2009年12月7日

古田史学会報

95号

1,時の止まった歴史学
 岩波書店に告ぐ
 古田武彦

2,九州年号の改元
 (前編)
 正木 裕

3,四人の倭建
 西井健一郎

4,彩神(カリスマ)
 梔子(くちなし)
  深津栄美

5,エクアドル
「文化の家博物館」
館報
 大下隆司

6,伊倉 十一
天子宮は誰を祀るか
  古川清久

 

古田史学会報一覧


伊倉1          10 11 12 13ーー天子宮は誰を祀るか


伊倉いくら 十一

天子宮は誰を祀るか

武雄市 古川清久

伊倉 五十一
“佐賀県江北町小田天子社の秋祭り”

 十月、十一月はどこの神社も祭りの季節です。これほど天子宮を周りながら祭りや神事を知らないでは話にならないため、まずは、もっとも近い江北町小田の天子社の秋祭りを見に行くことにしました。
 いまどきどの祭りに行こうが伝統的な神事や祭礼など見るべくもなく、消行く日本の伝統、文化、民俗に涙するなどというのがおちなのでしょうが、とにかく週末の午後から天子社に向かいました。朝方パラついた雨もあがり、良い天気になってきました。神社に着くと、かなり練習したと思われる振れ太鼓が出かけるところでした。既に、御輿は巡幸に降っており、お清めの水持ち、中学生男子、女子の幟、御輿(最近は担ぎ手の不足から大半が山車に乗せますが、本来は担いでいたのでしょう)、傘持ち、神官、お囃子の山車、舞というより踊手の女連・・・と続きます。私は後追いで巡幸に参加し、結局、二時間あまり全てにルートに付き添い、途中、氏子の主だった方や、神官のお話をお聴きすることができました。まず、この長崎街道上の小田宿は陸化の進展によりルートは多少変わっているものの(『延喜式』に基づく「風土記の考古学 肥前国風土記の巻」小田富士雄編を始め、幾つかの説もありますが)、基本的には古代官道上にあります。
 巡幸もこの街道筋を中心に行なわれましたが、いまどき平日の昼から二百人もの巡幸が行なわれることに正直感動を禁じえませんでした。また、この地は、昭和の始めから石炭の採掘が行なわれ、一時期、相当の炭鉱労働者の住宅がこの上小田地区一帯にできたのですが、その際にも神事には伝統的な上小田、下小田の七(八)区によって行なわれているようです。既に古文書等もなく、神官もさらに湾奥の大江神社の神主が兼務されていますのでなかなか実態は描けません。
 以前掲載した江北町商工会のホーム・ページによると、この天子社は

 神功皇后道徳山に野立し給う時に始まり土民がその御聖徳を欽仰するのあまりその行啓由縁の地を朴し仲哀天皇を合祀して鎮護神とした?岡の明神天平年間(七二九)にときの小田駅長広足この社に応神天皇をも勧進申し上げ新たに社殿を造営岡の明神を改め大森大明神と尊称し宝祚の無窮、五穀の豊穣、交通の安全を祈願することとなった之が天子宮の起源である。・・・・・・
 祭神は応仁天皇、仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊受大神、菅原道真、崇徳天皇、天照皇太神、大山祇神、倉稲魂神、素戔鳴尊の11柱
 境内に 海律見神を祭る沖社社、猿田彦神を祭る庚神社、三女神を祭る厳島神社 等あり
 境内 一二三六坪 神社三社あり とあります。

 復刻版『佐賀縣神社誌要』(洋学堂)によると

 応仁天皇がなく、「・・・鎌倉の家臣十郎蔵人対馬守当国へ下向の折若宮八幡宮を当社に勧請して乙宮社と称し、別に応神天皇のみを勧請し天子社と称せしが、・・・」(一部文字を変えています)

とあります。今後、神官などに直接資料を見せて頂き調査を続けたいと思います。特に神官からは別の伝承があるようにも聞き及んでいます。

 

伊倉 五十二
“天子宮と小田地名(オタ、ウタ、オダ、ウダ)”

 伊倉 四十四 “内之浦の天子山は九州王朝終焉の地か?”において、

 最後に、天子に直接結び付くかどうかは分からないのですが、天子山の解説文にも登場する「小田に一泊されてより」の小田地名のことについて所見を述べておきます。
 天子宮を調べているとこの小田という地名に遭遇することが非常に多いのです。
 この内之浦の小田は小田川流域に広がる南方(ミナミカタ)に現実にある地名です。小田川右岸の少し山手の集落名であり、そこを通る道は岸良から大隅半島の南端に延びています。
 まず、小田地名は天子宮の調査に乗り出すきっかけとなった、熊本県玉名市の上小田、下小田、佐賀県江北町の上小田、下小田と、いずれも天子社、天子神社がある地域に見かける地名でした。他には、人吉の久米の天子の付近にも小田、小田原がありました。伊 倉三十四 “球磨焼酎と多良木町久米の天子”を見て下さい。現在、兵庫県在住の会員である永井氏に調査をお願いしている岡山県矢掛町の武荅(ムトウ)神社(明治までは天子宮と呼ばれていた)神社も吉備真備の本拠地である小田川流域にあり、小田という集落にあるのです。これについても、伊倉二十三“岡山県の武荅(ムトウ)神 社は天子宮か?”をご確認下さい。熊本県の芦北でも同様のことが言えます。思い出して下さい、八代市の南、田浦町の小田浦の天子宮です。伊倉二十“熊本県葦北郡田浦町の天子宮”でも書いていますが、こちらはコダノウラ、コタノウラと呼ばれています。小田というありふれた地名だけに一概には言えませんが、このように重なってくるとただの偶然とは言えないように思うのですが。

としました。
 二〇〇七年の熊本地名研究会による「球磨盆地・地名研究会」シンポジウムに提出された日本地名研究所・会員の村崎 恭子(元横浜国大教授)による「アイヌ語と日本の地名」という論文に掲載された日本語地名とアイヌ語の対応表にはオタ地名もあったのです。
 オタは砂浜、砂とされています。オタ地名が単に小さな田んぼなどという素朴なものでないことは、ほぼ、間違いがないのではないでしょうか。すると、万葉集に出てくる奈良県の宇陀(ウダ)も含めて考え直す必要がある訳で、非常に興味深いテーマが横たわっているように思います。
 仮にウタが砂、砂浜(アイヌ語では必ずしも海であることを意味しない)であるとすれば、その地名は数千年前に遡る縄文語とも言うべきものになる可能性もあり、天子宮が伝統的な聖地に建てられていることが考えられる事から何か府に落ちた感じがするのですが、これは私だけの感性の問題なのかも知れません。

 

伊倉 五十三
“鹿児島県日置市吹上町の天子神社”

 再び、南への道を走り抜き、鹿児島県は薩摩半島の吹上浜にたどり着きました。
 前回は、二〇〇六年十二月三十日に開聞岳山上の御岳神社が沖縄の御嶽(ウタキ)と関係があるかを探るために薩摩の一の宮、開聞の枚聞(ヒラキキ)神社を訪ねた時でしたが、その道すがら、吹上温泉入口の手前数キロの華熟里(ケジュクリ)という地に伊勢神社があることから確認のために吹上町小野から永吉という集落に入り、地図上に天子神社がある事に気付いたものでした。
 実は、その時には額束のない別の神社(奥神社と呼ばれ大汝牟遅命が祀られています)を天子神社と勘違いし枚聞神社に急いだものでした。この間、天子神社の写真を地元写真館の協力で撮影しCDでお送ってもらったのですが、自分が見たものとは全く違うことに気付くなど混乱を極めたものでした。このため、もし、近くに二つの天子神社があるなら、まだまだ外にもあるのではないか? などと考えたりもしていました。結果、始めに天子神社と確認したものは全く別で、天子神社は一つきりと訂正したのですが、その後の現地の聴き取り調査によって、外にも天子神社と思えるものがあることが分かってきました(かつて佐世保の海軍工廠に勤められた九十歳になられる旧帝国海軍の軍属という郷土史家から隣の集落に天司神社なるものがあるとの話を聴いたからです)。この点、やはり現地を踏み地元の研究者のご協力を頂く事が不可欠になってくることが良く分かります。これについては再々度の調査を行い報告するつもりですが、今回、現地を再確認しなければと思い、長躯、ラバウル~ガダルカナル並の渡洋攻撃に向かったのはこの混乱に拠るものでした。

 もちろん、近ければ頻繁に現地を訪問し、丹念な聴き取り作業が行なえるのですが、片道、三〇〇キロを走り調査をするとなれば、実際に現地で調査をできる時間は限定され、経費、体調、日程、天候などにも左右されることになる事は言うまでもありません。
 太平洋戦争の要衝、ガダルカナルでも同様で、「最初のころ、海軍の零戦隊はラバウルからガダルカナルまで片道千キロ以上の長距離を進攻するというきわどい作戦を強いられていたが、このころになると、中間にブイン、ブカ、バラレなどの基地ができ、戦闘機の行動はだいぶらくにはなった。」(『戦闘機「隼」』碇 義朗)…『九七重爆隊空戦記』久保義明…『坂井三郎空線記録』[上巻](坂井三郎)ほか、実際、ビルマの加藤隼戦闘隊まで動員されたガダルカナルへの長距離攻撃の場合でも、現地で空戦に使える燃料から戦闘できる時間は二、三十分もなかったのです。
 話が脱線しましたが、この天子神社は吹上町でも辺境になる永吉地区のそのまた外れにありました。きれいに手入れされてはいますが、もちろん、村社でもなくどちらかと言うと祠程度のもので、ご神体も岩の塊のようなものがある程度でこれといったものはなく、天子神社と言う額束だけがその存在を主張していました。ただ、吹上町の神社の分布も含め、徐々にこの天子神社が存在している理由が見えてきたような気がしています。特に、海岸側に数社が分布する久多島神社に古田史学の会事務局長古賀達也氏が「最後の九州王朝と大宮姫伝承」で報告した天智天皇の妃の話があり、どうもこの天子神社も関係しているように思えるのです。それについてはもう少し調査を続けた後に報告することとして、ここでは、薩摩の阿多隼人の本拠地手前に天子神社があり、テンシジンジャと呼ばれていたことを確認しておきたいと思います。


伊倉 五十四
“薩摩吹上浜は神様の見本市”

 天子宮調査も、ついに、鹿児島県下まで及んできました。霧島の田口天子神社などを確認した夏の霧島~大隅半島に続き、今回もその調査の先端は薩摩半島の野間池まで延びて行きました。
 一口に薩摩半島と言ってもなかなかイメージが湧かないかと思いますが、まず、私が住む佐賀県西部の武雄市から半島東シナ海側の吹上町付近までは凡そ三五〇キロの距離があります。この地は、古来、阿多隼人の本拠地であったところですが、その歴史や墓制から考えると、単純に大和朝廷と激突した隼人と考える事ができるかは疑問があります。
 さて、調査旅行ですが、最低二泊三日の行程で経費を抑えて車で行くとしても、高速道路を使わなければ(もっとも民俗学を意識する者が高速道路などといった無粋なものは使いませんが)、片道でも六~七時間は掛り、実質的には大阪よりも遠くなりますし、天候にもかなり左右されることになります。

 また、郷土史を含めた文献調査も必要になりますので、効率を上げるためには地元史家などに協力をお願いすることになります。
 実際、体力的、経済的、精神的にも攻勢限界点を越えつつあります。しかし、一方では、この全く光を当てられることのない天子宮調査にはある種の使命感さえも伴い、今後とも薩摩、大隅を含めた九州全域への大遠征を続けることになるでしょう。
 一般的に古代史研究家と言われる人達は、文献オンリーか文献史学と穴掘考古学に関心を持たれる方と思います。ただ、私の場合は穴掘り考古学についてはほとんど知識を持たないために、この方面に詳しい方で一緒に調査に回って頂ける人がいないかと思うのですがままなりません。
 ともあれ、私はフィールド・ワークに重点を置いた民俗や地名に関心を寄せるものですから、今後ともこの奇妙なバランスによる多少とも毛色の違ったリポートを送ることになるでしょう。

“吹上浜の神社を概観する”

 まず、吹上浜を走り回る中で、強い違和感と言うか強烈な印象を受けるのは吹上町中原の大汝牟遅(オオナムチ)神社です。

 祭神:大汝牟遅命(大巳貴神・大国主命)、玉依姫、応神天皇(八幡神)、神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇(大汝牟遅神社縁起)

 大己貴、大穴牟遅、大名持…と表記は異なるものの、『古事記』に依れば、大汝牟遅の神とは少彦名と協力して国を造り、後にニニギに国を譲る(奪われる)大国主命のこととされています。
 また、大汝牟遅は『播磨国風土記』にも登場し八十神とも闘いますから、出雲、因幡、播磨辺りにいたのですが、ただ、どこから来訪したのかは分かりません。 記紀をそのまま信じるかは別として、この出雲神話に登場する神が、なぜ、この阿多隼人の地に鎮座しているのかは良く分かりませんでした。もちろん、福岡県筑前町(旧三輪町)にも大汝牟遅(大神)神社があることはあるのですが奇妙な印象を受けます。
 とりあえず、ここでは日置市吹上町を中心に吹上浜の神々をリスト・アップして見ましょう。当然ながら異論や異説をお持ちになるでしょうし、見当違いも多々あると思いますが、概観することでも何かが見えてくるかも知れません。
 付近には特攻で著名な知覧町があり、ここにもありますが、まず、吹上町華熟里(ケジュクリ)に伊勢神社があります。 この地名も実に奇妙です。熊本県水俣市から国道3号線を南に下り県境を越えると、ツルで有名な鹿児島県出水市に入ります。この出水市米ノ津には加紫久利(カシクリ)神社がありますので、恐らく関係なしとはしないでしょう。ただし、今のところ意味は全く分かりません。この加紫久利神社は開聞の枚聞神社と併せて旧国弊社とされています(『延喜式』ではこの二社だけが書かれており、それ以外は後発のものか、朝廷が書きたくなかった神々、土着の神々と言うことになるでしょう)。ただ、だからと言って簡単に征服者側の神とも言えないようにも思えます。
 日置市の北部、伊集院町中川には春日神社があります。言うまでもなくこの神は藤原氏の守護神として常陸の国から奈良に勧請されたものとされ、軍神武甕鎚命(タケミカヅチノミコト)が祀られたものです。同じく日置市北部、東市来町の名湯湯之元温泉のある市来町湯田には諏訪神社、若宮神社があります。
 諏訪神社はもちろん建御名方(タケミナカタノミコト)を祀るものです。『古事記』では、この神は武甕鎚命に負けて諏訪から出ないことを条件に許されたとされています(『日本書紀』には登場しません)。この神を勧請したのは諏訪にも領地を持っていた島津氏とも、伊作(薩摩半島北部)を中心とした薩摩平氏も言われますが良く分かりません。
 司馬遼太郎の『歴史を紀行する』にも登場しますが、関ヶ原の合戦で東軍本陣への突撃撤退で勇名を馳せた島津四兄弟の次男義弘も伊作(イザク)を出身基盤にしていました。
 若宮神社は久留米市の高良大社に関係の深いもののはずで、阿久根市脇本浜の愛宕鼻の若宮神社と併せ、なぜこの地にあるのか以前から疑問に思っていました。
 さて、筑前や筑後では珍しい伊勢神社ですが、薩摩に入ると阿久根や薩摩川内市(伊勢皇大神宮)を始めとしてかなりの分布を見せています。
 さらに吹上町中之里には妙見神社があります。八代の妙見さんもそうですが、妙見菩薩とは北斗七星を意味します。ここの妙見も島津氏が持ち込んだと聞きました。天御中主神(アメノミナカヌシ)が祀られているのですが、現地を踏むと驚いた事に小高い丘の深い社叢林の中の社殿の裏に幾つもの巨石があり、本来の神体はこちらであることが一目で分かります。何やら縄文以来の原始信仰を垣間見た思いがしますが、これも非常に衝撃的な一社でした。
 さて、天子神社のある吹上町永吉の北に位置する日置市日吉町に目を転じると、その中心部に日置八幡神社があります。日置はヒオキと呼ばれていますが、かつてはヒキ、ヘキとされ、大和朝廷による隼人支配の拠点、前進基地であり、熊本県玉名市の疋野(ヒキノ)神社を奉祭する氏族が駐留していたのではないかと考えられます(蛇足になりますが、山口県の日本海側にも日置があります)。

 例えば玉名ですが、『日本書紀』では玉杵名とありますが、私は魂来地(たまきな)の意だと思います。『な』は土地のことで、魂が寄りくる場所が原義と考えています。だからあそこはご承知の通り、豪族日置氏がいた所です。之は非常に信仰的な、太陽を祀る一族だと私は考えているのです。日置は「ヒオキ」と呼んでいましたが、次第にオが抜けて、ヒキ、そしてヘキに軟訛していったようです。玉名に疋野神社という社がありますが、之は日置氏が祀る神社です。
 「九州の古代と火の君」井上辰雄(筑波大学名誉教授:当時)一九九五年第一〇回熊本地名シンポジウムにおける講演)

 また、目を転じればこの日置八幡神社の周辺にも二社の熊野神社が認められます。もちろんこの神社は全国にあり、普通は素戔鳴命が祀られていますが、この薩摩の熊野は、壇ノ浦の後、秘密裏に生き延びた安徳天皇、三種の神器を薩摩の硫黄島に奉祭したとされた硫黄大権現の系統とすれば平家の落人による特殊なものかも知れません。ともあれ、吹上浜、薩摩半島に限った事ではなく、鹿児島県周辺に広がっています。今度は吹上町の南に目を向けましょう。ここからは旧加世田市などの領域になります。現南さつま市金峰町大野には京田日吉神社があります。滋賀県大津市坂本の日吉(ヒエ)神社は大三輪神(おおみわかみ)つまり大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請されたものとされていますから、一応は大和朝廷が積極的に持ち込んだ神ではないとは言えるでしょう。また、東京都千代田区の日枝(ヒエ)神社も同じものとされますが、阿多小学校のそばなどにこの表記の二社があります。大三輪神、大物主神、大国主が大汝牟遅とどのような関係にあるかはここでは触れません。
      (以下、次回に続く)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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