2023年8月15日

古田史学会報

177号

1,改新詔は
九州王朝によって宣勅された

 服部静尚
   編集後記

古田史学会報 177号 2023年8月15日

1,追悼  
「アホ」「バカ」「ツボケ」の多元史観
上岡龍太郎さんの思い出
 古賀達也

2,倭国と俀国に関する小稿
谷本論文を読んで

 日野智貴

3,朝鮮の史料『三国史記』新羅本紀の
倭記事の信頼性を日食記事から判定する

 都司嘉宣

4,男神でもあったアマテラスと
姫に変身したスサノオ

 大原重雄

5,「壹」から始める古田史学
吉野ヶ里と邪馬壹国
古田史学の会事務局長 正木 裕

6,「まちライブラリー」
大阪から東京へ

相模原市 冨川ケイ子

7,古田史学の会
第二十八回会員総会の報告
二〇二三年六月一七日
 エルおおさか
 (略)

 

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『日本書紀』の対呉関係記事 日野智貴(会報176号)

覚信尼と「三夢記」についての考察 豅弘信論文への感想 日野智貴 (会報178号)

『隋書』俀国伝の都の位置情報 古田史学の「学問の方法」 古賀達也(会報178号)../kaiho178/kai17805.html

倭国と俀国に関する小稿 谷本論文を読んで 日野智貴(会報177号) ../kaiho177/kai17702.html


倭国と俀国に関する小稿

谷本論文を読んで

たつの市 日野智貴

 谷本茂氏の未発表原稿「倭と俀の史料批判」を古田史学リモート勉強会で読ませていただいた。私の未発表原稿「『隋書』の「倭国」と「俀国」の正体」を読んでの追記もあり、その誠実な姿勢には心より感謝したい。
 なお、本来ならば一会員の立場で言うべきことでは無いのであるが、学問を志すものとして指摘させていただきたいことがある。私の論稿に正面から批判を加えた谷本論文が『古代に真実を求めて』において不採用となり、私の論稿に論点ずらしの残念な反応をした文章が会報に掲載された、という事実がある。古田史学の会の会報・論文集の編集担当者にもそれなりの考えはあると信じたいが、学問の深化と言う立場からは、先ずは「正面からの批判」をこそ取り上げるべきではあるまいか。学問のための諫言である故、僭越な指摘ながらもご寛恕願いたい(もっともそのような批判をしても会報に投稿するのは、編集部が私からの諫言にも耳を傾けてくださると信じているからである)。
 さて、このような前置きを書いたのは、未発表原稿とは言え谷本論文は明らかに会員全員によって関心を持つべき論点が含まれているからである。本稿は谷本論文が未発表原稿であるという点からその概要を紹介し反論を行うに留まるが、会の編集部の皆様には谷本論文を何らかの手段で公開するよう求めてやまない。

 

一、「俀」の字は存在したのか

 谷本論文は『史記』において「倭」と「俀」の文字が同一人物(魯国の宣公)に対して充てられている件について、「そもそも、『俀』という文字は古くから存在したのか?」という疑問を呈しておられる。
 その理由の一つは『説文解字』に「俀」の字が無いことである。無論、谷本茂氏もご存知の通り「なかったことは悪魔の証明」であって『説文解字』に無いからと言って不存在を証明は出来ない。しかしながら、今のところ「俀」には小篆等の古い字体が見つかっていない、という指摘は貴重なものである。
 こうした史料事実を踏まえて、谷本茂氏は「俀」の文字は西暦四世紀ごろから使用されるようになった可能性があることと『史記』が「倭」と「俀」とを意図的に使い分けたとする説には賛同し難いことを述べておられる。
 こうした谷本論文の内容は、「俀」を宣公の幼名とした古田武彦説や『史記』の内容を根拠に『隋書』における「俀」を「未熟な倭」の意味とした岡下英男説を否定するものである。
 私は『史記』の編纂時点で「俀」の字が用いられていたか、否かについては、現時点では判断するだけの知識が無いが、『史記』の場合は文脈からして「倭」と「俀」との使い分けがあったと判断するのは困難であるとも思う。その意味で、谷本論文の内容は極めて貴重な指摘であると考える。

 

二、「此後遂絶」問題

 これについては、古田武彦氏は「此後遂絶」と「後遂絶」の意味は異なり「此後遂絶」の場合はその記事が出た年代以降、その皇帝の治世においては朝貢が見られないという意味である、とした。
 これについては、谷本論文では「此後遂絶」ではなく「後遂絶」とある例でもその後に朝貢があった例は1件しかなく、従ってこの両者に有意な違いは見られないと論じておられる。
 確かに、私も率直に言って古田説はやや強引な解釈である気もしなくはない。ただ、やはり「俀国伝」には「此の」という風に直前の記事即ち「大業六年」の後であると明記されているのであるから、この「此の」という言葉に何らかの意味を見出そうとした古田説に一定の説得力を感じる。
 谷本論文は「此」や「其」のような指示語がある場合でもその後朝貢してきた例があるとするが、それはその皇帝の治世の中での朝貢であろうか?
 なお、南北朝時代には高句麗が南朝に「毎歳貢献」するような例があった。そのため「此後遂絶」と「後遂絶」の使い分けが必要であった可能性もあるが、その論証は現時点では出来ていない。
 現時点では谷本論文の方に説得力を感じるが、古田説も全く有り得ない仮説ではない、という風に判断したい。

 

三、「俀」と「倭」の区別の理由について

 谷本論文で私が残念であったことは、『隋書』の場合は『史記』の場合とは異なり、明らかに「列伝」では「俀」、「帝紀」では「倭」というような使い分けが行われているにも拘らず、その使い分けの理由について「考察を差し控える」としている点である。
 しかし、私が重視しているのはまさに「なぜ『隋書』の著者は『倭』と『俀』とを使い分けたのか?」と言う一点である。
 谷本論文の内容を要約すると「『隋書』が従来倭国であった国を『俀』と表記しておきながら別の国を『倭』を表記するのは紛らわしいことであり、考えにくい」というものである。しかしながら、それ以上に「同一政権」を「倭」と「俀」という風に同一の書物で使い分ける事の方が、私には考えにくい。
 仮に「倭」と「俀」とが同一国であるというのであれば、その様な仮説を唱える側に「なぜ同一国に対して表記の使い分けをするのか」という動機の解明をする必要がある。動機もなくその様な使い分けをすることは考えられないからである。
 特に『隋書』の場合は「俀国伝」だけでなく「百済伝」でも執拗に書き換えを行っている。そのような「執拗」な書き換えには必ず理由があるはずである。

 

四、私の未発表原稿への疑問点について

 なお、私は『隋書』における「倭国」について「伊予説」を未発表原稿で触れているが、谷本茂氏はそれについて『隋書』に「倭国」の風俗地理情報が無い以上、検証可能性に乏しいとしている。

 それは仰る通りであるが、私の疑問点は前述の通り「同一実体の政権に対して、用字の使い分けをする動機はあるのか?」という点である。
 谷本茂氏はこれについて「夷蛮伝は外交部署の記載に、帝紀は起居註の記載に、基づいた可能性がある」としているが、確かにその可能性はある。しかし、私は夷蛮伝と帝紀においてここまで執拗に使い分けをしていた例を他に知らないため、その可能性が高いとも言い難い。
 さらに言うと、その場合であっても「何故外交部署が『俀』と(公式な表記である『倭』から勝手に書き換えて)記録したのか」という問題がある。谷本茂氏は倭国(大倭)側の「タイヰ」又は「タイィ」の発音を「タイ」と記録した可能性もあるとするが、まず「大倭」を「タイィ」とは呼べない。「ヰ」と「イ」は全く別の音である。「タイヰ」が「俀」の下になったという仮説は確か古田武彦氏が提唱されたと思うが、「ヰ」と「イ」の違いを無視しても良いのであれば、古典作品には幾らでも「原文改訂」が可能となって仕舞う。『「邪馬台国」はなかった』で「邪馬壹」が「やまい」ではなく「やまゐ」であるとあれほど熱心に論証し、自身の仮説を「やまい」国説であると紹介した岩波書店に抗議すらされた古田氏らしからぬ説である。
 いずれにせよ、私の未発表原稿とそれに対する谷本茂氏の反論で示されたこの論点は古田説の是非にも関わるものであり、会員全員に対して読んでいただきたいものである。会の編集部には重ねて両稿の公表を求めたい。

 

五、野田利郎氏の問題提起

 さて、谷本茂氏は私が倭国の君主の姓の違いに触れたことも、検証可能性が乏しいとして退けている。それに触れる前に一度、私の未発表原稿の論点とも関係するので「倭国」と「俀国」の使い分けに関する野田利郎氏の問題提起を紹介したい。
 野田利郎氏は「隋書の『俀国』とは『倭国』を『不正に継承した国』である」という仮説を提唱している
 私がこの仮説に注目したのは、どうして『隋書』が「倭」を「俀」としたのか、という問題について一つの回答を与えるものであるからである。
 もっとも野田氏は私とは違い、『隋書』の中の倭国と俀国とが同一実体であるという仮説である。しかし、同一実体であると言うのであればなおのこと「どうして別の国名に改訂されたのか」の説明が不可欠であり、それを「大倭」が「俀」になったというような、音韻上考えにくい話よりも、政治的な意図があったとする野田説の方に説得力があると言うべきではあるまいか。
 その観点から言うと、私は倭の五王時代と多利思北孤時代で倭国(俀国)の君主の「姓」に変更があることに注目せざるを得ないのである。
 具体的に言うと『宋書』では倭国の君主の姓は「倭」である。対して『隋書』では俀国の君主の姓は「阿毎」である。さらに同一の作者が執筆した『南史』と『北史』においては、『南史』「倭国伝」では「倭」を姓とし、『北史』「俀国伝」では「阿毎」を姓としている。『北史』と『南史』の著者が同一人物である以上、彼は「姓が『倭』の君主の時は『倭国』、姓が『阿毎』の君主の時は『俀国』」と表記する方針を持っていたと推察するのは、合理的な推論であると考える。
 さらに興味深い事実がある。『新唐書』「日本伝」では大和朝廷の天皇の姓も「阿毎」としているが、ご存知の通り大和朝廷の天皇は「無姓」だ。一方『北史』では卑弥呼も「俀国」の君主として扱われているが、卑弥呼に姓があったという記録は無いから「無姓」だったのだろう。そう、「無姓」の氏族でかつ中国側から「阿毎」姓と記録されることもある、という点で大和朝廷の天皇と俀国の君主とは共通点があるのである。
 そのことは「神武天皇は九州から来た」とする大和朝廷側の伝承と対応するのではないだろうか。なお未発表原稿で詳述したが、『魏志』「倭人伝」には「倭載」という「倭」姓の人物が存在し、かつ、彼が王族ではないことも注目されるべきである。元々「倭」姓は倭国の君主の姓ではなく、倭の五王期が言わば「例外」的な状況であった可能性がある。

 

終わりに

 私も谷本氏も元々は論文の形態で論じていたので、その内容は容易に要約が出来ない。お互いの論文が発表される日が来ることを願いたいが、しかし待つばかりでは性に合わないので、ここで私と谷本氏の間の論点を提示し、皆様の批判を仰ぐことにした。
 谷本茂氏が正面から私の仮説を批判してくださったことには、心より感謝と敬意を示させていただきたい。また、私による谷本説の要約が適切であるとは元より思っていないので、谷本茂氏からの再度の批判、反論、説明等をお願いしたい。
 同時に、皆様からも忌憚のない正面からの批判をお願いし会報に投稿する次第である。最後になったが、会の編集部に対して若年にも拘らず激しい批判を加えた私の未熟さをご寛恕いただけるよう祈る次第である。

①拙稿(二〇二〇)「文献上の根拠なき「俀国=倭国」説」会報一五六号
②古田武彦(一九八八)「古典研究の根本問題」『古代は沈黙せず』所収
③岡下英男(二〇二一)「何故「俀国」なのか」会報一六四号
④古田武彦(二〇〇七)「田口利明『九州王朝と日本の古代』を読む」『なかった』第三号
⑤古田武彦(二〇〇九)「時の止まった歴史学―岩波書店に告ぐ」会報九五号
⑥野田利郎(二〇一九)「『史記』の中の「俀」」会報一五二号


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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