2020年 2月12日

古田史学会報

156号

1,神功紀(記)の
「麛坂王(かごさかおう)・
忍熊王(おしくまおう)の謀反」
 正木裕

2,九州王朝の「都督」と「評督」
 古賀達也

3,文献上の根拠なき
 「俀国=倭国」説
 日野智貴

4,卑弥呼のための舶載鏡
 大原重雄

5,梅花歌卅二首の序の新解釈
 正木裕

6,書評
小澤毅著
『古代宮都と関連遺跡の研究』
 古賀達也

7,「壹」から始める古田史学
 ・二十二
 磐井没後の九州王朝2
古田史学の会事務局長 正木 裕

8,【令和二年、新年のご挨拶】
「古田史学の会」の事業にご協力を
古田史学の会・代表 古賀達也

9,割付担当の穴埋めヨタ話
『太平記』の中の壬申の乱

編集後記

 

古田史学会報一覧
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「船王後墓誌」の宮殿名 -- 大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か(会報152号)

九州王朝系近江朝廷の「血統」 -- 「男系継承」と「不改常典」「倭根子」(会報157号)


九州王朝の「都督」と「評督」

京都市 古賀達也

一、東京講演会での質問

 二〇一九年九月十六日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場から次の二つの質問をいただきました。
①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

 講演会では会場使用の締め切り時間が迫っていたこともあり、丁寧な説明ができず、不十分で不正確な回答となってしまいました。その後、質問内容と自らの回答の当否が気になっていたため、検討を続けてきました。その結果、九州王朝(倭国)における「都督」問題について新たな可能性に気づきましたので、回答の修正と新たな認識について報告します。

 

二、評制開始は七世紀中頃

 「評制の開始時期はいつ頃か」の回答として、七世紀中頃、より正確には六四八~六四九年頃としました。このこと自体は妥当な見解ですが、その根拠として「七世紀中頃に評制が全国的に開始されたとする史料が十点くらいある」と説明しました。しかし、これはわたしの思い違い
でした。ある地域の「建評」記事が記された史料を加えればそのくらいはあるのですが、全国的な評制開始と解しうる記事は管見では次の五史料でした。詳細は「洛中洛外日記」一五七三話(2018/01/13)〝評制施行時期、古田先生の認識(9)〟をご参照下さい。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)
「難波朝廷天下立評給時」
 難波朝廷(孝徳期、七世紀中頃)が天下に評制を施行(立評)したと記されています。

②『粟鹿大神元記』(和銅元年・七〇八年成立)
「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」
 この記事の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とあるが、七世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。

③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
「昔難波朝廷。始置諸郡」
 「諸郡」とあるが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。

④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 「郡領」とあるが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとあり、その実体は「評領」あるいは「評督」となります。

⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還このかたの譜第重大なる四五人を簡えらひて副ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたもの。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて、「評」を「郡」と書き換えているケースが多いのですが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということです。それ以外の時期に全国的に「評制」が開始されたとする史料は見えませんから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ません。
 先に述べたように、ある地域における七世紀中頃での「建評」記事はこの他にも散見されますが、そうした地域限定記事を全国的「評制」開始時期の根拠とすることはできません。全国的「評制」開始時期よりも遅れて置かれた「評」が諸史料に散見していますから。

 

三、『二中歴』「都督歴」の証言

 二つ目の質問「都督は評督の上位職位か」について、わたしは用語としての「評督」の淵源として「都督」があり、両者の関係は認められるが、職掌としては「都督」は「評督」の上位職ではないと返答しました。
 このときのわたしの認識は、『宋書』などに見える倭王が「都督」と名乗っているのは、中国南朝の冊封を受けた時代のことであり、評制が施行された七世紀中頃は中国南朝は滅んでおり、九州王朝の天子は「都督」を名乗っていないと考えていました。その頃に九州王朝が各地の「評督」を任命したわけですから、その時代では倭王は「都督」ではなく、従って「都督」が「評督」の上位職ではありえないとしたわけです。
 しかしこの考えは本当に正しいのだろうかと、講演会以後、わたしは気になっていました。というのも、『二中歴』所収「都督歴」冒頭の次の記事が脳裏に浮かんでいたからです。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具つぶさには之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 この記事については、「洛中洛外日記」六五五話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟七七七話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟一五七九話(2018/01/18)〝「都督歴」と評制開始時期〟で論じていますのでご参照いただきたいのですが、この「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(六四九)」に初めて蘇我臣日向が「筑紫本宮」の「都督」に任じられたわけですから、ちょうどこの時期に施行された「評制」と対応しています。そうすると、全国各地の「評督」の上位職として「筑紫本宮」の「都督」も存在していたことになります。もちろんこの場合の「都督」は九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 通説ではこの「都督」は「太宰帥」の唐風の呼び方であり、実際に七世紀中頃に「都督府」や「都督」が筑紫に実在していたとはされていません。しかし、この通説の理解が正しいとは断定できず、七世紀中頃に任命された各地の「評督」の上位職として筑紫の「都督」がいたと考えるべきではないかと、わたしの認識は揺れ動いていました。

 

四、天智紀「筑紫都督府」を巡って

 この「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(六四九)」に筑紫に「都督」がいたことになり、同時にその居所の「筑紫本宮」が筑紫の「都督府」と考えざるを得ません。そうすると『日本書紀』天智六年条(六六七)に見える「筑紫都督府」は、「評督」の上位職である「都督」がいた九州王朝の「筑紫都督府」と理解することが可能となります。
 この天智紀の「筑紫都督府」を巡っては、古田学派内でも九州王朝の「都督府」とする説と、白村江戦後に唐が倭国支配の為に置いた「都督府」とする説があり、今日まで論争が続いています。古田先生も両説の間を揺れ動かれたことがあるほどの難問です。

 

五、「都督」は「評督」の上司か

 「都督歴」を根拠に、「都督」を「評督」の上位職とできるかについて、九月二一日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の意見を聞いてみました。
 正木さんの見解は、筑紫小郡の「飛鳥」にいた九州王朝の天子が太宰府に「都督」を置いたというものでした。これは九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。この見解に立ったとき、更に問題となるのが、この筑紫の「都督」を「評督」の直属の上司とできるのかということです。行政区画としての「評」の上には「国」があり、行政単位としての「国」が機能していたとすれば、そのトップとして「国司」「国造」の存在もあったわけですから、その場合、「評督」の直属の上位職は「国司」あるいは「国造」となります。これは七世紀後半における九州王朝の統治形式やそれを定めた「九州王朝律令」に関わる重要な研究テーマです。

 

六、山田春廣氏の「東山道都督」説

 九州王朝の「都督」を論じる際、触れなければならない論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、二〇一八年)です。
 この山田論文では、それまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す」の「東山道十五國」が九州王朝の都、太宰府を起点とした国数であるという論証に成功されました。そして、この「東山道十五國都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(六五二年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、七世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。丁寧に論じれば、次のようです。

 ①山田説によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。

 ②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
 ③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。

 ④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた六世紀以降の記事と見なさざるを得ない。

 ⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(六四九)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は七世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます(注①)。他方、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(注②)もあり、この点、引き続き検討が必要です。

 

七、九州王朝内の「都督」複数説

 「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説についても、それが妥当か否か、「古田史学の会」関西例会で研究者の意見を聞いてみました。
 そうしたところ、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)から、『日本書紀』に見える「四道将軍」が「都督」ではないかとする指摘がありました。更に「将軍と都督を同じとしても問題ありませんか」とたずねると、中国史書には「将軍」と「都督」が同じ人物とする例があるとの返答でした。確かに『宋書』倭伝にも倭王武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」としており、その称号中に「都督」と「将軍」があります。
 茂山さんが指摘された『日本書紀』崇神十年九月条に見える、「四道将軍」(大彦命・武渟川別・吉備津彦・丹波道主命)を「四道」(北陸・東海・西道・丹波)に派遣する記事は、景行紀の「東山道十五國都督」の先例かもしれません。しかし、この「四道将軍」記事の実年代は三~四世紀頃とされており、倭国が中国南朝の冊封を受けていた時代です。当時は倭王自身が中国の天子の下の「都督」「将軍」ですから、日本列島内征討軍のトップが倭王と同列の「都督」の称号を持つことは考えにくいと思われます。
 とは言え、この記事のように「道」毎に「方面軍」を派遣し、支配領域を拡大するという戦略は倭国の伝統的な方法ではないでしょうか。茂山さんの指摘により、こうしたテーマへの認識を深めることができました。

 

八、「都督」の史料根拠と論理性

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で参加者からいただいたご質問により、「都督」と「評督」の関係について、諸史料に基づき、どのような論理性が存在するのか考察を進めてきました。まだ〝正解〟には至っていませんし、新たな史料(エビデンス)や論理性(ロジック)が見つかるかもしれませんが、わたしが到達した認識をまとめると次のようになります。
 ①七世紀後半の「評制」期間の九州王朝に「都督」がいたとする史料痕跡には、『日本書紀』景行紀「東山道十五國都督」(年代が異なる)、天智紀「筑紫都督府」(唐が置いたとする見解あり)と『二中歴』「都督歴」(「大宰帥」を唐風に「都督」と後代に表記したとする見解あり)がある。

 ②いずれの史料理解にも異論・異説が存在し、現時点の研究情況では確かな史料根拠とまでは断定できない。

 ③また、当時の九州王朝の行政単位は、倭国(倭王)・方面軍管区(総領)・各国(国司・国造)・各評(評督)と思われ、倭王から任命された「都督」がいたとしても、それは中央政府としての「筑紫都督」、あるいは方面軍管区の「都督」(「東山道都督」)という位置づけであり、いずれのケースも「評督」の〝直属の上位職〟とは言いがたい。

 以上、本稿をもって、とりあえずの回答とさせていただきます。ご質問していただいた方に感謝いたします。次回の東京講演会では十分な質疑応答の時間を設けることを検討しています。
〔令和元年十二月二二日記了〕

(注)
①山田春廣「東山道都督は軍事機関」、『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』所収(古田史学の会編、明石書店、二〇一八年)。

②藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』所収(古田史学の会編、明石書店、二〇一九年)。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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