2017年10月10日

古田史学会報

142号

 

1,井上信正さんへの三つの質問
 古賀達也

2,「佐賀なる吉野」へ行幸した
 九州王朝の天子とは誰か(下)
 正木 裕

3、古代官道
 南海道研究の最先端(土佐国の場合)
 別役政光

4,気づきと疑問からの出発
 冨川ケイ子

5,『古代に真実を求めて』第二○集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
 について(2の上)
 林 伸禧

6、「壹」から始める古田史学十二
 古田説を踏まえた
 俾弥呼のエピソードの解釈①
古田史学の会事務局長 正木 裕

 

古田史学会報一覧


「東山道十五国」の比定 -- 西村論文「五畿七道の謎」の例証 山田春廣(会報139号)
四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編 別役政光(会報144号)

古代官道

南海道研究の最先端(土佐国の場合)

 

高知市 別役政光

 これまで南海道における古代官道については、畿内大和朝廷の都を起点とする研究がほとんどであった。現在までの研究成果を紹介しつつ、九州王朝を起点とした視点で見つめ直したときに、どのような考察が可能か、今後の研究課題を提起したい。
 大宝二年(七〇二)正月一〇日に「始めて紀伊国賀陁駅家を置く」(『続日本紀』)とある。これをもって畿内大和朝廷を起点とした南海道再編の始まりと見ることができる。
 次に、『続日本紀』養老二年(七一八)五月七日条には、「土左国言す。公私の使、直に土左を指せども、その道伊予国を経、行程迂遠にして、山谷険難なり。但し阿波国は境土相接して、往還甚だ易し。請うらくは此の国に就いて、以って通路と為さんと。之を許す」と記している。土佐国へは、伊予国を経由していたが、阿波国から直接土佐国へ向かうルートを新設したことになる。この事実は、今井久氏や西村秀己氏のご指摘どおり(「南海道の付け替え」古田史学会報一三六号)、七〇一年の大宝律令を前後する九州王朝から大和朝廷への中心主権の移行を示す有力な状況証拠と言えよう。奇しくも松原弘宣氏は「養老二年以前に阿波~土佐間の駅路が非存在であった合理的な理由を見出す必要がある」と述べておられるが、九州の都を起点としていたとすれば、土佐国へは伊予国経由で、一方阿波国へは伊予・讃岐国経由のルートがあるので、土佐~阿波間は必ずしも必要はない。
 さて、養老二年に開かれた阿波経由のいわゆる養老官道はどのコースであったのだろうか?
 大豊町から西峰にいたる京柱峠越え(現四三九号線)。物部川沿い四ツ足峠越え(現一九五号線)など、有力なコースがいくつか想定されたが、現在は室戸岬に近い、甲浦の根山越え(現四九三号線)であろうという結論に達している。平城宮出土木簡に「阿波国那珂郡武芸駅・薩麻駅」の名称が記されており(『木簡研究』九)、武芸駅は徳島県牟岐町に比定され、そこに連結し得るルートとして野根山越え(後の野根山街道)に落ち着いた。
 さらに下って、『日本紀略』延暦十五年(七九六)二月二五日条に記載する勅に、「南海道の駅路迥遠、使をして通じ難からしむ。因りて旧路を廃し、新道を通ず」とあり、翌七九七年になって、「阿波国駅家□、伊予国十一、土左国十二を廃し、新たに土左国吾椅、舟川二駅を置く」(『日本後記』延暦十六年一月二七日条)、いわゆる北山越え(ほぼ現在の高知自動車道、南国~川之江間に沿ったコース)への変更となり、『延喜式』段階の官道体系が成立する。
 『延喜式』段階の南海道の駅と官道については、細部を除けば、従来の研究者の見解がほぼ一致しており、淡路国・阿波国・讃岐国を経て伊予国国府の越智駅に至るまでのルートについてはここでは触れない。土佐国へは途中の伊予国大岡駅(四国中央市妻鳥町)から南へ分かれ、山背駅(新宮村馬立付近)、土佐国丹治川駅(『日本後記』延暦十六年の舟川駅)、同吾椅駅を経て同頭駅にいたる。丹治川駅は大豊町立川、頭駅は南国市比江に所在した土佐国府付近と推定され、吾椅駅は、丹治川・頭の間の本山町本山付近に想定されている。この延暦新道(後の北山越え)に関しても大方の意見が一致しているが、初出の駅名「舟川」を「舟は丹の誤り」とし、舟川→丹川→丹治川(現在の立川)というように後代の資料によって修正しているところなど、資料批判してみると面白いテーマもある。
 ところで、この時廃止された駅数が、南海道研究の大きな手掛かりとなっている。阿波国は欠字のため何駅かは不明だが、一桁の廃止駅数である。これに対して、伊予国十一、土佐国十二、駅家の廃止数は二桁に上る。これは単に土佐~阿波ルートの廃止では説明がつかないので、旧来の伊予経由の土佐ルートが残されており、この時点で共に廃止となったと考えられている。
 従来、この伊予~土佐ルートは仁淀川沿い(現三三号線)を想定する考えが強かった(金田章裕「南海道」藤岡謙二郎編『日本歴史地理総説』古代編。日野尚志「南海道の駅路」『歴史地理学紀要』二〇。栄原永遠男『奈良時代流通経済史の研究』など)。しかし、足利健亮氏は、駅数と駅間距離を勘案し、図のような海岸沿いのルートを推定した(「山陽・山陰・南海三道と土地計画」稲田孝司・八木充編『新版古代の日本4 中国・四国』)。現在のところこれが最も矛盾の少ない考え方として、高知県内においても、この説に沿って郡家や馬牧の比定などの研究が進んでいる。
 愛媛県側でも、越智国から県西部への駅路が延長されうるとの推定が進み、『新説 伊予の古代』(合田洋一著)の中でも伊予国府から松山までの南海道の駅路が比定されている。さらに類聚三代格・二〇の記述を根拠として、「一般には公表されていないが、西海道を受け、これと接続した宇和郡矢野郷(後の喜多郡)八幡浜、またはその周辺と南海道を結合するコースが早くから存在していたことが想定される」(データベース「えひめの記憶」)とするものもある。
 そこから南へ向かい、四万十市(波多国造が置かれたとされる幡多地方)を経て、四国循環の沿岸コースを通るとした足利説は、後の四国八十八か所遍路道にも連なり、利点も多いが、致命的な問題点もある。古田武彦説「七〇〇年以前は九州王朝の時代」との観点に立つと、伊予経由の土佐ルートは九州王朝の都(大宰府周辺)と土佐の国府を結んでいた段階の古代官道の名残りと考えられる。渡津地点を八幡浜周辺とすると南部の沿岸を経るのは遠回りすぎる印象は否めない。郡家が駅家をサポートするという仕組みはあるにしても、駅路が必ず郡家を通らなければならないということはない。駅伝制において重要なのは、いかに短時日で情報伝達するかという点である。官道の役割として、都と各国の国府を最短日数でつなぐという視点が抜けてはならない。『延喜式』段階の駅路図にもそのことがよく表れている。
 以上を踏まえ、一案として、従来説「久万官道・仁淀川沿いルート」の再検討を考えてみてもよいのではないか。『野根山街道』(山崎清憲・前田年雄共著)に「久万官道(六五五)開設」とあり、いくつかのブログやホームページでは六六二年または六六一年に久万官道が開かれたとしている。出典・根拠とするところはまだ確認できてはいないが、斉明天皇の時代の事績ではないかと考えられる。また、久万高原の分水嶺には三坂峠があり、近江国や信濃国の古代官道上の峠にも多く表れる「ミサカ」地名と通じるものがある。
 もう一つの試案として、龍馬脱藩の道として有名になった佐川町から津野町を経て梼原町へと続くルート。現在は国道一九七号線として整備され、八幡浜を経て佐多岬半島先端の三崎まで通じている。高知市から豊後水道へ抜けるには最短コースともいえる。途中に旧・葉山村があり、早馬(ハユマ)から変化したとされる「葉山」地名は、福岡県・鹿児島県・神奈川県の駅家推定地にも見られ、古代駅家の関連地名として指摘されている。
 いずれのコースにも山間部では、県内で最も古い段階の池川神楽や名野川神楽、津野山神楽といった祭祀が伝承されていることも信濃国との類似性があり、研究課題が多いと言えよう。高知県内では発掘調査による古代官道や駅家などの遺構はほとんど見つかっておらず、唯一、南国市の国府跡と推定される場所の南方に古代官道と見られる遺構(士島田遺跡)が見つかっている程度である。 現段階では、まだ結論を急がず、しっかりと検証を重ねていきたい。つたない論考を書きつづってみたが、古田史学に基づく古代南海道研究の一助となれば幸いである。

古代官道


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