2016年8月10日

古田史学会報

135号

1,盗まれた風の神の祭り
 正木 裕

2,九州王朝説に
 刺さった三本の矢(前編)
 古賀達也

3,古田先生が
 坂本太郎氏に与えた影響
 中村通敏

4,『別冊宝島 古代史再検証
「邪馬台国とは何か」』の検証
 西村秀己

5,鞠智城創建年代の再検討
 六世紀末~七世紀初頭、
 多利思北孤造営説
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅵ
 倭国通史私案①
 黎明の九州王朝
 正木 裕

7,「邪馬壹国の歴史学」
 出版記念講演の報告

 

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『要衛の都』前期難波宮」に反論する 合田洋一(会報134号)へ

「要衝の都」前期難波宮 (会報133号)へ
九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)(会報136号)へ
九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (中編) (後編)

「倭京」の多元的考察 古賀達也(会報138号)


九州王朝説に刺さった三本の矢(前編)

京都市 古賀達也

はじめに

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているかのようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦しています。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、七月二三日(土)に東京家政学院大学で開催した『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げました。「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

《二の矢》六世紀末から七世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

《三の矢》七世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 

出土事実と「他流試合」

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と名付けたこれらの考古学的出土事実から、九州王朝説論者は逃げることはできません。自説に不利な事実やデータを無視したり軽視することは学問的態度ではないからです。また、これが九州王朝説論者間の論争なら、「考古学についてはわからない」などと言って逃げられるかもしれませんが(本当は逃げられません)、大和朝廷一元論者に対しては「敗北宣言」に等しく、「他流試合」ではそうした「逃げ」や言いわけは全く通用しません。
 こうしたことを踏まえて、この「三本の矢」について具体的に、その持つ意味について説明します。最初に《一の矢》(近畿の巨大古墳)について解説します。
 この考古学的事実は「邪馬台国」畿内説の隠れた「精神的支柱」となっているようです。すなわち、弥生時代の遺跡や遺物(主に金属器)については北部九州にかなわないが、その後の古墳時代は圧倒的に畿内や近畿に巨大な前方後円墳が分布しており、だから弥生時代の「邪馬台国」も畿内にあったと考えてもよい、という「理屈」が「邪馬台国」畿内説論者や大和朝廷一元史観を支えているのです。
 この難題に対して九州王朝説論者は、「当時、朝鮮半島諸国と交戦していたのは大和朝廷ではなく九州王朝であり、だから戦時に巨大な古墳など造営できないのは当然である」と説明や反論をしてきました。しかし、この説明は九州王朝説論者内部には説得力を有しますが、大和朝廷一元論者に対しては全く無力です。なぜなら、「全国を統一支配していた大和朝廷は近畿に巨大古墳を造営するだけの富と権力を持っており、大和朝廷の命令で朝鮮半島に出兵させられていた北部九州の豪族に巨大古墳を造れないのは当然」と彼らは考えているからです。
 ですから九州王朝説を持ち出さなくても一元史観で説明可能であり、むしろ巨大古墳が近畿に濃密分布しているという事実そのものからは、北部九州よりも近畿に日本列島を代表する王朝があったとする理解を否定できないのです。この論理性はかなり頑固で強力であることを、九州王朝説論者はまず認識する必要があります。
 その上で、この近畿に巨大古墳が濃密分布するという事実を、九州王朝説の立場から合理的に説明しようとする試みが、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが果敢に挑戦されてます。

 

九州王朝説論者の「不戦敗」

 次に《二の矢》について解説します。
 六~七世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。したがって九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「六世紀末から七世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。
 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論するコメントを読んだときでした。この反論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。
 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を五十年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を七世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には六世紀末から七世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(七世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳十年〔六七〇〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。七世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解に、わたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える(他の可能性を論理的に排除できない)」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元論者を説得することもできず、彼らの「六~七世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、この事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元論者との「他流試合」で勝つためには、この頑固で強力な《二の矢》から、「知らない」「わからない」で逃げることはできません。
 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が六世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。
 また別の角度からの研究として、従来は八世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により七世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に登録されています。
 こうした研究は、ようやくその成果が現れ始めた段階です。このテーマは七世紀における土器編年の再検討(主に須恵器杯Bの編年見直し)という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学は避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。

 

古田先生も悩まれた前期難波宮

 最後の《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。
 今から十年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が七世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積だけでも前期難波宮は大宰府政庁の約五倍であり、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。
 これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない一般の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実が九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は「『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。

 

最先端研究の恐怖

 《三の矢》(巨大な前期難波宮)に悩んでいたわたしは、難波宮に関する先行論文の調査を続けました。その過程で、大和朝廷一元史観内でも前期難波宮の隔絶した規模に困惑している状況があることを知りました。

 たとえば中尾芳治著『難波京』(ニュー・サイエンス社、昭和六一年)では、前期難波宮がその前後の近畿天皇家の宮殿(飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮)とは規模も様式も隔絶していると指摘されています。
 「前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(九三頁)

 そしてこの前期難波宮の朝堂院様式が前後の宮殿となぜ異なったのかという説明に非常に苦しんでいる様子が吉田晶著『古代の難波』(教育社、一九八二年)にも記されています。

 「残る問題は、その宮室構造と規模がその後の天智の大津宮や天武の飛鳥浄御原宮に継承されたとは考えがたいのに対して、持統朝に完成する藤原宮に継承関係がみられることを、どう説明するか、(中略)宮室構造と規模などはすぐれてイデオロギー的要素をふくむ政治的構造物であり、考古学上の遺物たとえば土器の編年と同様に考えることはできず、物自体については「後戻り現象」(横山浩一氏の表現)も生じうる。その意味で形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない。」(一六七~一六八頁)

 わたしは大和朝廷一元論者のこれらの困惑した文章を見て驚きました。それにしても「後戻り現象」なる奇妙な解釈を持ち込んでまで「形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない」というに及んでは、これは「思考停止」であり、学問的敗北です。すなわち、彼らも前期難波宮の隔絶した規模と様式を、大和朝廷一元史観の中で処理(理解)できないことを「告白」しているのでした。
 この学問的状況を知ったとき、わたしの脳裏に、前期難波宮は大和朝廷ではなく九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)が稲妻のようにひらめきました。と同時に、九州王朝の巨大宮殿が大阪にあったとする古田学派にとってもあまりに常識から外れたこの新概念に、学問的恐怖を覚えました。こんな非常識な仮説を発表して、もし間違っていたらどうしようと、わたしは呻吟したのです。真っ暗闇の中で、誰も行ったことのない場所に一歩踏み出すという最先端研究が持つ恐怖にかられた瞬間でした。

 

第一読者、古田先生への論文

 わたしは「前期難波宮は九州王朝の副都」という論文を二〇〇八年に発表しました。九州王朝説に突き刺さった《三の矢》から九州王朝説を救出するにはこの仮説しかないと、考え抜いた末の結論でした。
 しかし、古田先生からは賛同していただけない月日が永く続き、前期難波宮から九州の土器は出土しているのか、神籠石のような防御施設がない、副都の定義が不明確と次々とダメ出しをいただきました。また、各地で開催される講演会で、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」に対する見解を問う質問が参加者から出されるたびに、古田先生からは否定的見解が表明されるという状況でした。
 そうした中でわたしにできることは論文を書き続けることだけでした。もちろん古田先生に読んでいただくこと、そして納得していただきたいと願って研究と発表を続けました。次の論文群がそうです。想定した第一読者は全て古田先生です。

 

《前期難波宮関連論文》

前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)

「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)

「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)

前期難波宮の考古学(1)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)

○前期難波宮の考古学(2)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)

○前期難波宮の考古学(3)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)

前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)

○続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)

七世紀の須恵器編年 ー前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁ー(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)

白雉改元の宮殿ー「賀正礼」の史料批判ー(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)

難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)

前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)

条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

 ※わたしの説を批判・紹介される場合は、過去の「発言」などではなく、これら論文から正確に引用してください。

 論文発表に先行して「古田史学の会」関西例会でも研究報告を続けました。そうしたところ、参加者から徐々に賛成する意見が出され始めました。西村秀己さん、不二井伸平さん、そして正木裕さんは『日本書紀』の史料批判に基づいてわたしを支持する研究発表をされるようになり、近年では服部静尚さんも新たな視点(難波宮防衛の関)から前期難波宮副都説支持の研究を開始されました。
 そして二〇一四年十一月八日の八王子セミナーの日を迎えました。古田先生との質疑応答の時間に参加者からいつものように「前期難波宮副都説をどう思うか」との質問が出されました。わたしは先生がどのような批判をされるのかと身構えました。ところが、古田先生の返答は「今後、検討しなければならない問題」というものでした。六年間、論文を書き続け、ついに古田先生から「否定」ではなく、検討しなければならないの一言を得るに至ったのです。検討対象としての「仮説」と認めていただいた瞬間でした。その日の夜は、うれしくて眠れませんでした。しかし一年後、検討結果をお聞きすることなく、先生は他界されました。(後編に続く)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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