古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1『親鸞 ーー人と思想』(明石書店)にも収録
明治体制における信教の自由 古田武彦(『古代に真実を求めて』第1集)(『神の運命』 1)へ

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『神の運命』(1996年6月30日発行 明石書店)

近代法の論理と宗教の運命

IV

“信教の自由”の批判的考察

古田武彦

 日本近代社会の精神状況への考察 

    ーーその論理(ロジック)の抽出の試み

  人間という者は問違いなく崇拝に値するものを求めている。万人が一時に打ち揃ってその前に跪き得るくらい、間違いのないものを求めているのだ。・・・・しかし、彼らを統率する幾らかの者は除外されるのだ。つまり、秘密を保持しているわれわればかりは、不幸に陥らねばならぬのだ(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」第五篇Pra et Coutra 第五、大審問官)。

 

     1

「神道ハ御国ニテ国体ヲ維持スルニ必要ナルヲ以テ之ヲ宗教ニ代用シテ自ラ宗教ノ外ニ立テ、国家精神ノ帰嚮(ききょう)スル所ヲ指示シ、儒仏及西洋諸教等ハ人民自由ノ思想ニ任セ、法律ノ範囲内ニ於テ之ヲ保護シ教義上固ヨリ之ニ干渉スベカラズ、而シテ国家ノ監理スベキ者三アリ、宗教ハ内政ニ関セズ、裁判ニ関セズ、外交ニ関セザル等是レナリ。」(海江田信義「須多因氏講義」(1)

 十九世紀末、ドイツ国家学者シュタイン氏が伊藤博文に与えたこの訓戒は恐ろしいほどその後のわが国の(明治・大正・昭和にわたる)進路と運命を規定しています。氏は自らの国家学の構想、自らの研究の帰結を東方の未開・後進国の国家構想に正確に適用したものと思われます。
 自らはその実質を知らず、おそらくは低級・野蛮の宗教として軽侮していると思われる「神道」を近代日本の「国家精神」にせよとズバリと指示しているところに、氏の冷たい理性が見事にあらわれています。
 しかし、こういう提言の背後には、ヨーロッパ近代国家が、「信教の自由」を表面となえつつも、その内実、国家理性として「キリスト教精神」を裏打ちしているという、氏の国家学上の見識が横たわっていたはずです。
 その「キリスト教精神」とはこの論述で明らかにされたように、「国教化」されたヨーロッパ単性社会の(異端・異教排除後の)キリスト教です。しかもそれが「新教」「旧教」という具体的宗教を超越している限りで、一種の「非宗教」の神として、国家の法の背後に厳然と君臨していることを氏の研究は見抜いているようです(個々の宗教〈=宗派〉から離れた「神」は「信教の自由」の上に立つ自明の存在なのです)。
 しかし、これは氏がへーゲル(法哲学の)学徒として出発してその上に国家学を建設した以上、へーゲル的国家論の背骨をなす「概念としての神」をはっきりと見すえているに過ぎなかったのですが、問題は次の点です。
 氏は「行政学」(一八六五〜六八年)の著述があることでも知られるように、国家学の中でもとくに、行政学者として名をなした人ですが、その「行政」に対する定義は「社会における階級対立の矛盾を緩和するもの」と規定されています。そしてこの見地からドイツ行政学の伝統の完成としての国家学を建設するのが氏の目標だったのです。
 この、氏の根本定義の中には氏の生涯の主要な研究テーマの圧縮された反映があります。氏が三十代半ばにパリで学んだ頃の研究成果たる「現代フランスにおける社会主義と共産主義」、そしてウィーンに大学教授の席を獲得する直前の、氏の生涯で最も野心的な生気ある研究の実った時期の大作「一七八九年から現代に至るまでのフランス社会運動」、 ーーこの代表的二著作に一貫したテーマは、ヨーロッパにおける近代社会運動の祖国、フランスの社会主義、共産主義に対する分析です。
 この点、シュタイン氏とカール・マルクスとは不思議なくらい、一致を示しています。二人の生涯が世代的に全く重なるのみでなく(シュタイン氏が三歳年長です)、同じドイツの大学(キールとボン)の同じ法科の学生として同じへーゲル法哲学を学んでいます。そして同じ時期に同じパリに学び、(一八四〇年代、二人はパリの街頭で会ったことがあるかもしれません)、同じく、やがて来るパリ・コンミューンの嵐を前にした、フランスの社会運動・無神論をその研究対象としたのです。
 しかし、同じ時代の空気を吸った、この二人の青年もその後くっきりとその進路を分ちます。

     ▽
 一八八二年、伊藤博文がウィーン大学で「財政学・行政学・法哲学」担当の「大博士斯丁(シュタイン)氏」の講義を筆記している時、ロンドンの陋巷(ろうこう)ではマルクスが「かつてなかった困窮、救いのない悲しみ!」(妻イェンニーの手紙)といった生活の真只中で、その生涯(と思想の展開)の終末に近づいていました。
 伊藤はシュタイン氏に面会した翌々日(八月十一日)、岩倉具視あての書信をしたため、シュタイン氏の講義により、「英米仏ノ自由過激論者ノ著述」を過信すべからずとの「道理」を教授され、「心私ニ死處ヲ得ルノ心地」と異常な歓喜の情を述べました。さらに八月二十七日づけの参議山田顕義に与えた書翰では、「仏国革命の悪風に感染してはいけない」「かの教唆煽動家の口車に乗らないこと」を教えられ、大いに「前日の非を覚った」と告げています。
 何も伊藤が「前日」「教唆煽動」の「自由過激論者」だったわけではないので、彼がいかに中江兆民の在野民権論者に悩まされ、やがて(この年から日本各地で)激発する自由党左派の暴動に恐怖していたかが察せられます。
 かく、伊藤は「教唆煽動」の「自由過激論者」封じ込めの秘法をシュタイン氏から授けられ、意気揚々とロンドンにわたったのが一八八三年の三月初めですが、その月の十四日(伊藤の二カ月のロンドン滞在中)、ヨーロッパの生んだ最大の「教唆煽動」の「自由過激論者」マルクスは同じロンドンの一角で絶命しました。
     ▽
 老教授シュタイン氏が壮年の伊藤に「教唆煽動家の口車に乗るな」と教える時、氏の脳裏には、かつて同じ道を共に歩んだマルクス、共産党宣言を発してヨーロッパの社会運動に激震を加えたマルクスのことが念頭にあったのは確実と言えましょう。
 氏はへーゲルの弟子(マルクスの兄弟弟子)として、国家と社会を区別し、すべての歴史および政治現象を“人格としての国家”と“階級的社会”との対立抗争の過程と見る立場に立っていたので、だからこそその「国家」の「行政」に、「社会における階級対立の矛盾」への緩和剤を発見していたのです。
 そしてその階級対立緩和剤(=行政)の根本原理がへーゲル流の絶対精神を享けた国家精神、つまりヨーロッパ単性社会のキリスト教であることを氏は明確に意識していたわけです。
 ここでは単性キリスト教的国家精神を階級矛盾の、強力な観念的緩和剤と見る認識が成立しています。
 それは氏の兄弟弟子マルクスが宗教を、階級対立を観念的に忘却させ緩和させる作用をなすアヘンと見なした認識と完全に合致しています。ただ差異はわずかな一点のみと言えるでしょう。曰く、「緩和させる側からリアルに見るか、緩和させられる側からリアルに見るか。」
 ーーこのわずかな一点がかつての両青年をウィーンの快適さとロンドンの窮乏に峻別したのです。・・・・
     ▽
 さて、こうしてみると、シュタイン氏が東洋の秀才に「神道」を「非宗教」(=諸宗教以上の宗教)として国家精神にせよと指示した意味合いも明白です。やがて近代国家の道をたどる日本が当然赤裸々な挑戦に会う筈の、階級対立に対し、あらかじめ強力緩和剤(=アヘン)を設定せよ、というのです。決して「信教の自由」を単なる「自由」として「過信」するなというのです。
 ここで目立っているのは、氏にとって緩和剤の役割が“自らの信仰”とは切りはなして完全に「醒めた」目で、分析・摘出せられていることです(それでなければ、紳士としての表面、キリスト教徒である筈の氏が、「神道」を国家精神にせよと明快に言い放てないはずです)。
 つまり、氏自身の本質(内心)は完全に無神論者である点が重要なのです。
 だからこそ、階級対立に目覚めがちな民衆の前に、地上における絶対精神(=国家精神)を提示せよ、目を覚まして彼等が不幸にならないように、民衆に対して「宗教の自由」など以上の、いかにしてもそのわくから出られないような、崇拝の対象「神」(=原理としての緩和剤=アヘン)を与えてやれと、処方箋を書くのです。
 ここに統治者としての国家学の秘密、「教唆煽動家」封じ込めの秘法があります。
 一言にして言えば、「自不信教人信」(自ら信ぜずして人に信ぜしめる)の立場に尽きるのです。
 後に、内村鑑三は明治の思想界を批評して次のように言っています。
 「神道や『国家教』なるものの、宗教としてはほとんど何らの価値なきことは、私の申すまでもないことであります。さりとて、今の日本の上流階級の人のように、全く無宗教なるは私のとても堪えられないところでございます。」(「宗教座談」『内村鑑三信仰著作全集・著作篇第三巻』教文館、一九〇〇年)

 (補) 明治という時代が無神論者にして、「自由過激」の社会運動家、幸徳秋水への裁判(大逆事件)を以てその終幕(一九一一年)を飾るのは、まことにこの時代にふさわしい幕切れと思われます。
   それは第一に、この裁判がシュタイン氏の敵視した「教唆煽動」者への武器の批判であること。第二に、この裁判が(審問者自身の心の深処は別として)審問によって「異端者達」(犠牲者)を造出して、同じくシュタイン氏の指示に力づけられた、「国家教」たる天皇信仰を明確(クリアー)にし、純粋(ピュアー)にするための粛清裁判の性格をになうものに他ならなかったからです。

 

     2

「日本の文明は最近五十年間に、物質的方面ではかなり顕著な進歩を示している。が、精神的には殆(ほとん)ど、これと云う程の進歩も認める事が出来ない。否、むしろ、或(ある)意味では、堕落している。では、現代に於ける思想家の急務として、この堕落を救済する途(みち)を講ずるのには、どうしたらいいのであろうか。」(芥川龍之介「手巾」『大導寺信輔の半生・手巾・湘南の扇・他十二篇』岩波文庫、六頁)

 これは、大正五年に東京帝国大学法科大学教授、長谷川謹造先生の心中深く抱く所懐ですが、先生は龍之介によって「日本文明の精神的堕落を嘆く憂世の人」としてシニカルに描かれています。
 しかし、これが大正初頭の嘆きに止まらなかったことは、昭和三二年に同じ東京大学法学部の丸山真男教授が次のように書いているのを見ても明瞭です。

「一言でいうと実もふたもないことになってしまうが、つまりこれはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で ーー否定を通じてでもーー 自己を歴史的に位置つけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。私達はこうした自分の置かれた位置をただ悲嘆したり美化したりしないで。まずその現実を見すえて、そこから出発するほかはなかろう。」(『日本の思想』岩波文庫、五頁)

 無論、「社会に対する倫理的教訓」の範例を見出すことに「堕落救済」の「急務」を痛感する、謹造先生と、「悲嘆」と「美化」を厳に戒める、マックス・ウェーバー的禁欲の人、丸山教授とはあまりにも対照的です。さらに、謹造先生の粗大な精神主義的思考文脈と、丸山氏の緻密な論理的文脈との相異はまさに「東京帝国大学」から「東京大学」への進化を思わせるものがありますが、それにもかかわらず、否それ故にこそ、両者の間に驚くほど一箇の論点が一致共通しているのに目を見はらせられるものがあります。
 丸山氏の言う思想的座標軸とは、その最大のモデルがヨーロッパ精神史を貫流する、キリスト教の伝統に他ならないことは、それが氏の数々の論文に一貫した基本(或いは潜在)イメージとなっていることからも、知ることができますし、それに対するキリスト教的座標軸の欠除態として日本思想史を照明する時、氏の分析のメスは最も鋭く冴えわたるのですが、その基本視点は必ずしも氏の先見・独創ではなく、大正五年、謹造先生も、基本的には、まさに同じ発想を示すのです。
「先生は、これを日本固有の武士道による外はないと論断した。武士道なるものは、決して偏狭なる島国民の道徳を以て目せらるべきものでない。かえってその中には、欧米各国の基督教的精神と、一致すべきものさえある。」(「手巾」同右六頁。傍点は古田)
 さすがに帝国大学法科教授謹造先生は単純に「武士道」を過去からの連続として讃美するのでなく、かえってその断絶と空白、現代(明治〜大正初期)の思想的座標軸の欠除状態(憂うべき堕落!)が先生をして「軸の探究」の思考にふけらせたのです。
 だから、先生の武士道提唱の背後には寛容なる大陸国民道徳としての「基督教的精神」の伝統が一種のあこがれ、ないしモデルとして存在し、それに比肩すべきものとして、日本固有の「武士道」が日本思想史の倉庫から再発見されるのです(先生はやがて訪問婦人の挙止に、私的に連続され来たり、今も「生きた武士道の」「現証」を見て、驚喜することになります)。
 この芥川の作中の人物、謹造先生の、大正五年における「武士道」の再発見はおそらく明治末の乃木大将の武士道的「殉死」を背後の史実としてもっていると思われますが、それが森鴎外に与えた有名な「ショック」も、その根本には明治の識者の中に存した、思想座標軸の欠落の自覚(あるいは潜在意識)、さらに「国家教」が遂に「日常化」されなかったことの認識が存在しています。

 

     3

「私の生涯の中に出来(でか)して見たいと思ふ所は、・・・・仏法にても耶蘇教にても執れにても宜しい、之を引立てて多数の民心を和らげるやうにすること」(『福翁自伝』岩波文庫、三一七頁)
 福沢諭吉が、『福翁自伝』の末尾を我が国における「宗教の必要」で結んだのは、この文明開化の啓蒙家の内心の奥底を侵していた、ある予感を物語っています。
 「天は人の上に人を造らず」と彼が言う時、彼は儒教風の「天」に対していささかの敬意も承認ももっていたわけではなく、それがもっぱら西洋のgod ーーキリスト教の神の翻訳語としてだということは少なくとも彼自身には十分明らかであったはずです。彼自身に関しては「神」の語は未だ(狐もまた神であるような)多神教的神概念であったに相異なく、平田篤胤の苦心になるgodと皇祖神の概念的合一という創作は諭吉にとって未だうけ入れ能わぬところであったに違いありません。
 しかし、その前ですべての人間が平等なものとして措定されるような論理規制力をもった「天」とは、まさにキリスト教の唯一神に他ならぬことは諭吉にとってはまさに十分意識されていたことと思われます。
 その上、諭吉にとってもう一つ明らかなことは自分自身がそういう神を自分の生き方の実質として所有していないということだったと思われます。
 つまり、そのことが主観的には『福翁自伝』の結びの句となったわけで、客観的には諭吉を単なる「文明開花の啓蒙家」に止めた根本の理由であると思われます。
 そこに「民心を和らげる」ために「仏教でもキリスト教でも」とり入れたいなぞという「無神論的」な発想が出て来る事情が存します。
 もし、自己の内なる(或いは他なる)生きた神が「人間の平等」を要請しはじめる時、諭吉が無邪気に自信に満ちて説いた諸原理との微妙な亀裂に悩まねばならなかったに相異ありません。
 そこから諭吉がどのように進んだか、逃げたかは別として、彼の著作の全体を貫く、一種の「楽天性」は少なくともいささか異なった陰影を帯びざるを得なかったのではないかと思われます。
 諭吉を受けついで、明治の思想界を指導した識者たちが直面した問題はまさにこの問題だったと思います(福沢諭吉の問題に関する新視点については、『新・古代学』第二集〈新泉社〉の古田諸論文参照)。
 森有礼は若くして「日本の宗教の自由」を書き、西周が「百教新論」で百教の帰一を説く、いずれも明治思想界における「思想的座標軸」の欠落への回答のための「様々なる意匠」であったわけです。

 

     4

 この課題を明治の新しい支配者達はまさに彼等にふさわしいやり方 ーーつまり上からの「倫理宗」的新精神の宣布という奇抜な形でやりとげようとしていました(諭吉の「民心を和める」という口吻にもそれがあらわれています)。
 有名な「教育勅語」はその典型的表現となったものです。
 「我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に」としてもっぱらそれが日本精神史を一貫する「思想的座標軸」であったかのように擬制され、「これを古今に通じてもとらず、東西にほどこしてあやまらず」と、百教一致的擬制が行われます。
 こういう権力者による「倫理宗」的規範宣言は、まさにその権力者自体が明治思想界の「空白」を深刻に意識したところに発します。
 このことは権力者はいつも自己の美化、聖化を行うものだといった類の認識からは説明せられ得ません。それは「古今に通じて」「東西にほどこして」見るに、こういう修身的宣言が権力者から出されるという事態はそれほど一般的なものでなく、明治独特のあり方、つまり「座標軸なき精神の空白」時代の中の絶対主義的(疑似ブルジョワ的)権力の対応を示しているのです。
 しかも、その喜劇性は次のような一例を見ても明らかです。「夫婦相和し」という言葉と、明治天皇の後宮(ハーレム)生活、明治支配者達の花柳界への独特の「相和した」関係(それは待合政治として現在まで継承されています)、とを対置せしめれば、まずもってその宣言の発布者自身がその一片の紙片を信じていない、しかしそういう欠落した精神の状況だからこそこの宣言を出さねばならない、といった自己矛盾が露呈されています。
 ここに「精神」がもっぱら「たてまえ」として、自己の生活実体、事実とは別の「理想」として説かれるという思想状況が発生しています。これは敗戦後の現在にも一貫した思想体制です(たとえば、「理想」はそうだが、「現実は・・・・」といった類の「理想」不信と現実「美化」は、常に生活実体〈生活の中に生きて己を導く倫理エトス〉と切り離された「たてまえ」として理想を考えることの反映です。したがって「民主主義」さえ「たてまえ」として上からの規定を受け入れる形になり、封建的、絶対主義的生活実体の真只中で、「民主主義」という「たてまえ」が尊重されるという、思想状況を呈することになります)。
 こうしてみると、こういう「精神」の「たてまえ」の上からの強制は、明治以後の思想界の「座標軸の欠落」を根拠としてもっていたわけで、かの謹造先生の苦悩も十分理解できるわけです。
 由来、明治・大正・昭和の識者達は、口を開けば「思想の混乱」「道徳の無秩序」を嘆く慣習をもつことになります。戦時中の軍国精神の指導者から敗戦後 の町の識者に至るまでに共通する口吻は、ヨーロッパとも江戸時代とも異なった、わたし達の時代の特徴 ーーいかにヨーロッパから移植された「自由」が未だに重いかを示しています。

 

     5

 以上でこれまでの日本近代社会の精神状況への鳥瞰図を描いたのですが、これからの精神状況の論理(ロジック)を抽出しようとするのがこの序説の目標となります。
 天皇信仰という疑似的思想の撤去された今日、「信教の自由」はそのありのままの姿ををあらわします。
 しかも「信教の自由」の誕生地ヨーロッパではその装置のトリックとして「神の体液の滲みわたった良心」「あらゆる自由の上に立つ神」が置かれてあったのですが、こういう特殊の装置が設定される「幸福」な条件は一歩ヨーロッパ(アメリカ)の天地から踏み出せば存在しないのです。したがって「信教の自由」が非ヨーロッパ(アメリカ)地域にいったん移植されると、全くその意義を一変することになります。
 その一変した意義が最もあらわになるのは次の三条件をそなえた地点です。
 ◎第一に、非ヨーロッパ(アメリカ)地域であること(キリスト教単性体であるための条件)。
 ◎第二に、多宗教の混在地域であること(宗派の自由でなく、宗教の自由があらわれるための必要条件)。
 ◎第三に、近代国家の成熟(「信教の自由」の法が完全に設定されるための条件)。

 ーーこの三条件が満たされてはじめて、ヨーロッパ(アメリカ)のように「幸福な」(=「ゆがめられた」、「矯少化した」)姿でなく、「宗教の完全な自由平等」という、論理的に「必要にして十分な」姿の中に「信教の自由」の真相があかあかとあらわれるのです。
 とすると、この三条件を十分に満たす地域は、この地球上にそれほど多くないことに気付きます。そして、非ヨーロッパ(アメリカ)で近代国家の成熟している地域という時、(共産圏の問題はすでに考察したので別にして)その最も典型的な一つの地域が現在の日本であることは疑いを入れないことと思います。
 そこで今、ヨーロッパ(アメリカ)的舞台装置をはなれた「信教の自由」の完壁な姿がどのような論理(ロジック)を以て、その地域(日本)の精神状況を支配するか、その筋道を抽象したいと思います。
 その根本構造は次の通りです。
 「その社会の中で、多くの宗教家がそれぞれの、多くの絶対者達を並び立て、それぞれの絶対的帰依をもとめる ーーそれらのすべての状況の承認という国家理性(「信教の自由」の法)が主権者たる国民に分有される時、それは完全な無宗教性の分有となる。
 一方にその「完全な無宗教性」を分有した(主権者としての)個人が、他方で熱烈に一つの宗教をえらびとって帰依するという図は、主観的には真面目なる自己分裂、客観的には完全な喜劇である。
 この論理(ロジック)はその社会の各個人に徐々に沁み通ってゆき、次のような精神状況を一般化する。
 曰く、“一に、無宗教、無神論の常識化、一に、宗教一般への軽侮と嘲笑の日常化”

     ▽

 マルクスが北アメリカ諸州では政治的国家の無宗教性と社会成員のいきいきした宗教心が共存している(近代資本主義社会の欠陥の反映としての宗教)と説いた時、その「無宗教性」とは実はキリスト教の単一の神を背景にした「似而非えせ無宗教性」(=無宗派性)であったのは前に論証した通りです。
 ところが、ここ(日本)では、政治的国家の純粋な「無宗教化」と色あせた宗教心とが共存することになります(近代資本主義社会の欠陥はそのままなのに)。
 そしてこれが「信教の自由」の真相、その論理的帰結なのです。「信教の自由」は遂にその行く手に「信教からの自由」に至りつく運命をもたざるを得ないのです。
 この光景を詳述すれば次のようです。
 「信教の自由」の本来の姿、「各宗教混在の自由」が第一に国家理性の原理的無宗教性としてあらわれます。そして第二に社会自体の無宗教性を徐々に確実に深めてゆきます。そのゆきつく先は「各宗教の各絶対者の一般的相対化(=絶対性喪失)」という地点です。
 しかし、相対化された絶対者とは「塩分なき塩」のことに他なりません。つまり、それは「一般的な、信仰への“不信”“侮蔑”」となってあらわれます。
 さらに事態をはっきりと提示すれば、“各宗教の枯死”=「各宗教が外から見ると生きて立って(しばしばさかえて)いるように見え、その内実は立ったまま枯れ、死に絶えてゆくこと」という終末へ時の流れと共に一歩一歩確実に近づいてゆきます。
 (補)「日本人は宗教心がうすい」といった類の議論や所感はこの論理(ロジック)の存在を見ることが出来ないからです。明治以来、疑似的に隠蔽されながらも、この論理(ロジック)は日本社会の精神状況に潜在したので、それが前に述べた諸々の識者の嘆きとなっているのです。
   また、近代国家の「信教の自由」と媒介されなかった前明治の日本の最も一般的な宗教の存在形態が「神仏習合」だったことも、基本的には多宗教混在が日本人に強制した論理に他ならなかったからです。これを日本人の「あいまいさ」「不徹底性」などの理由にするのは、この点への完全な無理解から来ます。したがってこの見地を欠いては、日本でこの神仏習合という「論理必然的」妥協への、何等かの抵抗という緊張の中で、世界宗教史にも時折にしか見ないような、高い宗教心(鎌倉新仏教や内村鑑三など)が生み出されている現象は、十分な説明を与えられ得ないでしょう。

    ▽

 この「信教からの自由」社会では、その精神状況の中に、中間的には、次のような諸特徴があらわれます。
 1 政治家、僧侶(牧師)、資本家(紳士)たち上流階級、指導者層は国民一般との精神的紐帯を欠きます。国家理性と主権者(国民)との媒介者たる政治家がかえって国民から一般的に軽侮の目を以て見られるという、(世間周知の)現象も、実はこの点に一つの基礎をもっているのです。「国会」という広大な舞台の上に政治家個々の矯小さがバラバラに目立つことになるのです。国家理性が両者を結びつけ、定着させる役割を十分に果たしていないのです。そのため、政治家は国家理性との関連において自己の矮小さを救うことができないのです(この点、重大な難局に立ってしばしば「神」に呼びかけて国民に訴える西欧政治家、「人民の意志」にかけて、国民に誓う共産圏政治家の慣例には十分の意味が含まれているわけです)。

 2 一般的な倫理の「浮遊現象」が生じます。倫理はその歴史的発生が示すように、「共通の宗教」「単性化された国家理性」の根から伸び立った茎です。その根が欠除された以上、倫理は国民一般の共有する形をとり得ません。だから、一方の国民からは「反倫理」に見えないものが、他の国民からはまさに、「反倫理」と見えるという現象が一般化されます。ことに老人・大人達が青年の「道徳的無軌道」を嘆き、指導者層が「国民道徳の退廃」への対策をヒステリカルに痛感するという形が日常化します。しかもその際、その老人、大人、指導者達自身、説くべき倫理(の内実)への自信喪失に満たされているのも特徴をなしています。

 3 国民の一般感情は無宗教性となり、ことに知識階級(近代国家の中の「近代的階級」)の中に「宗教への軽侮」は恒常化します。したがってマルクシズムなども、その「戦闘的無神論」はむしろ「常識的」なものとして受け入れられることになります。
 したがってマルクシズムヘの出入りが容易になりやすい一側面を提供しています(戦前の「転向」の隆盛!)。
  しかし、この点はこういう「安易さ」として表われるだけでなく、支配階級への支持の「安易さ」をも意味することになります。

 以上は社会的にはシュタイン氏の予見した「階級対立の激化=緩和剤の喪失」の過程であり、論理的には「信教からの自由」の徹底化の道程です。
 そこで、こういう精神状態への対応手段として次のような現象が予見(または既見)せられます。

  第一は百教一致主義の疑似宗教の立場です。この多宗教の枯死から立ち直る一つの論理的便法として、各宗教の各要素を分解合成して、新たな宗教を創出する道。
  「生長の家」から「道徳科学」など幾多のものがこの傾向の典型です。あらゆる経典が引用され、自己の教理をささえることになります。歴史的には古代ペルシャのマニ教のタイプです。
  このタイプの宗教に次の三つの注目点があらわれます。
  一つには、多宗教を引用しつつも、「生命の実相」といった、絶対精神へ源帰させている点、絶対性回復がその本来のねらいであることを示しています。
  二つには、自己の空中分解をふせぐため、もっぱら反「無神論」、反「無宗教」、反「唯物論」(つまり反共精神)において熱情を示すことです。多宗教を一丸としたために一丸の防禦に身を捧げるのです。
  三つには、その多くがしばしば天皇崇敬をうち出す傾向のあるのは、このタイプがその抽象性に耐えきれないことを示すと共に、そこから脱出しようとする衝動の一つです。

 第二の道は、日本の古代的宗教の根につながろうとする立場です。教派神道、あるいは、「天理教」などの新興神道がこの道をとっています。そして明治前の多宗教混在の中を生きつづけて来た経験と結びついて、近代的「信教の自由」の外に疑似的に身をかわして生きるのです。各神社がもっぱら儀式として人々を(祭の時だけ)集めるのもこの立場に属しています(前「信教の自由」的な、祭礼のための氏子からの「自発的」寄附徴収!)。

 第三の道は、鎌倉仏教に見られた本源的自由の歴史を疑似的によびもどし、もっぱら他宗教を攻撃し、自己の主体的絶対性を実践的に確保しようとする道です。
 ヨーロッパに見られるように、他宗教攻撃、抵抗は「信教の自由」の歴史的基礎でした。日本において純粋に発現した「信教の自由」の唯一最大の欠落は、それらがそういう歴史的基礎から直接にかちとられたのでなく、上から(明治政府から、占領軍から)わくぎめされた点です。この点、この道をとる宗教のゆき方(たちとえば創価学会)が下から内面生活の空白をうずめるという、一つの本格的運動の形態をとったところに、この宗教の花々しい行動力、効果の最大の原因があります。
 この立場を一言で要約すれば、(枯死の)墓場において、あたかも墓場でないかのようにふるまう道です(疑似的にもせよ、一応本格的立場をとっているのに、一般の人から「異常」に見えるのも一つはそのためです)。

 第四の道は、道徳の「交通道徳」化の道です。宗教の枯死を暗黙のうちに認め、その宗教の根から道徳を切りはなし、たとえば交通道徳において純粋化されているように、もっぱら純功利的、能率的道徳を樹立する道です。ただし、この道は「赤・青・黄」的の明快なシンボルの道徳となり易く、したがってレッテル主義(たとえば“赤”のレッテル)とも結びつきやすい要素をもつと共に、根のないため、道徳が倫理(エトス 生活の中に己を導く規範)化できにくい欠陥をもちます。したがって「道徳的」でかつ「内面の空白」な人間、エネルギーを欠いた道徳のタイプが出現することになります(戦前にもこのタイプは一応既に出そろっています)。
 以上の他に、典型的に「外面生きて立っており、内面枯死しつつある」文化宗教 ーーキリスト教や仏教ーー についてはここではふれません。
 最後にわたし達はこの精神状況に対する、真の「批判的展開」の道について抽出してこの稿をおえたいと思います。

     ▽

 それは「信教の自由」の普遍的原理的徹底としての「信教の死」を回避せず、歴史的宗教の遺産を徹底的な批判を通して継承しようとする立場です。ここでは「もはや宗教批判はおわった」のではなく、「今から真の宗教批判がはじまる」のです。そして、その、科学的に批判され分析された結果抽出された真理が各人の内面に「のがれるところなき真理」として沈着し、現実との、社会的諸連関との化合をはじめるのです。
 (補)たとえば、その一例として、前にあげた「民主的」「革命的」宗教にあらわれる「本源的自由」 ーーわたし達は今、それを宗教のモルヒネ性として抽出します。
   今、その分析の概括をしますと次のようです。アヘンと同根のケシから生まれながら、モルヒネ的性状は人間への必須の薬物、魂の蘇生(そせい)剤としての現実的力を発揮します。そこでは神という絶対物を(フィクションとして)対置することによって、人間各自の平等性が抽出されます。
   そして、この、人間の完全な平等性の認識が人間相互の自由、本源の自由を呼びさまし、あらゆる地上の権力ともろもろのものへの恐れをうちくだきます。
   さらに、その人間相互の自由がさまたげるもののない愛を人間相互の間に産出する ーーこれらはいずれも人間存在の抽象ですが、抽象であるだけ、それだけ、「本質」でもあり、その抽象が現象と衝突し、矛盾し、現実への批判的化合をはじめるような場合、当のモルヒネとしての機能が検出されるのです。

 それは、従来の歴史的宗教のような意味では「宗教」とは呼べませんが、「内面の生きた思想」、「生の根拠」として「実践的倫理」を形成することにおいては歴史的宗教にまさる力を有するはずです。
 そういう人間達の倫理は、歪められた資本主義的現実の真只中から形づくられて、真直ぐに未来の社会へ向かい、それを獲得しようとする強靭な倫理となるでしょう。それはあかあかと輝く太陽のもと、大地にしっかり立つ人間のいきいきした倫理です。
 ここでは古代的原始宗教(アニミズムなど)から民族的宗教へ、民族的宗教から世界的文化宗教(キリスト教、仏教、回教など)への諸転換に匹敵する転換が生起するのです。
 今は、その前夜として、歴史的宗教の枯死が進行し、それをあらわに証明(あかし)する現象としての、倫理の荒廃、精神の退廃がはじまっているのです。
 そして、それが日本の現実において最もはやく、論理的に予感されているというのがこの(「信教の自由」の)批判的考察の帰結です。

 (補一) ただ日本の場合、一つの実践的課題があります。それは日本における「信教の自由」の唯一、最大の欠落(上からわく組みされた法の性格)条件に対応する、唯一、最大の要請はこの批判、この信条と倫理をあくまで実践的に形成することーー 一言に言えはそれを徹底的に社会の「下から」の抵抗体として築き上げることです。
 (補二) したがって、この帰結が日本で最も早く予感されたということは、必ずしもそれが日本において最も早く実践的に形成されることを必然とはしません(前記欠落を埋め、予感に停止することへの批判が実践化するという条件において、その可能性はありますが、それはあくまで可能性です)。
   これに対し、実践的には他の国(たとえば中国)で最も早く形成されるという事態が生じることも、まことに十分の可能性をもつと、言わねばならないでしょう。


 (1 )伊藤博文随行の際の記録「大博士斯丁氏講義筆記」(伊東巳代治文書)と海江田信義「須多因氏講義」との差異については後の論文であつかう予定。

  本論は一九六四年、金沢大学曉鳥賞を受賞したものであるが、今回、同大学図書館の御了解をいただき、出版されることとなった。感謝する。


古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1『親鸞 ーー人と思想』(明石書店)にも収録

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