2019年8月13日

古田史学会報

153号

1,誉田山古墳の史料批判
 谷本 茂

2,河内巨大古墳造営者の論点整理
 倭国時代の近畿天皇家
 日野智貴

3,『日本書紀』への挑戦
《大阪歴博編》
 古賀達也

4,「壹」から始める古田史学十九
「磐井の乱」とは何か(3)
古田史学の会事務局長 正木 裕

5,割付担当の穴埋めヨタ話
 玉依姫・考Ⅱ

 編集後記 西村秀己

 

 

古田史学会報一覧

「壹」から始める古田史学 十五 十六
九州王朝(倭国)の四世紀 -- 六世紀初頭にかけての半島進出 正木裕(会報143号)

盗まれた天皇陵 服部静尚(会報138号)
誉田山古墳の史料批判 谷本茂 (会報153号)

書評 小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』 -- 天皇陵は同時代最大の古墳だったか 古賀達也 (会報156号)


河内巨大古墳造営者の論点整理

倭国時代の近畿天皇家の地位を巡って

たつの市 日野智貴

はじめに

 古田学派の間で上代の倭国を代表する王権が九州王朝であったことは、自明のことである。また、上代において中国と通行した政権が九州に有ったとする仮説自体は、江戸時代から繰り返し述べられていたところであり、九州王朝の存在自体は長年の学術的な論証が積み重ねられている。
 だが、九州王朝の存在を前提とする限りにおいて、九州王朝が存在した時代に『古事記』『日本書紀』に記されているような近畿天皇家は、一体どこで何をしていたのか、という疑問は当然に湧いてくる。
 江戸時代においては「熊襲偽僭説」が主流であった。その原型は本居宣長に始まり、鶴峰戊申によって完成された。これは本来、倭王は近畿天皇家であるが、九州王朝が勝手に倭王を僭称し、中国もそれに騙されたというものである。こうした主張は一部の国学者の主張に留まらず、例えば「和田家文書」において秋田孝季は邪馬壱国や熊襲の存在を記しながらも「倭王」を近畿天皇家の天皇としており、相当人口に膾炙していた説のようである。
 それと対極に位置するのが「近畿天皇家は存在しなかった」という説であろう。その場合、河内に存在する巨大古墳の造営者も当然、近畿天皇家ではなかったということになる。
 九州王朝と近畿天皇家の関係を考える際、当然、九州王朝が存在した時代に造営された河内の巨大古墳の造営者が何者であったかも論点となる。これについては、吉田舜(注1)や大芝英雄(注2)が九州王朝造営説を唱えており、壱岐一郎(注3)が扶桑国造営説を唱えていた。これらは近畿天皇家の存在を否定する観点から述べられている説である。
 一方、古田学派の内部においては近畿天皇家の存在自体を認める主張が多数派であった。ただ、「近畿天皇家」という呼称が適切かどうかの議論があったことは古田武彦も認めていた通り(注4)であるが「後世の大和朝廷の原型」が神武天皇以来、九州王朝の分流として存在していたことについては、多くの古田学派の研究者の間で同意が為されているところである。
 しかし、今日において近畿天皇家の存在を認めつつも、河内の巨大古墳の造営者が近畿天皇家ではないとの仮説が主張されるようになっている。
 本稿においては、河内の巨大古墳の造営者が何者であるかについての論点を整理しつつ、九州王朝時代の近畿天皇家の地位についての議論を深めていきたい。

 

九州王朝説への「三本の矢」

 九州王朝と近畿天皇家の関係を考える際、考古学の成果と対応しているかが重要な論点となる。それに関連して、古賀達也によって指摘された「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」(注5)は、次の3つである。
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 本稿の主題と関係があるのは「一の矢」である。
 現在、古田学派内部では近畿地方、特に河内の巨大古墳造営者について「近畿天皇家の祖先」(以下、大和系政権)とする説と「捕鳥部萬の祖先」(以下、河内系政権)とする説とがある。だが、どちらも「九州王朝とは別個の政権が、河内地方に巨大古墳を造営した」という点では変わりない。
 九州王朝が日本列島を代表する政権であるならば、どうして大和系政権や河内系政権が九州王朝以上の巨大古墳を造営することが出来たのであろうか?また、河内の巨大古墳の造営者と九州王朝とは一体どういう関係にあったのだろうか?
 この疑問に答えない限り、「一の矢」への反論となることはできない。

 

考えられる4つの可能性

 河内の巨大古墳の造営者が何者であるかについては、まず「畿内の政権」か「畿内以外の政権」かのいずれであるかが問題となる。
 次に、「畿内の政権」であるならばそれが「大和系政権」か「大和系政権以外」かが問題となる。
 また、「畿内以外の政権」であるならばそれが「九州王朝」か「九州王朝以外」かが問題となる。
 そして「畿内の政権」であり、かつ、「大和系政権以外の政権」として提示された仮説が服部静尚の「河内系政権」による造営説(注6)や壱岐一郎の扶桑国造営説である。また、「畿内以外の政権」であって「九州王朝以外の政権」が河内の巨大古墳の造営者であるとする仮説は管見の及ぶ限りはないが、正木裕により吉備の勢力が河内に進出したとする仮説(注7)が主張されており、それを前提とする限り「吉備系政権」が造営者である可能性も作業仮説として検討の価値があると言える。
 本稿においては、4つの可能性を代表する仮説として「大和系政権造営説」「河内系政権造営説」「九州王朝造営説」「吉備系政権造営説」を取り上げる。これによって4つの可能性について一通りの検討が出来、将来他の説が登場した際の議論も行いやすくなると考えられるからである。尚、「扶桑国造営説」については扶桑国関西説が古田学派の中で受け入れられているとは言えず、かつ、『日本書紀』の記述が信用できないことを論拠に河内の巨大古墳の造営者を近畿天皇家以外の畿内の政権に求める主張は、「河内系政権造営説」の論拠でもあるので省略する。(注8)

 

「九州王朝造営説」の検討

 九州王朝造営説の論拠を端的に示したのが、吉田舜である。彼によると「巨大な構築物は、すべて唯一者である大王の権力を表徴しているという、最も単純な、誰にもわかる公理により、これ等の畿内の巨大な古墳群は、九州王朝の大王及び王族の墳丘であった」(注9)のであり、「大和王朝と九州王朝の並立論は、畿内の古墳の巨大性の故に、大和王朝の存立理由を失う」(注10)ということである。
 無論、これが本当に「誰にもわかる公理」かは議論のある処である。アメリカ合衆国ではニューヨークにホワイトハウスよりも巨大な建造物は少なくないであろう。けれども、巨大な建造物の造営者にはそれだけの政治力・経済力があったことを疑うことが出来ないのも、事実である。仮に、巨大古墳の造営者が九州王朝であるとすると、九州王朝は一方では巨大古墳を造営し、一方では朝鮮半島に軍を送り込むだけの強大な力を持っていたことになるが、「倭国を代表する王朝」にそれぐらいの権力があったという仮説も検討に値するものではある。
 さらに、阿蘇山産のピンク石が河内の古墳群から発見されていることもこの仮説の傍証となる。このことから直ちに政治的な関係を断定はできないものの、九州の勢力の協力があってこそ河内の巨大古墳が造営できたということは言えるのである。
 この仮説を採用した場合の最大のメリットは「一の矢」への回答になる、ということである。つまり、巨大古墳の造営者が九州王朝であるとすると、日本列島は既に九州王朝が統一していたと言えるからだ。前期難波宮以前の古墳時代から九州王朝が河内に進出できたことさえ論証できれば、この説が最有力な説となる。

 

「河内系政権造営説」の検討

 服部静尚が「盗まれた天皇陵古墳」で発表して以来、古田学派の間で有力になっている説である。これは『日本書紀』に盗用されたとみられる「河内戦争」(注11)で敗死した「畿内八国」の支配者「捕鳥部萬」の祖先が巨大古墳の造営者である、というものである。
 確かに畿内八国を支配した政権が河内に存在すると仮定した場合、それは河内の巨大古墳の造営者に相応しい規模であると言える。
 だが、注意しないといけないのはこの仮説は「第一の矢」への回答にはならない、ということである。九州王朝とは異なる勢力が河内の巨大古墳を造営したという面では、大和系政権造営説と本質的な違いはない。
 この説が成り立つためには「一の矢」の問題をどう解決するのか、また捕鳥部萬は本当に近畿天皇家の外部の存在であるのか、さらには彼らが支配した近畿八国の中に大和は含まれるのか、もし含まれるとすれば近畿天皇家の祖先やその本家である九州王朝とはどういう関係であったのか、という疑問に答える必要がある。

 

「吉備系政権造営説」の検討

 仮に河内の巨大古墳の造営者が大和系政権ではない、と仮定した場合、九州王朝や河内系政権以外にも「河内を支配した可能性」のある勢力が存在する。吉備系政権である。
 正木裕は『日本書紀』における「四道将軍」記事のうち、吉備津彦による河内吾田媛討伐説話は本来「吉備津彦による河内への東征」だったのではないか、としている。(注12)この場合、河内を吉備系政権が支配した可能もあるのである。なお、先述の「阿蘇ピンク石」は吉備の古墳からも出土してている。
 この説を唱えている者は現時点では存在しないが、仮に「一の矢」の問題を解決できて、正木氏による「吉備勢力の河内東征」説をさらに「吉備勢力による河内支配」にまで論証出来た時、河内系政権説以上の説得力を持つことになる。

 

「大和系政権造営説」が否定される根拠と反論

 さて、上記の三説は全て『日本書紀』や『延喜式』に記されている「大和朝廷が河内の巨大古墳を造営した」という命題を「否定」した上に成り立つ説である。
 その論拠として畿内においても「天皇や皇族の陵墓であるとの伝承がない古墳」が少なくないことをあげる者もいる(注1314)が、これについては「単に歴史書への記載がなかっただけ」という反論も出来るであろう。古代において皇族やそれに準ずる豪族の数は、決してその陵墓の全てを記録できるほど少ないわけではなかったはずだからである。
 だが、より説得力のある批判としては「『日本書紀』や『延喜式』における古墳の編年と考古学の成果が一致しない」というものがある。『日本書紀』や『延喜式』に準拠して比定された古墳の編年と近年の考古学の成果による古墳の編年とが一致しない、という主張はかねてから行われてきた。
 しかしながら、古墳の編年における重要な論拠となっていた須恵器の編年については、考古学界においても異論がある処である。特に、近年は須恵器の型式だけで古墳の編年を行う方法への意義も主張されている。(注15)現時点での考古学の研究成果においては『日本書紀』や『延喜式』の記述は疑わざるを得ないが、将来の天皇陵古墳の学術調査によってそれが覆る可能性も充分にあるのである。

 

大和系政権の勢力範囲

 『古事記』『日本書紀』の記述には様々な造作や盗用があることは言うまでもないが、その全てが造作であるという訳ではない。例えば「神武東行」説話については九州王朝の天孫降臨説話からの盗用と指摘される部分もある(注16)ものの、一方では現代の地質学の成果と一致する部分もある。(注17)また、一連の「飛鳥宮」に関する記事についても九州王朝の史書からの盗用された記事あることが知られており、それらの記事は本来「筑紫の飛鳥」にあった宮殿であると考えられている(注18)が、一方では「大和の飛鳥」からも宮殿の遺構が見つかっており、全ての記事が「筑紫の飛鳥」からの盗用ではないのである。
 それでは、ある記事が本来の大和系政権の伝承であるのか、それとも大和朝廷による「造作・盗用」であるのかを見分ける方法はあるだろうか?それについては、『古事記』『日本書紀』の「編纂の動機」を考えると明白であると思われる。『古事記』『日本書紀』は大和朝廷が編纂した歴史書であるから「大和朝廷に有利な造作・盗用」を行うことはあっても、「大和朝廷に不利な造作・盗用」を行うことはできない。また、この「大和朝廷に有利・不利」の基準の中で大きなウェイトを占めるのが「近畿天皇家一元史観に合致するか、否か」であることも、言うまでもない。『日本書紀』における「景行天皇の九州大遠征」記事はまさに「大和朝廷が景行天皇の時代から九州を支配していた」ことを示すための「盗用」である。
 この基準で考える際、まず「史実」ないし「史実の反映」と見做すことが出来るのは「仲哀天皇の熊襲征伐」説話である。『古事記』や『日本書紀』本文では仲哀天皇が神の怒りに遭って殺された、『日本書紀』異伝では仲哀天皇が戦死した、と記されている。どちらも近畿天皇家にとって不名誉な説話である。九州王朝の歴史を抹殺し、近畿天皇家による中央集権支配を進めようとする過程において「天皇が神に殺された(注19)」とか「九州には天皇を殺すぐらいの強力な勢力がいた」とかいう話を造作することは、当時の近畿天皇家の方針に反するものであり、考えにくい。
 また、直ちに史実とは見做せないものの「ヤマトタケルの熊襲征伐」についても、その説話の成立は旧いということが出来る。『古事記』では倭建命が熊襲建兄弟を暗殺し、その弟の方から「倭建」の名を献上された、とする。しかしながら、当時の説話で名前を「献上」するケースはなく、古田武彦は著書『盗まれた神話』においてこれは本来九州王朝から「下賜」された名前を「献上」と書き換えたのである、とした。事実、もしこれを後世の造作者が近畿天皇家を称えるために創作したのだとすると、「景行天皇からの下賜」にすることも可能であった筈である。なので、この説話の原型が九州王朝時代に成立した可能性は極めて高いのである。
 こうした説話から景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の時代の大和系政権(注20)は九州王朝と対立しており、両者の間には武力・暗殺等の実力行使による紛争も存在していたことが判る。その上で、大義名分上は「九州王朝の方が上」であり、仲哀天皇はその上位王朝である九州王朝相手に反乱を行い敗北したわけである。
 敗北したとはいえ、当時の大和系政権には九州にまで軍を送り込むだけの実力があったのである。海に面してもいない大和一国の地方政権にそれだけの実力があったとは考えにくい。『古事記』の「三道将軍」説話では、崇神天皇の代に既に大和系政権は「旦波(丹波)」「高志→相津」「東方→相津」の三方向(注21)を平定したことになっている。考古学的にも纏向遺跡以前の大和には大型の遺跡はないが、纏向遺跡は一転して大型の遺跡であり、そして『古事記』『日本書紀』には纏向に崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の宮殿があったことが記されている。「三道将軍」記事の信憑性には議論があるべきではあるが、崇神天皇の時代に大和系政権が大和一国の政権に留まってはいなかった可能性も充分にあるのである。(注22)
 さらに、『古事記』『日本書紀』からは景行天皇と成務天皇が近江に宮殿を構えていたこと(注23)が読み取れるが、九州王朝の官人である柿本人麻呂もこの大和系政権による「第一次近江宮」を歌の題材にしており(注24)、この説話は決して大和朝廷による後世の造作ではないのである。
 以上のことから、大和系政権は仲哀天皇即位の時点で近江を含む大和以外の領域も支配していたと結論付けられる。

 

捕鳥部萬は何者なのか

 ところで、現在「河内系政権造営説」の有力な根拠とされているのは、「河内戦争」の記述に出て来る「捕鳥部萬」の存在である。まず、冨川論文にある通り彼は「八国」の支配者であるから、この「捕鳥部萬」という名称は本名ではない。「部」は部民(隷属民)に与えられる姓だからである。つまり『日本書紀』が「捕鳥部萬」として記している人物は「名前ごと存在を抹消された人物」なのである。しかも、『日本書紀』は往々にして九州王朝等の史書から記事を盗用する際に大和系政権の人物の固有名詞を当てはめることもあるが、この場合はそれもせず「一、部民」として取り扱っている。
 これは大和朝廷にとって余程都合の悪い存在である。しかも、九州王朝からも反乱者として見做されている。つまり、
A九州王朝から討伐の対象と見做されている
B大和朝廷にとって都合の悪い存在である

という、二条件を満たした人物が「捕鳥部萬」なのである。

 そうすると、考えられるのは次の三パターンである。
a九州王朝内部の反逆者

b大和系政権内部の反逆者

c九州王朝・大和系政権以外の勢力

 この「河内戦争」の記事は九州王朝の記事からの盗用であるから、aの可能性も充分にあるのである。そうだとすると、九州王朝は既に河内戦争以前から難波一帯を支配していたことになる。また、bは「大和系政権の内紛に九州王朝が介入し、その一方が九州王朝に討伐され、討伐されなかった方が今の大和朝廷になった」というものである。大和朝廷が自身の内紛への外部勢力の介入を史書から消した例としては、「壬申の乱」から九州王朝や唐の介入に関する部分を抹消している例が挙げられる。(注25)九州王朝が大和系政権の上位王朝である以上、大和系政権の内紛に九州王朝が全く干渉していないことは考えられず、それどころか大和に「九州王朝造営の国分寺」が存在している可能性も指摘されている(注26)わけであるから、壬申の乱以外にも大和系政権の内乱に九州王朝が介入した可能性は高いと言わざるを得ないであろう。(注27)河内の巨大古墳についてはaだと九州王朝造営説が、bだと大和系政権造営説がそれぞれ有力になる。
 また、cの場合も「捕鳥部萬」とされる人物が「吉備系政権」の関係者である可能性も残る。そうだとすると「河内を含む、吉備を中心とした八国の支配者」ということになり、河内戦争の記述にも合致する。先述の通り古墳時代の河内に吉備の勢力が進出していた可能性もあるのであるから、この場合は河内の巨大古墳の造営者が吉備系政権である可能性もあるのである。
 河内戦争の記述だけで河内を基盤とした「八国」もの支配領域を持つ政権の存在を仮定するのは、あまりにも根拠がないと言わざるを得ない。その「八国」に大和は含まれるのか、もしも大和をも支配領域に収めているならば、九州王朝の分王朝である大和系政権の上位勢力たる河内系政権は九州王朝とどういう関係であったのか、また大和は含まれないとすると一体どこをどう支配していたのか、吉備の勢力とはどういう関係であったのか、等と言った未解決の問題があまりにも多い。「九州王朝が河内(難波)を支配した論拠」や「吉備の勢力が河内に進出した論拠」については多く論じられているが、「河内に独立勢力が存在した」という仮説は今のところ、論拠に乏しいと言わざるを得ないだろう。

 

まとめ

 大和系政権の支配領域は決して大和一国に限るものではなく、近江等にも広がるものであった。また、大和系政権は九州王朝に兵を送るだけの力を持っており、大和系政権が河内を支配していた可能性も存在する。しかしながら、この仮説を支持して『日本書紀』『延喜式』の内容を信じた場合、現代の考古学の成果との矛盾は避けられない。天皇陵古墳への学術調査の進展等により大和系政権造営説が認められる可能性もあるものの、現時点では断言することはできない。
 では、仮に河内の巨大古墳の造営者が大和系政権でないとした場合、巨大古墳の造営者として考えられるのは九州王朝と吉備系政権の両者である。「九州王朝による前期難波宮造営」や「吉備津彦による河内吾田媛討伐説話」は、それぞれ九州王朝造営説や吉備系政権造営説の傍証となり得る。
 一方、河内系政権造営説については河内に独自勢力が存在した論証さえ充分ではなく、現時点では採用することはできない。今後は河内の巨大古墳の造営者について九州王朝や吉備系政権との関係を中心に議論を深めていくことが必要であると考える。

(注)
1.吉田舜(1993年)『九州王朝一元論』葦書房

2.九州古代史の会(2006年、新装版)『古代史シンポジウム 「磐井の乱」とは何か―九州王朝多元説を追う』同時代社

3.いき一郎(1995年)『扶桑国は関西にあった―中国正史の倭国九州説』葦書房

4.古田武彦「筑紫朝廷と近畿大王」市民の古代史研究会(1993年)『市民の古代第十五集』新泉社、所収

5.古賀達也(洛中洛外日記2016年)「九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)」

6.服部静尚(2016年)「盗まれた天皇陵古墳」

7.正木裕(2016年)「『日本書紀』の盗用方法」

8.本稿における河内系政権と壱岐一郎の言う「扶桑国」とが同一の存在である、という作業仮説も成り立つであろう。扶桑国が関西にあったとは私は考えないが、扶桑国関西説も検討に値する仮説であることは言うまでもない。しかしながら、ここでそれについて触れるのは本題から外れる。

9.吉田前掲書、293頁。

10.同上。

11.冨川ケイ子(2015年)「河内戦争」古田史学の会『古代に真実を求めて 第十八集』所収

12.正木前掲論文

13.いき前掲論文

14.古賀達也(フェイスブック2019年)「百舌鳥・古市古墳群の被葬者は誰か」

15.植田隆司(2012年)「古墳時代須恵器編年の限界と展望」龍谷大学考古学論集刊行会『龍谷大学考古学論集Ⅱ―網干善教先生追悼論文集―』所収

16.古賀達也(2002年)「盗まれた降臨神話『古事記』神武東征説話の新・史料批判」古田史学の会『古代に真実を求めて第五集』所収

17.古田武彦(1985年)『古代は輝いていた2―日本列島にいた大王たち』朝日新聞出版

18.正木裕(2010年)「『日本書紀』の「三四年遡上」と難波遷都」古田史学の会『古代に真実を求めて第十三集』所収

19.言い換えると、仲哀天皇による熊襲討伐は神の意思に反していたわけである。こういう説話が造作されるのは、九州に大和よりも上位の勢力がある時であろう。

20.倭建命は景行天皇の息子、成務天皇の異母兄、仲哀天皇の父親。

21.ここでいう「相津」は史実であるとすると、通説でいうような「陸奥の会津」ではなく「尾張の相津」(垂仁記)ではないだろうか。

22.綏靖天皇から開化天皇に至る記事には、大和以外の地域を平定した旨の記載はない。大和朝廷側も「崇神天皇以前」と「崇神天皇以降」とを一つの区切りに考えていたのだろう。

23.ただし、景行天皇については晩年のみ『日本書紀』に掲載がある。

24.古田武彦(1994年)『人麿の運命』原書房

25.古田武彦(2007年)『壬申大乱』東洋書林、等。『釈日本紀』では唐人が壬申の乱に参加していたことが明記されており、『日本書紀』が外部勢力の存在を意図的に隠していることは明白である。壬申の乱については「九州王朝系近江朝」の問題も含め、検討すべき課題は多い。

26.古賀達也(洛中洛外日記2015年)「大和の「国分寺」二説」

27.河内戦争についての史料批判については本稿の主題ではないので詳細は稿を改めて論ずるが、私は「蘇我・物部戦争」に九州王朝が介入していたと考えている。ここで簡潔に結論を述べると、大和系政権の軍事部門を担っていた物部氏の滅亡も大和系政権の大王たる崇峻天皇の暗殺も、いずれも筑紫朝廷(九州王朝)による倭国中央集権化の一環であり、大和に国分寺(国府寺)を造営したのも同様である。但し、この仮説の是非は本稿の主題ではない。


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