古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1『親鸞 ーー人と思想』(明石書店)にも収録
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『神の運命』(1996年6月30日発行 明石書店)

古代の倫理と神話の未来

古 田 武 彦

   ・・・・万物の母なる大地、さらにまた世界を見渡す日輪を呼び訴える、見てくれ私を、神々からどんな仕打ちを受けているか、同じ神であるのに(アイスキュロス、呉茂一訳『縛られたプロメーテウス』、岩波文庫より)。

 六月四日、八時すぎ、足柄峠へ登るために新宿から小田急に乗りました。昭和薬科大学へ行くのに、通い馴れたコースです。いつもは玉川学園どまり。今日は、小田原の手前、新松田で降りました。九時半。足柄峠行きは、九時二十分。出た直後でした。九時五十分すぎ、地蔵堂行き。そこから足柄峠までは歩き。これが幸いとなったのです。
 地蔵堂からバス道をゆっくり登っていきました。バス道といっても、バスはもう通りません。まれに、自家用車に会う。その程度です。もっぱら舗装された道の利便を味わうだけです。何の気がねも、予定もない、ひとり旅ですから、少し歩いて、そばに樹かげがあれば、腰をおろして本を読みました。岩波文庫の古事記、倭建命の段の足柄峠のところを、くりかえし読みかえしたのです。

     ▽

 すでに「ヤマトタケル説話」に対する分析は完了していました。いや、完了した、と思っていたのです。ただ、足柄峠の現地を踏んでいません。もちろん、東京を中心として、関東の人々には、この峠へ行った方は少なくはありませんでした。その方々に、現地の状況は何回かお聞きしました。それだけでした。自分の足で踏んでいないこと、それが気がかりだったのです。京都へ帰ってから、出かけてくるのでは、一仕事です。この三月、定年退職。六月九日には移転の手はずとなっていたのです。
 「ヤマトタケル説話」については、第一に出雲建をめぐる説話、第二に熊曽建をめぐる説話。分析ずみでした。大きな転機は、第三の「草薙剣」の解明でした。熱田神宮のそばの「日部(くさべ)」の発見(和名抄)から、これが“太陽の港の要害(なぎ)”の神剣であったことが判明したのです。伊勢神宮でおばさん(倭姫命)から「借りた」まま、「返さなかった」というような、最近の「住専」風な話は、全く「後世の付加説話」だったのです(「借りた」のでなく「貰った」としても、変です)。
 関東の「吾妻はや」も、同じでした。北群馬の吾妻川、吾妻町、吾妻神社、吾嬬(あずま。字地名)等の密集する、この地帯本来の神話・伝承、その「主語」をとりかえて「倭建命」にした、換骨奪胎だった。それが判明したのです(日本書紀)。数年前、碓日(現、碓氷)峠へ行きました。地図で予想した通り、ここから東京湾は見えませんでした。浦賀水道は、もちろん。しかも、それは東南方向。九〇度回転すれば、東北、下方に先述の「吾妻」(わがつま、あずま)の密集地があります。この現地認識が発端となったのです。
 さらに、東海。現地の藤田邦彦先生(当時、大高北小学校)のおかげで、美夜受比売・伊服岐能山・当芸野が、美夜受比売の「兄(せ)」(=夫)を中心とした、現地の英雄伝承の換骨奪胎だった、その事実に気づくことができたのでした。ここでも、本来の現地伝承の「主語」(建稲種命か)を「倭建命」へと“とりかえ”ていたのです。わたしの本『盗まれた神話』の題そのままに。
 各地の皆さん方のおかげで、次々と右のような分析が進展していきました。だから、古事記の倭建命の「足柄峠越え」も、ほぼ百パーセント、「現地伝承」からの盗用であろう。その実態はない。そうふんでいたのです。しかし、当の現地をこの足で「踏んで」はいなかったのです。

     ▽
 峠に立ちました。東を見ました。やはり、東京湾は見えなかったのです。浦賀水道も、まず、無理。峠の真近か、東北方に矢倉山があります。眼前の秀麗な山です。これが"邪魔"になって、見えないのです。
 見えるのは、相模灘、相模湾、絶佳・絶景です。はるかに、江の島。房総半島は、晴れ上った日なら、南端部が見えるかもしれません。予想通りでした。
 予想外の収穫がありました。峠のそばに、昼なお暗い、足柄明神跡があります。バス道から少し左手(地蔵堂から見て)に入った道の行き当りです。この祠の、矢倉山や足柄神社(南足柄町苅野。バスで、峠から地蔵堂へ向かって二つ目くらいの停留所)など、点々と場所を移された経緯が書かれています。今の、この峠の場所には、石祠が残されています。
 あとで、地蔵堂そばの名物うどん店で聞くと、矢倉山の上にも、今に祠が残されているといいます。
 発見は、峠の明神跡へと入りかけた道の一画、昼弁当に持参のおむすびを食べていたときのことでした。
 古事記の一節が、また、気になってきて、開いてみました。見入りました。
 例の、弟橘比売が走水ノ海(浦賀水道)に入水し、「さねさし・・・・」の歌を歌う、哀切な一節の終ったあと、足柄峠の段に入ります。
 「其れより入り幸(ゆ)き、悉く荒ぶる蝦夷等を言向け、亦山河の荒神等を平らげ和して、還り上り幸きし時、足柄の坂本に到り、御粮(みかれい)を食う処に於(おい)て、其の坂の神、白鹿と化(な)りて来たり立つ。尓*(しか)して、即ち其の咋(く)ひ遺(のこ)しし蒜(ひる)の片端を以て、待ち打てば、其の目に中(あた)りて乃(すなわ)ち打ち殺すなり。
  故(かれ)、其の坂に登り立ち、三たび歎き、『阿豆麻波夜。』と詔(の)り云う。故、其国を号して阿豆麻と謂(い)うなり。」
     尓*は、尓の異体字。屋根編に小。JIS第3水準ユニコード5C12

 わたしが、おにぎりを食べ終っても、白い鹿は現われませんでした。しかし、白い鹿以上の大発見が現われたのでした。以下、個条書きしてみましょう。
 (一) 通常、理解されているように、「阿豆麻波夜」が、前の弟橘比売を指すものとした場合、直前直後の、つまり“両弟橘比売説話”にはさまれた「白鹿説話」が、全く“浮き上って”しまう。前後との“脈絡”がないのである。
 (二) しかも、この「白鹿説話」は、全く「残酷にして無法」としか、言いようがない。無目的の殺戮(さつりく)行為だ。現代の新聞紙上をにぎわした、あの「カルガモ、洋弓射撃」も、およばぬ残忍さだ。カルガモは“殺され”てはいなかったが、白鹿は即時殺害されてしまったのである。
 (三) このような残忍行為を軽々と犯しておいて、すぐあと、自分の妻だけに“ロマンチック”になり、“センチメンタル”な甘い言葉を吐く、というのは、全くの錯乱状態としか言いようがない。異常だ。「説話」としても、出来が悪すぎるのである。
 (四)これに対する、わたしの考えは次のようだ。
  (A) この「坂の神」は、女神ではないか。「白い鹿」に化(な)った、という行為からも、そう考えるのがふさわしい。
  (B) これに対して、食事をしていた、とされているのは、男神ではないか、と思われる。
  (C) この男・女神は「夫婦神」であった。「坂の神」とは、通例“道祖神”の名で呼ばれることが多いが、それはまた「男・女一対の二神」であることが多いようである。
  (D) 男神は、自分の妻(女神)が化しているとは、知らず、無造作にこれを打ち殺した。ところが、白い鹿は死ぬと同時に、みるみる「本来の姿」を現わした。それは、己が愛する妻の女神であった。
  (E) そこで男神は坂の上に登り立って、三たび「吾が妻よ」と嘆いたが、死んだ女神は、再び生き返ってはこなかった。
  (F) 以上は、「動物を殺す」という行為に対するタブー、いいかえれば「古代の倫理」をしめす説話である。すなわち、
   (1) 「肉を食料とする」「皮を衣服とする」「骨をトうらないに使う」そういった、具体的に目的をもった殺生(動物殺し)は、許される。
   (2) しかし、無目的の殺生は、絶対にしてはならない。
 以上だ。わたし達が、一方では焼鳥や焼肉などを喜んで食べながら、他方ではカルガモに突きささった洋弓の矢に憤りをおぼえるのは、同じ倫理観の継承なのではなかろうか。ここでも、健全な「古代倫理」が説かれているのだ(わたし自身、子どもの頃、祖母から「生き物を殺してはいけない」と、いつもいましめられたその理由は「御先祖様が〈虫やかえるなどに〉生まれ変っているかもしれないから」というのである。同じき人間の倫理の伝統であろう)。
  (G) この「古代倫理」否、人間の倫理を犯した男神は、むごい復讐をうける。すなわち、愛する妻を永遠に失う、という罰をうけたのである。
  (H) このように見てくると、こよなく美しく、無上にすばらしい、本来の説話が、主語を「倭建命」に換骨奪胎させることによって、いかにも醜く、“超矢ガモ的無分別の残酷英雄譚”へと変形させられてしまったのである。倫理の退廃だ。
  (I) 幸いにもわたしは、本来の健康な関東神話、その原形における女神の名を発見することとなった。 ーー「大ヒルメ貴(むち)」だ。
  (J) この説話の中の、最も不可解、最も「無理」な点、それは「ヒルで目を打つ」という殺し方だ。「ヒル」はキキョウ科の植物だが、この切れはしで鹿の目を打って殺す、こんな殺し方が可能かどうか、実験するまでもなく、明白。不可能だ。
   鹿を殺すなら、弓矢か剣、あるいはこん棒でもいい。デリケイトな動物だから、殺せるだろう。しかし、なんで「ヒル」なのか、「目」なのか。これは、「神名起源譚」なのである。
  「大ヒルメ貴」の「大」も「貴」も、尊称。語幹は「ヒルメ」だ。
  「これによりて、その女神の名を『大ヒルメ貴』というなり」
  「倭建命説話」に換骨奪胎したさい、この結びの一句、肝心要(かなめ)の一句をカットしてしまった。だから「ヒルで目を打つ」という行為が、まるで“浮き上がって”しまったのである。
  (K) このように分析してくると、男神の名もまた、浮かび上がってくる。「ヒルコ大神」だ。
  古事記・日本書紀の「国生み神話」では、“失敗作”“不具”として、舟に乗せて流される。捨てられるのだ。
  イザナギ・イザナミの両神が「国生み」をしようとして、まず、イザナミが「あなにやし、えをとこを」という。すると、「ヒルコ」つまり失敗作が生れた、という(表記は『古事記』)。
  天神におうかがいを立てると、「女が先に唱えたから」という。そこで今度は、イザナギが「あなにやし、えをとめを」と唱えたところ、無事、大八島国が生れた、というのである(同右)。
  縄文は、女神中心。それが弥生には、「男中心」の社会となった。「女がでしゃばると、失敗するぞ」そういう教訓をしめす神話だ。「弥生時代」という、この神話誕生の時間帯をしめしているのである。
  このさい、「悪役」をつとめさせられているのが、「ヒルコ」だ。だが、瀬戸内海周辺、たとえば徳島県などにも、「ヒルコ大神」を祭る神社がある。「失敗作」どころではない。だからわたしは、この「ヒルコ大神」こそ、古事記・日本書紀以前の、輝ける主神。そう考えてきた。その「ヒルコ大神」中心の世界を“否定”するために、記・紀神話は作られたのである。
  この「ヒルコ大神」こそ、「白鹿説話」の本来の主人公としての男神だったのである。
  坂の神は、男女一対の神、それは「ヒルコとヒルメ」であった。
  (L) この二神は、日本における、最も古い太陽神なのではなかろうか。
 なぜなら、この「ヒル」とは「ヒ(日)」、すなわち太陽という名詞の“動詞形”だからである。“太陽が輝く”という意味であろう。
 ところが現在、「ヒル(干る)」という動詞は、必ずしも肯定的な意味ではない。「うるおう」に対し、「干あがる」となれば、“悪い”意味だ。
 しかし「ヒルコ・ヒルメ」が“干あがる男女両神”などであったはずはない。「太陽のように輝く神」だったはずだ。名詞の「日」(太陽)には、現在でも“悪いイメージ”はない(「昼」〈ヒル〉も同類語か)。
 あの「メイドゥン・カッスル」の例がある。吉野ケ里以前、世界最大の環濠集落として有名だった。イギリスのドーバー海峡沿岸近く、西より(フランスから見て、左手)にある。わたしは二回、現地をおとずれた。
 「カッスル」は城「メイドゥン」は女王ではあるまいか。マドンナなどと類語だ。現代のような「女中・下女」の意味では、“さま”にならない(詩語では処女)。
 吉野ヶ里と同じ、弥生時代に当たる、紀元前後の頃、ケルトの時代だった。ドルイド族ともいわれる「女性中心の時代」がつづいていた。日本でも、卑弥呼が(縄文時代の女性中心への復帰として)現われたように、ここでも、女性中心のシンボル、それが「メイドゥン・カッスル」だった。
 それが、ローマやノルマンの征服後、「意味」が変化した。かっての「女王」を現わす、輝く単語が「下女・女中」へと顛落させられたのであった。
 これと同じ変化、それが「ヒル」にも生じている。かっては、日本語中の日本語、最も美しい動詞「ヒル」、太陽が輝く意義をになった中心動詞が、「干あがる」という。マイナスシンボルの動詞へと顛落させられたのであった。
  (M) 古事記・日本書紀では、「天照大神=大ヒルメ貴」の等式が現われている(ことに日本書紀)。これは「神々習合」だ。「神仏習合」の前身なのである(わたしの二〇年来の提唱である。朝日カルチャーセンターでの講義等)。
 もっといえば、かつての「大ヒルメ貴」の輝ける位置を、「天照大神」におきかえる、そのための「観念の等式」それが、右の「神々習合」のもつ役割なのである。
  (N) あとで『神社名鑑』を見てみた。何と、神奈川県には「大ヒルメ貴命」を祭った神社が少なくなかった。関東一円にあった。関東は、明らかに「大ヒルメ貴の信仰世界」だったのである。
 さらに、静岡市や横浜市に、あの「ヒルコ大神」や「ヒルコノ命」が祭られていた。関東から東海にかけてが「ヒルメ・ヒルコ」この両神の古代信仰圏であった事実は、疑いえないようである。もちろん、縄文時代、日本列島に原初の太陽神が誇りやかに輝きわたっていた頃である。

     ▽

 わたしは立ち上りました。峠を下る時間です。地蔵堂から、バスが三時五十分頃、出ます。一気に下りました。登りはゆっくり、一時間半かかった道を、三十分で下りました。十分、間に合いました。名物うどんを賞味できました。
 再び、新松田から、新宿へ。新宿から、地下鉄で、ゆっくりと本郷三丁目へ向かいました。夕方に帰り着きました。
 本日の教訓。 ーー「歴史は足にて知るへきものなり」。秋田孝季の教えの通りでした(秋田孝季は江戸時代の学者。『新古代学第二集』、新泉社参照)。
 なお、今後の楽しみなテーマ、それは次の二つです。
 第一、関東、東海などで、この「大ヒルメ貴」が「天照大神」として、現在は祭られているケースが少なくないであろう、ということです。日本書紀の「大ヒルメ貴むち=天照大神」の等式によって、「祭神名の転換」のおこっている可能性が大きいのです。足柄峠からの帰り道、わたしはもっぱら、このケースを考えてきたのでした。しかし、“意外にも”「大ヒルメ貴」そのままのケースも少なくないことを(『神社名鑑』で)知って、驚いたのです。伝統の根強さです。
 第二、関東近辺に多い「倭建命(日本武尊)」という祭神も、実は「ヒルコ大神」等からの“新しい転換”であることが察せられましょう。先の「足柄神社」も、その一例です(この点、「神功皇后」にも、同じ問題のあることを、今年五月十四日、九州の飯塚・北九州市の歴訪で知りました。改めて報告したいと思います)。
 蛇足ですが、この足柄峠の「坂の神」としての「ヒルメ・ヒルコ神話」は、一方では「ヒルメ」という神名説話であると共に、他方では「アヅマ」という地名説話ともなっています。この点を、改めて追求したいと思います。
     ▽
 今回の関東最後の小旅行は、わたしにとって莫大な収穫をもたらしました。見馴れていた古事記の説話の中から、「盗まれる」以前の、輝く原初の神話をまざまざと発見することになったのです。そこに「いたずらに生き物のいのちを奪うな」「愛する女性こそ生涯の宝」。そういった、古代人の健康な倫理とさわやかな精神が、それこそあかあかと輝きわたっている姿を見たのです。
 この地球に住みつづけようとする人間にとっての黄金律、それがこの原初神話の中に深く表現されていたのではないでしょうか。      (一九九六年六月二十日)

【付表】(カッコ下に記した現住所は鴨下武之氏による)
 関東・東海
  大日靈*(貴)命(オオヒルメ〈ムチ〉ノ、ミコト)
   神明宮(茨城県東茨城郡大洗町成田)
   藤岡神宮(栃木県下都賀郡藤岡町)
   八雲神社(栃木県芳賀郡芳賀町稲毛田)
   富士嶽神社(群馬県館林市小桑原)
   神明宮(群馬県藤岡市中栗須)
   神明宮(群馬県新田郡藪塚本町大原)
   神明宮(群馬県山田郡大間々町大間々)
   八幡神社(埼玉県熊谷市三ヶ尻字八幡)
   建市神社(干葉県市原郡三和町武士)市原市武士
   五所神社(千葉県山武郡蓮沼村殿台)
   神明宮(東京都北多摩郡小平町小川)小平市小川
   杉山神社(神奈川県横浜市港北区八朔町)
   有鹿神社(神奈川県高座郡海老名町上郷)海老名市上郷
   有玉神社(静岡県浜松市有玉南町)
 ー天照意保比留売貴(アマテラスオオヒルメムチ)
   神明神社(愛知県安城市高柳町中敷)
   神明神社(愛知県蒲郡市三谷町須田)
   神明宮(愛知県碧海郡高岡町提)豊田市堤町
 ー蛭児命(ヒルコノミコト)
   西宮神社(栃木県足利市西宮町)
   八幡宮(神奈川県横浜市金沢区富岡町)金沢区富岡東
   足坏あべ神社(静岡県静岡市足久保奥組二〇〇七)
 ー蛭子大神(ヒルコオオカミ)
              (「神社名鑑』による)
     靈*は、靈の下、巫の代わりに女。JIS第3水準ユニコード5B41


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