2010年2月1日

古田史学会報

96号

1,九州年号の改元
について(後編)
 正木裕

2,橘諸兄考
九州王朝
臣下たちの行方
 西村秀己

3,第六回古代史セミナー
古田武彦先生を囲んで
 松本郁子

4,洛中洛外日記より
纏向遺跡は
卑弥呼の宮殿ではない
 古賀達也

5,「人文カガク」と科学の間
 太田齊二郎

6,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

7,伊倉 十二
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

8,年頭のご挨拶
代表 水野孝夫

綱敷天神の謎
 西村

 

古田史学会報一覧

伊倉1          10 11 12 13 14ーー天子宮は誰を祀るか


伊倉いくら 十二

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

伊倉 五十四 
“薩摩吹上浜は神様の見本市”(承前)

 一方、阿多隼人本来の神と思われるものもあります。多夫施(タフセ)神社です。多布施とは仏教用語の“施し”でしかなく、付近にも多布施町がありますから、これは地名から付けられた後世の呼称でしょう。また、金峰町中津野を始めとして、吹上浜一帯には数多くの南方神社があります。これも諏訪神社との関係があるようですが、いかなる勢力が持ち込んだものか分かりません。一説には、宗像大社の転化したものとの説がありますが、なぜか、宮崎、鹿児島両県限定で相当数認められます。宗像ならば海神であり、ムナカタとミナカタとの読みも対応します。女の神様が祀られているという話も対応しますがなかなか判別できません。当然ながら伊奘諾(イザナギ)の子とされる大山祇神社(南さつま市長屋ほか)も数社、八幡神社(南さつま市小湊ほか)は当然ながら宇佐の勢力が入っているのでしょうし、八坂神社(南さつま市万世)までがあります。八坂も祭神は素戔鳴命、奇稲田姫命ですから、古い神様がかなりあることになります。
 話を少し戻し、天子神社付近の神社をもう少し見ましょう。天子神社の一キロほど南に小野川が流れていますが、海岸から三キロほど入った丘陵地に船木神社があります。船木は文字どおり造船用の木材を意味しますが(『万葉集』「足柄山に船木伐り…」)、古代において舟木とは、舟や木棺を造った氏族とされています。当然ながらその氏族の祖霊あたりが祀られていると考えて良いでしょう。
 ここで、現在、私が最も関心を寄せている神社についてふれておきましょう。
 天子神社のある吹上町永吉を流れる永吉川の河口に久多島神社、さらに旧加世田市万世(バンセイ)の八幡神社の付近にも久太島(クタシマ)神社があります。表記は異なるものの同じ神社でしょう。この他にも永吉の久多島神社の北にある小さな池の辺にももう一つの久多島神社があるようです(これについては未確認)。神社の名称は吹上浜の沖合にある島と言うよりも岩塊の独立礁ですが、単に岩礁を祀ったものではないようです。 再び前述の古老にお尋ねすると、天智天皇の妃の話が飛び出してきました。三年毎の決められ日に田中という家が久多島神社の宮司と共に船に乗りこの島に参っているとのことで、古老や大汝牟遅神社宮司のお話では、妃が都から帰される途中で生んだ子が亡くなり、この島に葬られたのではないか・・・・とのことでした。
 これは言うまでもなく鹿児島県下だけに色濃く残る「大宮姫伝承」そのものであり、開聞岳の麓の薩摩一の宮枚聞(ヒラキキ)神社外にもこの話が伝わっています。特に開聞岳の西側に皇后来(コウゴウライ)の港なる地名があり、もしもこの伝承が事実であれば、都から返されたルートが九州西岸であったことになり、開聞への中継地点が確認できたことになります。
 さらに言えば、佐世保市相浦の大宮姫神社や柚木の姫宮神社との関係が考えられるのですが、これについては、古賀達也氏による論文(市民の古代第一〇集『最後の九州王朝 鹿児島県の「大宮姫伝説」の分析』)をお読みください。
 もう一つ奇妙な神社があります。吹上町永吉の北、日吉町吉利(ヨシトシ)の鬼丸神社です。蝦夷刀の研究者で宮城県地名研究会の太宰幸子氏の説によると、鬼丸という氏族は大和朝廷の東国侵略の過程で捕虜となった俘囚が主として隼人対策として九州全域に配留されたもので、特定の居留地をつくり、製鉄や刀剣の製造に当てていたとされています。

 「鬼丸は、『銘尽正安本写』に記されている古代の刀工者であり、付近には五郎丸・小次郎丸・次郎丸などのバス停が続く、因みに次郎丸は岡山の刀工集団に同じ名がある。」
 平成19年10月21日「球磨盆地・地名研究会」シンポジウム(熊本地名研究会)

 いわゆる俘囚鍛冶の刀工者の一人の名が鬼丸があり(『銘尽正安本写』)、これが鹿児島市内にもあるとも報告されています(佐賀市にも鬼丸町があります)。恐らく隼人征服のために送り込まれた俘囚鍛冶を祀るものが鬼丸神社ではないかと思うものです。
 以上、多くの神社を概観してきましたが、ここで、地名にも目を向けてみましょう。大汝牟遅神社のある吹上町中原の山奥に芋野という地名があります。谷川健一率いる熊本地名研究会ではこの地名は鋳物集団の存在を示す痕跡地名としていますので、鬼丸神社の鬼丸地名、小吹、南さつま市役所そばの加冶谷といった地名と合わせ考えれば、隼人制圧のために動員された古代冶金集団の痕跡と言えるような気がします。
 前述した船木神社付近の小野川流域では鉱滓=カナクソが見つかると聞きますので、この一帯で古代の製鉄が行なわれていた可能性を予感させます。
 一方、この旧加世田市には金峰山があり白川が流れています。この組み合わせは熊本市と全く同じですので、熊本の勢力が駐留部隊として入ったようにも思えます。また、同じく加世田の阿多には高良という地名もありますので、久留米の高良山を意識せざるを得ません。
 さて、この神々の見本市のような分布は一体何を意味しているのでしょうか?

 太閤殿下の朝鮮侵攻においても肥前呼子の名護屋に全国の大名が勢揃いしますが、このような多くの氏族の揃い踏みは長期間に亘る大規模な戦闘以外には考えられないように思えます。
 『古事記』『続日本記』に八世紀前後の薩摩、大隅の情勢の緊迫を伝えるものが残されていますが、吹上浜の多くの神々の存在はこれに対する多くの氏族の進出、駐留、植民、進攻…を思わせるものです。それは隼人の叛乱(当然の自衛)の制圧以外に繋がるもののようですが、その神々は大和朝廷に抵抗したもの、直ちに制圧されたもの、積極的に協力したもの、遠方から隼人征服に動員されて来たものなど色々であったでしょう。
 中には、薩摩、大隅の隼人の叛乱(大和朝廷による侵略)に対して、皇軍そのものはできるだけ損害を出さないようにするために多くの氏族を動員し、有力氏族の勢力を殺ぎ落としながら、叛乱部隊を制圧するための拠点として、阿多を中心とする薩摩半島吹上浜が利用されたと可能性もあるのではないでしょうか。もちろん、攻撃目標は最後まで抵抗を続けた頴娃、大隅、肝属の抵抗派だったはずです。
 ここまで書いて多少の不安を感じます。それは、『鹿児島県の歴史』(山川出版)所載の隼人の墓制、古墳の分布図です。一般的に隼人と総称しますが、地下式板式積石室墓、地下式横穴墓と言った代表的な古墳が薩摩半島、特に川内川以南の鹿児島(錦江)湾、吹上浜側の全域に認められないからです。この空白は隼人の問題を考える上で極めて重要に思えます。もしかしたら、このことが後述の中村明蔵教授の書かれた内容と関係するのではないかとも思っていますが、的を得ているかは分かりません。ただ、吹上浜全域が隼人征服への拠点として早い段階から機能したとすると、郡評論争と併せ、以前から有明海、不知火海沿岸の玉名から芦北方面の氏族の進出、植民、薩摩の民との住み分けといったものがあったのではないかと考えるのですが、なお、神社誌、郷土史などを調べる必要を感じています。

 九州西岸の航路をとれば、薩摩半島西岸の阿多ハヤトの拠点、万之瀬川下流域にも寄港したことが十分に考えられる。ところが、そこで抵抗を受けたような記載はない。すでに、大隅ハヤトとともに阿多ハヤトは朝廷に服属し、朝貢関係にあったからであろう。それにしても評制がしかれていた頴娃地域の衣君一族で、長官(評督)・次官(副評督)の役にあったものが、剽劫の主体となって加わっているのは、南九州の評制が、郡制の前身としてはそれほど安定したものではないことを示唆している。
 『隼人の古代史』中村明蔵(平凡社新書)

 いずれにせよ、吹上浜は大和朝廷による隼人征服のための、糧秣補給、兵員輸送、造船、製鉄を含めた兵站として機能した事は間違いないのではないかと思うものです。

伊倉五十五
“吹上浜の「大宮姫伝承」”

 伊倉 五十四 “薩摩吹上浜は神様の見本市”で取上げた吹上町永吉の天子神社に近い久多島(クタシマ)神社に伝わる天智天皇の妃の話が、なぜか、田島殿(たじまどん)の話として大汝牟遅(おおなむち)神社の縁起にも登場します。

 田島殿 新年祭(春の大祭)三月十八日
 これは、日新公が新年祭の日、大汝牟遅神社の境内で、久多島にゆかりの、天智天皇の妃と皇女の慰霊祭を執り行ったことに由来するものであります。
 久田島の久は、苦しいとか、苦につながるという事で、「久」(苦)を取り田島にし、また、田島殿の「田」は、折年祭が田起し等の田に関係する祭典の為、「多」を「田」に変え、「島」は久多島の「島」の意であります。
 田島殿の「殿」は、天子、皇后、皇族、神仏等への敬称であります。…(中略) …尚、この田島殿は、往古より次々と受け継がれて来たもので資料等は有りません。

 縁起としてはこれだけですが、では、なぜ、大汝牟遅神社でこのような祭が推定千三百年の永きにわたり継承されていたのでしょうか? 問題はこの神社がどのような性格のものであるかを把握する事から始めるべきでしょう。
 祭神は大汝牟遅命(大巳貴神・大国主命)、玉依姫、応神天皇(八幡神)、神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇と記紀によれば仁徳朝期のオール・スター・キャストです。言うまでもなく大汝牟遅は出雲神話や播磨国風土記などに登場する神であり、天照大神の命により天孫族に国を譲った(奪われた)とされますが、本来はそれに遡り出雲の国を造った(征服した)外来の神であるはずです。いまのところオオナムチ起源を九州にあるなどとまでは踏み込みませんが(ただし福岡県の旧朝倉郡筑前町弥永に大己貴神社があり、起源は奈良に遡るとの話は以前から聞き及んでいます。また、熊本市の西部にもう一社あります。)、記紀を鵜呑みにすることは避けるべきでしょう。
 吹上の大汝牟遅神社の社伝によれば、「御祭神は大和朝廷に仕えての帰り、奈良の大和国一ノ宮大神神社(旧官幣大社)より大汝牟遅(古事記の中で…以下略)と玉依姫を勧請して大汝牟遅神社を創建されました。」とあります。それも単純に考えればかなり奇妙に思えます。なぜならば、奈良の大神神社が威勢を振るっていた時代には、隼人の領域は大和朝廷の支配下にはなかったのであり、すると薩摩の吹上浜は朝廷と対立した隼人の領域ではなかったことにもなるからです。ただ、その可能性も捨てきれないように思えるのです(後述)。
 大汝牟遅という社名にも拘わらず、とりあえず、早い段階で大和朝廷に恭順の意を表明した神社とまでは言えるでしょう。
 これを考える時、『日本書紀』によれば、持統六年(六九二)に伊勢神宮を創り天照大神を祀り行幸しようとした際に三輪朝臣高市麻呂が阻止しようとしたことが書かれています。要するに大神をないがしろにするな!という訳です。これより後、中臣神道の祭祀者である藤原(中臣)氏によって大神神社は換骨奪胎されて行きます。もしも、吹上町の大汝牟遅神社が大和朝廷に仕えての帰り勧請されたものであれば、この時期よりも前のことになるでしょう。養老四年(七二〇)「隼人反きて、大隅國守陽候史麻呂を殺せり」とあるように、大和朝廷による隼人征服は、実質的に八世紀前半辺りからですから、そもそもこの地が同朝廷が敵としていた隼人の領域ではなかった、もしくは、既に肥後などからの植民が進み前進基地化していたことを示しているようにも思えるのです。こう考えてくると阿多隼人の研究が非常に重要になってきます。
 それは、伊倉 五十四 “薩摩吹上浜は神様の見本市”でも書いたように、『鹿児島県の歴史』(山川出版)所載の隼人の墓制、古墳の分布図から、一般的に隼人と総称するものの、地下式板式積石室墓、地下式横穴墓と言った代表的な古墳が薩摩半島、特に川内川以南の鹿児島(錦江)湾、吹上浜側の全域には認められないことから、この空白から薩摩は隼人であり、吹上も隼人であるとは単純には言えないのではないかという意味があるのです。
 もしも、吹上浜全域が隼人征服への拠点として早い段階から機能したとすると、その理由は、それ以前から有明海、不知火海沿岸の玉名、宇土、八代、芦北方面の氏族の進出、植民、薩摩の民との住み分けといったものがあり、ある種、国際化していた地域だったのではないかと考えるのです。
 ただし、このような吹上町の主要な神社において、「大宮姫伝承」そのものとも言うべき天智天皇の妃と皇女(天皇の娘)を追悼する祭りが継承されている事は、南さつま市の久太島神社の存在と併せて考えれば、この天智天皇の妃入来の話がかなりの広がりを持っていた可能性、さらに踏み込めば、この伝承を受け入れる背景があったように思えます。
今後も、吹上浜第二の天子神社の可能性が考えられる日置市日吉町吉利の天司神社の調査を含めて、久多島神社、「大宮姫伝承」、そして、その航路から考えてにわかに信憑性が増してきた佐世保市相浦の大宮姫神社などの調査を進める必要を感じています。


伊倉五十六 
“タップ・コップの論証”

 吹上町の天子神社調査において期せずして見出した久多島神社の天智天皇の妃と皇女(天皇の娘)を追悼する祭りが、この地の大汝牟遅神社にも伝承されていたのですが、それが「大宮姫伝承」そのものであることから、同じく大宮姫の名を冠する佐世保市相浦の大宮姫神社と吹上浜との関係を考えていると、ふと、思い当たる事がありました。
 私は以前から編年問題がうさんくさく思え、考古学を毛嫌いしていた事の裏返しとして地名や民俗学への興味を深めていました。このため、吹上浜の天子神社調査に併せて、事前にリスト・アップしておいた十個所ほどの「愛宕」地名を周り写真を撮っていました。
 まず、愛宕地名はそれほど珍しいものではなく全国に分布しています。もちろん、愛宕不動尊が祀られる寺社仏閣、山、土地に愛宕が付けられることもありますが、私が調べた十数ヶ所の愛宕山は、まず、例外なく丸いタンコブ山か際立ったとんがり山の形をしたランド・マーク的な山でした。
 これについては、HP『地名は時間の化石』田子島外で取上げたタップ・コップ地名だと考えています。もちろん、京都の愛宕山を念頭に愛宕地名が付けられた後発的なものもかなりあるかもしれませんが、アイヌ語起源のものもあるのではないかと思います。
 吹上浜周辺では十個近い愛宕地名が容易に拾えます。佐賀では一例、長崎でも二、三例であることを考えれば、薩摩半島西岸だけで十件の発現数はかなりの集積に思えます。この愛宕山が吹上温泉入口や天子神社や「大宮姫伝承」が残る久多島神社に近い永吉地区の中心にもあることと、北部九州で唯一の大宮姫神社がある佐世保市相浦にまさにその神社の正面に愛宕山があることを思う時、もしも大宮姫=天智天皇の妃が大和朝廷に最後まで抵抗する隼人の領域(頴娃町から隼人町)に難を逃れたと考えれば、山の名に愛宕が採用されてもおかしくはないように思うのです。

tap kop(タプコプ)たんこぶ山地名について
 二〇〇七の熊本地名研究会(日本地名研究所/谷川健一)のテーマとなったアイヌ語地名《tap kop(タプコプ)たんこぶ山》の候補地の一つと考えている場所です。
 「球磨盆地・地名研究会」シンポジウムでは日本地名研究所・会員の村崎恭子(元横浜国大教授)による「アイヌ語と日本の地名」が報告されました。村崎先生は、金田一京助、服部四郎と続く第一級のアイヌ語の研究者です。
 これまで「地名は時間の化石」でもいくつかのアイヌ語地名を取上げてきましたが、私は九州にもアイヌ語地名があると考えています。
 今回のシンポジウムの資料集にある村崎先生の論文を読むとアイヌ語地名の代表的なものが例示されていますが、この中で目が止まったものに、

 tap kop(タプコプ)たんこぶ山 (漢字と地名例)達古武、達布、康子、田子、竜子

がありました。
 当日、愛宕山のアタゴはタップコップが置き換えられたものと思いました。このため、シンポジウムの最後に村崎先生に質問し、概略、アタゴはタップコップの置き換えと考えられるか?と質問したのですが、「・・・アタゴはタップコップと考えることはできると思うが、それには愛宕山が独立した山であることが必要になる・・・」(テープ起こしではないため表現が不正確である事はお許し願います)とのことで、否定より肯定に近いもののと受け止めた次第です。
 愛宕をタップコップとしたのは私の独創であろうと、あたかも大発見したような気がして帰ってきたのですが、インターネットによる裏取りをやってみると、アイヌ語地名の研究者として多大な業績を残された故山田秀三教授(アイヌ語地名の分布を基本的に東北地方に限定されていますが)も愛宕とタップコップの関係を調べていたということが分かりました。
 結局、私の直感は後追いに過ぎず、ただの二番煎じとはなったのですが、山田秀三教授の後追いならば光栄とさえ言えるかもしれません。

伊倉五十七 
“日田の皇子神社の確認”

 天子宮調査のために頻繁に九州を南下していますが、現在、長崎県では確認できていません。また、東側の豊前、豊後、日向では全く発見できずにいます。恐らくこれは発見できないのではなく、この地域には、元々、存在しなかったのだと考えています。この仮説を検証するためにも、東の大分県日田市方面の気になる神社を確認しておく必要に迫られました。本来は、『神社誌』その他の文献を第一にあたるべきですが、効率性を考え、先ずは現地の確認を行い、その上で取捨選択により可能性のありそうなものを郷土史その他で調べるという方法を採る事にしています。大原八幡神社辺りが日田では一ノ宮といったところですが、日田周辺の辺鄙な場所に奇妙な名の神社があり、とりあえず現地を確認したいと思っていたものに、山手集落の皇子神社、上諸留町の王太子神社があります。上天気の日を狙い済まして現地を回りましたが、大した収穫もなく、聞き込みもこれといったものに出くわしません。まあ、このような場合が大半ですが、皇子神社については神社誌などの確認に入ろうと思います。


伊倉 五十八 
“薩摩、吹上浜の天司神社調査を前にして”

 これまで、天子宮、天子社、天子神社・・・と呼ばれる神社の分布を探ってきました。作業はいまだ道半ばといったところですが、この奇妙な神社の分布が大まかに分かってきました。
 荒金卓也氏によって肥後にかなりの集積が見られることは分かっていましたが、肥後においても氏が確認されていた以上の分布を示す事が分かってきました。始めは暗中模索の中で始めた見込みのない調査でしたが、“犬も歩けば・・・”の譬どおり、肥後においても、また、新たな領域として球磨川以南、もちろん、氏が強調された人吉盆地においても新たに可能性のあるものを見出すなど、今後とも気を抜けない状態にあります。
 特に、福岡、佐賀、鹿児島でもその存在を確認できた事は画期的で、今のところ、明らかに消された印象を持つ筑前、筑後はもとより、内陸部の有明海、不知火海沿岸に色濃く分布している事までは言えるように思います。
 ただ、“奇妙”と言うか、“やはり”と言うか、豊前、豊後、日向では一向に見出せません。また、元々、縄文的、海洋民的な長崎県下でも確認できないでいます。
 これは九州東岸が自分の主たるフィールド・ワークの領域ではない事も関係しているかも知れませんが、大分は、温泉、釣りを始め普通の方に比べれば、かなりの頻度で入っていますし、宮崎にしても神楽や民俗学的興味から頻繁に入っている事から、やはり、存在しないから見出せないのではないかと考えています。このことが何を意味しているかは即断できませんが、もう少し多くのファクターを押えた上で判断したいと思っています。
 一方、九州外の天子宮については、岡山、京都、名古屋、千葉にその可能性を見ており、今後の展開を考えています。
 とりあえず、今は、薩摩、吹上浜の天子神社の調査を進めており、往復七〇〇キロ近い行程を乗り越え、新たに聞き込んだ“天子”ならぬ“天司”神社の調査に向かうつもりでいます。


伊倉五十九 
“『佐賀縣神社誌要』に見る天子神社(江北町上小田の天子社)”

 佐賀県にも二つ、天子社、天子神社があることは既に書いていますが、単に存在を確認し分布を探るだけではなく、徐々にその背景調査にも踏み入る必要があることは言うまでもありません。
 文献調査もしなければならないことから、大枚を叩いて『佐賀縣神社誌要』(洋学堂書店)を買い込みました。と言っても、大正十五年に佐賀県神職会が発行したものを平成七年に復刻したもので、それほど資料的価値が高いものではありません。とりあえず、肥前の二つの天子宮についての基礎的文献調査というところです。ただ、佐賀県は小さな県であるため、全編を通して読むと肥前の全般的な傾向がかなり把握できるように思います。

 天子社(杵島郡江北町上小田)
 村社 天子社 杵島郡小田村大字上小田
 祭神:応神天皇、仁徳天皇、豊受大神、天照皇大神、素盞鳴尊、仲哀天皇、菅原道真、大山祗神、神功皇后、崇徳天皇、倉稲魂神
 後鳥羽天皇の御宇、鎌倉の家臣十郎蔵人対馬守、当国へ下向の折若宮八幡宮を当社に勧請して乙宮社と称し、別に応神天皇のみを勧請し天子社と称せしが、後小田村上下と分村の折り当社を上小田村の宗廟とせり、・・・(以下略載)(表記は現代風に変えています)

 と、あります。
 この外に、境内神社として海見神、猿田彦神、三女神が祀られています。
 ともあれ、この社伝では正確なことが分かりません。若宮はそもそも八幡神ではなく、高良大社の末社のようにも思えますし、主神扱いの応神は後代のものということが分かります。
 古代においてこの天子社がある場所が有明海の湾奥小高地もしくは波際のような所であったとことは間違いありません。なぜならば、長崎街道の支道が古くはさらに湾奥大江神社辺りまで迂回し、さらに古くは山越えで西行していたからです。このような場所であるならば、境内社として宗像三女神が祀られていてもおかしくはありません。
 さて、以前紹介した江北町商工会のホーム・ページに掲載されていた天子社の謂れとは異なりますが、印象としては盛りだくさんの神々に意味はなく、非常に恣意的ながら若宮の名が出てきたことが重要に思えます。


伊倉 六十 
“『佐賀縣神社誌要』に見る天子神社(鹿島市七浦の天子神社)”

 江北町の天子社について“古代においてこの天子社が有明海の湾奥小高地もしくは波際のような場所であったとことは間違いありません。と、しましたが、この鹿島市七浦の天子神社も百年と言わず、昭和の始めまで有明海に面していたことは確実です。

 天子神社(鹿島市七浦)
 村社 天子神社 藤津郡七浦村大字音成
 祭神:瓊々杵尊、大山祗命、武甕[オ追]命、經津主命、菅原道真
 顯(顕の旧字:古川注)宗天皇元年に、日出岡の上に奉祀せりと伝え、又、天正年間、日向國高千穂の大神を分祀せりとも伝えて何れとも定め難し、往古は頗る大社にして、祭日には其前夜七浦郷中の者通夜参篭し、畏みて奉仕せりと云ふ、・・・(中略)・・・明治六年村社に列せらる無格社合祀により大山祗命外三柱の祭神を追加せり。
     [オ追]は、手編に追。46425

 ここにも境内神社として粟島神社(祭神少彦名命)が祀られています。主神は天正年間ということですから、戦国時代に持ち込まれたものであり、それ以前から七浦が開発されていないはずはなく、どうもここの真の主神は境内神社扱いになっている少彦名命のように思えます。玉名や熊本など、肥後の天子神社が粟島神社(少彦名命)であるものが多いのですから、古代においてこの七浦の人々は対岸の玉名、熊本方面からの移動か殖民もしくは亡命であったのではないかと思ってしまいます。恐らく関係なしとはしないでしょう。
 一方、顯宗(ケンゾウ)天皇なるあまりなじみのない天皇ですが、記紀、『播磨国風土記』に登場する五世紀末の人物になる以上、社伝に言う日出岡の上に奉祀された神とは主神とされる瓊々杵尊ではないことは明らかであるように思えます。しかし、顯宗(ケンゾウ)天皇がなぜ登場するのか奇妙です。少彦名命が播磨と関係が深いからかも知れません。まだ、何とも言えません。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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