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明治体制における信教の自由

古田武彦

     序

 「信教の自由」 ーー本稿において、この概念を歴史的・批判的に分析することによって、わたしはつきの点を明らかにしたいとおもう。
 その第一は、この概念を創出した、西欧文明の特異性を明らかにすることである。いいかえれば、その文明にとって、何故、この概念が生み出されねばならなかったのか、という、根源的な問題である。
 その第二は、この概念を受容した、明治体制の思想性を明らかにすることである。いいかえれば、明治体制にとって、この概念は、現実に、どのような役割を荷なわせられていたか、そして、その役割は、どのような意味で、西欧文明の場合(のこの概念の役割)と同一性をもっていたか、という問題である。本稿の中心テーマは、さしあたって、右の二点にむけられている。さらに、この問題の性格上、わたしたちは、今の問題を解き終ると共に、つぎの二箇のテーマに対する未踏の視野が、にわかに開けきたるのを見るであろう。
 一は、日本宗教史上の中心課題に属する、「神仏習合」の問題が、この問題に関連して、新視界を得るであろう、ということ。
 二は、新憲法体制下において、「信教の自由」概念は、明治体制下の場合とは異り、いわば一箇の、解きがたい「根本的な矛盾」を内包せざるを得ないであろうということ。
 これらのテーマは、そのいずれの一つをとっても、それぞれ彪大な史料群と、それらを駆使する実証・論証の長い過程が期待せられるものであろう。
 しかしながら、本稿の目的は、簡を貴び、要を重んじ、これらのテーマの提起する“問い”を、論理的に彫出し、問題の“疑いようのない所在”を明白化することにある。紙数を限られた本稿にとって、今は、そのことのみに問題は制約せられねばならぬであろう。

 

    一 現今の“定説”への疑い

 「信教の自由」について、日本においては、一般に ーー現今の学界および国民各層の中においてーー つぎのような観念が流布されている。
 “明治憲法の中にも、「信教の自由」の条項は存在していたけれども、天皇の神聖不可侵性とそれに基く国家神道の圧力によって、その実質は形骸化していった。この点、新憲法によって、はじめて「信教の自由」は名実共に西欧近代国家なみの水準に達し得たのである”と。
 このような理解は、たとえば、つぎのような代表的な諸解説にもあらわれている。
 「明治憲法は神権天皇制をその根本義とし、その当然の結果として、天皇の祖先を神として崇める宗教 ーー神社または惟神道(かんながらのみち)ーー を、ほかの宗教と同じに扱うことを好まなかった。 ・・・・明治憲法が信教の自由を定めたことと、かように神社を国教的に扱うこととは、明らかに矛盾する。 ・・・・いずれにしても、明治憲法の下で、かように、信教の自由がまったく骨ぬきになっていたことは、明瞭である。」(宮沢俊義『憲法II」) (1)
「神道のこのような特殊性格を抹殺し、わが国に信教の自由の確立を要請する根本的基因は、いうまでもなく、降伏による天皇王権の否定 ーー天皇とその祖先との神格の否定ーー にあるが、直接契機をえたものは、ポツダム宣言第一〇条にもとづく連合国の指令、とくに昭和二〇年一二月一五日、「神道の国家よりの分離、神道の教義よりの軍国主義的超国家主義的思想の抹殺、学校よりの神道教育の排除」を内容とする「国教の分離」の指令である。これにより、神社は特権的地位を失い、また宗教団体法は廃止され、宗派神道や仏教諸宗の特権も否定された。・・・・現行憲法は、かような趣旨をうけ、第二〇条で信教の自由を無条件に保障するとともに、とくに国家と宗教の分離を明確にするため、詳細な規定をおいている。」(清宮四郎編『憲法I 」)(2)
 西欧近代憲法並みの「信教の自由」と、等質性を有するのは新憲法であり、明治憲法はその実質をいまだ有しなかった、という「常識」が右の諸家の説裏に存することは、これを容易に看取し得るところであろう。
 しかしながら、本稿の論証の発端は、このように、現今、あたかも自明の公理の如く見なされている、当の「定説」を疑うことから出発せねばならぬであろう。
 そのために、わたしたちは、先ず、西欧各国の近代憲法の「信教の自由」に関する各条に検証の手をむけることにしよう。

 

     二 近代法における「信教の自由」

 最初に、一九四七年に制定されたイタリア共和国憲法の「基本原理」として存する、つぎの項目を見よう。
  第七条 国家とカトリック教会とは、各々その固有の領域において、独立であり、最高である。(以下略)
  第八条 すべての宗教各派は、法律の前に等しく自由である。カトリック以外の宗教各派は、イタリアの法秩序に反しない限り、固有の規約にしたがい、団体を組織する権利を有する。(以下略)

 右の二条が、何の疑いもなく、告げているように、カトリック教会とそれ以外の宗教各派とは、厳然と区別されている。同じ一九四七年に発効した、日本の新憲法における、「全宗教の、法の前における平等」という概念は、ここでは明白に拒否されている。逆に、わたしたちは、明治憲法において、国家神道の「最高」性が前提されていたことを想起するのを禁じ得ないのである。
 次に、一八〇九年に成立して現今にいたる実効性をもつ、スウェーデン王国憲法を検証しよう。
 第二条(国王の宗派)国王は、常に、不易のアウグスブルグ信仰告白書(Augsburg Confession)及び、一五九三年のウプサラ宗教会議(Upsala synod)の決議が採択され、明らかにされた純福音主義新教を奉じなければならない。
 右においては、イタリアの場合とは逆に、新教の一派の有する、特権的地位が憲法上明記されているのを見るであろう。日本の新憲法では、無論、天皇と神道との特権的関係を説くことはないのである。
 次に、一九四九年に制定せられた、ドイツ連邦共和国基本法を検査の対象としよう。
 第七条(三)宗教教育は、公立学校においては、宗教に関係のない学校をのぞいて、正規の教科である。宗教教育は、国の監督をさまたげることなく、宗教団体の教義にしたがって行われる。いかなる教師も、その意思に反して宗教教育を行う義務を負わせられてはならない。
 第一四〇条 一九一九年八月一一日のドイツ国憲法第一三六条、第一三七条(中略)の規定は、この基木法の構成部分である。
 〈ワイマール憲法第一三七条〉
 (六)公法上の団体たる宗教団体は、市民租税台帳にもとづき、ラントの法の規定にしたがって租税を徴収する権利を有する。

 右の二条は、わたしたちにとって、奇異の観を深くさせられるものであろう。何故ならば、日本においては、明治憲法下の公立学校における、国家神道にもとづく宗教教育、また各神社・寺院の氏子・信徒への割当徴収が「信教の自由」に反する具体例として、敗戦後厳しく糾弾されたことを想起するからである。
 これに対し、日本の新憲法内部において、公立学校における宗教教育や租税台帳にもとづく、宗教団体の租税徴収権の条項をかりそめにも存置せしめ得るとは、何人も、これを夢想し得ないのではあるまいか。
 しかも、重要なのは、つぎの点であるとおもわれる。すなわち、これらの条項は、決して「信教の自由」と相反するものとして、現行ドイツ基本法内に存在しているものではない。逆に、「信教の自由」のための、長い歴史上の闘いを経た、その成果として、ここに現存している、という一点である。このことは、たとえば第一四〇条がドイツの法的近代化の指標とされるワイマール憲法の継承として明記されていることからもうかがい得るところであろう。
 してみると、この問題は、ヨーロッパにおける「信教の自由」の成立の歴史と、深い脈絡をもって、呼応していることが察せられるであろう。

 

     三 西欧キリスト教単性社会における、「信教の自由」の成立

 この問題を解く鍵は、ジョン・ロックの「寛容についての書簡」(Epistola de Tolerantia ad clarissimumvirum)の中に与えられているとおもわれる。
 一六八九年に発表された、この有名な書簡は、「信教の自由」の古典的典拠とされているものであるが、その中で、ロックは「寛容の対象から除外すべきもの」として、つぎの四項目をあげている。
 1、国家に危害を加えるもの、
 2、他の宗教に対して不寛容なるもの、
 3、外国の権力への服従を主張するもの、
 4、神の存在を否定するもの、
 右の四者は、「信仰の基本事項に関する異端や公共の秩序を乱すもの」であるから、「許すべきではない」とせられているのである。
 第一項の「国家」が「英国教会の首長たる英国王にひきいられる国家」を意味し、第二項がピューリタンの示す傾向をつき、第三項がローマ・カトリック教会が英国に加えつづけてきた歴史的圧力を想起せしめる点、ロックの立場が、各派からの理性的中立をよそおいながらも、その実は英国教会穏和派の立場に立つことは、しばしば指摘される通りであるが、本稿の論証にとって、注目すべきは、第四項である。
 すなわち、この項目においてこそ、ロックは、全キリスト教各派(カトリックとプロテスタント、ピユーリタン及び英国教会)を普遍的に代表する立場に立っているのである。
 何となれば、ロックの登場の背景には、十三世紀より十七世紀に及ぶ、「魔女狩り」が存在していた。その、史上類稀なほどの、苛烈にして執拗きわまる、「異教・異端」への「血の粛清」によって、ほとんど一切の“非キリスト教的要素”は、ヨーロッパの天地から放逐された。かつては、存在していた、ゲルマン的多神教信仰や、マニ教の如き東方諸宗教は、もはやヨーロッパの大地に、一切生息するを許されぬようになっていたのである。
 このような歴史的時点に出現した思想家ロックにとって、「寛容」とは、畢竟して「キリスト教社会内部における、各派の許容」を意味していたのである。
 このことは、ロックより一世紀を遡る以前に成立した、一五九八年の、有名なナントの勅令(Edit de Nantes)の中にも、すでに明瞭に示されている。
  第六条 余が臣民の間に騒乱、紛議のいかなる動機も残さぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんらの審問・誅求・迫害されることなく、生活し、居住することを認める。
      彼らは、事、宗教に関してその信仰に反する行為を強いられることなく、また本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追求せられることもない。

 この勅令が新旧両派の惨澹たる闘争の大虐殺の後に成立したものであることはよく知られているが、わたしたちにとって注目すべきは、その前提として、異教・異端の徹底的粛清によって合一された「キリスト教単性社会」が成立していたことである。
 従って、これを端的に表現すれば、ナントの勅令は、決して「諸宗教の和解」の表現ではなく、「神の面前における、新旧両派の和解」なのである。
 このような、ヨーロッパにおける「信教の自由」成立のための、歴史的刻印は、たとえば一九四九年成立のドイツ連邦共和国基本法において、つぎのように表明されている。

 および人間にたいする責任を自覚し、その国民的・国家的統一を維持し、かつ合一されたヨーロッパにおける同権の一員として、・・・・ドイツ国民は、過渡期について国家生活に新秩序をあたえるために、その憲法制定権力にもとづき、このドイツ連邦共和国基本法を決定した。(前文の冒頭、傍点は古田 インターネット上は赤色表示)

 右と同一の性格は、つぎのようなフランスの場合にも現れる。

 一七八九年の「人および市民の権利宣言」
  その結果として国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する。

 一八一四年憲章における「権利宣言」
  第七条 ローマ・カトリック正教の祭司およびそれ以外のキリスト教宗派のそれのみが、王国の金庫から手当をうける。

 日本などの非西欧世界では、「諸宗教の自由」の明々白々の侵害でしかあり得ぬ底の表明 ーー“神の面前における、憲法の制定”ーー が、ヨーロッパ・アメリカの近代法においては、逆に、「信教の自由」そのものの前提とされているのである。
 以上の検証によって、わたしたちは、ヨーロッパ・アメリカのキリスト教単性社会において成立した「信教の自由」が、その実質において、「神に対する、信派の自由」にほかならぬことを認識せざるを得ないのである。

 

     四 西欧単性社会のウィーク・ポイント

 前章の論証に関連して、なお一箇の問題点を吟味しておかねばならぬ。
 前節までに述べたように、十三〜七世紀の、長期にわたった、異教異端に対する、“非寛容的”徹底的な排除は、キリスト教単性社会をヨーロッパの天地に成立せしめることとなった。そして、“そのギリスト教的に純化された”社会こそ、「神の前の寛容」の論理を産出した主体なのであった。
 けれども、この論理は、一箇の脆弱点を有していた。それは、先に触れた、ロックの書簡にあったように、「神の存在を認めない者は、これを寛容から除外する。」という立場に立脚していたからである。この点、西欧単性社会は、自己の胎内に、二箇の“疎外者”をかかえなければならなかった。
 それは、一にユダヤ教、一に無神論である。
 前者は、西欧単性社会の中に生き残った、唯一の異教とも、言うべき存在である。エホバの神という点では、「神」を共有しながら、必要にして十分なる意味における神、すなわち、“キリストの神”という意味においては異質であった。この故に、ユダヤ人は、西欧単性社会の中にあって、 ーーその文明の基本原理からーー 屈折した疎外を受けつづけることとなったのである。
 後者は、最も端的に、西欧単性社会にとって、内部における敵対者、「非寛容の対象」とされたことは、見やすい道理である。
 この場合、注意を要するのは、西欧単性社会内部にあっては、「無神論」は必然に“戦闘的神論”たらざるを得ぬ位置におかれていることである。「単一なる神の支配」が、その文明の基本原理である以上、「無神論」は、体制内の最も根源的な叛逆者の思想とならざるを得ぬ、思想的運命を有しているのである。
 このようにしてみれば、わたしたちは、ユダヤ人にして、無神論者なるマルクスが立った位置を容易に理解し得るであろう。
 彼が「宗教の批判こそいっさいの批判の前提なのである。」(へーゲル法哲学批判)と言うとき、ここで言う「宗教」とは、中世ローマ・カトリックの宗教であり、また、宗教改革後の分裂が「信教の自由」という名の宗派の妥協によって縫合されてきた、ヨーロッパ近世・近代のキリスト教単性社会の宗教 ーーすなわち、その文明の基本原理を指していたのである。それ故にこそ、それへの批判が、「いっさいの批判の前提」とされたのである。
 そして、若きマルクスは、西欧単性社会における宗教の役割を、つぎの有名な表現で集約した。
 「宗教はなやんでいる者のため息であり、また心ない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである。」

 ここでは、ヨーロッパキリスト教単性社会の基本原理 ーー神ーー が「民衆のアヘン」として告発されている。いいかえれば、西欧単性社会の産出した「信教の自由」原理の矛盾、いわばその“偽善性”を、最もよく見透(す)かし得る地点に、マルクスは立ち、そこを自らの思想の出発点としていたのである。

 

     五 明治体制における「信教の自由」概念の適合

 前章までにのべたように、きわめて特異な“生い立ち”をもった、「信教の自由」概念が、どのような意図をもって、明治体制の中に導入されたか、について、考察しよう。
 この問題について、きわめて興味深い問題を提供するのは、つぎの史料であろう。
「神道ハ御国ニテ国体ヲ維持スルニ必要ナルヲ以テ之ヲ宗教ニ代用シテ自ラ宗教ノ外ニ立テ、国家精神ノ帰嚮(ききょう)スル所ヲ指示シ、儒仏及西洋諸教等ハ人民自由ノ思想ニ任セ、法律ノ範囲内ニ於テ之ヲ保護シ教義上固ヨリ之ニ干渉スベカラズ、而シテ国家ノ監理スベキ者三アリ、宗教ハ内政ニ関セズ、裁判ニ関セズ、外交ニ関セザル等是レナリ。」(須多因氏講義)
 十九世紀末、ドイツ国家学者シュタイン氏が伊藤博文に与えたこの訓戒は、見事に明治体制の進路とその運命を描破している。
 氏は自らの国家学の構想、自らの研究の帰結を東方後進国たる日本の国家構想に正確に適用せんとした。自らは、その実質を知らず、恐らくは低級・野蛮の宗教として軽侮していると思われる「神道」を近代日本の「国家精神」にせよと、ズバリと指示しているところに氏の冷たい理性が遺憾なく表現されていると言えよう。
 しかしながら、このような提言の背後には、ヨーロッパ近代国家が「信教の自由」を表面となえつつも、その内実、国家理性として「キリスト教精神」を裏打ちしているという、氏の国家学上の見識が存していると思われる。
 その「キリスト教精神」とはこの論稿で、すでに明らかにされたように、「同教化」されたヨーロッパ単性社会の(異教・異端排除後の)キリスト教にほかならない。しかも、それが「新教」「旧教」という具体的的宗教を超越している限りで、一種の「非宗教」の神として、国家の法の背後に厳然と君臨していることを氏の研究は見抜いていたのである。(個々の宗教〈=宗派〉から離れた「神」は、「信教の自由」のに立つ、自明の存在なのである。)
 無論、これは氏がへーゲル(法哲学の)学徒として出発し、その上に国家学を建設した上、へーゲル的国家論の背骨をなす「概念としての神」をはっきりと見すえているに過ぎなかったのであるが、問題はつぎの点に存する。
 氏は「行政学」(一八六五〜六八)の著述があることでも知られるように、国家学の中でもとくに、行政学者として名をなした。氏は「行政」に対する定義を「社会における階級対立の矛盾を緩和するもの」と規定する。そして、この見地から、ドイツ行政学の伝統の完成としての国家学を建設するのが氏の学問の目標をなしていたのである。
 従って、右の、氏の根本定義の中には、氏の生涯の主要な研究テーマの、圧縮された反映がある。氏が、三十代半ばにパリで学んだ頃の研究成果たる「現代フランスにおける社会主義と共産主義」、そしてウィーンに大学教授の席を獲得する直前の、氏の生涯で最も野心的な生気ある研究の実った時期の大作「一七八九年から現代にいたるまでのフランス社会運動」、 ーーこの代表的二著作に一貫したテーマは、ヨーロッパにおける近代社会運動の祖国、フランスの社会主義・共産主義に対する分析であった。
 この点、シュタイン氏とカール・マルクスとは、不思議な位、一致を、示している。二人の生涯が世代的にまったく重なるのみでなく、(シュタイン氏が三歳の年長である)同じドイツの大学(キールとボン)の同じ法科の学生として同じへーゲル法哲学を学んでいる。そして同じ時期に同じパリに学び、(一八四〇年代、二人はパリの街頭で会ったことがあるかもしれぬ)同じく、やがて来るパリ・コンミューンの嵐を前にした、フランスの社会運動・無神論をその研究対象としたのである。
 しかし、同じ時代の空気を吸った、この二人の青年も、その後くっきりとその進路を分つのである。
 一八八二年、伊藤博文がウィーン大学に「財政学・行政学・法哲学」担当の「大博士斯丁(シュタイン)氏」の講義を筆記している時、ロンドンの陋巷では、マルクスが「かつてなかった困窮、救いのない悲しみ!」(妻イェンニーの手紙)といった生活の真只中で、その生涯(と思想の展開)の終末に近づいていた。
 一方、伊藤は、シュタイン氏に面会した翌々日(八月一一日)、岩倉具視あての書信をしたため、シュタイン氏の講義により、「英米仏の自由過激論者ノ著述」を過信すべからずとの「道理」を教授され、「心私ニ死処ヲ得ルノ心地」と、異常な歓喜の情を述べた。
 さらに、八月二十七日づけの参議山田顕義に与えた書翰では、「仏国革命の悪風に感染してはいけない」「かの教唆煽動家の口車に乗らないこと」を教えられ、大いに「前日の非を覚った」と告げている。
 何も、伊藤が「前日」「教唆煽動」の「自由過激論者」だったわけではない。ただ、彼がいかに中江兆民流の在野民権論者に悩まされ、やがて(この年から日本各地で)激発する自由党左派の暴動に恐怖していたかが察せられる。
 このようにして、伊藤は、「教唆煽動」の「自由過激論者」封じ込めの秘法をシュタイン氏から授けられ、意気揚々とロンドンにわたったのが、一八八三年の三月初めであるが、その月の十四日(伊藤の二ヶ月のロンドン滞在中)、ヨーロッパの生んだ最大の「教唆煽動」の「自由過激論者」マルクスは、同じロンドンの一角で絶命したのである。
 老教授シュタイン氏が壮年の伊藤に「教唆煽動家の口車に乗るな」と教える時、氏の脳裏には、かつて同じ道を共に歩んだマルクス、共産党宣言を発してヨーロッパの社会運動に激震を加えたマルクスのことが念頭にあったのは確実と言えるであろう。
 氏はヘーゲルの弟子(マルクスも共に)として、国家と社会を区別し、すべての歴史および政治現象を、“人格としての国家”と“階級的社会”との対立抗争の過程と見る立場に立っていた。だからこそ、その「国家」の「行政」に、「社会における階級対立の矛盾」への緩和剤を発見していたのである。
 そして、その階級対立緩和剤(=行政)の根本原理がへーゲル流の絶対精神を受けた国家精神、つまりヨーロッパ単性社会のキリスト教であることを、氏は明確に意識していたのである。
 ここには、単性キリスト教的国家精神を、階級矛盾の、強力な観念的緩和剤と見る認識が成立している.
 それは、氏の兄弟弟子マルクスが、宗教をもって、階級対立を観念的に忘却させ、緩和させる作用をなすアヘンと見なした認識と、完全に合致している。その差異は、わずかな一点のみであろう。曰く、「緩和させる側からリアルに見るか、緩和させられる側からリアルに見るか。」
 ーーこのわずかな一点が、かつて同じコースにいた両青年を、ウィーンの快適さと、ロンドンの窮乏に峻別したのである。
 さて、このようにしてみると、シュタイン氏が伊藤に対し、「神道」を「非宗教」(=諸宗教以上の宗教)として、国家精神にせよ、と指示した、真の意味は明白であろう。やがて近代国家の道をたどる日本が、当然赤裸々な挑戦に会うはずの、階級対立に対し、あらかじめ強力緩和剤(=アヘン)を設定せよ、というのである。決して「信教の自由」を単なる「自由」として「過信」するな、というのである。
 ここで特に注目せしめられるのはつぎの点であろう。すなわち、氏にとって、緩和剤の役割が“自らの信仰”とは切りはなして、完全に「醒めた」目で、分析・摘出せられていることである。(それでなければ、紳士としての表面上、キリスト教徒であるはずの氏が「神道」を国家精神にせよ、と明快に言い放てないはずであろう)
 つまり、氏自身の本質(内心)は、完全に無神論者である点が、重要である。
 だからこそ、階級対立に目覚めがちな民衆の前に、地上における絶対精神(=国家精神)を提示せよ、目を覚まして彼等が不幸にならないように、民衆に対して、「信教の自由」など以上の、いかにしても、そのわくから出れないような、崇拝の対象「神」(=原理としての緩和剤=アヘン)を与えてやれ、と処方箋(しょほうせん)を書くのである。
 ここに統治者としての国家学の秘密、「教唆煽動家」封じ込めの秘法がある。一言、これを要約すれば、つぎの一語に尽きよう。曰く、「自信教人信」(自ら信ぜずして人をして信ぜしむ)と。
 わたしたちは、以上によって、明治体制における「信教の自由」と、ヨーロッパのキリスト教単性社会における「信教の自由」とがいかに深く契合しているか、いかに同一の役割を荷なわせられているか、を目のあたりにすることができた。

文明の基本原理→国家精神→法の前提としての「単一なる信仰」→その前提にささえられたものとしての「信教の自由」→階級対立の最良緩和剤→民衆のアヘン

 これに比すれば、現在の「定説」的見解 ーー西欧の近代法においては、“純粋な”本格的表現を見ていた「信教の自由」が、明治体制の中で、歪(ゆが)められ、本質を失わせられたーー は、畢竟して、一面的理解、ことに啓蒙主義的理解たるを免れぬことが判明するであろう。何故ならば、それは、新憲法における「信教の自由」をもって、西欧近代法水準のものと見なすことによって、これを「美化」し、「正統化」し、そういう現代の、一定の政治的立場(当面、その立場がいかに「穏健」であり、絶対多数派に見えていようとも)から、明治憲法中の「信教の自由」を批評的に解説せんと欲したものだからである。今、わたしたちの確認すべきは、つぎの点であろう。
  一、明治体制における「信教の自由」は、西欧近代法における、この概念の現実(リアル)な役割を、「誤解なく」適用せんとされたものである。
  一、伊藤たち、明治体制の指導者たちをして、西欧単性社会における「信教の自由」概念に学び、これを採用せしめた、真の原動力は何か。それは、明治維新が論理必然的に惹起すべき、つぎの「より十分なる維新としての、革命」への恐怖であった。わたしたちは、これをつぎのように簡約し得よう。
 “明治体制における「信教の自由」産出した、真の動機は、「未来への恐怖」である”と。

 

     六 神仏習合思想の果してきた役割に対する問いについて

 前章までにおいて、わたしたちは、本稿の提示せんと欲した中心課題を終えた。
 そこにおいて展開せられた視野の上から、全日本宗教史を展望するとき、意外なる一テーマに遭遇するのである。
 日本宗教史学に立ち向う研究者に対し、いつも“奇妙な”しかし“魅力ある”相貌をもって誘引するかの如き、「神仏習合」思想とその現象は、一種解きがたい謎を秘めて、そそりたっているように見える。
 それは、本来の神道とも、本来の仏教とも異る、“複合宗教”として、異様な錯雑性を本質としているからである。
 しかしながら、本稿において、論証の基礎とされきたった方法論的思考からすれば、この「神仏習合」思想こそ、「信教の自由」概念の日本的形姿にほかならないのではないか、と思われるのである。
 このあまりにも、一見奇矯なる命題は、聞く人をして当惑せしむるであろう。
 しかしながら、わたしたちはすでに、西欧単性社会内において、「信教の自由」概念の果してきた、現実(げんじつ)な機能を検出した。
 一方から言えば、旧教という「宗教」から出発しても、新教という「宗教」から出発しても、同じく「単一なるなるキリストの神」へと到達する、という思想構造。それ故、「神の共有」を理由として説かれる、両者間の「寛容」。 ーーそれが体制化され、常識化されたものが、西欧単性社会における「信教の自由」の基本構造であった。これに対し、神道と仏教の共存する社会において、問題は、いかに展開されねばならぬであろうか。
 “仏という絶対者、神という絶対者、一見二つの異質の絶対者が存するように見えるであろう。しかし、真実は、その究極の相において、両者は同一である。一方が他方に「垂迹」したに過ぎないから。”
 これが「神仏習合」(「本地垂迹」「反本地垂迹」)思想の、論理の骨髄ではあるまいか。
 このようにして、「神道」と「仏教」の共存と「寛容」が可能となる。民衆は、いずれの側からでも、「自由」に信教し得るのである。そして、そのいずれの側から出発しても、単一なる“習合の地”(=本地)に到達するのである。
 民衆にとって、「神を信ずる」も、「仏を信ずる」も、異質のこととは感ぜられず、“登る道は異れども、到るは同じ富士の高嶺たかね”と見なされるのである。
 そして、この「習合」の現実の、中核をなしているのは、早くより「神道」によって自己の権力を“権威化”“正当化”しながら、やがて仏教の保護者、中心的受容者の相貌を具備・兼有していった、天皇家の歴史的存在であろう。
 この点から見れば、「神仏習合」がながらく、日本の体制的社会内の体制的宗教思想の典型的形態でありつづけてきた理由が容易に理解せられよう。
 (これに対し、「神祇不拝」のもと、体制的な「神仏習合」を拒否せんとした、専修念仏運動が、最も鋭く、反体制的な思想運動となり得た、その思想構造上の理由が鮮明に浮び上って来よう。)
 西欧の場合は、ローマ・カトリック教会の中世的権力、旧新教結合の近世的異教・異端排除によって、古代的なゲルマン多神教の信仰は徹底的に粛清された。
 これに対し、日本の場合、神道をもって自己を権威化した天皇家が仏教受容の中枢に立ったから、蘇我・物部の武力闘争の記憶のうすれ去ったのちに、「神仏習合」の主潮は、体制をおおうにいたったのである。
 以上は、問題の発端に過ぎぬ。しかしながら、このような“問い”の中で「神仏習合」は、決して“異常な”現象ではなく、日本という神仏共存社会の基礎原理として、最も「正統的」な現象であることが論理化されるのではあるまいか。

 

     七 新憲法内の「信教の自由」をめぐる矛盾について

 わたしたちは、本稿の末尾において、新憲法の「信教の自由」に対して、一箇の矛盾点を指摘して、本稿の附論としたいとおもう。
 新憲法の、最大の特色の一をなすものと見られている、「基本的人権」に関して、つぎの如き条項の存することは、人のよく知る所であろう。
  ○この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。〈第三章国民の権利及び義務、第一一条〉
  ○この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。〈第一〇章最高法規、第九七条〉

 わたしたちの注目をひくのは、右の二条が、いずれも“受動形”の文脈で詰られていることである。これらの「基本的人権」は、一体、何人によって、日本国民に「与へられ」たり、「信託され」たり、するのであろうか。
 これに関して、法解釈家たちの理解は、一定している。「神によって」(by God)というのが、その解答をなしている。
 まことに、「日本国民」の総体に対して、「基本的人権」を付与し得る者は、いかなる“人間個人”でもあり得ぬと言わねばならないであろう。
 その上、わたしたちは、この日本国憲法の条項に対し、直接の影響力を有しているものと信ぜられる、著名な、左の文面を知っている。
  ○われらは、すべての人間は平等に創造せられ、その創造主から特定の不可譲の諸権利を賦与され、これらの権利中には生命自由及び幸福の追求があること、以上の真理は自明である、と信ずる。〈独立宣言 ーー 十三のアメリカ連合諸邦の全員一致の宣言〉

 本稿の論証にとって、必要な点は、この「基本的人権」が「創造主=神」によって、各人に付与せられた、と見なされていることである。それ故にこそ、いかなる地上の権威・権力・王権・政府・世俗法も、これを侵し得ないのである。
 ところが、西欧キリスト教単性社会の中で産出された近代法の中では、「基本的人権」の付与者たる「神」は、堂々と人々の面前に姿を現わし、文脈の中枢の位置を確固と占めている。
 しかしながら、このような「文脈」は、日本の新憲法の中に出現すれば、直ちに「信教の自由」に対する、露骨なる侵犯とならざるを得ないであろう。
 それ故、新憲法の文章作者は、“苦肉の策”として、「初等的英語の知識」を活用する挙に出たのである。
 すなわち、「能動文」においては、主語は省略し得ないけれども、「受動文」においては、能動者(by what)は省略せられ得るのである。
 このような、“小手先の”文法技術によって、「創造主=神によって」(by GOD)の一句は、文の表面からは、消し去られたけれども、一旦、法解釈を加えんと欲すれば、歴々と全身を露呈して、「信教の自由」項を侵害してやまないのである。
 しかしながら、真に「侵害」せられやまぬのは、「基本的人権」も同断である。人前に出すをはばかられるほどの、「隠れた神」、新憲法全体の前提たることを許されぬ「神」、そのような、現実の力なき「神によって」日本国民に付与された、「基本的人権」の運命は、まことに心細いものと、言わねばならぬであろう。
 いわゆる「公共の福祉」によって死命を制せられ、権力側の有権法解釈によって、その現在と将来の命運を扼せられつつ、日々を過すほかないのである。

 

     結

 右の問題は、原理的には、新憲法の基本的性格が「無宗教性」に存することと、深い関連を有するであろう。
 新憲法における「信教の自由」は、諸宗教の並存する、多宗教地域・非単性社会における「信教の自由」として存在している。
 この点、西欧単性社会における「信教の自由」が「単一なる神」を指向し、前提しているのと異り、いずれの宗教にも属せざる「無宗教性」こそ、法の基本性格とならざるを得ないのである。
 そして、これが、先の「基本的人権」問題に対し、根源的脆弱性となっていたのである。
 けれども、わたしたちは、“新憲法の原理的無宗教性”という、まことに興味深き問題の入口に立って、この稿を終えねばならぬであろう。一見、当然至極、自明に見える、この問題が、実は幾多の深刻なる内部矛盾・亀裂を有していること、先の「基本的人権」問題に、一端を瞥見した如くであるけれども、これは、稿を改めて、“新憲法体制の思想矛盾”の問題として、分析・論証せられねばならぬ。
 今は、次の点を帰結として、本稿を終えたいと思う。すなわち、西欧の近代法における「信教の自由」の思想構造は、むしろ、明治体制における「信教の自由」と対応している、という点である。これに対し、新憲法の場合は、“体制原理の無宗教性”という、西欧単性社会とは全く相異った新事態(3) へと、論理必然的に逢着するにいたっているのである。

 

〈補〉
 日本宗教史研究の比叡山会場において、「宗教」の語が religion の訳語となった経緯について質問あり、この点につき、森竜吉氏より、明治維新前後の用例につき、解説をいただいた。その後、筆者が徳川時代の宗学文献(西天道人「共命物語」)を検するうち、「教」の語が「学」と対応した語義で用いられているのを見たのである。この場合、「宗教」とは、たとえば「仏教諸派全体」のことではなく、「真宗本願寺派」の如きを指すわけである。西欧において、一の“religion”とは、旧教や新教、またその一派を指すのであるから、この点、まさに、“宗派”としての「宗教」は、適訳であったわけである。


(1)法律学全集4(有斐閣)三四一〜二ページ。
(2)新法律学演習講座(青林書院)一三六ぺージ(芦部信喜氏執筆部分)
(3)憲法における基本的無宗教性の問題については、フランスの第五共和国憲法の場合(アルジェリア問題を媒介として)、ソビエト憲法等共産圏の場合等興味深い問題が多々存在するけれども、本稿においては割愛せざるを得ない。

※この論文は『日本思想史研究3』(昭和四四年刊・株式会社法藏館発行)所収のものを転載させていただきました。


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