2018年4月10日

古田史学会報

145号

1,よみがえる古伝承
 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)
 正木 裕

2,『隋書』における
 「行路記事」の存在について
 阿部周一

3,十七条憲法とは何か
 服部静尚

4,律令制の都「前期難波宮」
 古賀達也

5,松山での『和田家文書』講演
 と「越智国」探訪
 皆川恵子

6,縄文にいたイザナギ・イザナミ
 大原重雄

 

 

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隋書俀国伝「犬を跨ぐ」について (会報144号)

弥生環濠施設を防御的側面で見ることへの疑問点 (会報149号)

縄文にいたイザナギ・イザナミ

乙訓郡大山崎町 大原重雄

はじめに

 図は新潟県井の上遺跡からの出土土器。糸魚川市と上越市のおよそ中間の海岸近くの舌状台地に広がる縄文中期から古代の大規模な遺跡でしたが、土砂崩れなどで多くは破壊されて住居址らしいものは見当たりませんが、縄文の土器、石器、ヒスイ原石や土師器、須恵器など出土しています。
 その中にこの縄文時代中期のものとされる人体文様の付いた土器がありました。この時代の土器と言えば特に中越地方や信州には火焔を表したとされるものや不思議な文様をこってりと描いたものが盛んでした。ところがこの文様は、おとなしく簡素で、当時のレベルとしては稚拙なもののようにも見えます。それでもこの土器は大変めずらしく、貴重なものと考えられます。解説には「器面には縄文が施され、粘土紐を張り付けた隆帯によって手足を広げた大の字の男女一対が描かれている。縄文土器に描かれる文様は様々であるが、性器や乳房の描写から性別が判断できるほど明瞭な人を描いた文様は非常に稀である。向かって左側に女性、右側に男性が描かれている。」とあり市指定の有形文化財になっています。

新潟県井の上遺跡人体文土器

(1)顔や人体を描いた縄文土器

 土器の装飾として人面を描いたものは多く存在し、女神と称されるものや、中には鉢の胴部がまるごと顔表現のものもありますが、人体全体を表したものはそう多くはありません。全身像で細身の表現が井の上遺跡のものと似た深鉢(図1)があり、単体での表現で他にも(図2)などがあります。男女ペアの表現としては(図3)で土偶が張り付いているとされるめずらしいものもありますが、動きの表現はありません。他にも(図4)のように人体文様があり、なにやら踊っているかのような表現ではありますが、顔はなく性別も不詳です。顔だけ土器の口縁部につけたものは多くあります。
 以上のように、全身表現で男女の性別が明確でペアでしかも動きのある文様を持った土器として確認されているものは貴重でめずらしいといえます。そのような文様表現を縄文人はどのような思いで描いたのでしょうか。
岩手県けや木の平団地遺跡
図1 岩手県けや木の平団地遺跡

茨城県南三島遺跡
図2 茨城県南三島遺跡

図3 埼玉県馬場小室山遺跡 略

 

山梨県村上遺跡
図4 山梨県村上遺跡

 

(2)縄文土器の物語性文様

 縄文時代の考古学の重鎮である小林達雄氏は複雑でマジカルな土器文様などを称して物語性文様と表現され、謎の多い縄文人の心性にせまる考え方を提示された。ただ残念ながら具体的な物語の中身を説明されることはなく、「世界観から紡ぎだされた物語」と言われる一方で、「少なくとも現在では、その異次元に踏み入る有効な方法論がないのだ」と解明の道を閉じられているかのような状況です。そこで、少しでもこの「物語」の片鱗にふれられないか、この男女人体文土器を自分なりに考えてみます。


 この人体文は完形でなく、欠けたところが多いですが、男女を表していることは間違いありません。ただその配置が、他の事例(図3)と違い対面になく、やや距離があいています。既に渡辺誠氏が「両者は土器の中心からみて45度に開いていて向かい合っていない」と指摘されておられます。しかも足はなにやら歩んでいるかの表現で、男女が近づきつつある状態に見え、そして腕は男女とも水平に広げているかのようです。さらに男の右手、女の左手の表現が観察でき良く見ると親指と思える指が下側になっており、腕を横に広げ、手の甲を見る側にむけているようで、これは背後に壁面があり、そこに腕を這わすように広げながらお互いに近づこうとしている、男女の姿ではないでしょうか。逢瀬の場面かそれとも若い男女が結ばれる儀式での喜びの表現ととらえるのは考えすぎでしょうか。周囲では打楽器やら笛を鳴らし、若い二人を囃し立てたかも知れません。(指が六本あるように見えるのは植木算ミスの御愛嬌です)
 私はここにイザナギ・イザナミ神話の一場面が重なるように見えます。ちょうど男は右の方へ、女は左へ回りもうすぐ相対するところではないでしょうか。太柱を回りながら出会ったところで「あら、いいおとこ」「なんていいおんな」と会話を交わす、そのような情景を表現したと考えます。男が左から回るとか、女が先に云うのは不祥だとかいうのは後世の中国思想の流入からのことで、ここは縄文時代ですから女性が先で構わないのです。顔の表現は目と口を細い棒のたぐいで突いてこさえたものでとてもイケメンと言えるかは不明ですが、当時の婚儀を行う美男美女を描いたものと考えられます。
 しかしこの幼稚に見える腕や足の表現が当時の儀礼の動作を描写しているのか疑問視するむきもあるかも知れません。弥生時代の土器絵画を研究される小林青樹氏は、土器に描かれた人物の盾と戈を持つ手の位置、鹿や家屋(神殿)の配置などの分析から当時の祭祀の姿にせまっておられます。その際、仏の社会学者のピエール・プルデュを参考にして「儀礼における身体技法や身ぶりは、無文字社会では口承だけにもとづく伝統の保存様式でのみ継承され、身体からは決して切り離せない、(よって)そこに描かれる身ぶりも同様な保存様式で継承されたであろう」と絵画分析の意義を強調されています。
また縄文時代の中期といえば今から五千年あまりも前であり、八世紀の神話とは隔たりが大きすぎる、と思われる方もおられるでしょう。しかし神話とは決して即興でできたものではなく人々の長い歴史の中で培われ継承されてきたものなのです。これを見事に説明されたのが古田先生でした。
新潟県井の上遺跡人体文土器新潟県井の上遺跡人体文土器

新潟県井の上遺跡人体文土器新潟県井の上遺跡人体文土器

 

(3)古代の神話の基層にある悠久の縄文神話

「出雲神話は一日にしてならず」
 古田先生は、出雲国風土記の国引き神話は金属器が登場しないと指摘されています。鉏(乙女の胸板)は木製、肝心の神話を動かす主たる道具は「杭」「綱」で、金属器がまだ流入しない時代、縄文期に成立した、と看破されました。思わず膝を叩いてしまう納得の論理です。(※ただし昨今の弥生時代の開始期の見直しで、金属器は途中からとされるようになり、弥生時代前期の神話と言えなくもないです。)
 梅原猛さんは、縄文時代の真脇遺跡などのウッドサークルを天御柱としてこの空間が国生みの場所で、イザナギ、イザナミがたわむれるという「幻想」を語っておられます。日本海側に存在する木柱列については諸説あり、寺地遺跡のように、墓地とおぼしき場所での設置が多いので、葬儀で使われた構造物の可能性も高い。古田先生も壱岐島で葬儀の際、身内の者がみんなで左へ三回、右へ三回まわる風習を紹介して、イザナギ・イザナミの天の御柱をめぐって行う儀式が壱岐島では生きていたとされています。また同じ壱岐島の住吉神社には巨大なクスノキがあり、男は左から、女は右から一回まわれば願いが叶うとあるようですが、それが古代から行われていたものかはわかりませんが。
 縄文土器の人体文は縄文人の考える男女神で、これがそっくり記紀神話のイザナミ・イザナギを示しているものではなく、古田先生も国生み神話は弥生時代の神話と述べておられ、あくまでその淵源となるような物語が各地で生まれ、伝承され長い時間を経て様々な話が重層的に形作られ、現在の姿になったと考えていいでしょう。この少し地味な土器にも大変重要な物語をもったものがあるといえるのではないでしょうか。ではこの土器はどのような目的でつくられたのでしょうか。

(4)神を呼び招くための祭儀としての神聖な土器

 縄文時代やその文化について、以前にあった石器時代の野蛮で暗いイメージは大きく変わってきましたが、その一方で一万年も続いた再生可能で平等な社会などと過剰に持ち上げた論調もあります。しかしいくらなんでも、縄文社会は人類の理想社会とは言えず、動物の襲撃や病気、気候変動により食料にも苦労することがあったと思われます。古田先生は熱田神宮の酔笑人神事に関して、縄文時代は「苦しきことのみ多かりき」の世の中だから笑って明日へつなげようとしているのだと、人々の知恵から生まれた神事と説明されています。
 縄文時代の出土物には、男女のシンボルを表現した石器、土器などが多くありますが、たいていの場合は、「なんらかの祭祀に使ったもの」とか「作物の豊穣を願ったもの」などとお決まりの説明がされています。男女の行為があって赤ん坊が誕生するように作物も生まれるのだ、というのでは少し単純だと思えます。民族学の須藤建一氏も「男女交合が農耕の豊穣を招く象徴という考えは、日本では十分に証明されているとはいえない。むしろ、この考えは、性象徴の一つの役割を説明しているにすぎない」との指摘は妥当と思います。では何のためにみんなで性象徴を含めた祭祀を行い祈るのでしょうか。それは生き抜くための願いをかなえていただく神様をこの世にお招きし饗応して祈り帰っていただく、そのために様々な道具を駆使するのではと考えられます。
 イザナギ・イザナミ神話は国生みが重要な位置を占めていますが、数々のクニを生んだ後に様々な神様を生んでいきます。古代人は神様にこの世に生まれ出てもらうには人間が赤ん坊を生むように、男女交合によって神様も生まれるのだと考えたのです。生れ出てもらってそこで初めて、収穫や健康、子孫繁栄などを願うことができたのです。陰陽物が鎮座する神社は多くありますが、これも神様に登場していただくための祭具と考えられます。縄文人は現代人には理解しがたい様々な陰陽物と思しき道具を製作していましたが、それは弥生時代以降にもつながっていったのではないでしょうか。
 男女の土器文様も縄文時代当時の婚礼儀式の場面を表現したと思われますが、それは男女交合を意味する象徴であり、縄文人はそれを祭りの中心において神のお出ましを祈ったのかもしれません。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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