2006年 8月 8日

古田史学会報

75号

大野城
太宰府口出土木材に就いて
 飯田満麿

泰澄と法連
 水野孝夫

巣山古墳(第5次調査)
 出土木製品
 伊東義彰

「和田家文書」に依る
『天皇記』『国記』 及び
日本の古代史に
ついての考察4
 藤本光幸

彦島物語III外伝
伊都々比古(前編)
垂仁紀に発見、穴門の国王
 西井健一郎

「元壬子年」木簡の論理
 古賀達也

7 『 彩神 』第十一話
 杉神6
 深津栄美

多賀城碑の西
 菅野 拓
 「粛慎の矢」
 太田齊二郎

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「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察   4

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 「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』
及び日本の古代史についての考察4

藤崎町 藤本光幸

【遺稿】

(19)「丑寅日本記 第八」“安倍抄記之序”

「(前略) 倭国と日本国、西南方、と、東北方、にその国堺を越の糸魚川をい西端に、東は三河の北東になる遠江の天竜川を東端とせるを東西として、二国の古王国は成れり。
 依て、国号になる日本国とは丑寅の方にて、倭国とは、此の西になる国なり。西南端の高砂国、琉球国、筑紫国、は小国なるも王国にして、互いに船師をして掠むこと常にして治まらず興亡す。王座に崩れし敗亡の君侯は海に遁脱し、新天地を求め、薩陽、大隈、日向、の地に漂着せしも、古来、多くは地王に従卒せしも、日向に漂着せし、高砂王の系にして、佐怒王一族、能く地民の信を誘ふたり。
 病ふ者に、麻煙にて一刻の治、活神隠れとて、日蝕、月蝕、の暦運を応用なし、是を信仰の固きに、地民を従がはせしむ。亦、稲、稗、らの種子を地を拓して稔らしむより、その出来秋になる祭祀に舞ふ妖しき女人の神楽に、地王ら遂にして国を献じて従僕せり。
 然るに、是を良とせざるは筑紫の熊襲王にして、抗せるも、民は彼のもとに逐電し、遂には神令とて東征の起りたるを、世に是を日向族と曰へり。

第一章に曰く。
 筑紫王たる猿田彦王、是なる流民族長佐怒王に自国を献じて、民を併せしに、その東征ぞ破竹の勢にして、豊の国を略し、遂にして赤間の速水峡を渡りて山陽、山陰、の国を略しむ。内海、南海道、を併せし間、七年にして、遂には西海王たる出雲王を併せて、国ゆづりの議、成りて耶靡堆国を攻め、浪速の戦に始まりて、地王の阿毎氏安日彦王、その舎弟長髓彦王らを東国に逐電せしめたりと曰ふ。

 第二章に曰く。
抑々、倭史になる天皇即位に当つる年代をして、東征、及び天皇一世の成れきは支那年号なる恵帝己酉三年なりと天皇記に遺りぬ。
 亦、国記にても倭国の建国はその同日なり。亦、即位の儀になるは、泉原なる処と記ありぬ。即ち、攝津の国内なる竜王山、鉢伏山の間曰ふ。依て、橿原の地に非らざるなりと曰ふ。此の地は耶魔(ママ)堆の阿毎氏の域にて進駐の叶はざる処なりと記に遺りぬ。
 阿毎氏とは安倍氏の祖称なり。即ち、荒覇吐日本国王となりて、丑寅に国を創むる農耕国なる始祖なり。

  右原漢書
 明徳庚戌(ママ)二月十一日  物部鑛金」

 次に「和田家文書」に依る、日本国号と蝦夷名の由来について紹介しましょう。

(20)「丑寅日本史総解」“日本国号由来”

「(前略) 日本国たるの国号にて、倭国と国を異にせるは、天皇記及び国記にて明白なり。然るに、此の天皇記、国記、ぞ倭朝に無かりけり。大化乙巳の変にて蘇我蝦夷より奪取せんとて、蘇我氏を天誅に中大兄皇子の宣を奉じて、甘橿丘を攻め、蘇我館に火箭を放って?るも、その参謀に当りたる船史恵尺が火中より得ること能はざりきと世に伝ふも、蘇我蝦夷は是事の起らんを覚りて、坂東なる荒覇吐神社へ移密保護し置けり。依て、蝦夷の墳墓までもあばかれ、その玄室は風雨に今尚さらされけむ。爾来、奥州を化外、外民蝦夷とぞ国号せしは通常と相成りぬ。
 天皇記及び国記ぞ、東奥にありて世に顕れずと、世に伝ふなり。右、坂東記より。
 寛文二年正月三日  浅利与之介」

(21)「丑寅日本記 第八」“蝦夷名由来”

「大化乙巳年蘇我蝦夷、天皇記及び国記、を隠滅してより、風説にして、丑寅の日本国に渡りたるとて、その地に住むる者を蝦夷と呼称せりと曰ふ説ありき。とかく蝦夷とは支那にて創まれる卑しき民を意趣せし言語なり。
 亦、天皇記、国記、を蘇我館の炎上より船史恵尺の焼失せるの報せも、諸人に疑はれたり。天皇記、衆に露見せば、須く天皇の累系、民の信を欠くるの大事なり。依て、坂東より丑寅の民をば、まつろはざる蝦夷と曰えり。まさ易々乍ら蝦夷と号けらる事ぞ、如権邪称なりきと老衆の未だに語らる処なり。
 寛政六年九月七日  秋田孝季 」

 以上、二十一項目に依て「和田家文書」の『天皇記』『国記』に関する紹介を大体終りました。

(注)今後の整理の都合上(1)〜(21)の番号をつけました。
 扨て、この後は前述した二十一項目についての検証をしてみたいと思ひます。亦、それらによる日本古代史についての考察も進めてみたいと思ひますが、「和田家文書」は、その史料が博物学的に、矛盾を承知で採用された、累代の書き継ぎ文書であることを、念頭において、考えるべきであると思います。
 初代和田長三郎は、このことについて
 「如何なる同説たりとも、一行の異説ありては、記入に事欠かざれど、私にして史趣の評、亦は収除是無く綴りたり。依て、史読判断は読者の心に以て賛否の労考を仰ぎ、玉石混合とぞ、評あるべきも勇筆なせり。元より百視百論に盡すとも、真実はひとつなり。その一つを萬粒の砂より選ぶる心算にて本書は成れり。」「諸説抜選せず総てを集記し、正しき定説の判断は、後世の史学分野に委ね置く。依て、玉石混合に綴らるとも、真実は一つなり。
     文化二年十二月二十八日            和田長三郎吉次

と述べて居ります。
 戦後の日本古代史は、縄文時代から弥生時代となり、西暦紀元前後の頃の倭国は百余国に分かれ、一部の国は、前漢に、朝貢を行って、西暦五七年には、倭の奴国王が後漢の光武帝から印綬を受けて居ります。「建武中元二年、倭奴国貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印授を以てす。」(後漢書東夷伝)
 西暦一〇七年には「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。」(後漢書東夷伝)とあります。この頃の倭国では、部族国家が群立して内乱が絶えず、西暦一八四年に卑弥呼が女王となって、漸々、平和が訪れたようです。
 西暦二三九年、「邪馬壱国女王卑弥呼、大夫難升米等を遣して、帯方郡を経て魏に生口、班布を奉じて朝貢す。魏、卑弥呼を親魏倭王となし金印紫綬を授く。」(魏志東夷伝倭人條)
 西暦二四七年、倭女王卑弥呼は狗奴国男王卑弥弓呼と不和で、相攻撃し合い、この頃、卑弥呼が没し、男王を立てたが、国中服せず、卑弥呼の宗女壱与を立てて国中が定まった。西暦二六六年には、壱与が西晋に使者を派遣している。「倭人晋に来つて方物を献ず」(晋書武帝紀)かくして、三世紀末から四世紀初めにかけての九州王朝の国家統一の気運は一段と促進されたのでした。
 「日本書紀」で十代崇神天皇以前に、神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、考霊、孝元、開化、の九代の名を伝うる頃の事です。
 この頃の事について、佐治芳彦氏は以下の様に述べて居ります。「世界史では歴史時代以前は“先史時代”とする。歴史学者のいう日本の“王朝”とは、ふつう四〜五世紀に成立したと思われる古代天皇制とその系譜をさす。従って、神武ないし崇神以前に王朝があった事は認めない。縄文の“クニ”はともかく、弥生ともなれば、水田耕作が入り、土地(農耕可能地)の専有支配がはじまり、三世紀ごろまでには“百余国”があって、たがいに争っていたと『魏志倭人伝』にある。
 そうした国々には、その地域住民の文化、政治的統合の象徴ともいうべき人物がいたはずであり、その人物は、当初は原始民主制で選ばれたと思われるが、やがて世襲化してゆき、この段階で“王朝”という表現が一応可能となる。この“王朝”は同じ血筋(血統)の王の系列とう意である。」
 所で、「和田家文書」では国の概念について、次の様に述べて居ります。
 「はじめに国に境なく、人々適地に住む。亦、望む所に移りて勝ってたるも、人、追日に多く生れ、住むる地に幸、貧しくなりければ、餌を争い恵幸の地を争いて攻防し、人、集いて邑造り、狩猟領域を巡り、他者の侵駐を追ふる攻防ぞ、護国と国造りの創めなり。」と。かくして、今から四千五百年乃至四千八百年前頃に、邪馬臺王国が建国され、当初は耶靡堆国と呼ばれたと伝えて居ります。
 この一族は、ユーラシア大陸から満州、朝鮮を経て、越州に上陸し加賀の犀川の水上、三輪に居住し、白山神の司、豊炊姫を室として、四辺の国々が乱れているのを鎮圧し、国を攻め取り、百国(郷族百八十国との記述もある)を統一して耶靡堆国を建国したのです。
 かくして、耶靡堆国、明日香の箸香の山を三輪山と号し、加賀の三輪山神を移して三輪山大神とし、三輪郷蘇我に高御倉を築いて中央とし、第一祖を耶靡堆日子(やまとひこ《彦》)とも阿毎(あめ)氏とも称したとしますが、これは西暦紀元前二千五百年乃至二千八百年前の事となり、卑弥呼より遥かに古い事であり、今までの資料には、全くありません。日本では、縄文文化の頃であり、中国では仰韶文化(彩陶文化)前期の頃の出来事です。
 この後、阿毎氏は勢力を拡げ、五畿七道の大王として勢力を誇ったとされて居ります。吾郷清彦氏は、邪馬台国の範囲を五畿七道とし、五畿とは倭(大和)、河内、和泉、攝津、山城(京都)とし、七道とは東山道(日高見国)、東海道(東国)、北陸道(越国)、山陰道(出雲国)、山陽道(吉備国)、南海道(四国)、西海道(筑紫国)、のことであるとして居ります。
 所で、前述しましたが佐治芳彦氏は神武ないし、崇神天皇、以前に王朝があったことは認めない、として居りますが、はたしてそれで良いのでしょうか。佐治氏のほかにも欠史九代として、崇神天皇以前の九代の天皇は認められないとする学者の方々が居ります。
 早稲田大学名誉教授故水野裕教授は次の様に述べて居ります。「原大和国家の統一を完成したのは崇神天皇と思われ、第十代崇神天皇が本来の初代天皇であるとするならば、神武天皇を含めた前九代の天皇はどういう天皇なのかということになるわけですが、私はこの九人の天皇の伝承は『記紀』などの国史編纂者たちが、その編纂構想に基づいて、“神代”から“人代”への推移を説明し、系譜の神聖化をはかることにあった、そのために神武天皇を含めて九人の天皇を一括してつくりだしたもので、すべて実在の天皇ではないと考えます。」と。所で、私は「和田家文書」に依て、崇神天皇以前に、神武、孝元、開化、の三天皇は認めるべきであると考えて居ります。神武天皇については既に(9)で紹介しましたが、その出自については、『天皇記』に記述がある様に、高砂族という支那仙霞嶺麓銭塘河水戸沖杭州湾舟山諸島の寧波を故地とする住民で、日輪を神として崇し、日蝕、月蝕、を既覚し、大麻を薬とし衣として用いた部族で、筑紫に航着して天孫民日向王佐怒と称して、当時、既に耶靡堆に王国を建国して居った耶靡堆王阿毎氏を東征に及んだ者である事がはっきりして居ります。
 亦、八代孝元天皇は出身が阿毎氏であり、東日流大根子より故地を奪回する為に安倍川を越えて耶靡堆に侵入し、天皇に推挙された大根子彦であることが判然として居り、九代開化天皇は孝元天皇の皇子である事も亦、判然として居るからであります。        続く

〔編集部〕本原稿をいただいた後、筆者は御逝去されました。従い、本稿が絶筆となり、続編は届いておりません。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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