2020年10月13日

古田史学会報

178号

1,「二倍年暦」と「皇暦」から考える
「神武と欠史八代」

 正木 裕

2,さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉
 茂山憲史

3,俀国伝と阿蘇山
 野田利郎

4, 覚信尼と「三夢記」についての考察
豅弘信論文への感想
 日野智貴

、『隋書』俀国伝の都の位置情報
古田史学の「学問の方法」

 古賀達也

6、「壹」から始める古田史学 ・四十四
「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」①
古田史学の会事務局長 正木裕

古田史学会報一覧

九州王朝戒壇寺院の予察 古賀達也 (会報176号)
「アホ」「バカ」「ツボケ」の多元史観 上岡龍太郎さんの思い出 古賀達也(会報177号)

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『隋書』俀国伝の都の位置情報

古田史学の「学問の方法」

京都市 古賀達也

一、はじめに

 『多元』一七六号の八木橋誠氏の論稿「倭国の漢字 ―音読みを探る―」に、『隋書』俀国伝に記された俀国の都の位置に関して、次の見解が示されている。

〝隋帝が裴清を『俀国に使せしむ』という派遣記事は倭国の都が目的地となるので、その後は壱岐島を経て博多に上陸、盛大な歓迎セレモニーを受けて目的地に(ママ。「到着」が脱落か)したことで長安からの行程は終わるのである。(中略)ところが多元の古代史会議でも未だに裴清が大阪まで赴いたという主張に固執する先学がいて、思い込み持論を展開し、通説と相通じているようにも思える。本文では九州上陸後に「海を渡る」との表現はないので九州島に留まっていたことになるだろう。どこにも「海」や難波津の字もない。仮に瀬戸内海を渡ったとすれば、難波までは途中停泊しながら7~8日要するなど長い航海になる訳であるから、瀬戸内海の島々の描写や各停泊港の様子が全く書かれていないことは有り得ないことではないだろうか。〟

 古田学派内では俀国伝の都の位置や都への行路記事について諸説が発表されている。わたしは古田説(注①)を支持するが、古田氏も行程や位置の詳細までは断定していない。
 学問論争では、真実に向かって論議が最有力説に収斂するが、その前提として俀国伝の史料事実を正確に把握することが必要だ。そこで、当論争に関わる位置情報について精査した。
 なお、ここでいう位置情報とは『隋書』成立時点(注②)での中国側の認識を意味し、それが現代人の地図情報や歴史認識、あるいは『日本書紀』の記述と一致するかどうかとは別問題である。この点を峻別して論じるのが文献史学やフィロロギー(注③)の基本姿勢(学問の方法)である。

 

二、俀国伝位置情報のフィロロギー

 『隋書』俀国伝などの中国正史夷蛮伝を読む際に留意すべき事がある。それは、想定された第一読者が、史書編纂時の王朝の天子であることだ。従って地理の専門家でもない天子が理解できるように書かれているはずだ。
 次に大切なことが、読者は俀国伝を初め(冒頭)から読み始め、俀国に対する認識を構成するという点だ。これはフィロロギーに於いて重要な視点で、当時の読者が史書から得た認識を現代の研究者が同じように認識するための留意点である。このことを踏まえ、俀国伝に記された俀国とその都の位置情報を記載順に並べる。
(1)俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2)其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3)都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4)古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)大業四年(六〇八)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望𨈭羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
 俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 (1)は、俀国が百濟新羅の東南方向の水陸三千里先にあり、大海中の島国であるとする。

 (2)は、その国の領域が「東西五月行、南北三月行」であり、それぞれ海に至るとする。これは大海中の島国とする記事(1)と整合し、読者は〝俀国は朝鮮半島から三千里先の東南方向にある島国〟と認識するであろう。

 (3)は俀国の歴史と都の位置情報。都は「邪靡堆」にあり、それは『三国志』魏志倭人伝の「邪馬臺」であるとする。倭人伝には邪馬壹国とあり、この「邪馬臺」は『後漢書』倭伝の「その大倭王は邪馬臺国に居す」に基づいたもの。この記事を読んだ読者は次の認識に至るであろう。
(a)俀国とは倭人伝など歴代史書に見える倭国である。

(b)現在(『隋書』編纂時)は邪靡堆を都とし、倭人伝の都「邪馬臺」(邪馬壹国)のことである。

 すなわち、俀国は古くから中国と交流した日本列島の代表王朝であるとの歴史認識と、その都の位置は三世紀(『三国志』編纂時)から七世紀(『隋書』編纂時)まで変化していないとの認識だ。そしてこの認識を記事(4)で読者は再確認する。すなわち、「古に云う」として俀国の位置情報「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」が記され、俀国が倭人伝や『後漢書』に記された古の倭国であることを示す(注④)
 ここまでが俀国の概要が記された部分。そして、俀国と隋との国交記事(5)へと移るのだが、読者は(1)~(4)で得た認識に基づいて、(5)の行路記事を読む。従って、行路記事は、当時の読者の認識に基づき、それと矛盾しない読み方(理解)を現代の研究者はしなければならない。

 

三、俀国の都「邪靡堆」は近畿に非ず

 俀国伝に記された俀国やその都の位置情報(1)~(5)のなかで、(3)は特に重要だ。なぜなら大和朝廷一元史観の通説 を形成する上での史料根拠とされているからだ。それは次の等式と解釈による。

〝七世紀の俀国の都「邪靡堆」=三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)=七世紀の俀國も畿内の王権=大和朝廷。
 従って中国史書も通説と対応しており、これを歴史事実と見なして良い。『隋書』俀国伝は通説(邪馬台国畿内説・大和朝廷一元史観)の史料根拠といえる。〟

 この論理構造が通説を支えているのだが、同時にそれは二番目の等式〝三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内〟が崩れると、一元史観という通念が瓦解するという構造でもある。そのため、学界内で「邪馬台国」九州説が発表されると、その論者に対して厳しい批判がなされる。たとえば「邪馬台国」北部九州説を著書(注⑤)で発表した小澤毅氏に対して、寺崎保広氏は次のように批判する。

 「ただし、邪馬台国を論じた部分には違和感を覚えた。その所在地を巡っては膨大な研究史があるが、著者は北九州説をとるべきだと主張する。(中略)先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎているのではないか。近年では纏向遺跡の調査をはじめとして、邪馬台国畿内説がかなり優勢となっている状況にあって、著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いことであり、そうであれば、邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたいものである。」(注⑥)

 一見、学問的な批判のように見えるが、内実は「先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎている」「著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いこと」などと、本質的な批判になっていない。従来の畿内説が妥当ではないとする小澤氏に対して、慇懃無礼な対応(冷静な判断力で先行研究に目配りせよ)のようにも映る。また、「邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたい」と言うからには、「邪馬台国」北部九州説をとる関川尚功氏(注⑦)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(梓書院、二〇二〇年)にも触れていただきたいものだ。
 関川氏は先の等式中の〝三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内〟が成立しないことを、大和を四十年以上発掘してきた考古学者として証言したものだ。
 他方、古田氏は文献史学の立場から、〝俀国=大和朝廷〟は成立しないことを指摘し、例えば次の等号否定式を示し、「俀国≠大和朝廷」を論証した。
○『隋書』俀国伝の多利思北孤(男性)≠『日本書紀』の推古天皇(女性
○『隋書』俀国伝の多利思北孤(天子)≠『日本書紀』の聖徳太子(摂政)

 

四、「經十餘國達於海岸」は傍線行路

 俀国伝の(1)~(5)の記事中で異質の内容を持つのが、俀国の都へ向かう隋使行路記事(5)だ。この記事の解釈により、俀国伝と通説(大和朝廷一元史観)がかろうじて〝対応〟するからだ。というのも、俀国伝に記された地名で、場所が特定できるのは都斯麻國(対馬)・一支國(壱岐)・竹斯國(筑紫)・阿蘇山で、いずれも九州島内と周辺の島に限られ、大和や近畿の地名、九州から近畿に向かう途中の地名は皆無。俀国伝を大和朝廷一元史観の根拠にすることはそもそも無理なのだ。
 そこで考え出されたのが、傍線行路の「又經十餘國達於海岸」を〝瀬戸内海を通って摂津難波の海岸に達した〟とする解釈。これを採用するしか、隋使が向かった都を近畿地方に持って行けないのだ。この解釈を古田氏は次のように批判する。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
 しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
 ①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。

 ②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。

 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬―秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟
古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、二六五頁。

 このように、(5)の記事は通説の根拠にはなり得ないのである。

 

五、読者は俀国伝を冒頭から読む

 (5)の記事のうち、俀国の都への行路記事は次の部分。
(a)度百濟行至竹島南望*「身冉」羅國。
(b)經都斯麻國逈在大海中。
(c)又東至一支國。
(d)又至竹斯國。
(e)又東至秦王國
(f)又經十餘國達於海岸。※古田説では傍線行路。

 簡略化すると次の通り。()内は進行方角。
○百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十余国→海岸

*「身冉」羅國の「身冉」は、身編に冉。

 この行路記事は不審だ。読者には俀国の都がどこにあるのか理解不能だからだ。なぜなら、百済から一支国や秦王国への進行方向は東とあるが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、これでは都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのかわからないからである。現在のわたしたちであれば、世界地図や日本地図に基づき、恐らくこのへんではないかと推定可能だが、当時の読者は俀国伝の記事から得られた位置情報で考えるほかない。
 そこで重視すべきは〝読者は俀国伝を冒頭から読み、俀国に対する認識を構成する〟とする視点だ。この視点により着目したのが、読者が行路記事(5)の前に読んだであろう俀国とその都「邪靡堆」の記事(1)(3)である。

 

六、東進だけでは東南に行けない

 隋使の行路記事(5)には、一支国と秦王国へは進行方向は東とあるが、竹斯国や十余国への方角が記されておらず、肝心の「邪靡堆」がどの方角にあるのか不明。そこで、注目されるのが俀国伝冒頭に記された(1)(3)の位置情報だ。読者は俀国伝を冒頭から読み始め、俀国に対する認識を構成するので、行路記事の前に次の記事を読んでいるはずだ。

(1)俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(3)都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。

 (1)は俀国伝冒頭に記された俀国の位置情報で、読者が最初に目にする情報。俀国は百済新羅の東南にある島国という印象的なフレーズだ。最初に得たこの位置情報に基づき、行路記事(5)の内容を読者は判断する。もちろん編纂者も、読者がそう判断するように俀国伝を執筆したはずだ。ときの天子に上程するからには当然の配慮だ。
 この視点で行路記事(5)を読むと、進行方向を示す方角が一支国と秦王国の「東」しかないことに読者は気づき、方角が示されていない竹斯国と十余国と海岸は「南」方向と考えるのではあるまいか。もし、百済から全て東方向にしか行かないのであれば、百済新羅の東南にあると記された俀国の都には行き着けないからだ。
 大和朝廷一元史観では、十余国と海岸を、秦王国から更に東方向にある瀬戸内諸国と摂津難波と解釈する。そうするしか自説を維持できないのだが、これでは「俀國在百濟新羅東南」とある位置情報と行路記事の進行方向とが齟齬をきたす。東南の島国と冒頭に書いてあるのだから、方角記載がない竹斯国と十余国と海岸は南方向と読者は理解するほかはない。

 

七、倭人伝と阿蘇山の証言

 その理解を後押しするのが記事(3)だ。俀国の都「邪靡堆」は『三国志』倭人伝の「邪馬臺」のこととする記事だが、倭人伝には邪馬壹国とあり、ここでは『後漢書』の「邪馬臺国」表記(注⑧)を採用している。倭人伝に見える女王が都した邪馬壹国の位置情報は次の通り。
 「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。」

 古田説(注⑨)によれば、博多湾岸にあった不彌国の南に女王の都、邪馬壹国がある。『隋書』の読者が「邪靡堆」記事を読めば、倭人伝の一節「南、邪馬壹国に至る」にたどり着き、「邪靡堆」は南方向にあるとの理解が妥当と確認できる。『隋書』編纂者もそのように読者の認識を促すため、「則魏志所謂邪馬臺者也」と記したのだ。
 従って、隋使の行路は、糸島博多湾岸付近(竹斯国)に上陸した後、東へ向かい秦王国に至り、その後は南方向に十余国を経て海岸に達したとするのが妥当だ(注⑩)。南方向であれば、阿蘇山がある肥後に至るが、南方向以外に進めば隋使は阿蘇山の噴火を見ることはできない。この阿蘇山記事も、隋使の進行方向が南であることを支持する。
 なお、十余国を経て着いた海岸を有明海と考えてきたが、更に南の不知火海かも知れない。十余国という国数を考えると、筑後の海岸(有明海北部)よりも肥後の海岸(有明海南部~不知火海)が適切と思われ、今後の検討課題としたい。

〔令和五年(二〇二三)八月十八日、筆了〕

(注)

①古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、二六五頁。

②『隋書』は本紀五巻・志三十巻・列伝五十巻からなる。魏徴と長孫無忌らが編纂し、唐の第三代高宗の顕慶元年(六五六)に完成。九州王朝のことを記した俀国伝は同時代史料として貴重。

③人間が認識したことを再認識するという学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。

④『三国志』倭人伝に次の記事が見える。「自郡至女王國、萬二千餘里」「計其道里、當在會稽東冶之東」「所有無、與儋耳朱崖同」
 『後漢書』倭伝には次の記事が見える。「楽浪郡徼去其國萬二千里」「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近故其法俗多同」

⑤小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、二〇一八年。

⑥寺崎保広「書評 小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』」『日本歴史』二〇一九年。

⑦元橿原考古学研究所の考古学者。『考古学から見た邪馬台国大和説』で次の指摘をした。
〝『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらないからである。〟
〝弥生時代後期には瀬戸内・山陰・北陸など、その中でも特に西日本地域では、丘陵上に築かれる各種大型の墳丘墓が発達することはよく知られている。しかし、大和地域ではこのような、大型墳丘墓については未だに確認されないばかりか、墳丘墓自体がほとんどみられず、むしろ、その空白地帯といえるのである。(中略)さらに、方形周溝墓などを含めた弥生墳墓全体をみても、副葬品はほぼ皆無という状態である。〟
〝直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。〟
〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されてないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。〟
〝今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。〟
〝考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しえないことを示しているといえよう。〟

⑧『後漢書』倭伝に次の記事が見える。「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。(中略)その大倭王は、邪馬臺国に居る。」

⑨古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。

⑩この行路理解を地図に当てはめると、旧西海道と一致するようだ。糸島近辺に上陸、東進し、福岡市から筑紫野市へ。更に朝倉街道を東に向かい、うきは市に至り、久留米市から南の八女市方面へ抜け、肥後に至るルートだ。隋使は鞠智城を経由し、阿蘇山の噴煙を眺めながら肥後国府に至ったのではあるまいか。この間に十余国を経て、有明海あるいは不知火海付近の海岸に達したと考えたい。

 


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