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海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」
川西市 正木 裕
一、挿入された隼人譚
『書紀』神代紀には、海幸・山幸譚という人口に膾炙した非常に面白い神話が記されている。詳細は省くが兄の海幸(火酢芹命)が、弟の山幸(彦火火出見)に屈服し、以後の服従を誓うという内容だ。そして彦火火出見は近畿天皇家の祖であり、火酢芹命は隼人の祖であるとするところから、天孫降臨以来「隼人は近畿天皇家に服従してきた」ことを示す神話となっている。
加えてその証左として、『書紀』に記す隼人の「吠声(はいせい)」と「独特の舞踊(隼人舞)」が、八世紀『書紀』編纂時に隼人の習俗・儀礼として、近畿天皇家に仕える際の「奉仕の様(かたち)」となっていることを挙げている。
しかし、隼人が「南九州の夷蛮の隼人」であったとすれば、いかに何でも近畿天皇家が『書紀』神代紀に記すような紀元前から南九州を支配していたとする者はいないだろう。『続日本紀』等によれば彼らが近畿天皇家に服従するのは八世紀の初頭、『書紀』編纂の直前であるから、この神話は『書紀』編者が、隼人の習俗を海幸・山幸譚に結び付け、「隼人が、天孫降臨以来、国の初源から近畿天皇家に服従してきた証しとする」という“作為”をもって作り上げたものと考えられよう。
本稿では、この「海幸・山幸」神話の「記述意図と作為」を、『書紀』に記す隼人の近畿天皇家への服従の象徴とされる「吠ゆる狗・俳優の伎」の正体を分析することによって明らかにしていく。
二、「吠ゆる狗」の正体
1、『書紀』に記す「吠ゆる狗」
まず、『書紀』で、隼人が「吠ゆる狗」となって奉仕する起源を説く記事を、水難に苦しむ兄・海幸が弟・山幸に救いを求めるところから見ていこう。
◆『書紀』神代紀下第十段(一書第二)
兄(*火酢芹命・海幸)既に窮途(せま)りて、逃げ去る所無し。乃ち伏罪(したが)ひて曰さく、「吾れ已に過てり。今より以往(ゆくさき)は、吾が子孫の八十連続(つづき)に、恒に汝の俳人(わざひと)と為らむ。〈一に云はく、狗人(いぬひと)といふ。〉請ふ哀しびたまへ」とまうす。弟(*彦火火出見・山幸)還りて涸瓊(しおひのたま)を出したまへば、潮自らに息(ひ)ぬ。是に、兄、弟の[示申](あや)しき徳*有(いま)すことを知りて、遂に其の弟に伏事(したが)ふ。
[示申]は、JIS第3水準ユニコードFA19
徳*は、徳の異体字。JIS第3水準ユニコード5FB7
是を以て、火酢芹命の苗裔(のち)、諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)のもとを離れずして、代(よよ)に吠(ほ)ゆる狗して奉事(つかへまつる)なり。世人失せたる針を債(はた)らざるは、此れ其の縁(ことのもと)なり。
前半は海幸が過ちを悔い改め、子子孫孫まで山幸の俳人となって仕える誓いを行う記事で、神話時代の出来事として書かれている。一方後半、「是を以て」以降は、「今に至るまで」とある通り『書紀』編纂時点での事実とその解釈を記すものだ。
そして、先述の通り紀元前から隼人が近畿天皇家に服していたはずは無いから、『書紀』編者が本来の神話に加筆・付加した部分と考えられよう。
2、「吠ゆる狗して奉事する」とは
ところで、この「付加された」隼人の奉事の様である、「吠ゆる狗して奉事する」とはどのようなことを指すのだろうか。
『書紀』に言う「今」、即ち『書紀』編纂時に近い資料である『延喜式』には、隼人が入朝・元日・即位等の儀、行幸等に際して「吠声(はいせい)」を発する役目を果たしたと記されているから、これが「吠ゆる狗」としての奉仕の様だと考えられている。
◆『延喜式』(隼人司条)
「元日即位及び蕃客の入朝等の儀(略)應天門外の左右(略)今来の隼人吠聲を三節発す。」
「凡そ遠き駕に従ひ行くは、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人四人、及び今来の隼人十人供奉す。(略)其の駕、国界及び山川・道路の曲を経るに、今来の隼人吠を為す。」
「凡そ今来の隼人、大衣をして吠ゆることを習はしむ。 左は本聲を発し、右は末聲を発し、惣て大声十遍、小声一遍、訖一人更に細声を二遍発す。」
要するに、近畿天皇家の儀礼や行幸に際し、隼人が定められた様式に基づき、「吠声・吠ゆること」をおこなうことが定められていたわけだ。
この隼人の吠声について、石母田正氏は、
「征服されたハヤトの一部は、捕虜として内地に集団的に分散定住させられ、天皇に仕える賤民とされ、事実、狗の吠える真似をする儀式を慣行として強制されていたし、エミシの一部も同様に内地に分散配置され、佐伯部として奴隷に近い地位におかれた」(『日本古代国家論』第一部)
とされ、他の論者もほぼ同趣旨を述べている。
「狗の吠える真似をする儀式を慣行として強制させられた」という意味は、神話の趣旨から「狗の吠える真似(吠声)」は近畿天皇家の習俗ではなく、「隼人征服以降に隼人の習俗であったものを、近畿天皇家の儀礼に組み込ませた」という意味だろう。
ただし「吠声(はいせい)」は『延喜式』に見るように、本聲・末聲・大声・小声一遍・細声という発声の様式や回数が定められた厳粛な儀式であり、近畿天皇家にとって賓客の歓迎式典という重要な「晴れ」の儀典の一部を構成していた。これは「吠声」は、隼人の近畿天皇家への「服従の証」であるかもしれないが、決して「狗の吠える真似」という語から連想されるような「賤しむべき所作」ではなく、かえって「尊ばれるべき儀礼」であったことを示すものだ。
3、吠声は警蹕
ところで、日本の神事・祭事において、『延喜式』に記すような「吠声」に類する所作がある。それは「警蹕(けいひつ)」だ。
◆「警蹕(けいひつ)」先払の声。〈けいひち〉ともいう。天皇が公式の席で、着座、起座のさい、行幸時に殿舎等の出入りのさい、天皇に食膳を供えるさいなどに、まわりをいましめ、先払をするため側近者の発する声をいう。古代中国皇帝が外出時に、道行く人を止め、また道を清めさせた風習が日本に移入されたものという。神事では御扉の開閉時や降神・昇神の際などに神職が発する「オー」という声をいう。(『世界大百科事典』ほか)
なお、ユーチューブで、徳島県鳴門市の大麻毘古神社の新嘗祭における警蹕を伴うご神体の移動の様子が二〇一四年七月末の時点でアップされているから参考にされたい。(註1)
このように吠声は警蹕と全くと言っていいほど類似する所作なのだ。しかも『書紀』や『延喜式』に記す吠声は公式の儀礼として執り行われるもので、そのような「発声」儀礼は警蹕以外には無いのだ。
4、吠声は隼人=九州王朝に関する神聖な儀礼
また、警蹕を発するのは「皇帝の側近」や「神官」などであり、「奴隷に近い身分」などではなかった。特に神官の警蹕は神道の所作であり、神話時代に遡る可能性が大だ。つまり吠声が警蹕であるならそれは、古来から神事の際に隼人が行ってきた儀式・儀礼であったと考えられる。近畿天皇家は隼人征服以降、彼らの神に仕える神事の一部である吠声を、自らに仕える所作に置き換え、自らを隼人にとっての「神・皇帝」並みに祭り上げた。しかも『書紀』で海幸・山幸の神話に挿入することによって「隼人は天孫降臨以来、狗のように忠実な下僕として天皇に仕えてきた」という世界を創出したのだ。
隼人が南九州の隼人であれば、九州王朝の天子の側近や神職として仕えてきたことになろう。倭人伝には女王の領域に含まれる国として、明らかに南九州と思われる投馬国の記述があるからだ。
しかし、より高い可能性は『書紀』に記す隼人とは、本来は九州王朝・邪馬壹国の末流だった、すなわち九州王朝の滅亡期に南九州に残っていた勢力で、八世紀初頭に近畿天皇家に支配された人々・勢力だったとすることだ。
なぜなら火酢芹命は瓊瓊杵命の子で、かつ海人族に相応しい「海幸」の名を持っているからだ。
吠声が警蹕を意味し、皇帝に関する儀礼を起源とするなら、邪馬壹国の俾弥呼に関する儀礼であるはず。また「神を降ろす神事」が起源であれば、神事に関する最高の権威者、「鬼道に仕える女王俾弥呼」の行うべき行為だったはずだ。
そうすれば、「吠声」は、本来邪馬壹国・九州王朝の神聖な神事・儀典の一部だったが、九州王朝滅亡後に、そっくり近畿天皇家に盗まれ、『書紀』では夷蛮の部族「隼人」の儀典であるかのように位置付けられたことになろう。
三、俳優の伎の正体
1、『書紀』に記す俳優となっての奉仕
また、同時に火酢芹命(海幸)は、弟の彦火火出見(山幸)の「俳優」となって、顔に赤土を塗り奇妙な伎(舞踊)を披露したとされ、これが『書紀』編纂時点まで続く隼人舞の起源であるとされる。
『書紀』神代紀下第十段(一書第四)
「汝(*彦火火出見・山幸)、久しく海原に居しき。必ず善き術(ばけ)有らむ。願はくは救いたまえ。若(も)し我を活けたまへらば、吾が生(うみ)の兒の八十連屬(やそつづき)に、汝(いましみこと)の垣邊(みかきもと)を離れずして、俳優(わざおぎ)の民たらむ」とまうす。
是に、弟嘯(うそぶ)くこと已に停(や)みて、風亦(また)還息(ふきとどま)りぬ。故(かれ)、兄(このかみ)弟の徳(いきほひ)を知りて、自伏辜(したが)ひなむとす。而(しかる)を弟、慍色(おもほてり)して与共(あひ)言はず。
是に、兄、著犢鼻(たふさき)して、赭(そほに・赤土)を以て掌に塗り、面に塗りて、其の弟に告(まう)して曰さく、「吾、身を汚すこと此の如し。永(ひたぶる)に汝の俳優たらむ」とまうす。乃ち足を挙げて踏行(ふ)みて、其の溺苦(くるしび)し状(かたち)を学ぶ。初め潮、足に漬く時には、足占(あうら・岩波古典文学大系では「爪先立ちか」という)をす。膝に至る時には足を挙ぐ。股に至る時には走り廻る。腰に至る時には腰を捫(もち)ふ。腋に至る時には手を胸に置く。頸に至る時には手を挙げて飄掌(たひろか)す。爾(それ)自り今に及(いた)るまでに、曾て廃絶(やむこと)無し。
この火酢芹命(海幸)の奇妙な所作は「溺れ苦しむさま」と記されており、海神より頂いた潮満・潮涸玉を駆使する彦火火出見(山幸)への屈服の証として代々演じることを誓う伎だ。
2、逆転する海幸・山幸の役割
この神話で兄・海幸は彦火火出見(山幸)に「久しく海原に居しき。必ず善き術(ばけ)有らむ」と救いを乞うが、よく考えてみれば、釣り針で漁をおこなうことを業としていた「海幸」こそが「久しく海原に居し」ていたはずで、潮の干満・潮流を差配する能力(善き術)を持ち、弓矢を以て狩を常の業とし潮に不慣れな「山幸」を苦しめるというのが「道理」なのではなかろうか。つまり海幸・山幸の役割分担が逆転していることになろう。(註2)
この矛盾も吠声同様、隼人征服以後になって、「隼人は火酢芹命以来、近畿天皇家に屈服し、身を汚す俳優として、独特な伎をもって奉仕してきた」とするために、『書紀』編者が、本来隼人の伝統舞踊であったものを、「隼人の祖たる火酢芹命が近畿天皇家のたる祖彦火火出見(海幸)に服属する際の所作に起源を持つ」と“作為的”に記したことにより生じたものと考えられるのだ。
3、「溺れるさま」という「隼人舞」は「三番叟」だった
そして、「溺れるさま」を表わすという「隼人舞」の所作とそっくりな舞が今日も残されている。それは能楽で天下泰平・国土安穏・子孫繁栄・五穀豊穣を願う神聖な演目「翁」の中の舞だ。
能楽「翁」は、能楽でも「別格」とされる演目・祝言曲で、翁・千歳・三番叟の三人の歌舞で構成され、正月初会や祝賀能などに演じられる。そのうちの三番叟の舞には、爪先立ち・足上げ・走り廻る・腰を使う・手を胸に置く・手を広げて上に挙げるなどの動作が見事に盛り込まれている。
しかもその登場に際しては「オー」という警蹕(吠声)が発せられるのだ。
そもそも“極めて目出度い儀式”であるはずの大嘗会で、「潮にもだえ苦しむさま」である隼人舞が舞われるというのは不自然極まりないのだ。そうではなく、隼人舞は隼人が自らの伝える神聖な舞であり、これを近畿天皇家に服属して後、近畿天皇家の儀典に際して奏したというのが実際の演舞が行われた状況に合った解釈だろう。
この考察が正しければ、隼人舞の起源は「溺れるさま」ではなく、天下泰平・国土安穏・子孫繁栄・五穀豊穣に相応しいものであったはずだ。
4、火酢芹命の舞(隼人舞)の起源は「田植えの神事」
そうした視点で三番叟を見れば思い当たるしぐさがある。それは「田植え」に臨む際の儀式・神事だ。三番叟は、水田(泥田)を足を抜きながら一歩づつ巡るしぐさ、苗を抱えるしぐさ、稲を担ぐしぐさ、苗植えていくしぐさ、足についた泥を飛び上がって落とすしぐさに相当しており、五穀豊穣祈願に相応しい舞だ。
そしてこうした舞は天孫降臨時、海人族に服従した「葦原中国」とされる北部九州の豊穣の水田地帯の民の神事に起源を持つもので、それが征服者たる海人族の儀礼に取り込まれ、降臨以来ずっと演じ続けられたと考えれば、近畿天皇家が南九州の隼人を紀元前から支配していたなどという『書紀』編者の無理な作為・設定を受け入れずに済むのだ。
しかも「顔に赤土を塗る」というのは『倭人伝』に記す北部九州の倭人の鯨面の風俗に類似するのだ。
古田武彦氏は『まぼろしの祝詞誕生』で大祓の祝詞を取り上げ、海人族(侵略者側)の天つ罪と、在地勢力(被征服者側)の国つ罪をともに許すことで和解を図り国を治めたという主旨を述べられている。その過程では在地勢力の神事も取り込んでいくことになり、火酢芹命の舞とされる所作もそのような神事の一つだったといえよう。
四、「海幸・山幸」神話の意図は九州王朝の抹殺
このように考える時、『書紀』や『延喜式』(隼人司条)にいう「隼人」とは九州王朝の残存勢力を指すもので、「吠声」や「隼人舞」は九州王朝の神聖な儀式の一部であったと考えられる。近畿天皇家は八世紀初頭九州王朝を討伐した後、九州王朝の南九州に残る残存勢力を「内地に分散配置」したうえ、夷蛮の隼人と蔑み、神聖な九州王朝の儀式の由来を、天孫降臨時の九州王朝の祖が近畿天皇家の祖に屈服した事に始まると“偽装”した。そして近畿天皇家に奉仕する儀礼に“衣替え”して取り込んだとするのが当を得ていよう。
『書紀』が「海幸・山幸」神話を神代下第十段をほぼフルに使って記述したのは、九州王朝の統治を抹殺し、「近畿天皇家に累代仕えてきた隼人だった」と位置付け、これを「吠声」や「隼人舞」という「証し」付きで喧伝する為だったのだ。
(註1)大麻毘古神社/新嘗祭○3(2012.11.1)御神体移動
大麻比古神社(徳島県鳴門市大麻町板東広塚)阿波一宮 阿波、淡路両国 の総産土神。御祭神 大麻比古大神・猿田彦大神。ただしユーチューブの映像は消去されている可能性もあることを承知頂きたい。
(註2)隼人が服属の証として「溺れるさま」を表わすというのも違和感を覚える。この点、守屋俊彦氏は「本来狩猟民族でありながら、あたかも海人族のように、水中で溺れるという仕草によって朝廷への服属を表白するという、考えてみれば、まことに奇妙なことが出来上がった」(守屋俊彦『記紀神話論考』雄山閣一九七三年より)という。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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