2007年 4月10日

古田史学会報

79号

バルディビア探求の旅
倭人世界の南界を極める
 大下隆司

2洛中洛外日記より転載
 九州王朝と庚午年籍
 古賀達也

日本書紀の編纂
 と九州年号
三十四年の遡上分析
 正木 裕

4冨川ケイ子氏 
【武烈天皇紀における
「倭君」】を読んで
 永井正範

『日本書紀』中
の「百済本記」記事
 飯田満麿

6 彦島物語IIー外伝I
 胸形の三女神
 多紀理毘売
と田心姫(後編)
 西井健一郎

巣山古墳第七次調査
 現地説明会
 伊東義彰

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武烈紀における麻那君・斯我君記事の持つ意味

冨川ケイ子氏 武烈天皇紀における「倭君」
(『古田史学会報』No.七八)を読んで

たつの市 永井正範

 昨年十一月十八日の月例会で、冨川ケイ子氏の上記「麻那君・斯我君は女」とする発表を聞いて、衝撃を受けました。お聞きした瞬間、目から鱗、これまで男と思い込んでいたこの記事の持つ意味について、改め考えさせられました。
 これまでに岩波・小学館の『日本書紀』解説者を初めとして、「麻那君・斯我君」を「女」?と解釈された方はおられないのではないでしょうか。自分に到達出来なかった真の認識に到達された方がおられる、何故に自分にそれが出来なかったか、その方はどうしてそれが出来たのか。確かめなければ納まりが着きません。今年の新年会の席上、冨川氏にお尋ねしました。「斯我君が男なら生まれた子は『百済の君』と呼ばれるはず、子が『倭君』と呼ばれるからには斯我君は女に違いないと思った」とのことでありました。冨川氏の直感に、只(ただ)脱帽です。
 月例会におきましても、冨川氏の発表の反響は大きかったように思います。冨川氏の論文が『古田史学会報』二〇〇七年二月十日号の冒頭を飾ったのも、その重要性を認められてのことでしょう。なお、この会報七八号に載った冨川氏の論文(武烈天皇紀における「倭君」)により、十二月十六日には私が自分の世界に浸り込んでいて理解していなかった冨川氏の主張も理解できました。そこで、会報に載せられたこの重大なテーマと冨川氏の論理について、私も一言、意見を述べさせて頂きます。

    一

 私が「麻那君・斯我君」の二人を「男」と思い込んでいたについては、二つ理由があります。
 一つ、「隋書イ妥国伝」の記事にもかかわらず、『日本書紀』では、女を「君」と呼ばない。(例外として、「童女君(おみなぎみ)」が一件あるのみ、雄略紀元年条)
 二つ、この記事を、帰化人の氏族の始祖伝承の一つと思い込んでしまったこと。冨川氏の言われるように近畿天皇家が「やまと」の君を名乗らずに、何故に大和の地方豪族や帰化人が、「倭直」や「和氏」を名乗るのかは大きな疑問であり、今後も検討を続けるつもりです。が、とにかくそれが現実。だから、同じ様に「倭君」があっても不思議は無い、と軽く受け流してしまっていたのです。
 冨川氏がこのような先入観に犯されること無く、率直な疑問から、二人を「女」と見、「倭君」とは、単なる「倭」姓にとどまらず、「君」とあるからには「倭国」の君主を指すに違いない、また「麻那君・斯我君」に「君」の称があるのは「朝」との関係のためではなかろうか、とまで直感されたについては、敬意を表します。

    二

 さて、「きみ」の語は国語であって、「主権を有する首長」に付された称号でありましょう。『書紀』は、この「きみ」に、近畿天皇家の、天皇には「王」、配下の豪族には「君」の「漢字」を当てています。『書紀』は、「君」の方だけを「姓かばね」と呼んでいますが、近畿天皇家も近畿を統合する前は、「君」と呼ばれる「一地方首長」=「豪族」だったのかもしれません。近畿天皇家が近畿を統合してからは、その王朝において、天皇は「大王おおきみ」とされ、天皇家内の天皇位にないただの「王きみ」と区別され、配下の豪族「君きみ」とも区別された、ということでありましょうか。
 百済、新羅、高麗の側に、「きみ」の呼称はありません。『書紀』に「百済」の王は数多く登場します。その中で、「倭」の側の「君」の称号が付されている王が三人だけいます。「加須利君」、「軍君」(=「昆支君」)、「嶋君」の三人で、この三人は「倭」と強い繋がりを有しています。(いずれも雄略紀に登場しますが、「加須利君」は、弟「昆支君」を「倭」に人質に出し、「嶋君」は「加須利君」の子で、経緯あって「倭」で生まれる形になっています)
 注意すべきは、『書紀』には、この三人の「百済」の王に付された称号「君」に、「きみ」ではなく、「きし」の訓が振られていることです。
 この「きし」とは、「百済」側の古い称号なのです。『書紀』では、この『百済』の「きし」に、「吉士」の「漢字」が当てられ、「吉士」の称号を持つ帰化人がたびたび登場します。そして、「百済」の「王」の語には「こにきし」あるいはその略の「こきし」の訓がふられています。百済語で「こに」は大、「きし」は首長です。
 倭の「大王おおきみ」・「王おおきみ」と「君きみ」は、百済の「大王(こにきし)」・「王(こにきし)」と「吉士(きし)」に習ったのかも知れません。ということは、百済の上記三人の王については、『書紀』の編者が、「〜王(きし)」の「王」字を、倭風に「君」字に代えただけで、それを元音(げんおん)通りに「きし」と読んでいた、ということなのかもしれません。
 そして『書紀』では、問題の「麻那君・斯我君」の「君」にも、「きし」の訓がふられているのです。この二人を女とすると、百済で「〜王きし」と呼ばれていたはずはありません。しかし、この二人は天皇の夫人として、もはや百済に帰ることなく、倭に同化し、倭で一生を終えたはずです。とすると、正に冨川氏の言われるように、「倭」の「朝」で、百済の王族また貴族出身の媛として尊敬を受け、倭の側の敬称「君きみ」で呼ばれたのかもしれません。『書紀』で、女を「君」と呼んだ例は雄略の妃「童女君(おみなぎみ)」の一件しかありませんが、これは姓(かばね)として呼ばれたのではなく、天皇の妃に対する敬称として呼ばれていたのでありましょう。「倭」の「朝廷」内では、後の時代に一般的であったように、この時代から天皇の夫人たちは、「〜の君きみ」と呼ばれていたのかもしれません。
 同じように天皇の妃となった「麻那君・斯我君」の二人も、「倭」の「朝」における敬称の「君きみ」で呼ばれたのだが、後に、この二人を男と思い込んでいる『書紀』の訓註者は、百済の上記三人の王と同じに扱って、二人に付けられた倭の敬称「君」に、百済の上記三人の王と同じに百済の称号「きし」の訓をふってしまった。こんなところでありましょうか。

    三

 さて、氏は、生まれた子の末が「倭君」と呼ばれる以上、「麻那君」、そして「斯我君」も女であると見、更に「奉事於朝」、「遂有子」の主語を武烈と見て、先の「朕無継嗣」と因果関係で結ばれている、と見ておられます。
 しかし、「奉事於朝」、「遂有子」の主語を武烈と見るには無理があります。「無継嗣」の武烈に「遂有子」では、『書紀』が構成しようとしている継体即位の大義名分の一つが失われてしまうではありませんか。『書紀』の武烈紀における構文の形から言っても、ここでの主語交代は考えられません。
 氏は、「遂」の語に、重きを置いたようですが、ここでの「遂」には、余り積極的な意味は無いように思います。確かに、男女が一緒になれば子が出来て当たり前、それを「遂に」とまで言うのは、「無継嗣」と言っていた人に子が生まれたのだから、と思いたくもなります。しかし、『書紀』には次の例があります。
「遂生女子」雄略紀元年春三月、是月条
「遂有児息」同七年、是歳条
「遂生一男」継体紀元年三月条
「遂有児息」同二三年春三月、是月条
 いずれの場合も、ただ普通に子が生まれただけなのに「遂」の一語を付け加えています。恐らくは、漢文として語調を整えるためではないか、と思います。特に「生子」の二語だけでは落ち着かない。せめて、「遂生子」といきたいところです。別の箇所で使われている「遂」にしても、二、三十個も拾ってみれば、「その結果とうとう」というほどに大げさな意味で無い例はいくらもあることが分かります。「斯我君」の子「法師君」を、武烈の子とみるのは無理があります。

    四

 続けて氏は、『書紀』の「法師君」は「倭君」の「先」という記述から、『書紀』中の続柄を意味する「先」の語の全てを分析し、「先」が「父」を意味すると結論し、「法師君」は「倭君」の父と判断して大過ない、と考えます。
 しかし、漢字の「先」は、(動詞)さきんずる (名詞)さき(始め、前方、以前、先祖、将来)であって、「父」の意はありません。「先祖」の意味の時、直近の「父」もそれに含まれるだけです。
 「先」が、先霊、先聖、先皇、先王、先帝、先考天皇と熟語を形成する場合も、その熟語は、次にくる語の「先のそれ」を意味するだけです。それがたまたま「今のそれ」の「実父」であることがあっても、「先」が「実父」を意味するわけではありません。
氏が分析している、『書紀』に単独で使われている「先」十二例も、「おや」の訓がふられてはいますが、その全てが「氏の始祖」を言っている、といっていいのではないでしょうか。現代語の「おや」、「ちち」でさえも「始祖」の意に用いられるではありませんか(例えば、エジソンは発明の「父」)。
 そして、「麻那君」、「斯我君」が歴史上特定できない以上、固有名詞を持たない「倭君」をその続柄から詮索していくのは無理ではないでしょうか。

    五

 以上の分析の後、氏は、西村秀己氏の説に従うなら、「倭君」は「ちくしの君」にほかならない、とされます。氏は、ここに来て初めて「倭君に至る系譜」が「九州王朝の系譜」であると論理づけるわけです。
 しかし、「先」の語の分析と、「倭君」を「ちくしの君」と読むか否かということは関連がありません。また、確かに、『書紀』ほか七世紀末から八世紀にかけて作られた記録は「倭」を「やまと」と読んでいますが、それ以前の時代にも「倭」を「やまと」と読んだ証拠は存在しません。同様に「ちくし」と呼んだ証拠も存在しません。現状どちらの読みも決定力は持たないのではないでしょうか。だから、「ちくし」と読むべきだ、「だから〜」と主張しても、それは「やまと」と読む側に対し、何の説得力も持ち得ません。
 氏はこの「倭」の読みとは別に、「倭君」が九州王朝の系譜ではないかと考える理由を二つ述べています。
 その第一の理由として、武烈には子がなかったと明記する『日本書紀』の中に、「朝」「法師君」「倭君」が存在する場所は初めから「ない」ことである、とされます。しかし、氏が、「だから、これが九州王朝の系譜である」と主張しても、定説論者からは、「だから、あなたの主張は成り立たない」と反論されるだけでしょう。
 第二の理由として、百済が国家として現に存在した時代に、近畿天皇家が百済と婚姻関係を結んだ例は皆無である、とされます。しかし、『書紀』には二例だけですが、「百済」の王から「倭」の天皇への女子献上の記事があります。
一、応神紀三九年春二月条、百済の直支王、其の妹新齊都媛を遣して仕えまつらしむ。ここに新齊都媛、七の婦女を率いて、来帰(もうけ)り。
二、雄略紀二年秋七月条、百済の池津媛、天皇の将に幸さんとするに〜(後略)。百済新撰に云はく、己巳の年に蓋鹵王立つ。天皇、阿禮奴跪を遣はして、来たりて女郎を策(こ)わしむ。百済、慕尼婦人の女を荘飾らしめて、適稽女郎と曰う。天皇に貢進るという。
 『書紀』はもちろんこれを近畿天皇家の天皇のこととして記しています。よって、「麻那君・斯我君」が女であるとしても、近畿天皇家に例が無いから、これは九州王朝である、との主張は通りません。

    六

 続けて氏は、『書紀』における「朕、継嗣無し」、「麻那君・斯我君」、「倭君」の一連の記事と、これに続く「暴君記事」を、九州王朝の帝紀に書かれてあったに違いない、とされます。そして、「馬」とは「百済」の暗喩であり(百済の旧地名は馬韓)、「遊牝(つるひ)」とは百済王家と通婚したことへの罵言である、とされます。
 確かに、九州王朝に歴史書があったことは、推し量ることが出来ます。しかし、そこにこれらの事跡が書かれてあったか、となると、それはもう想像の領域でしかありません。
また、『書紀』に、「百済」を「馬」に例えた例は存在しません。「馬韓」という語も存在しません。半島の歴史において、「三韓」時代とは、三世紀までの馬韓、辰韓、弁韓鼎立の時代を言います。陳寿の『三国志』に記された時代です。しかし、『書紀』に、半島におけるこの「三韓」時代の認識はありません。『書紀』に言う「三韓」とは、四世紀以降の、「高麗こま」(「高句麗」)が南下し、「百済」、「新羅」が成立して以降の、これら三国を指しています。(半島南部の「任那」については、『書紀』は「韓」ではなく、「倭」であるとの建て前が採られています)『書紀』において、馬韓、辰韓、弁韓鼎立の時代は既に忘れ去られているのです。だから、『書紀』が、「百済」を「馬」に例えるはずは無いのです。
 「百済」と「馬」については、『書紀』斉明紀四年(六五八年)是歳条に説話があります。
 西海使小花下阿曇連頬垂、百済より還りて言さく、「百済、新羅を伐ちて還える時に、馬、自から寺の金堂に行道(めぐ)る。昼夜息(や)むこと勿し。唯し、草食む時のみ止む」ともうす。或本に曰はく、庚申の年に至りて、敵の為に滅さるる応(きざし)なりといふ。
 正に、六六三年の白村江決戦、百済滅亡前夜の説話です。しかしこの説話、それが何で「百済滅亡の応(きざし)」なのかが、分かり難いのです。
 ところが、同様の説話が、「高麗こうらい」の『三国史記』(一一四五年成立)、百済紀の義慈王十五年条(六五五年、斉明元年)にあります(岩波『書記』注)。
 [馬辛](せい)馬、北岳烏含寺に入る。仏宇を鳴いて匝(めぐ)りて、数日にして死す。(「[馬辛]馬」は、赤い毛の馬。「仏宇」は、仏堂)
 こちらの説話においては、明らかに「[馬辛]馬」が「百済」に例えられ、「[馬辛]馬」の死が「百済滅亡の応(きざし)」とされていると言っていいでしょう。『書紀』と『三国史記』とのこの違いは、『書紀』の編者が、「馬」が「百済」を象徴していることを理解出来なかったため、と解するしかありません。よって、馬の「遊牝」の記事を、百済王家と通婚したことへの罵言、とすることは出来ないと思います。
[馬辛](せい)は、JIS第3水準ユニコード9A02

 総じて、『書紀』は「百済」に好意的です。「新羅」に対する敵意に比べれば、その違いは露骨なまでといってもいいでしょう。
 『書紀』にも「百済」を悪く言うようにみえる記事が何件かあります。
一、応神三年是歳条 百済の辰斯王立ちて、貴国の天皇のみために失礼し。故、紀角宿禰・羽田八代宿禰・石川宿禰・つくの宿禰を遣わして、その礼なき状をころはしむ(責めましむ)。是に由りて、百済国、辰斯王を殺して謝ひにき。紀角宿禰等、便に阿花を立てて王(こきし)として帰れり。
 応神八年春三月条 百済紀に云えらく、阿花王、たちて貴国に礼无し。(中略)是を以て、王子直支を天朝に遣して、先王の好を脩むといえり。
二、推古三一年(六二三年)是歳条 (前略)田中臣の曰さく、「然らず、百済は是、多反覆(かえかえ)しき国なり。道路の間すらも尚、詐く。凡そ、彼の請す所、皆非(よくもあら)ず。故、百済に付くべからず。」と曰す。
三、皇極元年(六四二年)五月条 「翹支」(百済から倭に大使として来ている百済の王の児)が使者一人死去。丙子に、「翹支」が児死去。是時、「翹支」と妻、児の死にたることを畏(お)じ忌(い)みて、果たして喪に臨まず。凡そ百済・新羅の風俗、死亡者有るとき、父母兄弟夫婦姉妹と雖も、ひたすら自ら看ず。此れを以って観れば、慈(うつくしび)無きが甚だしきこと、豈(あに)禽獣に別(こと)ならんや。
 しかし、
一、応神紀総体を見れば、「倭」は、結果としての「百済」の対応に満足しています。
二、は、「倭」の側が、対「任那」政策で、親「新羅」派と、親「百済」派とに分かれていたことが伺われる記事です。田中臣は、親「新羅」派で、これは「百済」を貶める発言です。しかし「倭」は、結果として「百済」と連合します。この田中臣の発言の側には立たなかったのです。
三、は、百済・新羅が併記されていて、「風俗」の違いであることが明記されており、親「百済」政策の非難には当たりません。
 結局、『書紀』に、親「百済」政策を採ったに付いての批判記事は、存在しません。白村江敗戦以降においても存在しません。「倭」は、古くから「百済」系帰化人を歓迎しています。白村江敗戦に当たっても、亡命百済人を積極的に受け入れています。「百済」が滅亡してもなお、「百済」に好意的なのです。
 こうして「倭」国内に定住、同化した「百済」人は、「倭」国に最先端の文化と技術を齎してその勢力と影響力を強め、『書紀』にまで、親「百済」と「新羅」に対する敵意とを、記録させたのではないでしょうか。

   七

 最後に、冨川氏にご提示頂いた、「麻那君」・「斯我君」は女 のテーマの意味を如何に解釈するか?私なりに取り纏めてみます。
(1)冨川氏の指摘された通り、「百済」の王が遣わし、朝に事へ奉らしめた「斯我君」の子「法師君」の末が、「倭の君」と呼ばれている以上、「斯我君」、そして「麻那君」は女で、二人が事へたのは「倭」の朝廷における「君」、即ち「天子」であろう。

(2)『書紀』の編者が、事もあろうにこの記事を、「継嗣無し」と設定しなければならない「武烈紀」に入れてしまったということは、『書紀』の編者に、上記の認識のないことを示している。すなわち、『書紀』の編者は、「麻那君」・「斯我君」を男、この記事を、帰化人系一氏族の始祖伝説であると認識しているのである。ということは、『書紀』の編者は、この伝承の真の意味を知らない。即ち、この記事は『近畿(天皇家)王朝』内の伝承では無い。

(3)ではこの王朝はいかなる王朝か? 古田史学を学ぶものにとっては、ここでもう自明である。半島側から「倭」と呼ばれ、「百済」と交流を持った列島の王朝、それは、『九州王朝』をおいてほかに無い。そして、『日本書紀』の「武烈紀」にこの「麻那君・斯我君」記事が存在するという事、これこそ、『日本書紀』自体が『九州王朝』の存在を証明している一例であると言わねばならない。

 私の現在の『書紀』把握の力では、この課題について、これ以上の突っ込みは、置いておきたいと思います。最後に、ここまで私の認識を整理するに至らせて下さいました冨川ケイ子氏に感謝致します。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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