2023年2月14日

古田史学会報

174号

1,菩薩天子と言うイデオロギー
 日野智貴

2,九州王朝都城の造営尺
大宰府政庁の「南朝大尺」
 古賀達也

3、舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地
 白石恭子

4,九州王朝万葉歌バスの旅
 上田武

5.「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ
古田史学の会事務局長 正木裕

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「壹」から始める古田史学・三十八 九州万葉歌巡り 正木裕(会報172号)

YouTube講演盗まれた筑紫の万葉歌 -- 舞台は大和・飛鳥などに変えられていた 正木裕
・万葉の覚醒〔参考)
第二百三十五歌と第二百三十六歌 二百四十一歌 そして二百五歌:
これらの歌は大和で天皇家に奉(たてまつ)られた歌ではない
皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも


九州王朝万葉歌バスの旅

八尾市 上田武

 十一月十六日~十八日の二泊三日で福岡~大分の九州王朝ゆかりの万葉の歌垣をめぐる「九州王朝万葉歌バスの旅」に参加。現地に残る九州王朝と弥生の息吹を、しっかりと感じることが出来たので報告する。
 全国旅行支援事業の適用を受けるための陰性証明書を、前日の夜十時にようやく送ることが出来、安心して速攻で就寝。翌朝は5時に起き新幹線で、なんとか集合場所の博多駅ひかり広場にたどりつく。集合予定の午前十時に参加者二十五名がそろい、ツアーのバスに乗る。こうして始まった九州万葉の旅。正木氏のバスの行路に沿った九州王朝ゆかりの万葉歌・由緒の解説のほか、道路標示や学校や広告看板など、とにかく神話を想起させる地名が次から次に普通に出現する。まさに「解説しきれない」高密度で、神話のふるさとまっただ中にいることを感じた。
 最初のポイントは糸島半島の「二見浦」。これは伊勢の二見浦とそっくり。というか、こっちがオリジナルなのか。道が狭くバスが止まれなかったのもそっくり(笑)。観光客もおり、カフェなども並んでいるが、もっと知られてもいい。夫婦岩も、こちらの方が立派で、さぞや夕日を長く楽しめる事だろう。
 ここで糸島半島と二見浦ゆかりの万葉歌の紹介があった。
 ・神風かむかぜの 伊勢の海の 大石にや い這い廻もとほる 細螺しただみの 細螺の 吾子あごよ 吾子よ い這い廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ(書紀神武歌謡 久米歌)

 糸島の加布里湾岸には「伊勢」地名があるが、消滅寸前だという。また、『書紀』に、伊都の県主の祖先の「五十迹手いとで」が神功皇后から「伊蘇志」の名をもらい、これが「なまって」伊都に転じたと書かれているとの説明があった。
 次は、怡土平野高祖山麓の染井神社の「染井の井戸」に向かう。伝説では、神功皇后が出征前に、この神社の井戸で鎧や旗を洗ったところ、緋色に染まり、新羅との戦の必勝を告げたという。この井戸に由来すると思われる万葉歌がある。

それは、
 ・山辺の 五十師の御井はおのづから 成れる錦を張れる山かも(万葉三二三五 詠み人知らず)だ。

 伝承では緋色に染まった鎧や旗を「裏山の松に掛けた」という。そうであれば、意味不明だった「成れる錦を張れる山かも」の部分の説明もでき、また、所在不明だった「五十師の御井」は「染井の井戸」のことで、「山」は高祖山となる。
 また、隼人討伐に派遣された「長田王」が、神功皇后の故事に習い必勝祈願に神社と井戸を訪れ、斎宮と 出会い、その際に詠んだと思われる歌の解説があった。 
 ・山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども あひ見つるかも(万葉八一、長田王)
 井戸の所は駐車場もなく、観光地という雰囲気は全くない。碑や鳥居の額も、古い。方々苔むしている。ただ、井戸を囲う玉垣が二重になっていて、石柱に「けがれの者入るべからず」、などと書いてあるところなどは、アンタッチャブルな雰囲気で、大事にされている場所なんだろう。お隣のお宅の御老人が色々説明してくれて、鎧を掛けたという場所も教えてくれた。
 道路に出ると、可也山がきれいに見えた。富士山みたいだと思ったら、実際糸島富士と言うそうだ。また、遠目に見える「雷山(標高九五四m)」の説明もあった。柿本人麻呂の万葉歌に「大君は 神にしませば」とあるが、古田説では「現人神」の意味でなく、「死んで祭られている」ことを指し、山頂には「石の宝殿」という祠もある。つまり「雷山」は「死んで神になった歴代の九州王朝の王たち」の墓地とするとのこと。
 ・大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵りせるかも(万葉二三五、柿本人麻呂)

 筑紫雷山は厳しい稜線で、ぱっと見にも険しそうだが、行かれた方によると、実際軽自動車でやっと、それも登山口までで、神社までは相当の難路の由。見た目にも壮大で、「霊山」の風格あり。以前行った飛鳥(奈良)の「雷丘」の記憶が、とってもしょぼくなってしまった。
 次は、伊都国歴史博物館。平原遺跡は「女王のお墓」ともいわれている。見学の前に、ファームパーク伊都国交流室でお弁当を頂いた。部屋には、平原出土で我が国最大、直径約四十六 ㎝の内行花紋鏡のレプリカが置いてあった。「八咫鏡」の咫あたとは、親指と人差し指で測る長さで約十六~十七㎝という。鏡の円周はその約八倍だから八咫。実際に、尺取り虫のように指を広げてやってみた。ぴったり八回。なんかうれしい。


 博物館では、三雲南小路発見二百年と言う事で特別展もやっていて、展示品の充実度が凄かった。平原王墓の出土当時を再現した展示があったが、服部氏によればそのままかどうかは怪しいとのこと。確かに、置かれている破砕した鏡の数が、少ない感じ。展示を見ながら、かねて思っていた疑問がまたムクムクと。どうして「ここが邪馬台国!これが卑弥呼!」などと売り出さないのだろうか?いや、別に過度に商業主義に走るのが良いと言っているわけではない。もっと素朴に、こんなに立派な女王の墓が、相当な規模の「クニ」ごと出土しているのだから、郷土の誇りとして胸を張って良いのではないだろうか。九州の人達は、控え目なのか、それとも、「大和説」の学者に反旗を翻すのが怖いのか。
 残念ながら、三雲、井原、平原遺跡を見学する時間が無く、糸島(伊都国・志摩国)に別れを告げ、「日向峠」を通って「高祖山地」を越え、「弥生の風公園(福岡市西区吉武)」へと向かう。高祖山には「くしふるやま」があったと黒田家文書に記され、『古事記』で邇邇芸命が「天孫降臨」した「筑紫の日向」こそ、日向峠のある高祖山地一帯だという。
 ・筑紫の日向の高千穂のくしふるたけに天降りましき(古事記)

 結構な坂で、耳がおかしくなる。少しゆるんだところに「日向峠」の碑があった。例によって停車する場所もなく、碑は靜かに佇んでいる。「日向」は、『記紀』や祝詞の「ひむか」ではなく、「ひなた」と呼ぶのが古形だとの説明。ウイキペディアで「宮崎県の日向」には、神話のことが一杯書かれているのに、「日向峠」の項には何も書かれておらず、一般には「降臨の地」として全く知られていない。でも、周囲の遺跡群や、邇邇芸・日子穂穂出見らゆかりの、地名・多くの神社・古跡から、こここそ神話のスタート地点なのは誰が見ても明らかだろう。
 ようやく「降臨の地の碑」にたどり着いた!と思っている間に、道はすぐに下り坂になり、「日向峠」との短い出会は終わった。次は、日向峠の東、吉武高木遺跡だ。現在は「弥生の風公園」として整備されており、その名前は市民に募集した中から選ばれたものの由。さだまさしの「邪馬臺」という歌に「弥生の風」というフレーズが出てくる。宮崎康平が亡くなったときに作られた追悼の歌で、中々の名曲だ。そこで早良王国研究会会長の川岡保氏が出迎えて下さり、公園のしおりを頂いた。ご自分では「漢の劉氏の子孫」と言っておられた。光武帝の金印を運んできた人の末裔だとのこと。ここまでの神話の旅を経れば、普通にありそうな話と感じる。公園は一面芝生で、広々として風が気持ちよい。発掘や保存の動きが鈍いと言われる九州だが、こうして広大な土地ごと保存されるのはとても良いことだと思う。近くにある吉武大石遺跡は、戦死者の集団墓地のようで、被葬者の体内に石鏃が残っていた。これは、石鏃文化人と青銅器文化人の戦いを示すものという。侵入者である青銅器文化人は勝利し、弥生文化の初期の担い手となった、そして、それこそが神話に語られる天孫族ではないか、との説明だった。激しい戦闘の結果が神話になったのかもしれない。

弥生の風講演
弥生の風公園〔背後の山は飯森山)

 川岡さんと別れ、油山(標高五九七m)中腹の展望台へ。この油は、椿油ではないかと指摘があるそうで、展望台に着くと、椿の木が植えられていた。福岡市街と博多湾を一望する絶景。都市部の上を飛行機がのんびりと上っていくのが見える。以前から九州に感じていた、おおらかでのどかなイメージが、また強く湧いてきた。時間が遅くなったので奥にある「海わたつみ神社」には行かず、太宰府にある一日目の宿に向かう。夜は、万葉歌の会に入っておられる方が、メロディをつけた歌を披露してくださり、盛り上がった。
 二日目は、まず「水城跡」に向かう。
 出発時に人数チェックをしていたのだが、どうしても一人足りない。「自分を数えてないんちゃう?」の声。その通りでした。期せずして笑いを取ってしまい、恥ずかしい。
 到着して正直驚いた。ちょっとした丘ぐらいの高さである。下から全部版築で築かれたと聞き、更に驚いた。中世の城郭でも土塁だけでこの高さはそうそう無い。それが、石垣の支えもなく千数百年後の今まで現存するのは恐れ入る。私は八尾在住なので、高安山も近くにあるのだが、中大兄皇子が造ったと言われる高安城は、何も残っていない。坂を上って眺めてみると、また驚いた。本当に延々平野を遮断するようにこの水城が続いているのである。言い訳めくが、結構なお城マニアな私も名前しか知らなかった。雑誌や本などのお城特集でも見たこと無かった。やっぱり勿体ない。昔シミュレーション物のSFで、倭国(卑弥呼か、その後継王国だったと思う)が、大陸から攻め込んできた敵を一掃する話があったが、正直話が大きすぎてあまりイメージできなかった。しかしこれに水を溜めて決壊させれば、大軍でも全部押し流すことも可能だろう。当時の技術の粋を集め、大変な人手もかけて造られていることは確かだ。いくら大陸の玄関とは言え、「大和の王」が、奈良から僻遠の九州に、こんな巨大なものを造ったとするのは無理がある。周囲に山城・土塁も現存し、そこまでして守るべきものはと言えば、答えは「倭国王都」一つしか無い。水城跡の、元は大きな堀だったところは、見渡す限りコスモスが咲き、今やわずかにそうした「古代の兵達の夢の跡」をとどめるばかりとなっている。
 次は、太宰府政庁跡だ。看板・道路標識・学校、そこら中「太」字の「太宰府」だらけで、嬉しくなる。ただ、公園の案内板は「大宰府」。これが通説というのだが、地元で言い習わされてきて、行政すら「太」を採用しているのだから、無視すれば良いのに。中へ入り皆で記念撮影。政庁跡(二期とされる)は東西約百十二m、南北約二百十一mで、私にはとても大きく感じたのだが、後代の国衙に比べると格段に大きいわけではないそうだ。通説では八世紀の造営とするが、九州王朝説では二期は六七〇年代で、一期はそれを遡るという。太宰府政庁が大宝律令より後なら、水城は何を守るのか?矛盾だらけなのだが、「太宰府」には「大」の字を使えとか、奴国を「なこく」と読めという通説の学者は、一向に説明してくれない。困ったものである。ともあれ、奈良の平城京跡が長らくほったらかしだったのを思い起こせば、これだけの広い土地がきれいに整備されているのには、地元の熱意が窺えてうれしい。
 次は、観世音寺。国宝の鐘は、九州歴史博物館に展示されており「留守」なのだそう。寺門の礎石や僧坊跡、現存する日本最古と言われる石臼の「碾磑」などを見る。碾磑は、「丹(朱)」をこれで造ったとのではないかと説明があった。上と下とで溝目の方向が合わないので、別のものを組み合わせたのではとのこと。お寺の小さな博物館を見て、次は太宰府天満宮。
 天満宮の本殿は参拝客が一杯。祭壇には、八咫の鏡と同サイズの大きな鏡が祀ってある。何故菅公が天神なのかよくわからないが、受験生で大繁盛。神主さんのお祈りを入れ替わり沢山の人が受けていた。付属の遊園地まであって、手広い。旅行後大々的な改修事業が発表されたようだが、まあ結構なことである。梅林前の食事場所、中神茶屋に行くと、ツアーの仲間から梅が枝餅がふるまわれ、皆でご馳走になった。茶屋での昼食にも出てきて、梅が枝餅でお腹一杯になる。
 食事後は、太宰府天満宮が土地を提供したと言う九州国立博物館へ。建物は龍を模した巨大な建物で、相当な公共事業である。広いスペースに、大きなガラスケースに収められた展示物が、ぽつりぽつりと置かれていて、美術館みたいだが、その時代の空気が伝わってこない感じがした。ケースに手をつくと、制服の女性に触らないで下さいと注意された。展示物に、観世音寺の鐘があり、三年ぐらいはここにあるそう。鐘って実際毎日鳴らしてなんぼのもんだとおもうが。方々の埋蔵物が遠隔地に収蔵され、現地で見られないケースがほとんどなのは残念なことで、何とかしてほしいものだ。
 博物館で、須久岡本の南の方にお住まいのご夫婦と知り合いになり、色々と解説して頂いた。須久岡本あたりが「絶対邪馬台国だ」と思っておられるとのこと。思い切って「どうして九州の皆さんは、自分たちの住んでいるここが邪馬台国だとか神話の故郷だとか言わないんですか?古いところ一杯あるし、もっとアピールしてもいいですよね。」と聞いてみた。すると、「いや、勿論九州には、そう思ってる人は沢山いますよ。ただ・・・やっぱりマスコミの責任は大きいと思います。近畿説に都合の悪いことは殆ど報道してくれませんから」。「地元でもそうなんですか?」。「はい。例えば牛頸の土器工房跡だって全然報道されませんでした。」と言われる。なるほど、そうなのか。
 その後、バスは朝倉の「麻氐良まてらふ神社」を目指す。祭神の一人が明日香皇子とのこと。万葉歌の「明日香」にも、筑紫朝倉周辺の事を詠んだものが沢山ある由。九州には明日香まであるのかとまた可笑しくなる。ところが、「道が狭くてこれ以上進めません!」それまで数々の神業でみんなをうならせていた地元の運転手さんが言うのだから間違いはないだろう。狭いスペースでこれまた神業Uターンで引き返す。『書紀』斉明紀に「朝倉宮」があると記すが、まだ発見されていない「幻の朝倉宮」となっている。謎だ。朝倉と別れて、高速に乗り二日目の宿の別府を目指す。途中から下道に降りて湯布院温泉を通る。人気の温泉だが、まだ観光客は少ない。途中由布岳を見る。一帯は木がなく、火山地帯っぽい。そして峠を越え、湯煙の町別府に到着。宿は、駅前のホテル。夕食は少し歩いた「食事処とよ常」。豪華すぎたが、長い交流の宴の時間のアテにはもってこいだった。初対面の方同士でも、口々に今回の旅行は楽しかったと、それぞれの自説を披露され大変な盛り上がりだ。中には壮大な怪説?まであり、まあ諸説ありという事にしておく。とにかく、面白かった。宿に帰って世界一?の別府温泉の湯に浸かり、疲れを癒やした。
 三日目の朝は、鶴見岳に登る。ここも火山で、『鶴見山神社由来記』には、「山霊の神とは火の神、火結御霊神ほのゆいにがみと知られたり。(略)火結御霊神の御体より成り、天の香具山を初め、岩群木草海水の底に至るまで火を含まぬものなし」とあるそうだ。中々猛烈だが、そんな伝承があるからには、有史後にも噴火があったのだろう。

 ・大和には 群山むらやまあれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原くにはらは 煙けぶり立ち立つ 海原うなはらは 鴎かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島大和国は(万葉二、舒明天皇)

 この変な歌は、舒明天皇が大和三山の天香具山に登ったときに詠んだとされる。「煙立」は炊事の煙というが、そんな目に見えるほどではない。まして海原とか鴎とかが見えるはずもない。
 一方、鶴見岳の神社の祭神は、「迦具土かぐつちの神」。上述の由来記にはずばり天香具山とあり、この麓には沢山の「温泉の煙」と、「カモメの飛ぶ海」があり、至極当たり前の歌になる。鶴見岳から国見をすれば、中々の絶景で、気宇壮大でもある。私が以前来たときは、温泉の湯煙が町中から立ち上っていて壮観だった。
 ロープウエイは千三百mを十分で登ってしまう。霧が出るとのことだが案の定途中から白い世界になっていく。頂上駅はもう五里霧中状態。別府が一望できるという展望台にも行ってみたが、視界は全くなかった。残念至極と駅に戻ると、急に晴れてきて、ロープウエイの時間ぎりぎりに由布岳が快晴の中顔を出し、歓声が上がる。みんな手に手にスマホで記念撮影。天香具山の神様が少しだけ微笑んでくれたんでしょうか。「もっとアピールしてね」、と。万葉歌がまた始まり、朗々と歌声が響く。
 また福岡に戻り、宗像大社に向かう。残念ながら改修中で見学は出来なかったが、そのそばのホテルで昼食。これもまた美味。それから宮地嶽神社へ。ここも不明にしてあまり知らなかったのだが、とても重要なところだそうだ。九州出身の人の話でも、多くの人がお参りに行くのは、一番に大宰府天神とここ宮地嶽神社だそうである。石段を登ると、みんな振り返っている。見ると、これが素晴らしい。鳥居の外に参道が続いており、そのまままっすぐ向こうに海が見える。いかにも「海から来ました」という形である。嵐がCMでやっていたとのことだが、それも知らなかった。年二回、光の道がこの参道を照らすのだとか。全国区で有名な寺社は沢山あるのだが、関西在住のせいか、ここは多分そこまでじゃない気がする。勿体ない。後で聞いた話では、ここの神主さんは九州王朝論者で、世界遺産の打診も断ったのだとか。本殿に行くと、日本一と書かれた太鼓や鈴があった。大きなしめ縄は出雲大社より大きい気がする。想像以上に格式が高い。道々の八つの神社を横目に見ながら奥之宮三番社「不動神社」へ。神社と言いながら、古墳の石室をそのまま神社として祀っている。こんなのは見たことが無い。石室までの横穴がまた、長い。ここもやはり八咫サイズの鏡。外には、ここから出土した豪華な刀や馬の鐙の写真の看板があった(刀は再現品だそうです)。そして、これもまた、実物は九州歴史博物館行き。ちょっと気が抜ける。返還請求しているそう。「筑紫舞」の披露も定期的におこなわれ、何か出来すぎなぐらい立派な神社だった。神主さんが大王様のお墓と言いたくもなろうもの。旅行の翌週に、ここで将棋の竜王戦が開催されたそうだ。

宮地嶽神社
宮地嶽神社奥之宮三番社「不動神社」

 帰りに松ヶ枝餅という看板を見てちょっと笑った。でも実はこちらの方が梅が枝餅より古い由。
 最後の見学場所である福岡市埋蔵文化財センター(博多区井相田)に到着。ここも埋蔵物が一杯で、古代の空気が濃厚に漂っている。壁の説明のパネルも、この辺り一帯の遺跡の大きさなど色々説明されていて、わかりやすい。やっぱりこうでなくっちゃ。ここは比恵・那珂遺跡群の展示が主で、旧石器時代、縄文時代の狩猟の石器が出ているそうだ。そして、弥生期は、多分日本最古と思われる環濠跡が見つかったとの事。朝鮮から伝わって、それから九州全域に広がっていったのではないかと推測されているそうだ。学芸員さんが丁寧に対応して下さり、いろいろと説明して頂けた。皆さんも張り切って質問攻勢をかけていた。比恵・那珂遺跡の展示の所で、遺跡の古さの話になり、土器編年が正確なので、炭素同位体による測定は二例ほどしかないとのこと。そこで、水城の年代に質問が飛んだ。「年代測定値が最下層の二四○年から少しずつ新しくなって、一番上が六六○年なのに、どうして白村江敗戦後の六六四年の建設にするのですか?」と何度も質問しているうちに、最後は「そうなっているのでそうなんです‥。」と、お困りのご様子でした。
 個人的に感動だったのだが、日本一の難読地名という「雑餉隈ざっしょのくま」は、自分に取り謎の場所だった。ところが、センターへの道々に月隈・金隈という「隈」地名があり、最寄り駅が雑餉隈だったのは“大”発見。太宰府に向かう人々向けに店が建ち並び、また役人達の住居もあったのではないかと言われている所だ。須久岡本にも近く、相当古くから人の流れがあった所なのだろう。
 そして、バスは博多駅へ到着。行程も中々の密度で正直疲れたが、それ以上にこの筑紫の地の歴史の密度に圧倒された。心地よい疲労と興奮が残っている。他の参加者の方々も、皆さん満足そうな笑顔でお別れした。この旅で、改めて思ったことは、「勿体ない」という事だ。今も生きているこんな歴史の豊穣を「通説」のせいで隅っこに追いやってしまって良いわけはない。九州には、他にも歴史史跡や見るべき場所は数え切れないくらいあるそうなので、ぜひまた、二度目があれば参加したいと思った。

 

Y0ouTube講演

盗まれた筑紫の万葉歌 -- 舞台は大和・飛鳥などに変えられていた 正木裕

・万葉の覚醒〔参考)
英文解説:
第二百三十五歌と第二百三十六歌 二百四十一歌 そして二百五歌:
これらの歌は大和で天皇家に奉(たてまつ)られた歌ではない
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jsumerog/jsumero1.html

皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jsumerog/jsumero4.html

み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


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