2015年 4月15日

古田史学会報

127号

1,「張家山漢簡・居延新簡」
 と「駑牛一日行三百里」
   正木裕

2,短里と景初
誰がいつ短里制度を布いたのか?   西村秀己

3,“たんがく”の“た”
   平田文男

4,邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか
   服部静尚

5,学問は実証よりも論証
  を重んじる
   古賀達也

6,「唐軍進駐」への素朴な疑問
   安随俊昌

7,『書紀』の「田身嶺・多武嶺」
   と大野城
   正木 裕

8,倭国(九州王朝)
   遺産一〇選(下)
   古賀達也

9,断念
   古田武彦


古田史学会報一覧

先代旧事本紀の編纂者 西村秀己(会報126号)

「春耕秋收」と「貸食」 -- 「一年」の期間の意味について 阿倍周一(会報120号)


短里と景初

誰がいつ短里制度を布いたのか?

高松市 西村秀己

 魏晋朝短里或いは魏西晋朝短里というこの概念は古田武彦氏が三国志の分析から生み出したものだ。古田氏によれば、漢代は長里、魏になってから短里を採用しこれが少なくとも西晋時代まで続いた、という。ではその魏のどの皇帝の何時の時代に短里制度は布かれたのか?これが本稿のテーマである。

 景初元年春正月壬辰、山荏(原文=草冠+仕)縣言黄龍見。於是有司奏、以爲魏得地統、宜以建丑之月爲正。三月、定暦改年爲孟夏四月。(中略)改太和暦曰景初暦。
 景初元年(二三七)春正月壬辰の日(十八日)、山荏県から黄龍が出現したと報告してきた。このとき担当官吏が上奏し、魏は地統を得ているゆえ、建丑の月を正月とすべきだと主張した。三月に暦を改定し年号を改めて孟夏(初夏)四月とした。(中略)太和暦を改めて景初暦と名づけた。(三国志魏書明帝紀・ちくま学芸文庫)

 魏書曰。初、文皇帝即位、以受禪于漢、因循漢正朔弗改。帝在東宮著論、以爲五帝三王雖同氣共祖、禮不相襲、正朔自宜改變、以明受命之運。(中略)今推三統之次、魏得地統、當以建丑之月爲正月。
 『魏書』にいう。そのむかし、文帝が即位して、後漢から禅譲を受けたとき、漢王朝の暦に従って改定しなかった。明帝は太子であったころ論を著述し、五帝三王は同一の霊気を有し先祖を同じくする(黄帝を先祖とする)とはいっても、互いに礼を踏襲することはない、したがって、暦は当然改変し、そのことによって受けた天命がいかなるめぐりあわせに当たるかを明らかにすべきだと主張した。(中略)いま三統の順序を推しはかると、魏は地統にあたるゆえ、建丑の月(十二月)をもって正月とすべきである。(同じ条の裴松之の注)

 このように明帝(曹叡)は若いころから改暦を主張し、景初に至ってその暦を商(殷)と同じ月に正月に置くものとしたようだ。
 ちなみに三統とは天統・地統・人統の三種で、天統は夏で正月は建寅月(雨水を含む月)、地統は商(殷)で正月は建丑月(大寒を含む月)、人統は周で正月は建子月(冬至を含む月)となる。漢は周の後を受けて天統を用いた。そこで明帝は漢の後の地統に従ったのである。(これを一般的には「正朔を改める」といい、この三種をそれぞれ夏正・殷正・周正ともいう)
 さて、以上は暦のことで短里とは何の関係もないように思える。ところが、暦の改定と度量衡の変更は密接な関係があるようなのだ。

 獻帝傳曰。(中略)遂制詔三公「上古之始有君也、必崇恩化以美風俗、然百姓順教而刑辟?焉。今朕承帝王之緒、其以延康元年爲黄初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、同律度量、承土行、

 『献帝伝』にいう。(中略)かくて三公に対して詔勅を下した、「はじめて君主が出現した上古の時代には、必ず恩愛による教化を尊重し、それを基に風俗を美しくした。その結果人民は教化に従い刑罰は実施されなかったのである。今、朕は帝王の緒業を継承した。よって延康元年をもって黄初元年となし、正朔(正月の月)を改め、服色を変え、称号を異にし、音律・度量を統一し、土徳の五行に従うことを論議せよ。(文帝紀延康元年十一月の裴松之の注)

 文帝(曹丕)は結局正朔を改めることはなかったが、正朔を改めることと度量衡の変更がセットであると考えられていたことが判る。では明帝が暦の変更と短里の制定を同時にしたかどうか、どうしたら確認できるだろうか?
 漢は長里であった。陳寿が三国志を書くに当たり、漢代の長里をどう取り扱ったのだろうか?本来、一つの書物に説明なしで二つ以上の異なる単位が用いられることは考えられない。とすれば陳寿は長里で書かれた史料は短里に換算して三国志に記載したに違いない。これは漢の後継王朝と主張した劉備の漢(蜀)や呉、そして短里採用以前の魏も同様だ。
 さて、長里は短里の五.四〜五.六倍だから、長里を短里に換算するにはもともとの長里の数字に五乃至六を掛ければよい。ところが、そうすると有効桁数二以上の里が大半を占めるようになると想像できるが、現実はそうではない。三国志の本文中に現れる有効桁数二以上の里は三例(建安年間の十七里と三百六十里及び倭人伝中の萬二千餘里)しかないのだ。
 長里を短里に換算する方法の内最も簡単なものは、一里を数里、十里を数十里、百里を数百里、千里を数千里とする方法だ。(陳寿が他にどんな方法を取ったかは不明である)もし陳寿が里の換算のいくつかにこの方法を用いたとすれば、本来長里を用いていた国或いは時代では「数○里」の出現比率が換算の必要がない短里の時代と比べて大きくなるに違いない。
 そこで三国志の陳寿の本文から、行政単位の里及び固有名詞としての里(百里・東里という姓、百里州という地名)更に慣用句として使われる里(遥か彼方を表す万里、長い距離を表す千里、県令を表す百里)を除くすべての「里」を年代別に並べてみた。(本紀はともかく、列伝は年号を明記していないものが比較的多い。特に対象の人物の若いころのエピソードははっきりどの年代なのか判別できないものも多いので、間違いがあるかも知れないが、大勢には影響がないと思われるのでご容赦願いたい)
 表をご覧戴ければお判りのように、「数〇里」の出現比率は、
 漢=二一・三%
 蜀=三三・三%
 呉=四〇・〇%
 魏の黄初?青龍=三七・五%

 ところが
 魏の景初以降=五・三%


 つまり、短里の施行は景初初頭という仮説にピタリと一致しているのである。勿論、これでこの仮説が決定というつもりは毛頭ない。この結果はあくまでも状況証拠に過ぎないからだ。だが、この仮説がやや現実味を帯びてきたことには間違いないであろう。
 さて、古田武彦氏は短里を周の制度と位置付けてきた。谷本茂氏の「周髀算経」の研究にも見られるように、短里が周代に用いられたことは間違いないだろう。しかし、短里が周代から始まったかどうかの根拠はない。本稿での、景初の正朔と度量の地統との関わりを考えると、短里制度は商(殷)代にその淵源を持つのではなかろうか。少なくとも魏代にはそう信じられていたのではあるまいか。ひとつの提案としてお考え下されば幸甚である。
 尚、この短里景初説には先行説がある。金沢大学准教授半沢英一氏だ。半沢氏はその著書「邪馬台国の数学と歴史学」(二〇一一年ビレッジプレス)で短里制度は景初の改暦と同時に施行された、と主張している。その理由は筆者とほぼ同様である。ところが半沢氏は短里制度は景初の三年間のみであると仰っている。これは正始元年には殷正を取りやめ、漢と同じ夏正に戻したことが理由のようだ。ところがこれでは、陳寿の三国志執筆時代には長里が使われていたことになってしまい、陳寿は逆に景初時代の短里を長里に換算しなければならなくなる。しかも、梯儁や張政が倭国に使いした時は既に正始年間なのであるから、倭人伝が短里で書かれる筈がない。この点半沢氏はどうお考えなのだろうか?

三国志年号別 調査

表一  漢 年号別 「里」調査表

表二  魏 年号別 「里」調査表

表三  呉 年号別 「里」調査表

表四  蜀 年号別 「里」調査表


 これは会報の公開です。

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