2005年12月 8日

古田史学会報

71号

1宣言
新東方史学会設立
 古田武彦
会長に中島嶺雄氏
 事務局

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史
考察1
 藤本光幸

筑後風土記
の中の「山」
 西村秀己


壬申の乱に就いての考察
 飯田満麿

5私考・彦島物語 I 
筑紫日向の探索
 西井健一郎

6【転載】
『東かがわ市歴史民俗資料館友の会だより』第十九号
平成十七年度にあたって
 池田泰造

なにわ男の
「旅の恥はかき捨て」
 木村賢司

古層の神名
 古賀達也

『和田家資料3』
--藤本光幸さんを弔う
 古田武彦

10浦島太郎
の御子孫が講演
事務局便り

 

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「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察1   


「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』
及び日本の古代史考察1

藤崎町 藤本光幸

【遺稿】

 はじめに

 私は昭和六年(一九三一)の生れです。戦前の私たちの歴史教育は皇国史観にもとづく歴史教育で、真実の日本歴史を探求することが出来ませんでしたが、現在の私達は憲法の保証によって日本国の起源についても、真実の歴史を探求する自由を得る事が出来ました。それは“神典”とされた『古事記』『日本書紀』による「万世一系の天皇」思想から開放されて、考古学や人類学、民族学、言語学、地誌学、民俗学、神話学、などとの比較研究によって、より史実に近い、真実の日本古代史を再構築する事にあると思います。
 そのためには、文字で表明された「記紀」を手がかりとし参考にしながら「記紀」の史料批判をし、各学問との比較研究との総合による日本の古代史についての再構成だと思います。それが出来なかったのは、今までは日本古代史の国内史料として『古事記』『日本書紀』『風土記』といった、いづれも「近畿天皇家中心主義」という一元史観の〔器〕にもられた史料」しか文献として存在しなかったからでありましょう。
 そこで異質の別伝承、亦は対立する他伝承を受け入れ、その事実の確認と検証によって、真実の歴史を探求する所にこそ、真実の日本歴史の誕生を見ることが出来るのではないでしょうか。私はこれを「和田家文書」依って探求してみたいと思うのです。
 なお、早稲田大学名誉教授故水野裕氏は「古代史に於ては、国家の発生がいつのことであり、国家発生以前の歴史と以後の歴史とに、どういう変化が生じたのか、そして国家の発祥から発展の経過を探り、そして現われてくる社会や文化も含めた人間組織の変化を見ることが、古代史を学ぶことの本題である。」と述べて居られますので、この点にも留意しながら探求を進めて行きたいと思います。

 

「和田家文書」の紹介

 現在、我が国日本に於いて古代史を伝える文書は、和銅五年(七一二)に推古天皇の頃編まれた『帝記』と『旧辞』を統合整理して、太安万侶に依て完成した『古事記』(三巻)と、養老四年(七二〇)に舎人親王に依て編纂された『日本書紀』(三十巻)が「記紀」と言われて日本最古の文献とされて居ります。しかし、その前に聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子によって、推古二十八年(六二〇)に編纂された『天皇記』及び『国記』が存在する事はよく知られて居る事です。ですが現在までの正史では、その『天皇記』と『国記』は皇極四年(六四五)の蘇我蝦夷滅亡の際、自邸に火をかけて自殺した蘇我蝦夷に依って焼失されたとされて居ります(大化の改新)。所が、津軽に残る「和田家文書」によれば、その焼失したはずの『天皇記』『国記』が津軽に存在するらしいのです。「和田家文書」によると、『天皇記』『国記』の成立と、その経過については以下の様に述べられて居ります。

(1) 「丑寅日本紀」第八“倭国天皇記国記之事”
 「倭国天皇記及び国記の編纂を大臣蘇我氏にて推古天皇の二十八年に上宮太子、嶋大臣謀りて録す。書記人に語部とて巨勢氏、平群氏、紀氏、葛城氏、蘇我氏、鴨氏、春日氏,を要言とし、伊奈氏,伊理氏,差保氏,保武氏、阿毎氏、箸香氏、二地氏、ら補言に編集せしに天皇記、成れり。
 然るに、国記に於てをや。倭国境を東海の安倍川より西海の糸魚川に地帯せるを境とし、丑寅方を日本国とて荒覇吐王を以て為せる国とせり。依て、その証を唐書に基かしめたり。是ぞ、倭国の国記成れるも、越、坂東、を押領に筆加ふる要言派、これを否せる補言派とに論を激し、茲に大伴氏、物部氏、竹内氏、橘氏、藤氏、を審とて補言派の論勝に決せり。時に、丑寅日本国にては、荒覇吐王居、武蔵大宮に在りて、此の域を安東と称し宗帝よりの賜号とせり。坂東に位せる安東将軍は五代に相継ぎて、讃美彦、珍美糟彦、斉糟彦、興美彦、武波日彦、と曰ふ。
 天皇記、国記、は蘇我氏の菅主たりしも、是を皇宮蔵管とせし中大兄皇子、船史恵尺(ふねのふひとえさか)ら、甘橿の蘇我蝦夷を攻め、火箭にて[宀/火]り、不意なる攻めに、天皇記、国記、を石川麻呂にたくし、蝦夷は自刃せり。その後になる壬申の乱にて、左大臣蘇我赤兄、亡びたるも、天皇記、国記、は石川麻呂に依りて、遠けき坂東の武蔵国和銅釜萢邑なる荒脛巾神社に秘蔵し、倭朝の手に入らざりき故に、此の乱にて流刑となりき。
[宀/火]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E


 蘇我氏滅亡以来、天皇記及び国記の行方知らざるに、大化乙巳の乱に焼失せりと、以来風聞にも、その所在、天慶の乱に平将門が鎮護の眼にも留らず、亦、将門を討に藤原秀郷、この大事たるも知らずして、将門の遺姫が居住せし飽田生保内に住むる楓姫に届けらる。後世に此の書入箱、平泉なる白山神に奉納さるも、開箱されぬままにして、十三左衛門尉藤原秀栄に給はれしを、開箱なきままにして石塔山荒覇吐神社に奉寄されたるものなり。
    慶長丁酉八月廾一日
     飯積之住人 和田左馬之介」

 亦、次の様な文書もあります。

(2) 「丑寅日本記」第七“陵墓改葬之事”
 「(前略)蘇我氏の陵墓を掘り荒したるは、中大兄皇子にて、八十日を土民を徴してあばきたり。即ち、天皇記の焼けざるを船史恵尺(ふねのふひとえさか)の報に依れる捜掘なり。終にして天皇記、国記、ら文書なきが故に、蘇我蝦夷、自刃にして住居をるときにぞ焼失しけると思いきや、事の兆を察せる蝦夷、加之書を高賀茂の公麿に秘蔵を頼みけるに、是を豊田郷の荒覇吐社に秘蔵せしを、世々に降りて平将門、此の社を神皇社とて祀りき。天慶の乱に討死し、藤原秀郷の菅領と相成りき。依て、此の社を取潰にせしとき、はからずもこの書管の入りたるを知らず、将門の遺品とて秋田生保内に住むる将門息女楓姫に届けたり。楓もまた是を見届けず、そのままにして東日流石塔山に奉寄せるものなり。天皇記は是くして奉寄されたるものなり。
     寛政五年八月一日
          和田長三郎吉次」

 更に大化改新以前の状況を伝える文書もあります。

(3) 「丑寅日本史総解」“議嶋大臣蘇我馬子編天皇記国記”
 「推古天皇二十八年より三十六年に至りて、天皇記及び国記を編纂、天皇記全六巻、国記六巻を筆了せるも、天皇崩じ、是を馬子奉持してより倭国一統の葛城王五畿七道を権握す。依て、三輪蘇我郷にありし馬子と併せし王朝を奉ぜしは、日向王磐井彦、春日王和珥氏、筑紫王奴氏、国東王大元氏、日本国王阿毎氏、日高見王多利思彦、坂東王阿輩鷄*彌氏、越王白山神王家六衆及び九龍氏、九首龍氏、三輪氏、犀川氏、出雲氏、河内王別和珥氏、那古王竹内氏にて、是れに抗したるは陸羽日本国の蒙氏、巨勢氏、平群氏、紀国の熊野氏、尾崎氏、朝熊氏、なり。
鷄*は、「鳥」のかわりに「隹」。JIS第三水準、ユニコード96DE
 即ち、葛城氏、蘇我氏、に依る併合に警鐘を打ちければ、遂にして大化乙巳の乱起り、中大兄皇子、甘橿丘に蘇我氏を討伐し、天皇記、国記、を奪取せんとせしも、その将士船史恵尺、是を探得られず、焼失と断定す。
 右は大宝辛丑年小角伝より。
     元禄十年八月三日
              伊予記」

 『天皇記』及び『国記』が津軽に存在する様になった経過について、今一つの記述があります。

(1) 「丑寅日本記」第七“天皇記、国記、之抄”
 「(天皇記)倭国第一世之天皇以宗国(支那国之事)武帝之永初二年二月十日為倭国之応神天皇還難波之津都宮云々。
 (国記)夫倭之国異丑寅之日本国其領界坂東之阿毎川東海水戸越之糸魚川西海水戸横断東北堺西南堺相裂堺在是可云々。
 即ち、天皇記とは、蘇我氏に公蔵されし、天皇秘書なり。国記また然りなり。然るに、由ありて、平将門の手に入りて、豊田神皇社にありきを藤原秀郷、秋田生保内に忍住せし将門の遺姫に届けしものと曰ふ。大巻の書なり。
    文正丙戌年二月七日
             竹内宗達

 追而 天皇記は東日流の石塔山に平楓姫奉寄せりと曰ふ。余、是を写したるものなり。
 右、追而如件。       宗達」

 次に『天皇記』及び『国記』は後の天皇氏の皇統史にとって障りある文書であるとする文章を二つ紹介しましょう。

(5) 「丑寅日本記」第十“天皇記行抄 二”
 「凡そ、倭国に天皇の創めて即位せしは、古事記、日本書紀、に記行せるより史実相違せるは明白なり。天皇とは支那天皇氏を風聞にして号したるは、百済聖明王が仏法を伝へしより添書に日本天皇とて当たるに創りぬ。
 その以前にして号せるは倭王氏、明日香氏、蘇我氏、葛城氏、春日氏、奴氏、日向王氏、とぞ世襲に抜きたるを、倭国王と即位に選抜さるは、諸権の力量にて任解されたり。依て、天皇記にては、神代ぞ非らず。亦、神武天皇一世ぞあるべきもなかりけるなり。
 天皇記を記しけるは、耶靡堆阿毎氏の崩滅より、伊理足志氏、多利思氏、阿輩氏、和珥氏、春日氏、磯城氏、蘇我氏、明日香氏、大神氏、生奈氏、日向氏、越王氏、出雲氏、奈古氏、等の出自に倭国王は成りて、万世一系にあらざるなり。
 諸氏権謀術数にして、空位無王の年を長じ、支那三韓より偉を帰化せしめて成れる王ありき、依て、是、天皇記及び国記の巻ぞ、蘇我氏代々の掌中に秘蔵さるに、天皇氏、勢を為して、国史帝事記を固定せるに当り、是の如き天皇記、国記、の既存せるを障害として、蘇我氏に是を呈上せるを再々度に請令せど、時の蘇我蝦夷、応ぜず、中大兄王、船史恵尺に令し、蘇我氏討伐の軍を差向けたりしも、蝦夷、自刃して目当なる天皇記、国記、の虚在奪取ならず、甘橿宮を[宀/火]りて、蝦夷、既築の陵をことごとく土除きて石室去棺を壊砕して探せど見付くるなし。是至るは、既にして蝦夷、心得て、坂東の和銅山に移封して、密々に人の知る能はざるなり。
[宀/火]は、ウ冠に火。JIS第4水準ユニコード707E

 風聞、天皇氏に達して、東国丑寅に密使を以て探求し亦、征夷として要虚を略す、然るに得る事、能はざれば、諸々転々、安倍氏に在りとて倭朝挙げて丑寅を攻め抜き、前九年の役をして抜けども当らざるは天皇記、国記、の行方にて、源氏は是の密令を代々に奉じ、平泉の役をして藤原氏を落せども当らざりき。(原漢書抜天皇記)
    正平六年十月二日
         三河住人 橘秀継」

(6) 「丑寅日本史総解」“陸羽諸傳 一”
 「(前略)陸羽になる歴史の実相、蘇我馬子が編したる天皇記にありて証する也。即ち、天皇記を蘇我氏より奪はんとて起りきは、大化乙巳の乱なり。時になる蘇我氏宗家なる蝦夷は、甘橿丘にて自刃せるも、天皇記は朝廷に奪はれず、遂にして奥州に隠蔵さるるまま今にして眠りぬ。
 天皇記、平将門にありしを討伐せしも、亦、奪取を得ず、安倍頼良にありとて、前九年の役を以てなせども入手せず、平泉藤原氏にありとて、源兵二十五万騎を以て落しむるも、その行方知れず、朝廷方にして平泉を焼滅せりと心得ぬ。然るに、天皇記は安全にして、神の社に隠存ありきなり。天皇記に神代なるもの非らず。天皇ぞ、万世系に非らざるなり。天皇とは権者の奉る宣位の主にして、世襲の権者の混血になるものの系なり。
 天皇記、是を実証せるものに付き、是を得る為に、呪われし如く染血にまみれ、多くの殉者出でたり。
 天皇記に依れる第一世に難波の御門にして、俗に曰ふ仁徳天皇を以て初代に挙ぐるなり。依て、その上になる天皇は世に非ざると曰ふ。その上になる讃王安東大将軍葛城氏、珍王安東大将軍春日氏、斉王安東大将軍和珥氏、興王安藤大将軍阿毎氏、武王安東大将軍蘇我氏とて明記あり。次に築紫王とて五王の後継あり。出雲王、高嶋王、邪馬臺王の推挙にて、仁徳天皇を即位せしめ、王朝の併と相成れる由なり。 されば、此の天皇記、後紀なる皇統史に障りありとて、朝廷が挙げて蘇我氏より奪還せんとせしも、ゆづらず、是の如くして凶兆を起さむ。詳しくは、天皇記を讀つるべし。
     文安丙寅年十一月一日
             筑紫国東 緒方光三郎」
                          (続く)
【編集部】筆者藤本光幸氏は十月二一日、御逝去されました。本稿は遺稿となってしまいました。計四稿(未完)連載します。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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