2009年 6月15日

古田史学会報

92号

1,「大長」末の騒乱
  と九州王朝の消滅
   正木裕

2,熟田津の石湯の実態
  と其の真実(其の一)
   今井久

3,『続日本紀』
「始めて藤原宮の地を定む。」
  の意味
   正木裕

4,淡路島考(その一)
   野田俊郎

5,孔子の二倍年暦に
 ついての小異見
   棟上寅七

6,「梁書」における
倭王武の進号問題について
   菅野 拓
    なし

7,法隆寺移築考
   古賀達也

 

古田史学会報一覧

 

 

 

法隆寺移築考

京都市 古賀達也

 はじめに

 現法隆寺が「再建」ではなく、九州王朝寺院の移築であったとする米田良三氏の説(注1)は古田学派内では有力説となっているが、この移築論から展開される諸問題を深く考察する機会が最近得られた。五月十六日の関西例会で配られた竹村順弘氏のレジュメにあった法隆寺と若草伽藍跡の地図を見たときである。その考察の一端を御報告したい。

 

新旧法隆寺の中心軸

 今まで何度となく見てきた同地図であったが、竹村氏の詳細な解説に触発され、現法隆寺が旧法隆寺であった若草伽藍焼失後に単純に「再建」や移築されたと言うべきものではないことに気づいた。それは中心軸のずれという視点からもたらされた。
 七世紀(六七〇)に焼失した旧法隆寺である若草伽藍跡の中心軸が南北軸から二〇度ほど傾いており、これは恐らく当時の条里制に沿ったものと思われるが、八世紀初頭(和銅年間と考えられている)に移築された現法隆寺は中心軸がほぼ南北となっており、この差異は単に再建(九州王朝寺院の移築)と称すべきではなく、寺院建築思想に大きな変化が生じたものと解すべきと思われた。
 九州王朝説では、法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝の天子、多利思北孤がモデルであると考えられ、「天子は南面する」という思想に基づいて、移築元の九州王朝寺院も南北に中心軸をもつ伽藍配置だったと推定されることから、(注2) 移築の際にも、焼失した若草伽藍の配置とは位置も中心軸もずらされたのである。
 当然、法隆寺を移築した大和朝廷は釈迦三尊像のモデルが九州王朝の天子、多利思北孤であることを知悉しており、自らの内部の人間であった聖徳太子の「寺・本尊」として「盗用移築」したのである。ここに、『日本書紀』に見られる九州王朝事績・記事盗用の「先行例」があったのではあるまいか。

 

 唐の筑紫進駐政策

 ひとたび九州王朝寺院の移築説に立てば、新たな問題があらわれる。それは天智紀に記された度々の唐軍の筑紫進駐である。古田氏の見解(注3) によれば、この唐軍により九州王朝の弥生墳墓や古墳(例えば岩戸山古墳の石人石馬など)が破壊されたとされるが、他方、九州王朝の天子の宮殿(太宰府政庁)や観世音寺は破壊されていない。また、軍事防衛施設である水城土塁も破壊の痕跡のあることを知らない。そして、何よりも日出ずる処の天子を名のった多利思北孤の寺と本尊(現法隆寺と釈迦三尊像)にさえも唐軍は手を着けなかったことになるのである。
 古田氏の説が正しければ、わたしには進駐軍の一貫性の無さと映るのであるが、幸いにも法隆寺(九州王朝・多利思北孤の寺)は現存し、わたしたちに九州王朝の痕跡を見せてくれている。
 このように法隆寺(九州王朝寺院)移築説に立つとき、様々な問題が惹起されてくるのであるが、九州王朝史研究の一つの切り口・視点として有益な仮説と思われる。

 

 (注)

(1) 米田良三著『法隆寺は移築された』一九九一年、新泉社刊。米田氏は移築元寺院を観世音寺とされるが、この点は従いがたい。観世音寺は平安時代まで存続していたことが諸史料に見える。拙稿「法隆寺移築論の史料批判-- 観世音寺移築説の限界」『古田史学会報』No.四九(二〇〇二年四月)、「よみがえる倭京(太宰府) -- 観世音寺と水城の証言」『古田史学会報』No.五〇(二〇〇二年六月)『古代に真実を求めて』十二集に転載、を参照されたい。

(2) 浄土思想(西方浄土)に基づき、金堂の中心軸が東西方向だったという可能性もあるかもしれない。この点、諸賢の御教示を得られれば幸いである。

(3) 古田武彦『古田武彦と「百問百答」』(p.15)古田武彦と古代史を研究する会編、平成十八年刊。

 


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報92号

古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"