2021年 8月11日

古田史学会報

165号

1,本薬師寺は九州王朝の寺
 服部静尚

2,明帝、景初元年短里開始説の紹介
 永年の「待たれた」一冊
 『邪馬壹国の歴史学』
 古賀達也

3,九州王朝の僧伽と戒律
 日野智貴

4,「壹」から始める古田史学・三十一
多利思北孤の時代Ⅷ
「小野妹子の遣唐使」記事とは何か
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期 古賀達也 (会報162号)
書評 荊木美行『東アジア金石文と日本古代史』斜め読み 古賀達也(会報167号)

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明帝、景初元年短里開始説の紹介

永年の「待たれた」一冊 『邪馬壹国の歴史学』

京都市 古賀達也

一、はじめに

 二〇二〇年十一月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー二〇二〇)で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〟というテーマを発表されました。福岡市の比恵・那珂遺跡の紹介など多彩な研究成果や新情報が紹介され、好評を博しました。
 その質疑応答において、魏朝で短里が使用されたのはいつからかという質問に対して、明帝の景初元年(二三七)ではないかと正木さんは回答されたのですが、それには史料根拠がなく、論証されていないとする批判が出されました。時間がなかったので、わたしは発言しませんでしたが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が既に景初元年短里開始説を論証し、論文発表されていることをご存じないようでした。良い機会ですので、同説の発表経緯も含めてあらためて紹介することにします。

 

二、発端となった正木さんの報告

 ことの発端は、約六年前の「古田史学の会」関西例会(二〇一五年一月一七日)での正木さんの発表〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟でした。そのとき次のような論議が行われました。
 正木さんは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。そして、魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が参加者から出され、西村さんが「暦法を周制に変更した明帝ではないか」とする見解を示されました。


三、『三国志』長里混在のケース

 正木さんは『三国志』に長里が混在する可能性があるケースとして次の諸点をあげられました(古賀からの追加例を含む)。

(1)二定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない里数値の場合。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。

(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合。

(3)長里により成立した成語の場合。短里による成語である「千里の馬」(一日に千里走る名馬)とは逆のケース。

(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録。

(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 これらのケースでは長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は公認の短里で『三国志』を編纂するという姿勢を貫いたはずです。長里記事をどのように引用・記載するべきか、編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。

 正木さんからの、『三国志』長里混在の可能性という問題提起により、魏朝での短里採用時期へと論議は進展しました。

 

四、青龍四年(二三六)の長里記事

 具体的には、次の記事の「三百餘里」を長里ではないかとされました。
 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)
 この「三百餘里」(注)が記された部分は王昶おうちょうによる上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないとしたのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 そこで『三国志』を調べたところ、明帝は景初元年(二三七)に景初暦を制定したようですので、このときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(二三六)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。すなわち、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。
 こうして、景初元年短里開始の〝状況証拠〟が確認されたことにより、関西例会の研究者は電話やメールで情報や意見交換を進め、論証方法の検討に入りました。

 

五、西村説「短里と景初」の画期

 誰が最初に論証に成功するだろうかと注視していたところ、その翌月の関西例会(二〇一五年二月二一日)で西村さんが〝短里と景初〟というテーマを発表をされました。
 西村さんは、魏朝における長里(約四三五m)から短里(約七七m)への変更時期を明帝の景初元年(二三七)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』文帝紀延康元年(二二〇)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、その後、明帝の景初元年に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
 そしてこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入し、それを検証されました。

〔作業仮説〕

1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。

2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。

3.その換算方法として、たとえば千里や百里の場合、約六倍(四百三十五÷七十七=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。(古賀注:千里とか百里のような「丸められた」数値にかけ算して出た端数は数学の有効桁数としては意味がありませんから、陳寿は「数千里」「数百里」という概算値表記にしたものと思われます。)

4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。

5.この作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有意の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有意の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕
1.『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
◆漢(長里使用)
 21.3%(四七例中十例)
◆魏 景初元年より前(長里の時代)
 37.5%(十六例中六例)
◆魏 景初元年以後(短里の時代)
 5.3%(三九例中二例)←激減する!
◆蜀(長里使用)
 33.3%(九例中三例)
◆呉(長里使用)
 40.4%(十例中四例)

2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。

3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要がなかったと考えるのが妥当である。

4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。

5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

 以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この視点と『三国志』の「里」全数調査により明らかとなった景初元年を境とする〝有意の差〟は、景初元年短里開始説を強く指示しています。これは見事な証明方法・調査結果だと感服したことを憶えています。

 

六、永年の「待たれた」一冊

 この西村論証は論文「短里と景初―誰がいつ短里制度を布いたのか―」として、古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、二〇一六年)に収録されました。同書は服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判―フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田説はなかった」―いわゆる「学会の専門家」がこの四~五十年とりつづけた〝姿勢〟である。

 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学―「邪馬台国」論争を超えて』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。
 〔中略〕
 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、情報が、生きはじめるのである。
    四
 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。
〔令和二年(二〇二〇)十二月九日校了〕

(注)正木さんの説明によれば、襄陽から宛までの距離は次の通り。
〝「宛」は宛城区(河南省 南陽市)で、襄陽市から「直線距離」で約一二〇㎞ですから一里四三〇mの長里で三百里ということになります。〟(フェイスブックでのコメント)

 

《追補》

波多野精一氏と古田先生の縁えにし

 『邪馬壹国の歴史学』の巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判―フィロロギー〟によれば、古田先生はお亡くなりになる二ヶ月前に波多野精一氏の『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでおられたようです。
 歴史学の先達のお名前は、古田先生からお聞きすることはよくありましたが、哲学者として高名な波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません。ですから、巻頭文の終わりに突然のように記された波多野精一氏やその著書『時と永遠』を意外に感じました。そのことが気になり、波多野氏のことを調べてみたところ、古田先生と不思議な御縁があることを知りました。ウィキペディアには次のように紹介しています。

【フリー百科事典『ウィキペディア』】
 波多野 精一(はたの せいいち、一八七七年七月二一日~一九五〇年一月十七日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第二代学長。
 西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙、安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎、小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。
 古田先生の恩師の村岡典嗣先生の早大時代の先生が波多野氏だったのでした。そうすると、古田先生は波多野氏の孫弟子に当たるわけです。また、同略年譜によれば、長野県筑摩郡松本町(現:松本市)生まれとのこと。偶然かもしれませんが、古田先生が松本深志高校で教師をされていたこともあり、不思議な縁を感じました。
 恐らく古田先生は波多野氏が村岡先生の恩師だったことをご存じのはずです。水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、二〇一八年)には、「村岡は、早稲田大学にて波多野に出会い、そして終生、篤く敬慕した。村岡にとっての波多野は、大学時代の一教員には止まらず、学問に挑む姿勢から方向性の指導、そして実際の生活についての支援まで、生涯にわたって支えられた人物となっていく。」とあり、恩師を慕う気持ちと学問精神が引き継がれていることに感銘を受けました。

 なお、村岡先生は終戦後すぐの昭和二一年(一九四六)四月に六一歳で亡くなられ、波多野氏は昭和二五年(一九五〇)に亡くなっておられます。波多野氏の晩年の著作『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を古田先生がご逝去の直前に読んでおられたことにも、学問が繋ぐ不思議な縁を感じざるを得ません。


 これは会報の公開です。

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