2012年6月10日

古田史学会報

110号

1、観世音寺・
大宰府政庁II期の創建年代
 古賀達也

補遺
観世音寺建立と「碾磑」
 正木 裕

2、「無文銀銭」
 その成立と変遷
 阿部周一

3、磐井の冤罪IV
 正木 裕

4、「邪馬一国」は
「女王国」ではない
石田敬一氏への回答
 野田利郎

5、書評
『人麿の運命』復刻

古田史学会報一覧

よみがえる倭京(太宰府) -- 観世音寺と水城の証言(会報50号)

「大歳庚寅」象嵌鉄刀銘の考察 古賀達也(会報107号)

参考 碾磑と水碓 大下隆司(会報114号)

観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代

京都市 古賀達也

はじめに

 九州王朝の都、太宰府の創建年代について、九州年号の「倭京」年間(六一八〜六二二)とする説注(1) をわたしは発表したことがあるが、それは九州王朝の王宮である大宰府政庁 II 期と太宰条坊が同時期に造営されたというものであった。ところがその後、井上信正氏注(2) の太宰府編年研究により、大宰府政庁 II 期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていることを知り、自説の変更を迫られることとなった。注(3)
 そこで井上説と新たに発見した『勝山記』の観世音寺創建記事などに基づき、太宰府と観世音寺創建年代の再検討を試みたのが本稿である。

太宰府条坊都市の創建年代

 従来の大和朝廷一元史観によれば、 I 期・ II 期・III 期と三層の遺構の存在が知られている大宰府政庁遺構について、朝堂院様式の II 期が観世音寺や条坊都市とともに八世紀初頭の造営と編年されてきた。ところが井上信正氏の研究により、大宰府政庁 II 期や観世音寺・朱雀大路よりも条坊区画が先行して造営されていることが明らかとなった。その根拠は、条坊区画と大宰府政庁・朱雀大路・観世音寺の中心軸がずれていることや、両者に使用されている基準尺(条坊区割りは大尺、政庁・観世音寺区割りは小尺)が異なっているという点であった。
 その結果、井上氏は大宰府政庁 II 期や観世音寺・朱雀大路は八世紀初頭に造営され、それらに先だって条坊区画が作られており、大宰府政庁 I 期が条坊区画と同時期の七世紀末の造営とされたのである。

井上信正説の画期

 この井上説はただ単に太宰府遺構の編年修正にとどまるものではなく、大和朝廷一元史観の通説に一撃を加える衝撃的な内容を実は含んでいる。
 井上説によれば、大宰府政庁 II 期遺構よりも早く条坊区画が七世紀末に造営されたとされ、それまで国内最初の条坊都市とされてきた藤原京と同時期かそれよりも早く太宰府条坊都市が造営されたことになるのである。従って、井上説の成立は大和朝廷一元史観にとって何とも説明し難い問題を惹起するのだ。すなわち、日本列島の中心権力者(大和朝廷)の都である藤原京と同じ日本初の条坊都市が同時期かそれよりも早く九州太宰府に造営されたことになるからである。
 このことは九州王朝説からすれば当然のことだが、大和朝廷一元史観からすれば井上説を容認することは自説にとって致命的な矛盾を引き起こすのである。こうした意味においても井上説は画期的なものであり、わたしの太宰府編年の見直しをも迫ったのである。

観世音寺の創建年代

 しかし、この画期的な井上説も九州王朝説からすると不十分かつ矛盾点を持っている。その象徴的なテーマが観世音寺創建時期に関する考古学的事実や文献(史料事実)との不整合である。
 まず考古学的知見であるが、観世音寺創建瓦は「老司 I 式」とされるもので、藤原宮に先行し七世紀後半に編年されている。六九四年に創建された藤原宮よりも早いとされているのである。注(4)
 次に観世音寺創建が記された史料であるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に、「観世音寺東院造」という記事が見え、観世音寺が白鳳年間(六六一〜六八三)に創建されたことがうかがえるのである。
 わたしは「観世音寺東院造」を「観世音寺を東院という人物が造営した」と理解しているが、「観世音寺の東院という建物を造営した」と理解し、観世音寺本体はそれよりも早く創建されていたとする論もあるようである。しかしそれだと肝心の観世音寺そのものの創建年が『二中歴』「年代歴」に記されていないということになり、ことさら「東院」の造営年だけを記すというのも不可解である。注(5) さらに、同じく『二中歴』「年代歴」の九州年号「倭京」の細注に、「二年難波天王寺聖徳建」という記事があるのだが、これは「難波天王寺を聖徳という人物が建てた」としか解せない。同一史料読解の基本ルールに従えば、観世音寺記事も同様に「観世音寺を東院という人物が造営した」と解すのが、文献史学の真っ当な方法である。
 このように、観世音寺創建年代は考古学的にも文献学的にも白鳳年間とするべきなのである。このわたしの主張を支持する史料を近年新たに発見したので紹介したい。それは九州年号群史料でもある『勝山記 注(6)』だ。
 同書の「白鳳十年(六七〇)」の項に、「鎮西観音寺造」という記事がある。もちろん鎮西とは九州のことだ。聖武天皇により太宰府に鎮西府がおかれたこともある(天平十五〜十七年)。その九州の「観音寺」と説明抜きで記されているからには、この「観音寺」は太宰府の観世音寺と解するほかないであろう。白鳳十年という年代も『二中歴』「年代歴」の記事と一致しており、このことも偶然とは考えにくく信憑性が高い。
 近畿天皇家側の伝承でも、観世音寺の開基を天智天皇の発願によるとしており 注(7)、したがってそれは天智在位期間の六六二〜六七一年のことと考えられ、白鳳十年(六七〇)とする『勝山記』の記事と一致している。
 以上のように、観世音寺創建は白鳳十年と特定して問題なく、この結論は更に重要なテーマへと進展する。それは大宰府政庁 II 期の創建年代についてである。

大宰府政庁 II 期の創建年代

 大和朝廷一元史観に基づいた通説では、大宰府政庁 II 期の創建年代を八世紀初頭としているが、井上信正説の出現により、七世紀末と編年せざるを得なくなってきた。しかし、九州王朝説により精査すると、その成立は七世紀後半の六七〇〜六八〇年頃となりそうなのである。
 何故ならば、先に説明したように老司 I 式の創建瓦を持つ観世音寺創建年が六七〇年であると見られることから、老司 I 式とほぼ同時期かやや遅れるとされる老司II 式の創建瓦を持つ大宰府政庁?期の創建は六七〇〜六八〇年頃とするのが穏当と思われるからだ。
 この時期は「壬申の乱」や筑紫君薩野馬が唐より帰国した頃であり、もしかすると大宰府政庁 II 期の宮殿は薩野馬のために造営されたのではあるまいか。もちろん、当時筑紫に進駐していた唐の軍隊の「監視下」での造営ということになろう。そうであれば、大宰府政庁 II 期の宮殿がたとえば前期難波宮よりもはるかに小規模となったことも、こうした事情が反映したように思われる。

条坊都市成立時の王宮

 以上のように、観世音寺や大宰府政庁 II 期の創建が六七〇〜六八〇年頃と推定できるのであるが、井上信正説によれば太宰府条坊都市はそれらよりも先行して造営されたことになることから、わたしはその時期を九州年号の倭京年間(六一八〜六二二)が最有力候補と考えている。「倭京」という年号の字義から、そのように考えざるを得ないのである。さらには「倭京」の直前の九州年号「定居」も太宰府条坊造営に関係する年号と思われる。
 このように太宰府条坊の造営を七世紀初頭とするとき、そのとき大宰府政庁 II 期はまだ造営されておらず、九州王朝の王宮は別にあったことになる。これも井上信正氏によれば、条坊区画の中心遺構を条坊中央よりも西側(右郭中央部分)に位置する「通古賀(とおのこが)」地区(王城神社がある)と推定されている。わたしもこの見解は有力であると思う。おそらく太宰府条坊都市が七世紀初頭に造営されたとき、九州王朝の王宮はその時の条坊区画の中心部分に創建され、七世紀後半の六七〇〜六八〇年頃に新たな王宮として大宰府政庁 II 期の王宮が条坊都市の北部に創建されたことになる。
 このように王宮の位置が都市中央部から都市北部に変更されたことは、九州王朝が七世紀後半には「北を尊し」とする「北朝様式」を採用していたことを示しており、興味深い現象である。注(8)

残された問題

 以上、考古学と文献史学の成果に基づいて太宰府編年について考察をすすめてきたが、なお残された問題が少なからず存在する。たとえば次のテーマだ。

(一)大宰府政庁 I 期の堀立柱建築物の造営年代とその性格。井上氏は条坊区画と同時期とされている。もしそうであれば、本稿の結論からそれは七世紀初頭となるが、その場合考古学土器編年との関係が問題となりそうである。

(二)条坊造営時の王宮が「通古賀」地区とすれば、それは条坊区画の右郭中央部となり、王宮としては不自然な位置である。もし七世紀初頭の条坊造営時は「通古賀」地区が条坊区画中心部に位置していたとすれば、当初の条坊は右郭部分のみで、左郭は大宰府政庁 II 期創建時に増設された可能性も出てきそうである。この点も考古学的な検討と土器編年との整合性が必要である。

(三)伊東義彰氏(古田史学の会・会計監査)が指摘されてきたことだが 注(9)、大宰府政庁 II 期の内裏部分(天子の生活居住区、字地名「大裏」が現存する)が狭すぎる。このことは前期難波宮や平城宮と比較しても明白であり、九州王朝説に立つ者にとって避けられない疑問であろう。

 太宰府・観世音寺など九州王朝王都の研究は九州王朝説にとって重要テーマである。本稿で行った考察は未だ不十分なものではあるが、今後の研究の「たたき台」にしていただければ幸いである。

 

(1) 古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) -- 観世音寺と水城の証言」『古田史学会報』五〇号所収。『古代に真実を求めて』第十二集(明石書店二〇〇九年)に再録。

(2) 太宰府市教育委員会。
 井上信正「大宰府条坊について」『都府楼』第四十号、平成二十年十月。
 井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』 No.五八八、平成二一年七月。
 井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条理制・古代都市研究』十七号、二〇〇一年。
 これら井上論文を伊東義彰氏(古田史学の会・会計監査)から紹介していただいた。

(3) 古賀達也「太宰府条坊と宮域の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、二〇一〇年)。古田史学の会のホームページ「新・古代学の扉」に掲載した「古賀達也の洛中洛外日記」の関係記事を編集したもの。

(4) 高倉洋彰「観世音寺の創建」(田村圓澄編『古代を考える 太宰府』吉川弘文館、昭和六二年)では、観世音寺創建年を六七〇年頃とする説があることを紹介され、老司 I 式創建瓦の編年から観世音寺主要伽藍の造営を七世紀まで遡らせることも可能とされている。

(5) 観世音寺の東側に「観世音寺東院」と称すべきほどの大型寺院遺構は発見されていないようである。

(6) 『勝山記』は甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録で、九州年号の「師安」(五六四)から永禄二年(一五五九)までの記録である。
 二十年ほど前に九州年号史料調査を行ったとき、わたしは『勝山記』を読んだのだが、観世音寺創建年代に関する問題意識がなかったこともあり、「白鳳十年鎮西観音寺造」の記事に留意していなかった。昨年、井上馨氏(古田史学の会・会員、山梨県在住)から送られた同書コピーを読んで、この記事の存在に気づいた。井上に感謝申し上げたい。

(7) 『続日本紀』和銅二年(七〇九)の詔に、「筑紫観世音寺は淡海大津の御宇天皇(天智)がのちの岡本の宮に御宇天皇(斉明)のおんために誓願し基するところなり。」とある。もちろん近畿天皇家の大義名分に立った記事であり、九州王朝の事績の盗用である。なお、この詔は観世音寺の完成を命じたもので、和銅二年時点では観世音寺には未完成の施設があったことがうかがえる。

(8) 大宰府政庁 II 期に先だって、前期難波宮(六五二年創建。日本書紀による)が「北朝様式」を採用していることを指摘しておきたい。

(9) 伊東義彰「太宰府考」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、二〇一〇年)。


 

補遺

観世音寺建立と「碾磑」

            川西市 正木 裕

 古賀達也氏の「勝山記」ほかによる観世音寺建立時期の考察について、若干の補足を行いたい。
 観世音寺建立時期とされる白鳳十年(天智九年)の『日本書紀』「是歳」条に「是歳、水碓を造りて治鉄(かねわか)す」とある。
 「水碓」は別名「碾磑」とも呼ばれ、『書紀』では推古十八年に高麗僧曇徴が作り、これが碾磑の始まりと記されている。但し、その造作目的や用途は不明だ。天智九年記事には用途は「治鉄」とあるが、碾磑造作の目的は記されていない。ところで、貝原益軒の『筑前国続風土記』(巻之七御笠郡上。観世音寺)寛政十年(一七九八)には、
◆観世音寺の前に、むかしの石臼とて、径三尺二寸五分、上臼厚さ八寸、下臼厚さ七寸五分なるあり。是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云。
とある。
 しかも現在、観世音寺の講堂前に「碾磑」の立札とともに現物が残っていて、一九八四年には森浩一氏らによる調査が行われている。
 その時の調査メンバーも「鉱石の粉鉱物質の原料、朱か金の原鉱を湿式粉砕するのに使用された」と推測している。朱(或いは金)は当時の寺院建立に不可欠な材料・塗料だ。
 こうした「遺物の状況」や『書紀』『筑前国続風土記』を合わせて考察すれば、「白鳳十年の観世音寺建立に際し、必要な金属の精錬のため碾磑が造られた」と考えられるのではないか。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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