2006年 2月 8日

古田史学会報

72号

「天香山」から
 銅が採れるか
 冨川ケイ子

和田家文書による
『天皇記』『国記』
及び日本の古代史考察2
 藤本光幸

「ダ・ヴィンチ・コード」
  を読んで
 木村賢司

4連載小説『 彩神』
第十一話 杉神 5
 深津栄美

5私考・彦島物語II
國譲り(前編)
 西井健一郎

隅田八幡伝来
「人物画像鏡銘文」に就いて
 飯田満麿

7洛外洛中日記
石走る淡海
佐賀県の「中央」碑
 古賀達也

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隅田八幡伝来「人物画像鏡銘文」に就いて

奈良市 飯田満麿

はじめに

 今年の九月「古田史学の会」月例会で、私は古田武彦氏が嘗て「古田史学会報」三五号に発表された論文、『高良山の「古系図」』を取り上げ、それと「松野連系図」及び『二中歴』との関係を調べてその結果を発表した。その作業を通して、古田氏によって倭国歴代の王者の系譜とされた、この「古系図」の実年代を比定しようとする試みであった。
 結果として関係資料に制約があり、十分な論証を得られなかった。しかしその過程で、石上神宮伝来「七支刀」及び隅田八幡伝来「人物画像鏡」銘文等の金石文が、有力な証拠資料であることを再認識した。就中、隅田八幡伝来「人物画像鏡」銘文には干支「癸未」が明記されて在り、九州王朝関係の実年代追求には、不可欠の資料と確信した。

 

隅田八幡伝来「人物画像鏡」銘文に就いての認識

 上記の金石文に対する私の理解は、古田武彦氏の『失われた九州王朝』(角川文庫、昭和五十五年版)に示された論証に基づき、銘文中の日十大王は倭王武の次代の倭王と信じ切っていた。不覚にも私は、古田武彦氏がこの著作中で参考にされた、「岩波文庫」版『宋書』の表記に疑問を持たれ、改めて『宋書』全体を検証され、倭王武の対宋上表文は順帝昇明二年(四七八年)の出来事だった事を論証され、公表されていたことを知らなかった。
 この認識不足を、昨年、例会仲間の安隋俊昌氏に指摘され衝撃を受けた。しかしこの事は当時『三国史記』の記事から、倭国と朝鮮半島諸国との関係を、調べていた私の認識を飛躍的に増強した。例会活動における各人の切磋琢磨は、知識の源泉真実の温床、心から感謝の念を捧げるものである。この際、この新しい認識に基づきこの銘文を再検討しようと決心した。

 

隅田八幡伝来「人物画像鏡」銘文再検討

(原文)
「癸未八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長A遣開中費直穢人今州利二人BC白上同二百旱作此竟」
(不明文字の推定)古田武彦氏の見解による
A=泰 他に寿
B=等 他に算or尊
C=取 他に所
(読み下し文)古田武彦氏の見解による
癸未八月、日十大王年、男弟王、意柴沙加宮に在り。時に斯麻長泰を念じ、開中費直、穢人今州利の二人等を遣わし、白上同(銅)二百旱を取り此の竟(鏡)を作らしむ。

(銘文分析)飯田の見解
 先ず癸未年については、文中の斯麻は百済.武寧王(五〇一年?五二二年)に間違いないので、(五〇三年)に比定できる。前述の如く倭王武の即位が昇明二年(四七八年)の直前だとすると、この癸未年の倭国王は武である可能性が極めて高い。年齢的に十分存命可能であり、且つ又『梁書』天監元年(五〇二年)にその存在が明記されていることを勘案すると、益々その蓋然性は高い。傍証として鶴峯戊辰『襲国疑撰考』に記述された、「倭王武始年号.善記」の記事が挙げられる。この認識に従えば『二中歴』善記は(五二二年)で在るから、(五〇三年)の事実はまさしく、倭王武の治世期間中の出来事である。
 ここで初めて古田武彦氏の隅田八幡伝来「人物画像鏡」銘文の理解に一つの疑義が生じた。即ち氏は同銘文中の「年」字を、歴代倭王の中国風一字名と規定された。ここまでの論証で、当時の倭王の中国風一字名は「武」である。九州王朝の皇統を伝えると言われるもう一つの系図「松野連系図」は、『宋書』記載の歴代倭王、中国風一字王名を明記している。是によっても「武」の次は「哲」「満」であって、「年」を称する王者は存在しない。
 従って「年」字は素直に「世、時、時代」(講談社.大字典)の意と理解するべきかと愚考する。
(読み下し文)飯田の見解
癸未八月、日十大王の年、男弟王、意柴沙加宮に在る時。斯麻長泰を念じ、開中費直、穢人今州利の二人等を遣わし、白上同(銅)二百旱を取り此の竟(鏡)を作らしむ。

 

隅田八幡伝来「人物画像鏡」銘文の現代文訳

 翻訳に先立ち、銘文中の固有名詞について、その表記、読み及び性格を規定する。
(一)日十大王、男弟王
 銘文中の時代表記が(AD五〇三年)であり、諸資料の示すところ、当時の倭王は「武」で在るから、日十大王=倭王武である。『日本書紀』継体二一年(五二七年)に「筑紫君磐井」の乱の記事が存在する。八世紀初頭以前、『日本書紀』中の外交記事又は主要政治記事の大半は、九州王朝の事績記録からの盗用である。このテ?ゼにもとづき(五二七年)を九州年号『二中歴』に換算すると、正和二年となる、この年号は倭王武の時代の可能性が極めて高いので、日十大王=倭王武=筑紫君磐井の等式が成立する。『日本書紀』に依れば「磐井」の後継者は「筑紫君葛子」であり、大王に一旦緩急在れば、男弟がそれを引き継ぐ体制と推論すれば、ここでも男弟王=葛子が成立する。
 日十大王の呼称についてその由来を考察すれば、『高良山「古系図」』の表記通り十代目の王者(日嗣十代)を表す尊称の可能性が極めて高い。念のため十代を下に列挙する。

 初代 孝元天皇、二代 彦太忍信命、三代 屋主忍武雄心命、四代 高良玉垂命神、五代 朝日豊盛命神、六代 物部日良仁光連、七代 日往子明連、八代 日男玉頼連、九代 神力玉依連、十代 日光玉一連、

 『高良山「古系図」』と「松野連系図」を対照し関連を調べると武=日光一玉連である。按ずるに、倭王武は国内的には日十大王磐井(石井)と名乗り、対外的には倭王武と称した可能性がある。
(二)他の固有人名
 斯麻については既記述の通り武寧王とする。開中費直は河内直とし。穢人今州利についてはそのまま用いる。
(三)意柴沙加宮
 この固有地名については、古田武彦氏の解釈に従い、「石坂宮」と理解し、その所在については、別項に詳述する。

訳文(飯田の見解)
(西暦)五〇三年八月、日十大王磐井(倭王武)の時代、男弟王(葛子)が「石坂宮」に居られましたとき。斯麻(百済.武寧王)が倭国王家の長泰を祈念して、河内の直、穢人の今州利の二名等に命じて、上質の白銅二百旱を採取させ、この鏡を作りました。

 

「石坂」地名所在地の追求

 古代の地名又は宮殿名が、現在まで残存しているか否か、その確証は全く無きに等しいが、小字名にはしばしば、古い歴史が隠されていることから、筑前、筑後一帯の小字名を調査してみた。その要領は下記の通りである。
福岡県の「石坂」名小字の調査
日時 二〇〇五年十二月十一日
場所 京都府歴史資料館
依拠資料 『明治前期全国村名小字調査書』第四巻 明治二十年 内務省作成

  「石坂」名の小字  現在の地名表示
1. 筑前国那賀郡成竹村石坂 p十四 筑紫郡那珂川町成竹
2.  〃 御笠郡原村石坂 p二十 筑紫野市原
3.  〃  〃 牛頸村石坂 p二六 太宰府市石坂
4.  〃   怡土郡小蔵村石坂 p六四 前原市川付
5.  〃  糟屋郡香椎村石坂 p一〇六 福岡市東区香椎
6.  〃 宗像郡王丸村石ヶ坂 p一三〇 宗像市王丸
7.  〃  嘉麻郡桑野村石坂 p一八七 嘉穂町桑野
   〃    〃  上石坂 p一八七 嘉穂町桑野
8. 筑後国山門郡甲田村石坂 p二五六 山門郡山川町甲田

 一般論として倭国の政治中心は、筑前、糸島半島付近から、筑後、田主丸付近に移動し、後又筑前、太宰府付近に移動したと考えられている。上記の「石坂」小字名は殆どこの移動経路上に位置している。この銘文の時期(五〇三年)頃は、東アジア情勢がやや安定した期間で、高句麗の脅威に留意せず、国内政治に没頭できた時期と考えられる。此の観点からすれば、倭国々内統治に最適な地域は、筑前、太宰府付近であるから、現在の太宰府市石坂、又は筑紫野市原、が最もふさわしい地域と考えられる。或いは嘗て古田武彦氏がその存在を推定された両京制の確証かもしれない。或いは両京制の成立を更に後代に在りと考えるならば、筑後、山川町甲田字石坂も捨てきれない。これらは何れも、考古学的発掘調査の裏付けを持たないので、俄に断定することは出来ないが、今後の参考となれば幸いである。


 これは会報の公開です。

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