明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点 正木裕(会報84号)
伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点 正木裕(会報86号)


古田史学会報85号 2008年4月8日

常色の宗教改革

川西市 正木裕

 I 「評」制は「誰」が「何時」施行したか

 わが国古代の地方制度については、藤原宮木簡等から大宝元年(七〇一)以後は「郡」、それより前は「評」であったことが確かめられている。しかし「評」制度が何時、誰によって始められたのかについては記録が無く、不明とされてきた。このことに回答を与えたのが古田武彦氏であり、氏は「筑紫都督府」や倭の五王の「都督」の称号、更には「那須国造碑」の分析から、「評」制は九州王朝の制度であることを論証された(大化の改新と九州王朝・市民の古代・古田武彦とともに 第六集 一九八四年)
 また残された「何時」施行されたかにいても、昨年の古田史学会関西例会で、古賀達也氏が、『皇太神宮儀式帳(以下【皇】という)』『神宮雑例集(同【神】という)』をもとに、九州王朝の難波朝廷時に評制が創設されたことを明らかにされた(注1 )。
 その概要を以下に示す(要約は筆者の責任)
(1) 【皇】に「難波朝廷天下立評給時」とある通り、難波朝廷時(孝徳期)に「評」制度が全国的に敷設され、評督領、督領(造)、助督(督造)等が任命された。
(2) それ以前は「神痔*(かんだち・こうだち)」にて「雑(くさぐさ)の神」を祭って来たが、この時「大神宮司」と初めて称し、「御厨・大神宮司」と改めた。
(3) 【神】によれば、六四九年・大化五・九州年号(以下《九》という)常色三年に、それまで「飯野・多気・度相惣」が一郡だったのを分割し「度相郡(評)」がつくられ、「神主」が任命された。「始立度相郡」とあるが、七百年以前はすべて「評」であるから「始立度相評」が本来。文中にも「度会評也」の語が見える。
A■『皇太神宮儀式帳』延暦二三(八〇四)八月二八日伊勢大神宮祢宜等解・初神郡度会多気飯野三箇郡本記行事
右従纒向珠城朝廷以来、(1) 至于難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。有尓鳥墓村造神痔*弖、為雑神政所仕奉支。而難波朝廷天下立評給時仁、以十郷分弖、度会乃山田原立屯倉弖、新家連阿久多督領、礒連牟良助督仕奉支。以十郷分、竹村立屯倉、麻続連広背督領、磯部真夜手助督仕奉支。(2) 同朝廷御時仁、初大神宮司所稱、神痔*司中臣香積連須気仕奉支。是人時仁、度会山田原造御厨弖、改神痔*止云名弖、号御厨、即号大神宮司支。
痔*は、广に寺。

B■『神宮雑例集』神封事。度会郡。多気郡。
本記云、皇大神御鎮座之時、大幡主命物部乃八十支諸人等率、荒御魂宮地乃荒草木根刈掃、大石小石取平天、大宮奉定支。爾時大幡主命曰久、己先祖天日別命賜伊勢国礒部河以東神国定奉。飯野多気度会評也。
又云、難波長柄豊前宮御世、飯野多気度相惣一郡也。其時多気之有尓鳥墓立郡。時爾、(3) 以己酉(六四九大化五《九》常色三)年始立度相郡、以大建冠神主奈波任督造、以少山中神主針間任助造。皆是大幡主命末葉、度会神主先祖也。


 II常陸国風土記に見る難波朝の「天下立評」

 また「難波朝廷時の評制創設」は、「常陸国風土記(同【風】という)」でも確認出来る。(注2)
 『常陸国風土記』で「難波長柄豊前」の語は總記C、香島郡D、行方郡E、多珂郡Fの四条、五箇所に記述がある。これらによれば、
(1) C「難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世(孝徳期)」に高向臣(大夫)、中臣幡織田連(大夫)らにより我姫(吾妻)の「道」を八国に分割し、常陸の国が成立。
(2) D六四九大化五《九》常色三年に、下総・那賀二国より分割し、神郡(評)として香島郡(評)が成立。
(3) Dその際三神社を併せて「香島天之大神」とし、その名を郡(評)の名とした。
(4) E六五三年白雉四《九》白雉二年に高向大夫、幡織田大夫らにより行方郡(評)に郡家(評役場)が置かれた。同じ頃壬生連が同地域内に池堤を築いた。
(5) F同年に、高向大夫に国造らが要請し、多珂・石城二郡(評)ができた。
C■【風】.總記
 常陸の国司解す。古老の相傳ふる舊聞を申す事。
 国郡の舊事を問ふに、古老の答へていへらく、古は、相摸の国足柄の岳坂より東の諸の縣は、惣べて我姫の国と稱ひき。是の當時、常陸と言わず。唯、新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂国と稱ひ、各、造・別を遣はして檢校めしき。
 其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣、中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の国を惣領しめき。時に我姫の道、分れて八の国と為り、常陸国、其の一に居れり。
D■【風】香島郡。古老曰。難波の長柄の豊前の大朝に馭宇しめしし天皇のみ世、己酉(六四九大化五《九》常色三)年、大乙上中臣□子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向大夫に請ひて、下総国海上の国造の部内軽野より南の一里と、那賀の国造の部内寒田より北五里とを割きて、別きて神の郡を置きき。其処に有ませる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三処を合わせ、惣べて香島の天の大神と稱ふ。因りて郡に名づく。風俗の説に霰零る香島の国といふ。
E■【風】行方(なめかた)郡。東、南、西並流海、北茨城郡。古老曰。難波の長柄の豐前の大宮に馭與しめしし天皇のみ世、癸丑(六五三白雉四《九》白雉二)年、茨城の国造、小乙下壬生連麿、那珂の国造、大建壬生直夫子等、総領高向大夫、中臣幡織田大夫等に請ひて、茨城の地の八里と、那珂の地の七里とを合せて七百余戸を割きて、別きて郡家を置けり。(「石村玉穂宮に大八州馭しましし天皇」条略)
其後、難波の長柄の豐前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、壬生連麿、初めて其谷を占めて、築池の堤を築かしめき。
F■【風】多珂郡(略)難波の長柄の豐前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、癸丑(六五三《九》白雉二)の年、多珂の国造石城直美夜部、石城評の造部志許赤等、総領高向大夫に請ひ申して、所部遠く隔り往来便よからざるを以ちて、分ちて多珂・石城の二つの郡を置けり。

 

 III難波朝評制施行の実態

(1)伊勢・常陸に評制施行

 この一連の【風】の記事は、以下の通り常陸で「大化期=難波朝時代」に評制が敷かれたことを示しているが、【皇】【神】と【風】を照合すれば、遠く隔たった伊勢と全く「同時期(己酉年六四九・大化五《九》常色三)」である事が分かる。これは「評制施行」が全国で一斉に施行された事を意味する。
G■【風】には、大化五年(六四九)にそれまでの国造の領域が再編されて行方・香島・多珂・信太といった郡(評)がつくられたことが記されています。評には評家というべき役所がつくられ、評造・評督・助督といった役人が置かれた(横浜市立博物館HP)

(2)伊勢王天下巡行は三四年遡上した評制施行

 注目すべきは書紀天武十二年(六八三)と翌年の、伊勢王が天下巡行し諸国境界を定めた記事だ。これは三四年遡上した六四九年(書紀大化五《九》常色三)と翌年の、九州王朝「伊勢王」による評制施行を示し、【神】記事(3)と一致するのは既に述べた通りだ。(『古田史学会報』八二号・二〇〇七/一〇)
H■【紀】天武十二年(六八三)(→六四九同五《九》常色三年)十二月甲寅朔丙寅(一三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分(さか)ふに堪へず。
I■【紀】天武一三年(六八四)(→六五〇白雉一《九》常色四年)冬十月(中略)辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。

 また、古田氏の「持統吉野行幸は三四年遡上した九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸である」との説や、持統紀の様々な三四年遡上記事が、九州年号の白雉□年記事を朱鳥□年に、白鳳○年記事を《九》大化○年にと「九州年号」をもとに入れ替えられている事から、これらは「九州王朝の史書」からの盗用であるとも指摘した。(日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年の遡上り現象」について・『古田史学会報』七七・七八・七九号ほか)。
 そして六四九年(己酉)は【風】Dでも評制施行の年とされているのだ。【紀】の「三四年遡上」と九州王朝の難波朝評制施行が、『常陸国風土記』によっても裏付けられる事となった。

(3)伊予三嶋縁起に見る「日本国御巡禮」

 更に、愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の伊予三嶋縁起(以下【縁起】という)にも
J■卅七代孝徳天王位。番匠初。常色二(六四八)戊申日本国御巡禮給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智性給之。

とある。(修験道資料集II昭和五十九年)
 孝徳天皇の時「番匠」が始まり、また常色二(六四八)に日本を巡礼し、玉輿船に乗り伊予にも立ち寄ったというものだ。
 「日本国御巡禮」は書紀の「天下巡行」と同義と考えられる。伊勢王巡行(六四九)より一年早いが、九州王朝の主領域(九州及び長門・伊予などの周辺部)から「巡幸(制度施行)」を始めたと見れば違和感は無い。
 また【紀】では「伊勢王を遣して」とあるが、【縁起】では「日本国御巡禮」が孝徳に見立てられている。従って、【紀】では九州王朝の天子(あるいは皇太子)の「天下巡行」を近畿天皇家の命令によるものとすりかえた可能性も高いのではないか。
 ちなみに「番匠」は「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工(もく)寮で労務に服した木工(広辞苑)」。伊勢王天下巡行時に「工匠者」を同行させたとの記事とぴたり一致する。(ちなみに「木工」は「土木・建築・工作・美術の全般にわたっていう(広辞苑)」)。更に時期的には白雉三年(六五二)完成の難波副都建設のため、全国から「工匠」を動員する制度をつくったとも考えられよう。

(4)【紀】孝徳大化二年(六四六)の「境界画定」の詔勅

 実は「難波朝評制施行」は、「書紀」にもその痕跡が記されているのだ。
K■【紀】大化二年(六四六《九》命長七年)
秋八月庚申朔癸酉、詔曰、「(略)如是思ふが故に宣たまふ。祖子より始めて、奉仕る卿大夫・臣・連・伴造・氏々人等、〈或本に云、名々の王民といふ。〉咸に聴聞るべし。今汝等を以て、使仕ふべき状は、旧の職を改去てて、新に百官を設け、位階を著して、官位を以て敍けたまはむ。今発て遣す国司、并て彼の国造、以て奉聞るべし。(略)
国々の橿界を観て、或いは書にしるし或は図をかきて、持ち来て示し奉れ。国県の名は、来む時に将に定めむ。国々の堤築くべき地、溝穿るべき所、田墾るべき間は、均しく給ひて造らしめよ。当に此の宣たまふ所を聞り解るべし」とのたまふ。
 この条の後半は、「国司、国造に対し、諸国境界を書面・図面で奏上せよ。(新しい)国県の名は追って示す」というものだ。
 書紀で国内の「橿界(境界)確定」に関する記事は、この六四六年記事と六八三・六八四年の伊勢王記事(三四年遡上で六四九・六五〇年)しかない。
 【縁起】の「日本国巡礼」が六四八年で、これらを一連のものと見れば「六四六年に境界画定作業を国司・国造を派遣し地方に指示。これを基に六四八〜六五〇年にかけ全国を巡行視察し評制を施行した」という極めて合理的な記事となる(注3)。
 その際「国県の名は、来む時に将に定めむ」とある様に、「香島・度相」等の評名も追って付けられた。これが【神】六四九年の「始めて度相郡を立つ」【風】(香島)の「因りて郡に名づく」との記事だろう。
 また、「堤・溝・田の用地は与えて造らせよ」と言う部分は【風】に「令築池堤」と土木工事がなされたとの記述と符合している。同時に【紀】天武紀の伊勢王天下巡行に「工匠者」が同行している理由も解明できることとなった。
 更に前半の百官(新官職)を設け位階(冠位)を授ける旨を、地方官である国司・国造に詔していることも、【皇】の評督領等の任官と符合している。

(5)【紀】【皇】【神】【風】【縁起】が示す難波朝評制施行

 従って【皇】、【神】、【風】、【紀】天武一二年記事、【紀】大化二年記事と【縁起】までも、一様に「難波朝評制施行」を記述していた事となり、この時期の「全国評制施行」は一層確実な事実と考える。

(6)羽田公八国について

 また【紀】では「中臣羽田公八国」が伊勢王と同行した。一方【風】では、「中臣幡織田大夫」が坂東を惣領し、その時「分れて八の国と為り」と記されている。「八国」を惣領した「中臣幡織田」氏と「中臣羽田公八国」は同一人の可能性が高いといえる。
 常陸仲(那珂)国造(壬生直氏)など多(大)氏系中臣氏の租は「神八井耳命」で、九州火君・大分君・阿蘇君・筑紫三宅連らの祖でもあり出自は九州だ。茨城県には那珂川・那珂台地、那珂郡があるが、同時に福岡には、博多のど真ん中を「那珂川」が流れ、博多区那珂や那珂川町の地名まである(注4)。
 「中=那珂」地名は九州から持ち込まれ、その名を持つ「中臣羽田公八国」は九州王朝の臣下であり坂東惣領だと考える。ただ常陸の中臣氏は久慈郡の章に「至淡海大津大朝光宅天皇之世 遣検藤原内大臣之封戸」とあるように、近畿天皇家の実力者「藤原氏」に繋がっていく。多くの風土記が散逸する中で、中臣氏の活躍が記された常陸国風土記が残存しているのもこうした背景からだろう。

 IV「常色」の宗教改革

 これまで難波朝評制施行について述べてきたが、「宗教」という面で捉えれば、六四九年(大化五《九》常色三)に、伊勢・常陸等しく神郡(度会・香島等)が設置され、神社の統合や制度変更、神主の任命等が行われた事となる。これは難波朝で、大規模な宗教・寺社改革が行われた事を意味する。
 書紀の「大化改新」記事では、仏教について、大化元年(六四五)八月条に恵妙法師ら十師の選任や寺の支援が行われたとされる。
L■【紀】大化元年(六四五)八月
凡そ天皇より伴造に至るまでに、造るところの寺、営ること能はずは、朕皆助け作らむ。

(1)天武十年の神宮修理の詔勅

 その一方「神道改革」については何ら述べられていない。しかし天武十年(六八一)に諸国に「神宮修理」の詔勅が出された記事があり、三四年溯上すれば、書紀大化三年(六四七《九》常色元年)となる。
M■【紀】天武十年(六八一)の春正月(略)己丑(一九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。二月(略)朕、今より更律令を定め、法式を改めんと欲ふ
 そして、二年後の六四九年に伊勢・常陸の神社改革がなされた事を踏まえると、この記事は本来三四年遡上した常色元年の「神社改革の詔勅」であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。

(2)「神宮修理」の実態

 「天社地社の神の宮を修理」とあるが、「修理」は「すっきりととのえる」、つまり再編整理と考えられる。鹿嶋神宮についてみれば、沼尾(鹿嶋市田野辺)・坂戸(鹿嶋市山之上)両神社は《九》常色元年に「天之大神(その名からも天国系と思われる)」の下に摂社として組み込まれた事となる。伊勢・鹿嶋・香取の三社のみ「延喜式神名帳」に「神宮」とあるのは、これらが常色期に、各地の神社の頂点として「大神宮」に位置付けられたからではないか。
 ちなみに守山八幡富縁起(静岡県田方郡韮山)に「大化三年己酉」とあるが、「己酉」は六四九年大化五《九》常色三年で、度会・香島の神郡創設と同年。「常色三年」は「大化三年」に替えられているのだ。大化期には神社の創建記事が多く、伊勢・常陸と同じ大化五年(六四九)創建とあるものも七社見つかっている。これらも「常色」期創建だが後書紀年号にあわせ「大化」期創建とされたのではないか(注5)。
 九州王朝は、「常色年間」に、宗教分野で天社(筑紫・九州王朝の神々)を頂点とする神社の序列化を行うため「神郡(評)」を置く(六四九)、神社を統合再編する、「神痔*・為雑神政所」から「大御厨・神宮司」に変える(制度変更)、神主として督造等を新たに任命(官職制定・任官)する等の改革を行った。これを、試みに「常色の宗教改革」と呼びたい。

 

 V「常色の改新」

 なお九州王朝の改革は、書紀大化期の諸記事や天武紀記事から見て、神社改革に止まらず、律令、法式など国家のあり方全般に及んでいると思われる。全国に「評制導入」を行い、中央集権体制を確立すると共に、宗教・典法・身分制度など国の根幹を改新した。
 九州年号「常色」の「常」は「のり。典法」。「色」は[色法]仏・物質の法をいふ。(諸橋漢和大辞典)。「常色」年号は「律令・法令・宗教」全般の大改革の行われた年号として誠に相応しいのだ。
 近畿天皇家は自らが政権を奪取した《九》大化(六九五以降)年号を《九》常色期にずらして、九州王朝の「常色の改新」を「大化の改新」として我が物としたのだ。この点は別途述べたい。

(注)
注1【神】【風】により孝徳期評制施行を明らかにした先行論文として、鎌田元一「評の成立と国造」(『日本史研究』一七六号一九七七)がある。

注2 常陸国風土記は七一三〜七二一頃成立といわれる。出雲・播磨・豊後・肥前など残存する風土記の一つ。ただし総記と行方郡以外は一部または全文が欠如している。

注3 この記事が書紀記年通り大化二年(六四六)の事とすれば、改革開始が命長期となる。しかし、書紀天武一二年(六八三)九月に直・首・造を「連」に改めた記事があり、内容的に「旧職を改め、百官を設け、位階を著し、官位を敍け」る宣言記事と符合する。天武一二年を三四年遡上すれば六四九年(常色三)なので、守山八幡富縁起の例のように、「常色(二年)」を「大化(二年)」で入れ替えている可能性も大きい。その場合評制施行の開始は「伊予三嶋縁起」どおり「常色二年(六四八)」となろう。

注4 福岡の「那珂」については、古田武彦氏が「古代史の十字路・万葉批判」(東洋書林)で指摘されている。

注5 九州年号と寺社の創建の関係については古田史学HP.「九州年号総覧」をご参照頂きたい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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