2010年2月1日

古田史学会報

96号

1,九州年号の改元
について(後編)
 正木裕

2,橘諸兄考
九州王朝
臣下たちの行方
 西村秀己

3,第六回古代史セミナー
古田武彦先生を囲んで
 松本郁子

4,洛中洛外日記より
纏向遺跡は
卑弥呼の宮殿ではない
 古賀達也

5,「人文カガク」と科学の間
 太田齊二郎

6,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

7,伊倉 十二
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

8,年頭のご挨拶
代表 水野孝夫

綱敷天神の謎
 西村

 

古田史学会報一覧

『吉野ヶ里の秘密』

纒向遺跡 第一六六次調査について 伊東義彰(古田史学会報97号)へ


古賀達也の洛中洛外日記より転載

纏向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない

京都市 古賀達也

 纏向遺跡で発掘された弥生時代の住居跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がテレビや新聞でなされましたが、これは学問的に見れば全くナンセンスなことです。古田史学をご存じの方には言うもおろかですが、「邪馬台国」(『三国志』魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されており「邪馬台国」とするのは誤り)のことが記されている中国の史書『三国志』には、「邪馬台国」の位置を次のように表記しています。
 「郡より女王国に至る、万二千余里」

 すなわち、帯方郡(今のソウル付近)から約一二〇〇〇里離れたところに女王卑弥呼の国はあると述べているのです。したがって、『三国志』で使用されている一里が何メートルかを調べれば、女王国の大まかな位置がわかるように記されているのです。
 従来説では漢代の一里四三五メートルと同じとされてきましたが、古田先生は一里約七十七メートルとする短里説を唱えられたのは、ご存じの通りです。
 一里約七十七メートルの短里説にたてば、一二〇〇〇里は北部九州にピッタリですが、四三五メートルの長里説にたちますと、九州も纏向遺跡のある大和盆地もはるかに通り越し、太平洋の彼方に「邪馬台国」はあったことになるのです。従って、学問的には短里でも長里でも絶対に大和では有り得ないのです。
 「邪馬台国」畿内説論者はこの魏志倭人伝の位置表記を百も知っていながら、この単純明快な史料事実を国民には伏せたまま、纏向遺跡の住居跡を卑弥呼の宮殿であるかのように、大騒ぎしているのです。その手口は学問的態度とはかけ離れており、「醜悪」と言うほか有りません。
 さらに、別の視点からも同様のことが導き出されます。それは「漢字文明」の痕跡の有無という視点です。
 魏志倭人伝には当時の倭国の状況が簡潔ではありますが比較的多く記されています。この古代中国での史書編纂という、自国のみならず周辺諸国の文物をも記録するという一大漢字文明の業績により、わたしたちは弥生時代の日本の様子を知りうることができる言っても過言ではありません。 その倭人伝には次のような重要な情報が記されており、「邪馬台国」を中心とする倭国は、中国の漢字文明圏に属しており、倭国の文字官僚たちは漢字を使用していたことがわかるのです。
 「古より以来、其の史中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。」
 「詔書して倭の女王に報じて曰く、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。(以下略)』」

 このように、倭国の使者が古より「大夫」という中国風「官職名」を自称しており、度々詔書を貰っていることなどが随所に記されています。当然のこととして、詔書は漢字漢文で書かれており、倭国側もそれが読めたはずです。この他にも「伝送の文書」「金印」など漢字が記されている文物の記載もあります。
 こうした史料事実から、倭国は漢字漢文を使用しており、漢字文明圏に属していたことを疑うことができないのです。それでは弥生時代の大和盆地の遺跡遺物に漢字文明の痕跡はあるでしょうか。纏向遺跡から出土しているのでしょうか。弥生時代の日本列島を代表するほどの出土事実はあるのでしょうか。答えは簡単です。「ノー」です。
 考古学が科学であり、学問であるのならば、考古学者はこの倭人伝と纏向遺跡の「完璧な不一致」から目を背けてはなりません。学問的良心があるのなら、この「完璧な不一致」から逃げてはなりません。
 他方、目を転ずれば、北部九州の弥生遺跡にこそこの漢字文明の痕跡が集中出土していることは天下の公知事実です。たとえば、「漢委奴国王」という漢字が彫られた志賀島の金印を始め、いわゆる漢鏡と呼ばれる弥生の鏡に記された多数の「銘文」などです。これら漢字文明の痕跡が大量かつ集中出土している筑紫こそが倭国の中心であり、「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)がその地に存在していたことを、倭人伝と考古学事実の「完璧な一致」が証言しているのです。
 こうした考古学的事実との一致・不一致という視点からすれば、他にも重要なテーマがあります。それは、弥生時代における二大青銅器文明というテーマです。
 弥生時代の日本列島には、北部九州等を中心とする「銅矛・銅戈」等の武器型青銅器文明圏と近畿等を中心とする「銅鐸」文明圏の二大青銅器文明圏が存在していたこと著名です。従って、「邪馬台国」を中心とする弥生時代の倭国がこのいずれかの文明圏に属していたことは当然です。そして「邪馬台国」はそのいずれかの中枢領域に位置していたことも当然でしょう。
 そこで問題となるのが、倭国はどちらの文明圏に属していたかということですが、その答えははっきりしています。魏志倭人伝中に記された倭国内の国々の所在地で、殆どの論者で異議のない国がいくつかあります。たとえば対海国(対馬)、一大国(壱岐)、伊都国(糸島半島)、奴国(福岡県北部)などです。そしてこの所在地が明確な国はいずれも銅矛・銅戈文明圏に属しています。従って、弥生時代の倭国は銅矛・銅戈文明圏の国なのです。 ところが、纏向遺跡のある奈良県は銅鐸文明圏に属しています。この一点を見ても、纏向遺跡が「邪馬台国」ではなく、倭国の中枢領域でもないことは明々白々な考古学的事実なのです。更に言うなら、纏向遺跡は銅鐸圏の中枢領域でさえありません。このような地域が「邪馬台国」であるはずがないのです。一体、「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者達は、本当にこうした考古学的事実が見えているのでしょうか。
 このように「銅鐸」の視点から、「倭人伝に銅鐸が記述されていない」と指摘されたのは古田先生です。『古田史学会報』九五号においても「時の止まった歴史学 -- 岩波書店に告ぐ」という論文で、この問題を取り上げられていますので、未読の方は是非ご一読下さい。
(会報転載用に字句を若干修正した。修正部分の文責は西村)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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