2020年10月13日

古田史学会報

178号

1,「二倍年暦」と「皇暦」から考える
「神武と欠史八代」

 正木 裕

2,さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉
 茂山憲史

3,俀国伝と阿蘇山
 野田利郎

4, 覚信尼と「三夢記」についての考察
豅弘信論文への感想
 日野智貴

、『隋書』俀国伝の都の位置情報
古田史学の「学問の方法」

 古賀達也

6、「壹」から始める古田史学 ・四十四
「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」①
古田史学の会事務局長 正木裕

古田史学会報一覧

倭国と俀国に関する小稿 谷本論文を読んで 日野智貴(会報177号)

覚信尼と「三夢記」についての考察 豅弘信論文への感想 日野智貴 (会報168号) ../kaiho178/kai17804.html


覚信尼と「三夢記」についての考察

豅弘信論文への感想

たつの市 日野智貴

はじめに

 古田武彦(敬称略、以下同)の功績の一つが、従来偽作説が有力であった、親鸞が娘の覚信尼に送ったとされる「建長二年文書」いわゆる「三夢記」が真作であることを論証したことにある。しかし、古田の晩年である二〇一〇年に至って、豅ながたに弘信より「偽作説」の立場により古田を批判する論文が発表された
 豅論文は古田の研究によって「真作説が俄然有力となった」と古田の成果を認めつつ、それを批判する内容である。私は親鸞研究において素人であり、浄土真宗の住職である豅よりも(無論、古田よりも)親鸞に詳しいはずもなく、実際豅の論文にも一定の説得力を感じた。しかしながら、同時に豅論文への疑問点もいくつか存在しており、古田史学を名乗る者がこうした疑問を解消せずにいることは古田に対して学問的批判をされた豅への礼儀を欠くことにもなるため、ここに豅論文への疑問について論じさせていただきたい。
 なお、現在豅は自身が住職を務める鳥取県の真宗大谷派西念寺公式サイトにおいても同論文を掲載している。私が見たところ両者に大きな違いは見つからなかったが、公式サイトの方は「加筆」したものであるという事なので豅論文の最終稿であると判断し、以下に引用する豅論文は真宗大谷派西念寺公式サイトからの引用とする。

 

一 古田説の三つの論拠について

 豅論文は古田が真作説の論拠とした主要な三つについて批判を加えている。これについてはこれまで偽作論者と古田の間で議論されていたところでもあるが、論点整理の観点からもまず豅による古田説批判を紹介し、私見を述べたい。
 まず、古田は「三夢記」には鎌倉時代特有の「ニの畳用」が見られることから「三夢記」は鎌倉時代の成立であるとした。しかし、豅は「三夢記」はそもそも漢文であって「ニの畳用」が明記されている訳ではなく、「江戸期の漢文であれば『睿南無動寺ノ大乗院ニ在テ』と読むことが可能であり、『ニの畳用』とは断定できない」とした。

 第二に、古田は文末の自署名が「愚禿釈親鸞」とあり、「釈」の字を含んだ署名の形式は親鸞七四歳から八十三歳までの十年間(釈の十年)に限られることから、「建長二年」(親鸞七八歳)の文書として矛盾が無く、「江戸時代の偽作者のごときが偶然に書き、偶然に的中することは至難の業に属する」ことから、このことを真作説の「決定的な証拠」とした
 これについても豅は「釈の十年」から逸脱した「釈」の使用例があることを指摘し、さらに「親鸞は同じ文書中でさえ『釈』のある記名とない記名とを併用して」いるため、そもそも「『釈』の有無に親鸞が特別な意味を見ていたとは考えに」くいとした。

 第三に、古田は制作年時の「建長第二」の表記が「宝治第二」の年時表記を持つ『高僧和讃』(七六歳)と近接しており、親鸞の七十代後半に特有の用法であるとした。
 これについても豅は「28歳時点の記録である大乗院夢告の記事にも『正治第二』の記述があり、この表記が70歳代後半特有のものとは思われない」と批判を加えている。

 これらは確かに説得力のある批判である。しかしながら、いくつか疑問とする点があると言わざるを得ない。
 第一に、「ニの畳用」について「江戸時代の漢文」の用例だと「ニの畳用」にならないというのは、まさに「江戸時代偽作説」に立って初めて成り立つ主張である。これは「江戸時代偽作説でも成り立ちうる」という程度の論証効果しかないのではないか。

 第二に、例えば豅は親鸞が六十歳ころに書いた『教行信証』の「坂東本」にも「釈親鸞」の用例があるとするが、「坂東本」については「最晩年に至るまで、親鸞が手元に置き、手を入れ続けた親鸞所持本」であるとされているところ、具体的に「釈親鸞」の部分が何歳の頃の手になるかは断言し難いのではないか。いずれにせよ「釈親鸞」の自署が「釈の十年」に四例と他の年代よりも比較的多いことは紛れもない事実であり、真作説の成り立つ余地を排除するような性格のものではない。

 第三に、年代表記についても「年号第◯」のような表記が少ないことこそ、真作説の根拠となるものではあるまいか。古田が挙げた一例を含めて二例しかない表記をわざわざ後世の偽作者が用いるのか、疑問である。
 これらの豅の主張は従来の古田と偽作論者の論争の延長線上にあるものであり、偽作の「可能性」があることこそ示すものの、偽作であることを積極的に証明するものではない。もっとも、豅は別に偽作であるとする積極的な論拠を上げている。それが「親鸞が『三夢記』を覚信尼に送った」という事実への批判である。

 

二 覚信尼に漢文の手紙を送ったのか

 豅は覚信尼に親鸞が手紙を送ったことを否定する。その理由は、大きく二つである。
 第一に、そもそも「三夢記」にあるような「覚信尼」の法名を当時名乗っていたのか、怪しい。古田は覚信尼の最初の夫日野広綱が亡くなった後に名乗った法名であるとするが、日野広綱が亡くなった年代は不明であるとする。さらに、覚信尼の小野宮禅念との再婚について「親鸞存命中であれば後年の大谷廟堂の相続をめぐる係争の際に唯善がそれを強調したはずであるから、親鸞没後の文永2年(1265)頃のことであろう」とする北西弘の説を紹介している。その説に立った場合、当然日野広綱が亡くなったのは古田の想定よりも後であるとする説も成り立つ余地がある訳である。
 さらに、仮に古田の説通り覚信尼が当時寡婦であったならば「当然父親鸞のもと―「五条西洞院わたり」(『御伝鈔』)か?―に寄寓していた可能性が高く、覚信尼が対面困難な遠方から手紙をよこしたとする添付「書簡」の記述がなおさら頷けなくなる」としている。

 第二に、豅は親鸞が覚信尼に「漢文」の手紙を送ったことを疑問視している。即ち、「覚信尼にはおそらくこれらの文書が『読めなかった』」というのである。
 豅曰く、「僧侶であってもその大多数にとっては経文を読誦すること自体が困難なことであり、経文を読誦暗唱しその大意を知ってはいても、詳しい内容まで理解できた僧侶はさらに稀少であった」のに「まして女性においては」、とのことである。さらに「親鸞の上洛までの年少期は関東で過ごしたと思われ、教育環境から見て母以上の、しかも自ら望んで漢文聖教を懇望するほどの読解力があったとは考えがたい」ともしている。

 さて、第一の論点であるが、これは結局「覚信尼が未亡人であったかどうかは、わからない」と言うだけであって、建長二年の時点で日野広綱が存命であったという論証を豅がしている訳ではない。
 次に第二の論点についてだが、確かに親鸞が仮名で伝道していたことは親鸞を専門的に研究した訳ではない私ですら知っている周知の事実であり、一定の説得力はある。しかしながら、これも論証としては弱いのではないか。
 女性の識字率が男性よりも低いというのは、あくまでも程度の問題であろう。清少納言が漢字を書いていたことを紫式部が批判していたことは有名であるが、清少納言の漢字の間違いをも紫式部は指摘しており、紫式部自身は殆ど漢字を使わない人間でありながら漢字の教養があった訳である。親鸞も産まれた時は平安時代である。
 「宮中で働いていたような女性と、関東で育った覚信尼は違う」と言ったところで、例えば関東育ちの北条政子の出した文書は私の知る限り仮名書きであったようであるが、では「北条政子は漢字を読めなかったのか」と言えば、恐らくそうではあるまい。漢文は読むよりも書くことの方が難しい文章であり、書かないからと言って読めない訳ではないことは、歴史研究者の多くが漢文を読めはするが書けはしないことからでも明白である。

 いずれにせよ、豅の説は偽作説でないと理解できないという論証とは言い難い。とは言え、確かにこの二点は偽作説の説得力を高める働きはする。
 そのことを踏まえた上で、次に豅が「偽作と考える最大の理由」について述べる。

 

三 覚信尼の信仰について

 豅は「仮に(覚信尼の)懇望があったとしても、親鸞が覚信尼にこれらを与えることはあり得なかった」と述べる。豅は親鸞から聖教を受け取った弟子が皆、親鸞の高弟たちであった事に触れた後「彼らと比較して、建長2年、27歳の覚信尼が「建長二年文書(「三夢記」)」『四十八誓願』の付属に価する親鸞高弟の専修念仏者であったと言えるだろうか」と述べている。
 そして『恵信尼書簡』の記述から覚信尼が親鸞の没後にその往生を疑っていたと分析して、「父の信仰・思想や行実に暗い娘の姿が浮かび上がってくる」「建長2年より12年後の弘長2年、39歳の時点においてすら、覚信尼には父親鸞に対してこの程度の理解しかなかった」

とし、「三夢記」には六角堂の救世菩薩から「臨終に引導して極楽に生ぜしめむ」との記別を授かったとの記述があるのに「父が観音の授記を受けたことを知っていた娘が果たしてその往生を疑うであろうか」と述べる。そして「実はこれが、筆者が「建長二年文書(「三夢記」)」を偽作と考える最大の理由なのである」とする。

 この「最大の理由」にこそ、私は疑問を抱いた。
 僧侶でもある豅には言うまでもないことであると考えるが、正しい教義を知ることと、正しい信仰を実践することとでは、天と地ほどの違いがある。我々は釈迦の教えを仏教の経典で知ることは出来るかもしれないが、釈迦と同じ悟りの境地には立てるかというと別問題である。
 「父親は極楽に行くと観世音菩薩に言われている」と聞いたからと言って「なるほど、父は極楽に行ったのか」と、いざ父親が没した時に思える人間は、極めて少数であろう。そして娘が「多数派」の「父親の往生を疑う」ような人間であったからと言って、親鸞は「私の教えにこの程度の理解しかないのか」と判断するような人物であったのだろうか?
 無論、親鸞は善鸞義絶事件でも明白なように、決して「身贔屓」するような人物ではなかったであろう。
 だが、私はそのような善鸞すらも親鸞は決して最初から「この程度の理解しかない」という態度を取らなかった、という事に注目したい。善鸞を最初は弟子として扱っていたからこその「義絶」である。恐らく他の(我が子を含む)弟子にも、親鸞は「この程度の理解」であるという理由で差別はしなかったのではあるまいか。そもそも豅の言う「この程度」が「父親が死んだ直後でも、その往生を疑わない」レベルであったとすれば、あまりにも厳しすぎるハードルであるように見えるのである。親鸞は自分の往生を信じるかどうかで弟子の信仰を判断していたのであろうか?「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」という親鸞の言葉からは些か想像しにくい親鸞像である。
 覚信尼は親鸞の教えへの理解が浅かったのではなく、自分の父親がいざ亡くなった時、親鸞を「師」ではなく「父」として見て、肉親の情が湧いたのではあるまいか。
 覚信尼が親鸞の教えについて「この程度の理解」であるから「三夢記」のような重要な文書を送られたはずがない、というような話を偽作説の「最大の理由」とするのは、根拠に乏しいだけでなく、父親が亡くなった時に動揺していたという程度のことで覚信尼の信仰を疑うのは、違和感を抱かざるを得ないのである。

 

まとめ

 「三夢記」に記された夢告のうち、少なくとも一つは史実であることを疑う人はいない。「三夢記」の内容には一定のリアリティがあり、そのことから私は「三夢記」の真作説に説得力を感じている。
 しかしながら、豅の指摘する通り親鸞が覚信尼に「三夢記」を送るという話にリアリティがあるかは、確かに議論の余地がないとは言えない。親鸞と覚信尼の住んでいる場所が手紙で伝えないといけないほど「遠方」であったのか、また、仮名書きの文書を多く残している親鸞がわざわざ漢文で記さないといけなかった理由は何か、と言ったことの議論は今後も必要であろう。
 一方で、豅論文の内容から「偽作説」の決定的な証拠が導き出されるか、というとそうではなく、その論点の多くは真作説でも解釈できる内容である。
 私は基本的にある文書が「偽作」かどうかの判断は慎重になる必要があると考える。全く荒唐無稽な文書であるならばともかく、「三夢記」のように一定のリアリティのある文書を安易に偽作扱いする訳にはいかないであろう。
 とは言え、「三夢記」のリアリティさについては覚信尼に関する研究の進展に左右される。古田学派の一員としてこの問題に引き続き関心を抱きつつ、私の疑問に答えてくださる方が出てくるのを待ちたい。

ⅰ 豅弘信(二〇一〇)「「三夢記」考」『宗教研究』八四ー三

ⅱ 豅弘信「「三夢記」考」真宗大谷派西念寺公式サイト
http://www.sainenji.net/kiyou005.htm、二〇二三年八月十一日閲覧

ⅲ 古田武彦(一〇七〇、新装版二〇一五)『親鸞 人と思想』清水書院

ⅳ 藤元雅文(二〇〇九)「『顕浄土真実教行證文類』(坂東本)の特徴についての予備的考察--専修寺本・西本願寺本との比較を通して」『真宗総合研究所研究紀要』二八


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