2019年8月13日

古田史学会報

153号

1,誉田山古墳の史料批判
 谷本 茂

2,河内巨大古墳造営者の論点整理
 倭国時代の近畿天皇家
 日野智貴

3,『日本書紀』への挑戦
《大阪歴博編》
 古賀達也

4,「壹」から始める古田史学十九
「磐井の乱」とは何か(3)
古田史学の会事務局長 正木 裕

5,割付担当の穴埋めヨタ話
 玉依姫・考Ⅱ

 編集後記 西村秀己

 

 

古田史学会報一覧

「那須國造碑」からみた 『日本書紀』紀年の信憑性 (会報148号)

前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 整地層出土「坏B」の真相 (会報151号)

難波の都市化と九州王朝 古賀達也(会報155号)

「鞠智城」と「難波京」 阿部周一 (会報155号)


『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》

京都市 古賀達也

 

一、四天王寺創建瓦の編年

 「洛中洛外日記」一九〇四話「那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道」(本稿末尾に転載)において、『日本書紀』の記述とは異なる出土物・遺構解釈が大阪歴史博物館(大阪歴博)の考古学者により行われていると記しました。そのことについて紹介します。
 最初に紹介するのは四天王寺の創建瓦の編年についてです。わたしが大阪歴博の考古学者の誠実性と眼力を信頼した瞬間がありました。それは初めて大阪歴博を訪れ、上町台地から出土した瓦の展示を見たときのことです。三個の素弁蓮華文軒丸瓦が展示されており、一つは四天
王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦です。時代も七世紀前葉とされており、六二〇~六三〇年代頃と編年されています(展示説明文による)。大阪歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』に記されていない複数の寺院が建立されていたようです。
 この展示に驚いたわたしは、大阪歴博さんに編年の根拠をお聞きしました。李さんの見解は次のようなものでした。

①法隆寺若草伽藍の創建瓦「素弁蓮華文軒丸瓦」と四天王寺の創建瓦、前期難波宮下層出土瓦は同笵瓦であり、それらの文様のくずれ具合から、前期難波宮下層出土瓦よりも四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、古いと判断できる。

②法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、最も早く造営されたことがわかる。

③用心深く判断するのであれば、三者とも「七世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。

④史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。

 以上のような説明がなされました。わたしは誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を六〇七年(『日本書紀』による)、四天王寺を六二〇年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。この編年が『二中歴』の「倭京二年(六一九)難波天王寺創造」記事とほぼ一致していることから、大阪歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 このように四天王寺(天王寺)創建瓦の編年は考古学と文献史学(二中歴)の一致というクロスチェックが成立した事例でした。そして、この年代観の正確さと、文献(日本書紀)よりも考古学的出土事実を重視するという姿勢を知り、わたしは大阪歴博の考古学者への信頼を深めたのです。
 もちろん、大阪歴博の考古学者の判断や報告書を信頼できないと批判する「学問の自由」はあります。しかしその場合、信頼できない理由、間違っているとする理由を客観的具体的根拠を示して説明することが、批判する側に要求されます。「自説と異なるから信用しない」「大阪歴博の利害による報告だから疑わしい」といった類いの「批判(非難)」は学問的態度ではありませんし、大阪歴博の考古学者に失礼です。
 わたしたち古田学派は、一元史観の学界から「通説と異なるから九州王朝説は信用しない」「偽書に加担した古田武彦やその支持者は疑わしい」などと陰に陽に迫害され無視され、学会での古田説に基づく発表を拒絶されています。だからとって、わたしたちが他者(通説側)に対して同様の態度をとってもよいことにはなりません。古田先生の〝学問の原点〟の一つである「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を大切にしていただきたいと願っています。

 

二、七世紀後半の難波と飛鳥

 二〇一七年三月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」一四〇七話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』十五号)です。
 従来、ほとんどの考古学調査報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(六五三)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(六五四)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(一~二頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(六頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(六五二)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(十二頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮(大阪市中央区法円坂)ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は白村江戦(六六三年)の頃まで続いたとのことですから、白村江戦での九州王朝の敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。

 佐藤さんは同論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(十四頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『隋書』『旧唐書』他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてこの水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを開始するのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。
(令和元年〔二〇一九〕六月一日記了)

 

【転載】古賀達也の洛中洛外日記
    第一九〇四話 2019/05/22

那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道

 昨日、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりとても感慨深く象徴的な情報が寄せられました。二〇一九年二月十四日付の西日本新聞朝刊の記事です(本稿末尾に転載)。従来、大和の影響を受けた「纒向(まきむく)型」とみられていた福岡市の那珂八幡古墳の形状が北九州独自のものであることが判明したというものです。
 その詳細は同記事をお読みいただくとして、この記事が持つ学問的画期性について触れたいと思います。それは一言で言えば福岡県の考古学者が大和朝廷一元史観に基づく出土物・遺構解釈から離れて、多元史観による解釈を出土事実に基づき公然と主張しだしたということです。そしてそれを地方紙が報道するようになったという社会変化(潮目が変わりつつある)が顕著に表れだしたという点です。この傾向は近年の〝弥生時代のすずり〟が福岡県から出土していたという報道が立て続けにあったことからもうかがえていましたが、それが古墳時代でも開始されたということに、わたしは着目しています。当然ながら、その変化は六世紀からの九州年号の時代いわゆる〝飛鳥時代〟へと続くことが予見されるからです。
 実はこの傾向は大阪歴博の考古学者を中心に数年前から見られてきたもので、今回の記事で紹介されている福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、昨年十二月に大阪歴博で開催されたシンポジウム「古墳時代における都市化の実証的比較研究―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」で、「列島最古の『都市』 福岡市比恵・那珂遺跡群」を発表されています。なお、このシンポジウムの司会は六月十六日(日)の古代史講演会(I‐siteなんば、「古田史学の会」共催)で講演される南秀雄さん(大阪文化財研究所長)で、南さんも「大阪上町台地の都市化と奈良盆地の比較」を発表されています。
 こうした考古学者の研究発表は、『日本書紀』を根拠とする大和朝廷一元史観とは異なる古代史像を提示するもので、古田先生が提起された多元史観はまず考古学の分野で承認されるものと思われます。
 なお、西日本新聞の記事には博多湾岸を「奴国」とするなど、学問的に不適切な内容も含んでいます。しかし、こうした国名などの比定は文献史学の成果に委ねられており、わたしたち古田学派が文献史学における一元史観との論争(他流試合)の先頭に立たなければなりません。本年十一月に開催される「新・八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー二〇一九)」では、他流試合に通用する(一元史観論者をも説得できる)研究者の登場が期待されます。

 

【2019/02/14付 西日本新聞朝刊】

「ヤマトに服属」定説に一石か
福岡市の那珂八幡古墳
北部九州独自の形状

 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。
 これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。纒向型は、古墳時代開始期前後に近畿で築造された纒向石塚古墳(奈良県桜井市)のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指す。全国に分布し、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきた。
 しかし、今回の調査により那珂八幡古墳は、従来七五メートルとされていた全長は約八六メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も三〇メートル程度で想定の約四五メートルより狭く、纒向型と異なっていた。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。一帯は魏志倭人伝に出てくる奴国の中心部で、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられる。
 似た形状を持つ古墳は、北部九州の戸原王塚古墳(福岡県粕屋町)や赤塚古墳(大分県宇佐市)などがあるとされるが、いずれも那珂八幡古墳よりも新しい。香川県に分布する開始期前後の前方後円墳も近畿とは形が違い、「讃岐(さぬき)型」と呼ばれることがある。こうしたことから、九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。(後略)

調査で分かった那珂八幡の形


 これは会報の公開です。

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