです。ことさら夜に船出する理由がありません。古田氏は、昨夜の月を懐かしんで詠んだとされていますが、歌の心を忖度するならば、もっとストレートに理解したいところです。しかし、今ここではとりあえず、“天の原”は、壱岐の天の原を指すと考えておきましょう。そうすると“天の原”と一対の句である“ふりさけみれば”が何を意味するかを探らなくてはなりません。

 

二、「ふりさけみれば」考 

 “みれば”は文字通り“見るの已然形+ば”で、見たならばでこれ以外の解釈はありません。問題は“ふりさけ”にあります。万葉集でも、“天の原ふりさけみれば”と詠った歌があり、“ふりさけみれば”に対して、“振離見者(巻三、二八九)”“振放見者(巻三、三一七)”などと表記しています。そもそも、“天の原ふりさけみれば”を解釈して、“天の原=空”として、見る方向を指示し、“ふりさけ見る=振仰いで遠くを見る”とし、“三笠の山に”で再び見る方角を示すというのでは、洵に同語反復のようなごたごたした歌となってしまいます。すべての重複を取り除けば、「三笠山に月が出た」ということになってなつかしさも感動も表現されない単なるつまらない歌になってしまうといっては言い過ぎでしょうか。そうではないはずです。ここで改めて和歌の原点に立ち返って理解しましょう。古来、万葉人は意余って言葉足らずとでも言うように、長歌をつくり続けてきました。それが段々五七+五七+七の三十一文字に集約されてきたのです。この短い韻文の中では、一文字といえどもゆるがせにできないはずです。「推敲」の故事を思い出しながら、本歌の一語一句にすべて意味があるはずだと考えたいのです。

二の一、「ふる」は祭儀の用語

 そこで、“ふり”ですが、この語は“振る”の連用形です。

 ふる【振る・震る】《他五》本来は物をゆり動かして活力を呼びおこす呪術的行為。その信仰の衰えとともに、単に物理的な振動を与える意となる。
(1). ゆり動かして活力を呼びさます。
(2). 神霊の活力を呼びさます。また、それを降下、鎮座させる。(岩波 広辞苑第5版)

 この語は、今日まで神社の神主が御幣を振って祝詞を唱える行為にもつながっています。すなわち、「神に願いをかける」意味にとらえることができるでしょう。
 また、“さけ”はどう理解すればよいでしょうか。終止形は“さく”です。この語は、1・四段活用と2・下二段活用のふたつの活用形があります。

 さく【割く・裂く・放く・離く】2・ 他カ・下二(他動詞・カ行・下二段活用)○3(動詞の連用形を受けて)イ、その動作をはるか遠く隔たったものに及び至らせる意を表す。はるかに・・・する。遠く・・・する。ロ、その動作を十分な点にまで及び至らせる意を表す。十分に・・・する。「語り放け、見放くる人目、乏しみと、思いし繁し」[万葉一九・四一五四](角川新版古語辞典)

 ここから、“ふりさく”を○3ロの意味にとらえれば、
ふりさく【振り放く】十分に振る。すなわち、十分に神霊の活力を呼びさますこととなります。つまり“振る”の連用形“振り”を受けて“放く”で、つまり“十分に振る”こととなります。ところで従来の解釈では、

 ふりさく【振り放く】(他カ下二)遠方をふり仰ぐ。はるかに仰ぐ。(角川新版古語辞典)

との訳語を当てています。また冒頭で引用したように各種注釈書では、“遠く望む”または、“振り仰ぐ”としています。ところで、“ふりさく”の“ふり”にも“さく”にも「仰ぐ」とか「みる、望む」などの意味は全くありません。これは明らかに“振り”を単なる接頭辞として後ろの“見る”に引きずられて“放け見る”と判読してこのような解釈となったものです。ところが、“さく”を前記の角川古語辞典の○3イの意味、「はるかに・・・する」だと捉えても、“さけみる”は「よけて見る」意となり、「はるかに見る」との意味はどこからも出てきません。すなわち、この歌の中の“放く”はあくまで直前の動詞の連用形を受けて意味を生ずる語です。重大な誤訳であることは明らかです。これは、“天の原”を無条件に“大空”などと速断したために起きたものです。広辞苑によれば、“ふる”には、「○3神霊の活力を呼びさます。また、それを降下、鎮座させる。」すなわち「遷座」の意味もありますから、これでは多少意味がずるかもしれません。もう少し考察してみましょう。「辞海」につぎの言葉が載っています。

 たまふる【魂振】(動四)《古》霊魂を祈り鎮める。鎮魂の祈りをする。(「辞海」金田一京助編)

 ここで、「《古》」とあるのは、平安時代の語彙であることを示します。これは動詞です。この名詞形は“たまふり”です。大言海には、“みたまふり”として、次のように載せています。

 みたまふり(名)御霊振|招魂〔みハ敬語〕たましずめのまつり(鎮魂祭)に同じ。四時祭式、下「鎮魂祭」(出でまさせ奉るをフルと云う、神輿振と云う語あり) 鎮魂祭を、一にオホムタマフリとも云う。たましずめは、鎮むる方に付きて云ひ、タマフリは、振動かして、勢いあらしむるに云う。(遊離せぬように、力をつくるなり)(「新編大言海」大槻文彦編)

 古神道においては、大和に侵入した神武に仕えた物部氏も、「鎮魂法」を行っていたとして(注3)、

 物部氏の鎮魂は太刀、即ち神剣を「振う」ことと深い係わりがあり、神霊のこもる神剣を振うことによって、あらゆる邪気・邪霊を祓い清める優れた効力があったものと思われる。その霊的効験の著しいことから、世に有名となり、神剣のちに十種神宝を振う神術・動作に注目して「タマフリ」と呼ばれるようになったのではなかろうか。

と考えられています。“ふる”に大きな意味があり、単なる接頭辞ではないことがわかりました。
 従って、“ふりさけみれば”は“振り放け見れば”であり、「十分に海の神の鎮魂の儀式を行ってから見れば」の意味となります。即ち“振り放く”は“天の原”と結びついた特別な歌語と理解するべきです。そしてこれは古い用語なのです。

二の二、夜は祭儀の時間

 三世紀の壱岐島は一大率が駐屯する軍事拠点でした(注4)。祭政一致の九州王朝にとって同じく、壱岐の天の原に祈りの場である重要な宗教上の拠点があっても少しもおかしくはないのです。おそらくこの歌が作られた時代がもっと下るとしても、当時は、壱岐の“天の原”といえば、重要な祈りの場であると倭国のだれにでも認識されていたと考えられます。そして“天の原”はこの祈りを捧げるハレの場を意味します。古来日本の民俗にハレとケという言葉があります。祭りの日をハレの日といい、そうでない日をケの日といいます。つまり神すなわち祖先神を祭る場がハレの場であり、そうでない日常の場がケの場なのです。この歌が月の出を詠んでいるところからみて、その詠まれた時刻は夜と考えるべきです。現在でも、東京の府中くらやみ祭、秩父夜祭など祭りを夜行う風習は各地に多く遺存しています。これは神を祭る行事が、古くから夜行われていた名残と考えられます。ただし、これは今で言う行事などでなく、文字通り日常の生活と結びついた重要な儀式行為なのです。同時代の中国でも事情はほぼ同じであったことはよく知られています。九州王朝でも「イ妥王は天をもって兄と為し、日をもって弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め云う『我が弟に委ねん』と」(注5)としているように神を祭るのは夜の仕事で、実際の政治は昼の仕事というように兄弟でハレの場とケの場を分けて統治していたことが、中国史書にも記述されています(この「兄弟統治」という重要なテーマを提出したのは古田氏です)。したがって、歌に“天の原”と詠むだけで、それはハレの場における鎮魂の祈りを意味したのです。そしてハレの場では祈りに心身を捧げることが要求されます。あちこちキョロキョロすることはできないのです。祈りの儀式を終えて初めて「春日なる三笠山」を見ることができたのです。結局、この歌の大意は次のようになります。

天の原神宮で航海の無事を心ゆくまで祈っておりました。祈りを終えて、その場を退出してみますと、春日の三笠山から煌煌とした月が差し昇ってきたではありませんか。ああ、これで明日は晴れるなあ(航海の無事が約束されたのだなあ)。

 本歌をこのように理解することで、初めてこの歌の描写する深刻かつリアルな状況が伝わってきます。まさしくこの歌は、古今集にありながら、如実に万葉ぶりを髣髴とさせる名歌といえます。本歌においては、“天の原”が大空などでないことが、おわかりいただけたと思います。

 

三、「かも」考

 ここで示した筆者の解釈で理解されるように”かも”は強い感動・詠嘆を表す助詞です。

 鴨山の磐根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(万葉集巻二 柿本人麻呂)
 鴨山の大岩の根元にもたれて、衰弱してこの私が横たわっているのも知らないで妻はかならずや、今もずっと私の帰りを待ってくれているに違いない。(今すぐにも帰りたいのだが、なんとも無念でならない。)
 この用例以外に、“かも”には、疑問の「か」と感動の「も」を連ねた語と理解される用例もありますが、本歌の“かも”とはまったく違います。現代語で、「それって好きカモ」などと若者がいいますが、後者はこの類です。その言葉の軽さと比較すれば本歌の“かも”がいかに強い詠嘆を表わすかが理解できるでしょう。

 

四、「いでし月」考

 この歌が「故郷で見た月を思って詠んだ」と古来、学者を誤らせてきたもうひとつの理由が「いでし月」の“”です。助動詞“き”の連体形で、これは、過去・回想の助動詞とされています。ところが、この歌はどこで詠んだにせよ、目の前に出た月をみて詠んでいるのです。過去などでないことは明らかです。現代語でいえば、「うわっ、出た、お化け。」というときの助動詞「た」の用法と同じです。
 即ち、“眼前の事実に基づいた確実な断定”を示します。したがって、この歌は文字どおり「願いが通じて、今、月がでたなあ。」という意味です。故郷の月と「同じ」などという言葉はどこにもありません。勝手に原文を改定することはできないのです。また、こう考えないとこの歌が死んでしまいます。

 

五、類歌考

 この安倍仲麻呂作とされる名歌は古今集所載(むしろ百人一首に採択されて有名)、ですが、成立がそれより古いとされる万葉集には、「天の原」を歌った歌が十五首載せられています。そのうちの六首は「天の原」は枕詞などとする従来の解釈では明らかに意味不明となる歌です。よく知られている歌の中にも今回述べた筆者の解釈に強い傍証となる歌がありますが、今はこのあたりで筆を擱きます。

 

六、結論

 本論稿により古来名歌とされてきた歌の本当の姿とそのもつ感動がよみがえってきたのではないかと自負しています。これによって古田氏の唱える九州王朝の重要な地である壱岐の天の原の存在が強く浮かび上がってきたと言えるでしょう。
(1) 作歌地は、唐の明州ではなく壱岐の天の原です。
(2). 船出に先立って天の原に於いて航海の無事を祈り、三笠山に昇る月を見てこの航海の無事が約束されたことに強い感動を覚えこの歌が生まれたものです。
(3). 歌語の古さから、おそらくこの歌の本当の作者は安倍仲麻呂ではありません。
 天の原が重要な信仰の地であった筑紫人でなくては詠うことができない内容だからです。
(4). この歌は、おそらく中国(南朝劉宋か?)へ使いする九州王朝の高官が詠んだものでしょう。
(5). 九州王朝の衰退とともに、天の原の存在が忘れ去られ、“天の原ふりさけみれば”という極めて的確な歌語の用法が単なる枕詞に類するものとされてしまったようです。筆者のみるところ、万葉集の“天の原”を読み込んだ歌も含めてこの安倍仲麻呂作とされている歌が最も古い部類に属するように思えます。
(6). 仲麻呂がこの歌の作者とされた理由は、送別の宴で、水行十日とされる唐から倭国への帰国の大変さを思って、この歌の本当の作者と同じ気持ちになり、現地でこの歌を詠ったからではないでしょうか。実際、仲麻呂は帰国時に暴風に会いベトナムに漂着し、ついに唐の地で亡くなったのです。仲麻呂と一緒に船出した人の一部は帰国しているようですから、その人たちから伝えられた事情によってこの歌の作者が安倍仲麻呂とされ、古今集の詞書(注2)が生まれたのではないでしょうか。(二〇一〇・四・一五)

注および参考文献
注1 安倍仲麻呂(あべのなかまろ・六九八?七七〇)奈良時代の文人。七一六年遣唐留学生に選ばれ翌年入唐。玄宗皇帝に重用され秘書監にまで取り立てられた。七五二年許されて吉備真備らと帰国を試みるも乗った船が安南に漂着、長安に戻り客死した。李白、王維らとも親交があった。唐名、朝仲満、朝衡、晁衡。 余談ですが、筆者の推定では、唐名は自身で付けたものでしょう。姓の朝は、「朝臣」または日出る国の連想からでしょう。仲満はナカマロをこのように綴ったものです。衡(こう)は「仲麻呂」の仲から中央でバランスする秤になぞらえたもので、これは字(成人後の通用名)です。

注2 仲麻呂の歌は、古今和歌集巻第九 羇旅歌の部の巻頭に載っています。
唐土にて月を見てよみける 安倍仲麻呂 天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも
 この歌は、「昔なかまろを唐土にものならはしにつかわしたりけるに、あまたの年をへて、え帰りまうでこざりけるを、この国より又つかいまかりいたりけるにたぐいて、まうできなむとていでたちけるに、明州といふところの海辺にて、かの国の人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるを見て、よめる」となむかたりつたふる。(大意 この歌は、「昔仲麻呂を唐に留学に派遣したが何年たっても、なかなか帰ってこないので、わが国からまた使節が行ったので、連れ立って帰ろうとして帰国の準備をした時に、明州というところの海辺で唐のひとが送別の宴を開いてくれました。夜になって月が興趣をそそるように昇ってきたのを見て詠みました」と語り伝えています。

注3「古神道の秘儀」(渡辺勝義著・海鳥社・二〇〇〇)四五頁

注4「『邪馬台国』はなかった」(古田武彦著・朝日文庫・一九九三)二一四頁注5
・「失われた九州王朝」(古田武彦著・角川文庫・一九八五)二九〇頁
・「『君が代』は九州王朝の賛歌」(古田武彦著・新泉社・二〇〇〇)
・「通解名歌辞典」(武田祐吉著・森北出版・一九六九)
・「古今和歌集(新日本古典文学体系5)」(小島、新井校注・岩波・一九八九)
・「古今和歌集(完訳日本の古典弟9巻)」(小沢、松田校注訳・小学館・一九八三)
・「広辞苑第5版」(新村出編・岩波書店・一九九八)
・「角川新版古語辞典」(久松潜一、佐藤謙三編・角川書店・一九八三)
・「辞海」(金田一京助編・三省堂・一九六九)
・「新編大言海」(大槻文彦編・富山房・一九八二)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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