2008年 4月 8日

古田史学会報

85号

アガメムノン批判
冨川さんの反論に答えて
 古田武彦

2松本からの報告
古田武彦講演
学問の独立と
信州教育の未来

 松本郁子

常色の宗教改革
 正木裕

4インターネット異次元へ
「新・古代学の扉」を
古田学派のデータベースへ
 横田幸男

5 伊倉4
天子宮は誰を祀るか
 古川清久

前期難波宮は
九州王朝の副都
 古賀達也

 

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トロイの木馬   冨川ケイ子(会報84号)
アガメムノン批判 冨川さんの反論に答えて 古田武彦(会報85号)
「トロイの木馬」メンテナンス 冨川ケイ子(会報86号)
「遠近法」の論理 再び冨川さんに答える 古田武彦(会報87号)


アガメムノン批判

冨川さんの反論に答えて

古田武彦

    一

 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも。 ーーソクラテス」
 わたしがこの一言にふれたのは、十六歳。旧制広島高等学校の一年生でした。昭和十六年の「道義」(「倫理」の改称)の時間、岡田甫(はじめ)先生が黒板いっぱいに書かれ、教室内を一巡したあと、
 「この中で一番大事なところは、どこだと思うかい」
 生徒の沈黙の中で再び半巡し、おもむろに言われました。「最後のところだよ。“たとえそれがいかなるところへ到ろうとも”だ。」
 この岡田先生の一言が、わたしの生涯、わたしの学問のすべてを決定した。 ーー今思いかえしても、ハッキリとそう思います。

     二

 今回、古田史学会報(No.八四)の冒頭にのせられた、相模原市の冨川ケイ子さんの論稿「トロイの木馬」を読んだとき、強い「?」がわたしの頭の中で渦巻きました。
 なぜなら、わたしの(昨年から今年にかけて到達した)『ソクラテスの弁明』に対する新発見は、従来の「通説」としてのソクラテス論を前提にし、それに対するものでした。少なくとも、わたしにはそう思われているのです。
 ところが、冨川さんが、わたしの「新発見」を斥け、御自分の“新見地”のように書いておられるのは、わたしにとっては「年来の通説」、少なくともその「一端」だったからです。
 わたしの読後感が、何か、“時計のねじを逆まわしにされる”ような違和感におそわれたのは、そのためです。その「?」を解きほぐすため、この一文を書くことを決意しました。
 もちろん、「反論」大歓迎、それをこそ熱望するのが、わたしの基本の立場ですから、冨川さんの「反論」されたこと自身を「非」とするのでは、全くありません。言うまでもないことです。
 わずかに、小さな「思考の糸」の“ねじれ”を解きほごすだけの一文ですが、ことの性格上、わたしの学問の成立の「基礎」をときあかすに至ること、それを予感しつつ、今書きはじめさせていただきます。

     三

 わたしがこの数年、『ソクラテスの弁明』に関して、新たな「発見」と思ったのは、次の二点でした。
 第一、ソクラテスはギリシャの英雄アキレウス(「テティスの子」と表記)の行為をたたえ、自分の(平和時における)活動が「生命の危険」を恐れないのは、戦時におけるアキレウスの勇気と義侠と同じ立場をとろうとしたからだ、とのべています。
 これは有名なホメロスのイリヤッドの(現存)最終章(第二十四歌)までに歌われたところです。すなわち、実在人物としてのソクラテスが、自分の活動の"裏づけ"としてのべているのですから、当然この「ホメロスの語るところ」もまた、実在と見なければならない。とすれば、この内容を「歴史事実ではなく、小説(お話もの)」として、永年扱ってきた、ヨーロッパの古典学(学問の中心)とは、一体何だったのかと、わたしは問うたのです。
 シュリーマンが苦闘し、実証したところ、その報告にもかかわらず、当のシュリーマンに対して「偽者・発掘者」「インチキ・人間」のように冷遇し、嘲笑してきた、ヨーロッパの大学の中心、その「古典学」とは一体何だったのか、 ーーそれを問うたのです。
 この点、今回出現した『東日流(内・外)三郡誌』の寛政原本に対して、また従来の明治写本(と活字本)に対しても、さらに“弁舌を弄しつづけて”「疑惑の目」を注ごうとすね人々にもまた、右のヨーロッパ「古典学」の“非”と同一の立場、学問上の基本姿勢に立とうとする者。そのように批判したのです。(1)

     四

 次にわたしがとりあげたのが、今回冨川さんがとりあげられた、(わたしにとっての)「新発見」です。
 若い方の質問に応じて、今まで何百回説いたかしれぬ、この旧知の本を読み直してみたところ、全く(わたしには)今まで気づかなかったテーマを新たに“見出し”ました。昨年(二〇〇七)の末から今年のはじめにかけての頃です。
 それは次の点です。
 「『弁明』に書かれている、その理由からは、裁判官(五〇一名)の「死刑」という判決は、全くそぐわない。バランスを欠いている」という一点です。「その理由」というのは、有名な一節です。デルフォイの神託が「ソクラテス以上の賢者はいない」と言った、と聞き、彼はその「神託の非」を証明しようとしてアテネの賢者とされるインテリ、有識者のもとを歴訪しました。その結果意外にも、神託が「正しい」ことを発見しました。なぜなら、彼等は部分的な専門知識に誇り、『すべての知』をもつかのようにうぬぼれていました。しかし自分(ソクラテス)は自分の知がとるに足らぬことを知っている。 ーーそれこそが本当の賢者である。「神託」はそう言いたかったのだ、と。いわゆる「無知の知」です。
 確かに、こんな「検査」をうけたアテネのインテリや有名人にとって、ソクラテスは「面白からぬ」存在だったでしょう。「けむたいやつ」です。しかし、そうかと言って、それは「死刑の対象」なのか、と言えば、「?」です。何かバランスがとれていないのです。わたしは今そう思います。
 では、真相は何か。そう考えはじめたとき、ふたたび「目にとまった」もの、それが「ホメロス」でした。
 「実際、この世で裁判官と自称する人達から遁れて冥府(ハデス)に到り、そこで裁判に従事しているといわれている真誠の裁判官を、ミノスやラダマンテュスやアイヤコスやトリプトレモスや、その他その一生を正しく送った半神達を見出したとすれば、この遍歴は無価値だと言えるだろうか。或いはまたオルフェウスやムサイオスやヘシオドスやホメロスなどとそこで交わるためには、諸君の多くはどれほど高い代価をも甘んじて払うだろう。少くとも私は幾度死んでも構わない。もしこれが本当であるならば。」
 ここにあげられた人々の「実際」をわたしたちは知りません。そしてその「実際」をソクラテスは“語って”いません、あのホメロスを除いては。(2)
 ホメロスについては、先述のように彼の『イリヤッド』の中のアキレウスの業績があげられ、直接、自分の年来の(平和時の)活動にとって「模範」だったと、されています。ここに
〈ソクラテスーーー→ホメロス〉
の結びつきの重要性がうかがわれます。

     五

 このホメロスの『イリヤッド』(イリアス)について、史料批判上、肝心の一点があります。略述します。
 第一、本来の『イリヤッド』は第二十四歌で終り、以降は「後代の追作」である。
 第二、第二十四歌は、ギリシャのアキレウスの義侠とトロヤの王子・ヘクトルへの愛惜で終っている。
 第三、右はギリシャの神・ゼウスの意思によるとされている。
 第四、すなわち、いわゆる「トロヤの滅亡」や「木馬の詭計」に対しホメロスはこれを「非」とし、「ゼウスの意思」に反する、と見なした。それゆえ、それらへの「賛歌」を歌わなかった。「沈黙の批判」である。
 第五、これをソクラテスは“うけ入れ”た。というより、そのホメロスを尊敬し、自分の知己としたのである。
 第六、このようなソクラテスの根源的な「ギリシャ批判」に対して、アテネのインテリ、有識者、さらに権力・権威をにぎった人々は「許容」できなかった。 ーーこれが「ソクラテスの死刑」に至った“根本の理由”である。
 第七、プラトンも、右の権力・権威の“強圧下”にあった。そのため一種ユーモラスな「デルフォイの神託」問題を“文章の表面”に出し、“真の理由”を「背景」におく。そういう構図のもとに、この「作品」を描いたのであった。以上です。(3)

     六

 わたしのギリシャに対する関心は、生涯の大部分をおおうています。
 その一は、もちろん昭和十八年、岡田先生の一文が、ギリシャへの関心の「はじめ」でした。この一文はプラトン全集全体にも"見出す"ことができません。その点、いわゆる「プラトン全集からの直接引文」ではなかったのです。いわば、プラトンの伝えたソクラテスの思想の「取意」だった、ということになります。ながらく、そう思ってきましたが、今回、気がつきました。八十一歳にもなって「おそすぎる」こと、度が過ぎていますが、考えてみれば自明です。
 「ソクラテスの生涯の要約」
です。もっと突きつめれば、
 「ソクラテスの最期の選択の要約」
だったのです。
 他でもない、今問題にしている『ソクラテスの弁明』を一貫した彼の立場、その「自己の死への運命」を決した立場、それを岡田先生は「はじめて」右の一言で集約されたのです。「見事」の一言に尽きます。そうです。彼はこの立場に立ち、立ちきって、自己の「死刑」を求め、"偽りの裁判官たち(五〇一人)"の多数決を、いわば"強要"したのです。それを当代(ソクラテスの歪んだ現代)に対してではなく、万代の未来の人類に対してしめしたのです。「表面の形は『国法』であり、『多数決』であっても、その真実は『不正』そのもののふるまい」を現しているのが、今のアテネの体制であることをしめし、将来の人類史においても再び、三たびと、さらにこの姿が現れるであろうことを「予告」し、警告していたのです。もう一回申します。岡田先生は読み切られた。それがこの「要約」だったのです。

     七

 その二は、東北大学の日本思想史科・村岡典嗣先生。わたしの恩師です。昭和二十年四月、入学しておうかがいしました。「単位は何をとったらいいですか」。「何でもどうぞ。ただ、ギリシャ語だけはとって下さい」。
 驚きました。日本思想史に来て、なんでギリシャ語をと思いましたが、先生の教えに従い、河野与一先生のギリシャ語とラテン語を学びました。戦争中の当時だからこそ、「視野の狭い日本教」ではない「真の学問」を、とわたしに期待されたのでしょう。
 その上、先生の学問のもと[二字傍点]となったアウグスト・ベエクはドイツの学者ですが、その「フィロロギー」の学は、何よりも「ギリシャ研究」に"発した"ものでした。その「認識せられたものの(再)認識」という方法論は、今回のわたしのソクラテス研究においても重要な指針となりました。プラトンがこの『弁明』で描いたところ、志したもの、その一点を厳密に明らかにする。その立場に立ったことが今回の「新発見」を生んだ、わたしはそう思っています。
 今、天界の村岡先生に向って、心から深い感謝の言葉をささげたいと思います。

     八

 その三は、平林六弥(ろくや)さんの影響です。この方の名前は“初耳”の方が多いと思いますが、わたしにとって「ギリシャ学の源泉」となった方でした。昭和二十三年、東北大学を卒業したばかりの青二才のわたしがお会いした先輩教師でした。西洋史(世界史)の担当です。三年生の世界史を教えておられたのですが、毎時間の講義は「ギリシャ」一本槍。週三〜四時間、一年間、微動もせず「ギリシャ」なのです。生徒が「大学受験に出る、他のところもやって下さい」と願い出ると、「そんなの、自分でやれ」と一蹴。一貫して「ギリシャ」、四月から三月に至られるのです。名物教師の一人でした。もちろん校長の岡田先生は、ほほえんでうしろから声援しておられました。
 青二才のわたしも“負けず劣らず”だったかもしれません。最初の年は社会科でしたが、第二年目からは国語で、週二回の二年生相手の授業では、年間を通じて教材は『ソクラテスの弁明』でした。自分は戦争中に読んでいましたが、生徒用の教材として肝心の岩波文庫が戦後未刊でした。そこで岩波宛、丁重な手紙を書き依頼したところ、直ちに岩波から電話でO.K.の返事が来ました。たのんだこっちが驚きました。なんの条件もなしに承諾してくれました。早速松本市内の印刷所に頼んで全文複製。生徒全員(数クラス)に配布、これを教材として年に十ケ月くらいは、『ソクラテスの弁明』一本の授業でした。

     九

 さて、問題は職員会。寒い信州ですから火鉢を囲んで議論白熱するのですが、なにしろ平林先輩はギリシャ。東京大学の西洋史出身。まだ四十歳前後。こっちは生意気な二十歳台。議論は際限もなくつづくわけです。平林さんはギリシャの話なら尽きることがない。その尽きることのない「話」が、わたしの「ギリシャ常識」となったのです。今回、冨川さんの“新しい見解”も、その重要な一コマでした(ノートをとっていた生徒が居れば「保存」しているでしょう)。
 ソクラテスを処刑したギリシャとは、何者だったか。トロヤ落城、木馬の詭計はもちろん、恥ずべきメロス事件、そしてエウリピデスの『トロイアの女』、そしてアテネのスパルタへの敗北など。もう、こういう話に火がついたら、平林先生、とまりませんでした。平林さんは昭和二十年から二十八年まで在任、四十三年から四十七年まで校長でした。こういう“風変わりな”教師が堂々と校長となる。深志とは、そういう校風の学校だったのです。
 従ってわたしは、この「平林常識」を常識としてきました。冨川さんが「参考文献」に書いておられる著者・訳者はおそらく東大時代の平林さんの時期の先輩や後輩なのでしょう。だから当然ながら、その「ギリシャ史の常識」はわたしたちの常識となっていたのです。
 ところが、わたしはこの歳になって、現在二十歳台の若い研究者の質問に“困っ”て『弁明』を“読み直し”てみたところ、先述の二重構造の「舞台装置」の中で、プラトンがすでに「ソクラテス処刑」の真の理由を(「読む」人には判るように)"設定"していたことにはじめて気づき、愕然(がくぜん)とせざるを得ませんでした。

     十

 冨川さんは次のように書いておられます。「トロイア戦争は紀元前一二〇〇年頃の出来事である。これを叙事詩『イーリアス』に歌ったホメロスが活躍したのは同じく前八〇〇年頃。一方ソクラテスが刑死したのは前三九九年である。
 ソクラテスの時代から見てトロイア戦争は四〇〇年前の人が描いた八〇〇年前の出来事である。ギリシアの当時の繁栄は八〇〇年前の不正行為の結果である、という考えは、時間の隔たりが大きすぎて非現実的ではあるまいか。トロイアから略奪した富がギリシア各地の権力者をうるおしたとしても、人類初めての民主政を実現したギリシアの繁栄は、ギリシア人自身の数百年にわたる努力の賜物だったというべきであろう。」
 冨川さんはそのように論じられています。これが次のわたしの文章への批判です。
 「古田氏によれば、『このような問いに対して、今回の「ホメロス問題」は、新たに重要なテーマを浮びあがらせた。即ち「現在のギリシャの富裕と繁栄」自体、アンフェアな「トロヤ大虐殺」の結実として、これを否認する。──これがホメロスの立場、そして彼を尊敬するソクラテスの思想性だったのである。』」。(「学問論(第七回)(3)- (3))
 右で「このような問い」とされているのは、先述の
 「『神託検証のための歴訪』問題と『ソクラテス死刑』との間のアンバランス」に対する、わたしの問いのことです。
 このような“把握”をしめした後、冨川さんは「八〇〇年前の不正行為(木馬の詭計とトロヤ大虐殺)問題は、時間の隔たりが大きすぎて非現実的」であるとして、わたしの今回の「新発見」の意義に対してあえて「ノー」の帰結をしめし、それを論稿の出発点とされたのです。

     十一

 率直に言うと、わたしは右の帰結を読んで、深い「?」を覚えました。なぜなら「法然や親鸞は今から七〜八百年前の存在だ。だから彼等のテーマが現代の古田などにとっての重大な問題となるはずがない」。本気で冨川さんはそうおかんがえなのでしょうか。
 しかし、わたしの場合、敗戦によって人々(教師も、政治家も、識者も)の「表明」するところが一変したのに幻滅し、「こんな世の中に生きていてもしょうがない」と感じました。事実、生命を絶った若者もありました。「しかし、あの親鸞も、そうだったのだろうか。」
 同じ岡田先生からお聞きした「たとい法然聖人にすかされまいらせて念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさうらう」(『歎異抄』)の一言にひそむ親鸞、あの人なら「時代の激変」の中で、自分の声を変えなかったのでははなかろうか。もし、そうだったとしたら、自分も生きてみよう。何とも浅はかな「青年の独断」ですが、それが本音で、「親鸞その人を知ろう」としはじめたのです。そのさい、「あの人は八百年も前の人だから、参考にならない」などとは、夢にも考えませんでした。

     十二

 古代史も同じです。「七〇一」の政治変換、いわゆる「大化改新」の実像分析に最近夢中ですが、これに対して
 「千三百年も前の話など、とりあげるに値しない」などとお考えですか。とんでもありません。
 明治維新以降、「天皇家中心の歴史」が“偽構”され、その頭脳のロボット国民が何万何億と量産されました。その結果が今回の敗戦です。ところが敗戦のさい、占領軍は「無条件降伏」を日本側の「国体の護持」要求と“取り引き”しました。占領という軍事行為をスムースに「施行」するためです。そのためには彼等(日本側)の要求する「天皇家中心の歴史」とその「(戦前からの)教科書検定制度」を“温存”し、"再利用"する道を選択しました。あめりかの好む「司法取引」めいた手法です。彼等は「日本の歴史の真実」などには皆目関心がなかったわけですから、いうなれば当然でした。 そのため今の日本は「旧い歴史」も「新しい歴史」も、しっかり両方で握手して、「日本の教育」と「日本の若者」を「天皇家一元」の歴史教科書で支配しつづけて、今日に至っているのです。
 「千三百年前の歴史」とは『今』の問題。未来の日本人の精神構造の問題なのです。
 いつまで「占領ロボット」でありつづけるか、この問題です。わたしは中世の親鸞や古代史のテーマに向うとき、一瞬もこのテーマが念頭を去ったことはありません。
 「八百年前」のことなど「非現実的」という冨川さんの文章の前で、わたしが唖然としたのは当然でしょう。ホメロスも、ソクラテスも、わたしも、同じく人間なのです。この地球という「歪んだ星」の一画に生きる、人間という名の生き物なのですから。
 ソクラテスは「哲学者」とされていますが、その「哲学」が時代により、地域により、それぞれのご都合によって、「適当に言い換えられる」ものだったとしたら、わたしにはそんな哲学などに関心はありません。歴史に関しても同じ。否、それ以上です。
 歴史の女神はわたしに対し、いつもそのように語りかけてくれているのです。

     十三

 一番新しい「発見」がありました。『弁明』末尾(三十二)の中に、次の一節を見出したのです。
 「しかもなかんずく最も重要な事は、あの世でもこの世と同じように、人々を試問したり吟味したりして、その中の誰が賢者であるか、また誰が賢者顔をしながら実際そうではないかを確かめることを己が業として暮し得るだろうということである。裁判官諸君よ、人はその為にどれほどの代価でも甘んじて払うだろう。トロイア攻の大軍を率いた人とか、オデュッセウスとか、シシュフォスとか、もしくはわれわれがその名を挙げ得るかぎりの他の無数の男女を試問することが出来るのであったならば。そこで彼らと語ったり交わったり彼らを試問することは、言語を絶した幸福であるであろう。」
 右で
 「トロイア攻の大軍を率いた人」とは、当然ギリシャ軍を統率したアガメムノンです。ですが、その「実名」をあげてありません。"避けて"いるのです。これは、アキレウスのことを「テティスの子」と呼んでいるのと、一見似ているようで、実体は「否」です。「〜の子」という表現は当時の慣用句です。当時は「アキレウス」は「(有名な)テティスの子」という呼び名で“通って”いたからです。しかし、アガメムノンの場合、当然「〜の子」の形ではありません。
 いわば、全ギリシャ軍中、もっとも“知られた”著名人です。その人の実名を避け、あえて「トロイア攻の責任者」の形で表記しています。その男を、ソクラテスは「査問」するというのです。その対象の筆頭にあげているのです。そこには、この「トロヤ攻撃」自体の大義名分に対して、ソクラテスが根強い
 「?」
をもっていたこと、それがまさに明晰にされているのです。
 わたしが「新発見」したように、ソクラテスの批判の刃(やいば)に、八百年前の「ギリシャ軍のトロヤ攻撃、そのものに向けられていたこと」 そしてあの、ホメロスが「歌わなかった」(木馬の詭計とトロヤ大虐殺)にあったこと、この肝要の一点を、右の「はばかり」の表記が“裏付け”ている。わたしにはそう思われます。(5)

     十四

 せっかくの機会ですから、冨川さんの玉文中の“些少のまちがい”にふれさせていただきます。
 「そのアキレウスを尊敬し、あの世で会いたいというソクラテスは、じぶんもまたアキレウスのように死ぬことを望んだように見える。」(P.3の4段、12〜15行)
 問題は、「アキレウスにあの世で会いたい」との一句です。この文面は、岩波文庫(久保勉訳)にはありません。この岩波文庫は、わたしの文字通りの愛読書。大正二年(一九二七)の初刊です。わたしは何度買い足したり、他に贈ったりしたか、とても生涯に数え切れません。基本の本です。そこにはないのです。
 そこで冨川さんが「参考文献」としてあげられた角川文庫(山本光雄訳、昭和二十九年)を検してみました。「あるいはまたオルペウスやムサイオンやヘシオドスやホメロスといっしょになることを受け入れるために、何を出し惜しむ者が諸君のうちにあるだろうか。」(一〇四ページ)
 また講談社学術文庫(三嶋輝夫・田中享英訳、一九九八年)では「あるいはまた、オルペウスやムサイオスやヘシオドスやホメロスと一緒になれるならば、どれほど金を出しても構わないと言う人が皆さんの中にもいるのではないでしょうか」(八二ページ)とあって、大異はありません。おそらく冨川さんがこの一人に「アキレウス」を“入れた”のは原文からの引文ではなく、御自分の「想像」を、あたかも“引文”であるかのように表現されたのではないでしょうか。
 実は、彼(アキレウス)の場合は、少なくとも「二つの側面」があります。
 (1) ソクラテスの尊敬する義侠の戦闘行為者。
 (2) アガメムノンの「部将」として、ギリシャ側の軍を率いて、トロヤ攻めに加わったこと。
 これらの各側面に対する「吟味」、それこそソクラテスが死後、「望み」としたところなのではないでしょうか。
 ともあれ、原文にないものを、論者の「想像」で、地の文に挿入する。これは立論の厳密性のために、願わくは今後注意していただければ幸いです。

     十五

 冨川さんの参考文献中に『トロイアの女たち』(サルトル著、芥川比呂志訳)を見て、楽しくなりました。松本深志の一年目、社会科の「時事問題」を担当。三年生の猛者連中が相手でした。A君がサルトル側、B君がマルクス側に立って激突しました。もちろんアメリカ流の「一方の側と他方の側に分れて」という“ゲーム式”ではなく、双方心底からの愛読者、言うなれば「信奉者」でした。B君は青共(青年共産同盟)のメンバーです。 わたしはサルトルとマルクス両者とも、「思想家」として尊敬していましたから、ニコニコして双方に“火をそそぐ”役割で「授業」をしました。その後の『異邦人』のカミユとサルトルの論争にも“身を入れ”て熱中しました。
 ややあとで、中嶋嶺雄君(現・秋田国際教養大学、学長・理事長)が深志のトンボ祭(記念祭)で、わたし一人が社研(社会科学研究会)の猛者連に囲まれて、一歩も引かず反論をしていたのを「傍観」し、感銘を受けた旨、書いていましたが、その素地は実は、このような「授業」にあったのです。
 今、当時の猛者連よりずっと若い、冨川さんのご批判を受けて、楽しくてたまりません。これを契機に、いよいよ『ソクラテスの弁明』や『イリヤッド』などのギリシャ語原文にとり組みたいと、老いてますますみずからの研究心に燃える毎日です。どうぞ、若いみなさんの御叱正をお待ちいたします。(5)

《注》
(1) 「寛政原本と古田史学」、古田史学会報No.八一
(2) オルフェウス、ムサイオス、ヘシオドス、いずれも吟遊詩人。ヘシオドスは『神統記』、『仕事と日々』。前七〇〇年頃の生れとされています。オルフェウスの妻はエウリュディケ。
(3) これらの問題点については次の諸稿に詳述しました。(Tokyo古田会News)
 (1) 「ソクラテスの弁明」(第一回)閑中月記・第四十八回(No.115,JUL.2007)
 (2)「仝右」(第二回)閑中月記・第四十九回(No.116,SEP.2007)
 (3)「学問論」(第七回)ホメロスとソクラテス(No.117,NOV.2007)
 (4)「学問論」(第八回)ホメロスとソクラテス(No.118,JAN.2008)
なお、全集(ミネルヴァ書房刊)にはこれらもすべて収録の予定。
(4) これと“同類”の「はばかり」表現が、親鸞の『教行信証』自筆本(坂東本)の中に見出されました。「佐土院、八行本文」の問題です。従来未到だった、親鸞思想の重大テーマが新たに「発見」されたのです。『真宗教学研究』第二九号所載(二〇〇八年六月発刊)の「親鸞思想の本質と信蓮房」に掲載予定。(二〇〇七年十一月二十四日、東本願寺の高倉会館での講述)
(5) 「沈黙の批判」というテーマと方法論は、松本郁子「乃木将軍論」に拠る。(『太田覚眠と日露交流』、ミネルヴァ書房、二〇〇六刊の後続論文〈博士課程〉、参照。)
  ──二〇〇八・三月六日 記了──


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