2016年8月10日

古田史学会報

135号

1,盗まれた風の神の祭り
 正木 裕

2,九州王朝説に
 刺さった三本の矢(前編)
 古賀達也

3,古田先生が
 坂本太郎氏に与えた影響
 中村通敏

4,『別冊宝島 古代史再検証
「邪馬台国とは何か」』の検証
 西村秀己

5,鞠智城創建年代の再検討
 六世紀末~七世紀初頭、
 多利思北孤造営説
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学Ⅵ
 倭国通史私案①
 黎明の九州王朝
 正木 裕

7,「邪馬壹国の歴史学」
 出版記念講演の報告

 

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盗まれた九州王朝の天文観測 正木裕(会報134号)

筑紫なる「日向三代」の陵墓を探る 正木裕(会報137号)

盗まれた風の神の祭り

川西市 正木裕

 八世紀初頭、九州王朝にとってかわった近畿天皇家は律令制を施行し、近畿天皇家中心の仕組みを作り上げていったが、その中には「神祇令」や「弘仁式」に見るように集権国家としての儀礼や祭事の再編や定式化も含まれていた。そうした国家的な祭事に「広瀬竜田祭(龍田風神祭・広瀬大忌祭)」があった。(註1)そして『日本書紀』によれば、これは七世紀に天武によって始められ、持統期にかけて盛んに行われたとする。
 ただ、地域的な祭事はともかく、国家としての祭事をおこなう権限は国家の主権者にあるところ、天武・持統期は白鳳・朱雀・朱鳥・大化という九州年号が継続する九州王朝の時代だ。そうであれば広瀬竜田祭も本来は「九州王朝の祭事」であって、『書紀』編者はこれを「近畿天皇家の祭事」に潤色したのではないかという疑いが生じる。本稿では龍田風神祭を取り上げ、九州王朝・近畿天皇家どちらの祭事であったかを検討する。
 今日「龍田風神祭」は大和の「龍田大社」の祭事となっているが、これとは別に熊本阿蘇神社にも「風かざ祭り」が伝わっており、これを紹介する所から始める。

 

一、風の神の祭事

1、阿蘇神社の「風祭り」

 今回の九州の大地震は熊本を中心に九州に大きな被害をもたらした。熊本ではシンボルの熊本城が崩壊寸前となった姿が報道されているが、同時に阿蘇神社の大被害も伝えられている。一刻も早い復旧を願うものだ。
 ところで、被害を受けた阿蘇神社(*「延喜式」では健磐龍命たけいわたつのみこと神社)は、孝霊天皇の九年速瓶玉命はやみかたまのみことによって創建されたとあり、健磐龍命を主神とし、以下の十二神を祭る由緒ある神社だ。
◆主神(一宮)健磐龍命、(二宮以下)阿蘇都比咩あそつひめ命 国龍命くにたつのみこと 比咩御子神 彦御子神 若比咩神 新彦神 新比咩神 若彦神 弥比咩神 速瓶玉命 金凝神 諸神

 社伝では、建磐龍命は大きな湖であった阿蘇を開拓するため、立野のスガル(外輪山唯一の切れ目で、白川が流出する。崩落した阿蘇大橋に近く「立野の火口瀬」と呼ばれている)を蹴破って水を出し田畑を作らせ、作物が実る豊かな土地にしたとある。従って建磐龍命は農耕の神ということになろう。(註2)
 阿蘇地域では阿蘇神社を中心に、様々な「農耕祭事」が行われ、「阿蘇農耕祭事」の名称で国指定重要無形民俗文化財に指定されている。その中で、阿蘇神社では「風祭り」といって、風の害を防ぐための祭事が旧暦四月四日と七月四日に行われている。これは阿蘇の「宮地の風宮」で「風鎮め」を行い、神官が「邪悪な風」を追い立て、「手野の風宮」で風を穴に封じ込めるもので、本年も災害にめげず五月十日に執り行われている。(註3)

 

2、龍田大社の風鎮祭

 この阿蘇神社の「風祭り」に対し、大和龍田大社(奈良県生駒郡三郷町立野南)の風神祭は天皇家が関与し、長い歴史を持つことで知られている祭りだ。
 阿蘇神社同様年二回催され、旧暦四月の「風神祭」は農耕をおこなう上でより良い水を得るための祭りで、七月は「風鎮大祭」として風の神を鎮め五穀豊穣を祈念する祭りとされている。そしてこの祭事は『書紀』に天武四年(六七五)から持統十一年(六九七)にかけて、三十六回記載される「龍田風神祭」を指すとされている。

◆『書紀』天武四年四月癸未(一〇日)に、小紫美濃王。小錦下佐伯連広足ひろたりを遣して、風神を龍田の立野に祠まつらしむ。小錦中間人連大蓋おおふた・大山中曾禰連韓犬を遣して、大忌神おほひみのかみを広瀬の河曲かはらに祭らしむ。

 天皇が勅使を遣して行う祭事であるから、これは「国家主催の祭事」といえよう。このことは先述の通り風神祭が、後代令制に組み込まれていることからもわかる。

◆『令義解』二(神祇令)孟夏条・風神祭(八三三)謂。亦広瀬竜田二祭なり。沴風(らいふう 傷つけ損なう風)吹かず、稼穡(かしょく 収穫物)滋登(じとう 潤い実る)ならしむることを欲す。

 従って『書紀』によると、近畿天皇家は七世紀天武の時代に国家的祭事を執行する権限を有していたことになる。
 龍田大社は崇神天皇の創建とされ、祭神は「天御柱神、国御柱神」であり、『日本書紀』には見えないが、龍田風神祭の「祝詞」で天皇の夢中で「作物を守る」神として名乗って現れる。
◆「延喜式祝詞」皇御孫命すめみまのみことの大御夢に悟し奉らく、天下の公民作りと作る物を、 悪しき風・荒き水に相はせつつ、成さず傷そこなふは、我が御名は天乃御柱乃命・国乃御柱乃命と、御名は悟し奉り(略)

 この二神は、其々伊弉諾命が霧を吹き払った息から生まれた級長津しなつ彦神・級長津姫神に擬せられており、これが「風の神」として祀られる由縁だ。

 

二、本来の風神祭は大和か阿蘇か

1、大和で風神を祀る必然性

 ただ、『書紀』に記す龍田風神祭には、以下幾つかの疑問点がある。
①天武四年に突然祭りはじめた理由も明らかではない上、持統は大宝二年(七〇二)まで存命していたにもかかわらず、持統十一年に唐突に終わっている。それまで毎年の様に四月・七月に祭礼を催していたのに、『続日本紀』の文武期にこの祭礼記事が見られない。

②竜田は風神で、風水害から田畑を守る神とされるが、大和の地は風の弱いことで有名で、これは気象庁のデータでも明らかだ。(註4)

 勿論風の弱い地域であっても、二百十日に向け稲の平穏を祈って不思議ではない。しかし龍田風神祭の「祝詞」では、毎年のように風水害が起こっているように記されている。
◆「祝詞」五穀物を始めて、 天下の公民の作る物を、草の片葉かきはに至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼まねく(毎年のように)傷ふ。(略)天下の公民作りと作る物を、 悪しき風・荒き水に相はせつつ、成さず傷ふ(略)
 勿論「文武期にも行われていたが、『続日本紀』に記さなかっただけ」とか、「祝詞だから毎年というのは誇張した表現だ」といえなくもないが、資料的にも奈良の風土・気候からも違和感があるのは事実だろう。

 

2、阿蘇で風神を祀る必然性

 ところで、同じ「風の祭り」を行っている阿蘇神社、阿蘇地方はどうか。
 阿蘇付近は年三二〇〇㍉もの降水量がある豪雨地帯だ。しかも今回の災害で報道されているように風雨ともに激しく、熊本地方気象台も、
◆熊本県は九州山地の西側にあたるため、東シナ海から入ってくる暖かく湿った空気が入りやすく、大雨や集中豪雨が発生しやすいところで、たびたび土砂災害や洪水の被害をもたらす原因にもなります。(「熊本県の気候」)
 と警鐘を発している。そしてなかでも阿蘇の外輪山の唯一の切れ目である「立野」火口瀬周辺では、カルデラ内の河川水が集中して押し寄せ災害の起こりやすい地域だ。加えてこの地域には、「まつぼり風」という、白川に沿って吹き流れ下る風速十メートル以上に達する局地風がある。
 「まつぼり風」とは、
◆①火口瀬を吹く風で、風速(十分間平均風速)十メートル秒以上が続くような東ないし東南東の強風。
 ②風速約十~十五メートル秒、気圧場によっては二〇メートル秒以上の風となって吹き出す。
 ③発生回数は、年平均六〇回を越える。時期的には春(三~五月)と秋(十月~十一月)が多く、この二つの季節だけで、年間発生回数の六五%以上を占める。この風が吹くと麦類の実りが阻害され収穫に甚大な影響があるとされる(立野ダム工事事務所 調査設計課)。
◆「まつぼり風」が吹く地帯では、穂の「のぎ」が強風で取れ,減収の要因となっている。白川に沿った調査では,内牧~瀬田で「のぎ」がほとんどとれ,千粒重も一割から二割小さくなっていた。「まつぼり風」が農業生産に大きな影響を与えていることがわかる。(九州農業試験場ニュース「局地気象と農業生産」~まつぼり風~生産環境部気象特性研究室 黒瀬 義孝)

 このように、「風の祭り」は同じでも、大和と阿蘇ではその必然性に雲泥の差があり、祝詞に言う「悪しき風・荒き水に相はせる」のを防ぐ祭事は阿蘇神社にこそ相応しいといえる。
 しかも『書紀』には「風神を龍田の立野に祠しむ」とあるところ、阿蘇で風害がおきる要所は「立野」なのだ。そして、熊本には「立野」から流出する白川の流域に「龍田(熊本市北区。龍田一丁目~九丁目、龍田弓削・龍田陳内など)」、「龍(立・竜も同じ)田山」があり、今回の地震を起こした「立田山断層」もこれに沿っている。
 また、白川水源の白川吉見神社と白川流域の龍田阿蘇三ノ宮の祭神は健磐龍命の義父国龍命だ。途中には龍神橋もかかっている。つまり龍田をはじめとする阿蘇~立野~白川一帯は「農耕の神でかつ風を鎮める神」たる「龍神」信仰の地で、『書紀』に記す「風神祭」を行うにふさわしく、その中心が阿蘇神社なのだ。

 

3、阿蘇神社の祭神も祝詞と一致

 そして祝詞には、「比古神・比賣神」の名が見られる。
◆奉る宇豆うづの幣帛みてぐらは、比古神に、御服みそは明妙あかるたへ・照妙・和妙にきたへ・荒妙、五色物いついろのもの、楯・戈、御馬に御鞍具そなへて、品品の幣帛獻り、 比賣神に、御服備へ、金の麻笥をけ・金の栭たたり・金の挊かせひ、明妙・照妙・和妙・荒妙、五色物、御馬に御鞍具へて、雜くさぐさの幣帛奉り。

 この比古神・比賣神は、大和の竜田大社では「天乃御柱乃命・国乃御柱乃命のこと」と「比定」されているが、阿蘇神社の祭神は「比咩御子神 彦御子神 若比咩神 新彦神 新比咩神 若彦神 弥比咩神」など、ずばり「比古神・比賣神」のオンパレードなのだ。

 しかも『隋書』俀国伝には、多利思北孤の俀国に阿蘇山があり、「禱祭を行う」とある。その阿蘇山の神は阿蘇神社の祭神「健磐竜神」だ。
◆阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り、天に接するは、俗以て異と為し、因って禱祭を行う。

 このように、『書紀』に記す「龍田風神祭」は、本来九州王朝の火山や風雨などの自然災害から田畑を守る祭事で。阿蘇神社の祭神健磐龍命らを祀り、近畿天皇家にとってかわられる七世紀末頃まで続けられた祭事だったといえよう。

 

三、盗まれた九州王朝の祭事

1、もう一つの龍田神社

 ところで、大和にはもう一つ「龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町龍田一―五―六)」があり、今日では「龍田大社の摂社」と見なされているが、「大社」ではなくこちらが『書紀』の文言のように「龍田」に位置する。
 祭神は龍田大明神(龍田比古神・龍田比女神)で、法隆寺の鎮守のため「聖徳太子」が創建したとされており、法隆寺との位置関係からも不自然ではないだろう。ただこの龍田大明神は、法隆寺創建に際し、老人に化身し寺の鎮守を約したとされる伝承があるばかりで、何の神か記録が残っていない「謎の神」なのだ。聖徳太子が創建した神社の神が「不明」とはきわめて不可解だ。

2、盗まれた風の神の祭り

 しかし前述のように阿蘇神社の祭神には「比古神・比賣神」がおり、「龍田」も阿蘇地域の地名だった。そして龍田神社は「龍田」にあり、祭神は「龍田比古神・龍田比女神」だ。また『隋書』に記す阿蘇の祭事は多利思北孤の時代で、法隆寺釈迦三尊像光背銘に記される、法興年号を持つ「法王大王」は、その薨去年や太后・王后の違いから近畿天皇家の「厩戸皇子」ではなく、九州王朝の天子多利思北孤と考えられる。
 そうであれば、大和龍田にある龍田神社は「龍田大社の摂社」などではなく、「聖徳太子」とされる九州王朝の天子多利思北孤が法隆寺を創建した際、法隆寺を災害から守るため肥後から勧靖し、阿蘇神社の摂社として創建されたものだと考えられよう。そうすれば地名・神名・由緒が合理的に説明できるのだ。
 そして、阿蘇神社や龍田神社の縁起や祝詞が、八世紀近畿天皇家の律令の下「天武が始めた龍田大社の風神祭の縁起や祝詞」として盗まれ、龍田神社は龍田大社の摂社とされていったと考えられる。

 この様にして、『書紀』編者は、九州王朝の祭事を盗用し、七世紀末まで阿蘇神社及び摂社の龍田神社で九州王朝が「国家的祭事」として行ってきた「天災を避け、豊穣を祈る」祭事を、律令施行以前から近畿天皇家が国の主権者として執行していたと見せるため、天武・持統が龍田大社で行ってきたように潤色した。
 こう考えることによって、
①祝詞の「悪しき風・荒き水」という内容と大和の気候・地勢の不整合、
②龍田にあるのは「龍田大社」ではなく「龍田神社」の方という地名の矛盾、
③龍田神社の神の正体が不明であること、
④祝詞や縁起にみえる祭神に「天乃御柱乃命・国乃御柱乃命」「級長津彦神・級長津姫神」「比古神・比賣神」といった多くの「別名」があること、
⑤『続日本紀』の文武時代に突然この祭礼記事が消えたこと、等多くの矛盾・疑問が解消できる。

 『書紀』編者は、天子の専管事項である「国家的祭事」も九州王朝の事績から盗用していたのだ。

 

(註1)
○『日本後紀』延暦十八年六月戊子(十五日)条(七九九)勅。祭祀之事。在徳与敬。心不致敬。神寧享之。広瀬竜田祭。所以鎮-弭風災。祷祈年穀也。
○『本朝月令』四月四日広瀬竜田祭事所載大同新抄・延暦十八年六月十五日官符(七九九)太政官符。大和国司。応守介一人祗承広瀬竜田祭所事。
○『類聚三代格』(科祓事)・延暦二十年五月十四日官符(八〇一)太政官符 定准犯科祓例事(略)右闕怠大忌祭。風神祭。
○『本朝月令』四月四日広瀬竜田祭事所載『弘仁式』(八二〇)弘仁式云。大忌祭一座。広瀬社。七月准此。風神祭二座。竜田社。
○『令義解』二(神祇令)孟夏条・大忌祭(八三三)謂、広瀬竜田二祭也。欲令下山谷水変成甘水。浸潤苗稼。得其全稔。故有此祭也。
○風神祭。謂、亦広瀬竜田二祭也。欲令沴風不吹。稼穡滋登。

(註2)古賀達也氏は「古層の神名」『古田史学会報』七一号で「チ・ケ・ソ・クイは古層の神名であるとする。「ケ」が古層の神名とすると、「建」は「田ケ」で田の神、磐は大きく強いことを示し、「健磐龍の神」は「龍田の神」となる。ちなみに建御雷の神も稲を育てるといわれる「雷の神」で、やはり「田ケ」と思われる。

(註3)二〇一六年五月十一日付 西日本新聞より要約。これは高森風鎮祭(山引き)行事とは別。

(註4)各観測所とも風が弱く、平均風速も各観測所で毎秒五m以下の風が九七%以上を占める。大和県は内陸県で、周囲を山で囲まれており、その地形特性から強風は吹きにくく、災害は少ない。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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