2018年4月10日

古田史学会報

145号

1,よみがえる古伝承
 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)
 正木 裕

2,『隋書』における
 「行路記事」の存在について
 阿部周一

3,十七条憲法とは何か
 服部静尚

4,律令制の都「前期難波宮」
 古賀達也

5,松山での『和田家文書』講演
 と「越智国」探訪
 皆川恵子

6,縄文にいたイザナギ・イザナミ
 大原重雄

 

 

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 高麗尺やめませんか(会報140号)
 「浄御原令」を考える(会報148号)

十七条憲法とは何か

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 推古紀十二(六〇四)年にあらわれる十七条憲法について考察し、これが「天子による(律令制を前提とした)直接支配の通達あるいは宣言」書として発布されたものであるという仮説に至ったので、これを報告します。

二、十七条憲法の特殊性

 先ず、十七条憲法がこの時期の東アジア史上においても、他に例をみない独特のものであることを示します。

   (一)

 古代の「憲法」とは罰を伴う行動規範で、不文律であったと考えられます。次に述べるように、この時期の「憲法」とは、現代憲法のような「統治の根本規範(法)」ではなく、「これに違えれば罰を伴う行動規範」と言うようなものでした。
 「憲」という字は、『学研漢和大辞典』藤堂明保によると、目と心の上に害の上部と同じ覆いをかぶせた形で、害の口の代わりに目と心が入ったにすぎない、「人間の勝手な言行心慮をおさえ止めるきまり」という意味であって、「塞ぎ止める」という基本義を含んでいるとされます。
 中国戦国時代の『墨子』に、
◆是故古之聖王 発憲出令 設以為賞罰以勧賢(古の聖王は憲を発して、令を出だし設けて以て賞罰を為し、賢なるを勧める。)

とあり、藤堂氏の説明どおりです。

 次に「憲法」ですが、これも同じ時代の『国語』にあります。
◆中行穆子帥師伐狄囲鼓 鼓人或請以城叛 穆子不受。軍吏曰「可無労師而得城
 子何不為?」穆子曰「非事君之礼也。夫以城来者 必将求利于我 夫守而二心 奸之大者也 賞善罰奸 国之憲法也 許而弗予 失吾信也。若其予之 賞大奸也
 奸而盈祿 善将若何?且夫狄之憾者以城来盈願 晋豈其無?是我以鼓教吾辺鄙貳也。夫事君者 量力而進 不能則退 不以安賈貳。」
(中行穆子ぼくしが兵を率いて狄てきを攻め、鼓を包囲した。鼓人が城を挙げて投降してきたが、穆子は受け入れなかった。軍吏が「兵の労無く城を得るのに何故拒否するのか?」と聞くと、穆子は「これは主君に仕える礼ではない。城を守りながら二心を持つのは大いなる奸である。善を賞し奸を罰するのが国の憲法だ。もしこれを許した上で、利を与えなかったら我々は信を失い、利を与えたら大奸を賞すことになる。奸で禄を満たせるなら善の者はどうなるのだ。狄でうらむ者が私欲を満たそうとしているが、晋(我国)にこのような者がいないと言えるか?このことは我が辺境で二心を抱く者にも教えることになる。主君に仕える者は自分の力を量って進み、力がなければ退くものであり、楽をして裏切り者を買収してはならない。」)

 又、歴代の中国正史(史記から旧唐書まで)を検索したところ、後漢書の蔡邕さいよう列伝・方術列伝・鮮卑列伝、晋書の慕容ぼよう徳伝、魏書李崇崔亮りすうさいりょう列伝、隋書循吏じゅんり列伝、旧唐書高祖二十二子列伝・尉遅敬徳うつちけいとく列伝・尹いん思貞列伝に「憲法」が出てきます。例えば隋書循吏列伝「汝等憲法を犯すと雖も、枷鎖かさの刑は大辛苦だろう。」とあるように、ここで言う憲法はやはり「違えれば罰を伴う行動規範」※です。そしてこれら憲法が誰によって何処で定められたと言う記述がないのです。いわゆる「不文律」のようなものであったと考えざるを得ません。
この「不文律」が、我国の七世紀初頭に、十七条の成文憲法として前例無しに出現するわけです。
※井上光貞氏は『十七条憲法と三経義疏』一九七一年の中で、「十七条憲法で言う国家は法治国家では無くて人倫的な国家です。たとえば憲法では刑罰についての規定がない、新しい制度をつくり変えるということもないわけです。」とされるのですが、日本書紀で「憲法」という字を使っている限り、そこには賞罰が前提で定められたと考えるべきです。

   (二)

 チベットの十六清浄人法を根拠に、十七条憲法が独創的なものではないとする説があります。
 岩井大慧ひろさと氏は『歴史教育』一九五四年「十七条憲法は太子の独創か」の中で、チベット大史『マニカンブム』に見える「十六清浄人法」を訳し、これを十七条憲法と較べ、両者の類似性を述べ、これらの共通のひな型的思想または文献が中国にあったのではないかとしました。
 しかし、次に示すように「十六清浄人法」は後代の成立とすべきで、年代が合いません。内容の類似性も乏しいので、十七条憲法とは異質のものです。
①チベットは旧唐書に吐蕃とばん国として出てきます。貞観八年(六三四)賛普王を弱冠引き継いだ宗弄賛王(岩井氏によると宗弄讃甘博=ソロンツアンカンポ、『吐蕃王国成立史研究』山口瑞鳳一九八三年によるとソンツェンガムポ王、以下宗王)は、軍事的に勢力範囲を拡げ当時唐の支配下にあった吐谷渾とよくこんを占領し、貞観十五年(六四一)唐太宗の娘・文成公主の降嫁を実現させます。岩井氏はこの宗王が吐蕃に始めて文字を作り、「十六清浄人法」を制定したとします。

②山口氏によると、『マニカンブム』の成立時期については異論があって、成立年代が確かな『王統明示鏡』一三六八年に宗王伝の言及が無いことから、十四世紀末~十六世紀中頃の成立説が有力だとしています。かつ、これに先立つ八世紀後半のティソン・デツェン王の手紙では十一条(清浄人法)と少ない条数です。

③十七条憲法が官僚の服務規程的であるのと異なり、次に示す「清浄人法」は「十善の加えてこれを守るならば悪道におちないであろう」という仏教的法律として、吐蕃国の衆生に課したものです。
一、殺生・姦通などの禁止。
二、三宝を信じ佛語を成就。
三、父母の恩を感謝。
四、有徳者・高貴人・年長者を尊敬。
五、親族・知友に優しく。
六、同里・隣人に利益す。
七、言語正直に。
八、尊長者の足跡を追慕。
九、食・財宝の足るを知る。
十、過去の知友に礼を欠かさず。
十一、債務を期日通り返済。
十二、秤量を偽らない。
十三、衆人に平等にして嫉妬なく。
十四、悪友の言を聞かず。
十五、言語柔和にして真実を語る。
十六、挙動毅然として内心和悦する。

   (三)

 北周の六条詔書を根拠に、十七条憲法が独創的なものではないとする説があります。
 神崎勝『十七条憲法の構造とその歴史的意義』立命館文学五五〇号一九九七年によると、「十七条憲法のモデルについては、岡田正之(一九二九)が北周の六条詔書の存在を指摘したが、小島憲之(一九六八)は両者を比較検討した上で憲法が詔書の文章を直接参考にしたとは言えない」としています。他に西晋武帝の六条詔書や五条詔書、西魏の二十四条新制や十二条新制等の存在なども指摘されていますが、現在文面が残っているのは周書蘇綽そしやく列伝に記載された大統十年(五四四)の六条詔書のみです。(原文省略)
『名古屋大学文学部研究論集(史学)』一九六七年にある谷川道雄氏『蘇綽の六条詔書について』に和訳と解説があります。一部を引用して、以下に私なりにこの詔書の内容を解説します。

其一「心を治めることを先とする」。今日の方伯守令(地方官)の任務の重大さは、古の封建諸侯に比すべきものであって、治民の重責は中央の百官にもまして、これら地方官の双肩にかかるものである。治民にあたっての根本原則は「治心」につとめることである。心とは一身の主・百行の本であって、心清浄でなければ妄念をいだき、是非の分別がつかなくなる。自分一身すら治めることができず、民を治めることなどできない。故に治民の要は「清心」にある。「清心」とは単に貨財を貪らないという意ではなく「心気を清和にならしめ、志意を端静ならしめること」である。そうすれば邪念がなくなりすべて「至公の理」に適わないことはない。この「至公の理」にしたがって百姓に臨むなら、民は化にしたがう。また、心のあり方を正すだけでなく、行為をもって人に示す必要が生じる。「治心」の次には「治身」が必要で、為政者たる者は百姓の師表でなければならない。
其二「教化を敦あつくする」。(この条では、人民に淳風・太和・道徳の気風を振興し、邪偽・嗜慾の心を消滅させ、孝悌・仁順・礼儀を教えて、慈愛・和睦・敬譲に導く教化を論じています。)
其三「地の利を尽くす」(衣食が足りないと人民の教化はできない。この条では、地利を尽くすために春の耕土・夏の播種・秋の収穫時期方法の指導、農閑期・雨天日の農業技術指導を論ずる。)
其四「賢良を抜擢する」(臣下に賢者を得ることが治乱の岐路となる。この条では、家柄・本人の賢愚で州郡県の補佐官の選任する場合に、努力して適格者を選ぶことと、まず任用して実績で判断することなどを論ずる。)
其五「獄訟に情けをかける」(賞罰は適正であらねばならない。「至公の心」で、「愛民の心」で、公平に刑罰を実現することを論ずる。)
其六「賦役を等しくする」(租税は「平均」によって下層の者を不自由させないように、先富後貧の配慮があれば、役人の不正や民の怨みも生まれない。)

 この項の末尾には「太祖(宇文泰)は、この六条詔書を重視して座右に置き、百官に習誦させ、地方長官(牧守・令長)がこの六条詔書及び計帳に通じなければ官を外された。」とあります。

 六条詔書は、天子が地方長官へ課した規範書であることは自明です。これに対して、十七条憲法では官僚に対する行動規範の提示が大部分を占めていますが、「篤敬三宝」「承詔必謹 君則天之 臣則地之」という根本方針が盛り込まれています。ここに大きな違いがあります。
十七条憲法には、第十二条のように明らかに地方長官に対するもの(六条詔書では、地方の民を民もしくは百姓と称しています。もし十七条憲法の百姓の字句に同じ意があるとすれば、第四条・第五条も地方長官に対するものとなります)がありますし、(他は中央官僚に対するものとしてもおかしくありません。)又、第十六条の農事について、第五条・第六条の訴訟に対する心得などをみると、明らかに六条詔書の影響を受けています。
 しかし十七条憲法には、他には見られない根本方針の盛り込みと、又個々の内容にも相違があって、これが独創的であることを否定できません。

三、十七条憲法偽作説とそれへの反論

 十七条憲法偽作説と、その偽作説への反論の各根拠を挙げて、これを九州王朝説の立場で検討します。

   (一)
 これまで歴史学の各権威が、この憲法を偽作だとされたのですがその理由は次です。(以下①~⑧は、神崎勝『十七条憲法の構造とその歴史的意義』よりの引用)
①大化前代に「国司」ひいては「国」と呼ばれた地方行政区画は国造の「国」以外にありえず、国司制の成立=国造制の解体とすれば、推古朝当時としては「国司・国造」という連称も考え難い。百姓から租税を徴収しそれを自己の有とするというのは、地方豪族たる国造本来の権限の範囲であり、従ってまた国造を「所任官司」とするのも誤りである。(津田左右吉一九四九年)

②君主の地位を絶対視する思想や中央集権的な官僚制的性格は、氏姓制度のもとでは理解しがたい。氏・姓・氏祖・伴造などの問題を語っておらず、官府組織の一大改革が行われたように見えない。(津田左右吉一九四九年)

③独断を戒め衆議によるべしとする点は、蘇我氏専権時代には相応しくない。(津田左右吉一九四九年)

④推古朝当時、国民全てが天皇を主とするほど絶対的な地位にはなかった。(直木孝次郎一九六五年)

⑤藤原宮跡出土の木簡に某司と呼ぶ役所名がないことから、国司の成立は大宝令成立以後のことである。(直木孝二郎・田辺昭三、一九八二年)

⑥公地公民が実施された天武・持統朝ごろの偽作とみるのが最も似つかわしい。(直木孝次郎一九八二年)

 これに対して同じく歴史学の各権威が、この憲法を真作(七世紀初頭の成立)としました。その理由は次のとおりです。

⑦「東方に迫りつつある隋の圧力」を前に官僚政治に基づく「強力なる中央集権的国家を建設せんとする思想が生まれ」これが憲法成立の背景だ。(瀧川政次郎一九三四年)

⑧条文から「国造を通じてのみ人民を支配する程度の政治制度しか知らなかった」とみられる内容で、逆に「国造の廃された改新後では相応しくない」。(井上光貞一九六五、一九七一年)

⑨憲法の「篤敬三宝~其不帰三宝、何以直枉」という仏教的立場は、僧尼令を成立させた天武・持統朝の仏教感とは合わない。(二葉憲香『古代仏教思想史研究』一九六二年)

   (二)

 偽作説の理由①~⑥はいずれも、憲法での天皇の地位・公地公民・国司制は、六〇四年ではありえなくて、七世紀後半から八世紀初頭にかけての時代に合致するので、この時代に作られたものとしています。
 これに対して、

⑧国造を通じての人民支配や、

⑨憲法の仏教的立場からみると、

逆に七世紀後半から八世紀初頭の偽作では相応しくないというわけです。

 これに加えて「五に曰く。(中略)永年にわたり訴訟を治める者は利益を得る事を常にしている。」とか、「十一に曰く(中略)日頃は手柄でもないのに賞を与え罪も無いのに罰している。」などの表現は「時弊を説いたように見える文字(津田左右吉一九四九年)」、「目前の事態を念頭においた表現(井上光貞一九五四年)」とみえます。
 つまり、近畿天皇家一元史観でみると、この憲法は七世紀初頭でもおかしいし、八世紀初頭でもおかしい、そのような理解に苦しむ政治体制を前提として作られていて、しかもその政治体制が実際に行われていて、そこに正さなければならない時弊が現われていた(既に経験していた)ことになります。

四、十七条憲法作成時期の我国の仏教受容事情

 三(一)⑨項に挙げたように、「二に曰く篤く三宝を敬え、(中略)三寳に帰せずんば、何を以ってか枉がれるを直さん。」と、「十二に曰く、(中略)国に二君非ず」「三に曰く、詔を承けては必ず謹しめ。(中略)君は即ち天なり」がそぐわない、矛盾する、これが思想史の方には大問題のようです。
二葉憲香氏の言葉を借りると「承詔必謹の要求と篤敬三寶の要求とは、天皇自身が篤敬三寶による直枉の立場に立つことによってのみ、辛じてその矛盾の克服を考えるものであるとすることもできようが、現実には二つの思想の立場はたやすく相容れるものではない。」

 ところが、まさに多利思北孤が日出づる処の天子と名乗り、隋の煬帝を海西菩薩天子と呼んでいることから、同時に自らを海東菩薩天子と意識していたはずと古田先生は述べられています。(『市民の古代第5集』一九八三年)この「海東の菩薩天子(天子であり、衆生を救う菩薩でもある)」であればぴったりくるわけです。

 こう考えますと、我国における仏教受容を三段階に分けるのが良いと思われます。
(Ⅰ)渡来僧に始まる純粋な布教段階(安土桃山時代のキリスト教と同様の浸透があったと考えます。)

(Ⅱ)多利思北孤=菩薩天子による仏教の政治利用

(Ⅲ)僧尼令に見られるような制限的仏教利用

七世紀初頭前後に(Ⅱ)段階、七世紀後半に(Ⅲ)段階となる、そんなイメージでしょうか。
 近畿天皇家には(Ⅱ)段階はなかったのではないでしょうか。天皇イコール菩薩という構図に当てはまる天皇はいない(だから二葉氏の見解となる)と考えられます。聖徳太子がそうかと言うと、もちろん天皇でも天子でも無いので当てはまりません。

五、まとめ

   (一)

 日本書紀の推古十二年(六〇四)に記述された十七条憲法は次の3要素で構成されています。
(A)仏教を敬え。仏教以外に人の悪を正せるものはないと仏教の絶対性をとなえる。

(B)国に二君は無い。全ての国司・国造・百姓の主は君(王・天子)だと、中央集権国家をうたう。

(C)残りの計14の条は官僚の行動規範・服務規程。(但しここには違えた場合の罰則の記述はない)

   (二)

 (C)については当時の中国に六条詔書という手本があり、これに(A)(B)を加えて構成した憲法の形としては他に例が無いものです。

   (三)

 その構成から新たに支配する対象への、新しい支配方針を知らしめる宣言書と考えられます。しかし、日本書紀の発布記事からでは、どういう理由で、誰に対して発布したものかが読み取れません。つまり、その部分が書紀編者によって削除された可能性が考えられます。

   (四)

 憲法の条文からは、歴史学の各権威の指摘にある通り、この憲法が日本書紀通りの七世紀初頭の発布ではおかしいし、また八世紀初頭の発布としてもおかしい、そのような理解に苦しむ政治体制を前提として作られています。しかもその政治体制が実際に行われていて、そこに正さなければならない時弊が現われていたことになります。
 これを九州王朝説で考えた場合、当時既に九州を中心に行われていた中央集権政治を、新たに畿内を含めた東日本で実施する。つまりこれまで現地の王(豪族)を通じての間接支配であった地域に、九州王朝による直轄支配を行うとすれば、十七条憲法の制定意図が判ります。
 これは九州王朝による(既に九州を中心に実施されていた)官僚を用いて行う直轄支配の中で、官僚と(今後この制度を拡げようと画策していた)西国の豪族への通達として作られたものであって、第一に「君則天之」「国非二君」を示し、第二にその支配の正統性を支える仏教政策「篤敬三宝」をかかげ、第三に官僚の行動規範を定めたのものと考えるのが妥当と思われます。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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