納音(なっちん)付き九州年号史料の出現 -- 熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介 古賀達也(会報121号)
石原家文書の納音(なっちん)は古い形か 服部静尚 (会報125号)
「九州年号」を記す一覧表を発見
和水町前原の石原家文書
熊本県玉名市和水町 前垣芳郎
現在の日本史教科書で最初の年号は「大化」である。ところが、それ以前の三十一の年号を含む年号一覧表が、和水町の旧家からこのほど見つかった。一覧表がつくられたのは今から二百六十年前の宝暦年間。この年号一覧表が語りかけるものは・・・
最上段一行目に「善記」
善記、正和、教知・・・大化、大長という三十一の古代年号(「大化」を除けば三十)を記載した一覧表形式の古文書が、和水町前原の旧家跡(現在は空き家)でこのほど見つかった。その屋敷は、肥後国玉名郡内田手永前原村で江戸時代後期、代々村庄屋を勤めたとされる「石原家」の末裔の嫁ぎ先である。関係者から「古い文書や帳面が束になって残っている」という話を聞いたのが昨年末。正月明けに、雨戸を開けて風の入れ替えなど定期管理に町外から来た子孫の男性に頼んで、その古文書を見せてもらった。
母屋の床の間のガラス製人形ケースに、ほこりをかぶった古文書の束や帳面綴りなどがびっしり横積みの状態で収納されていた。平成十三年から十九年にかけて編纂された「菊水町史」には、もちろん活用されていない。所有者に預からせてもらう快諾を得て、自宅に運ぶためミカン用のコンテナに移したら二箱分もあった。
自宅に持ち帰り、折りたたまれた和紙の古文書の一つを何気なく広げたところ、縦横に細い罫線が引かれ、枠内は二文字の漢字と漢数字の墨書で埋められていた。(写真1)その漢字の一番目にあった「善記」の二文字(写真2の囲み内)に私の目は釘付けになった。
佃收氏講演会で
昨年十二月、菊水史談会は佃收氏(玉名市出身、越谷市在住)を講師に招いて「江田船山古墳の主はだれだ」と題した講演会を主催した。佃氏は「古代、日本にはヤマト政権以前に、伊都国、邪馬壹国、狗奴国、熊襲国、貴国、筑紫王権、物部王権、阿毎王権、豊王権、雀部王権、上宮王権、天武王権という勢力の盛衰を繰り返した歴史があり、これらを総称して九州王朝と言っている。和水町の江田船山古墳の主ムリテは、この筑紫王権の一角を占める人物である」。そして「西は現在の朝鮮半島の一部から、東は関東地方までを、史上初めて征服した筑紫王権の武(ワカタケル)がその権威と支配力を誇示するために日本で初めての年号を制定した。その最初の年号が「善記」(西暦五二二年)である。しかし、古代史学会では九州王朝の存在を無視されている」と、佃氏は独自の説を詳しく講演されたのである。
その「善記」の二文字が四段目の最初にあったのだ。下から三段目の後の方の文字は「宝暦」「明和」「安永」「天明」(最下段と下から二段目は枠だけで、文字は書き入れてない。写真1参照)と、明らかに江戸時代後期の年号。上から六段目の左寄りには「大化」の文字。この一覧表はひょっとして「大化」以前を含む古代から江戸時代後期までの全年号の一覧表ではないのか! たった一か月前の十二月に開催した講演会で聴いた「善記」という年号が、まさか自分の目の前に現れるとは思いもよらなかっただけに、大きな衝撃と興奮が押し寄せてきた。
気持ちが落ち着いてから、分かる範囲で調べてみたら、次のようなことが分かった。
千二百六十年分の年号
和紙の広さは縦三十五・六センチ、横五十一・六センチ。右側にだけ余白をとった上で、縦・横に罫線が引いてあって、罫線で囲まれる枠数は横が三十、縦が二十六。最上段の欄には右から「鐘」「行燈」「池」…とある。意味は全く分からない。二段目には「金 火 水 土 木」の五文字が順不同で繰り返し書き込まれていて「日」と「月」はない。これはいわゆる「もっかどごんすい(木火土金水)」の五行占い(五曜)であろう。
その下の三段目には、一マスに縦に二列ずつ分かち書きがしてある。「壬寅 癸卯」「甲辰 乙己」「丙午 丁未」と続いているから、これは干支(十干=甲乙丙丁戊己庚辛壬癸。十二支=子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の組み合わせであることはすぐ分かった。
三十の枠に二つずつだから横一列(段)に六十の分かち書きである。干支は六十年で元に戻る(本卦還り)から、この枠を使えば下の段にはすべて同じ干支の年が並ぶことになる。これで「干支」で書き分けられた年号一覧表に間違いない、と確信した。
漢数字のある文字列は全部で二十一段。すべての段には写真1、2の通り二文字の漢字に続けて漢数字が、ある年号は二から四まで、ある年号は六まで、十一までなど、埋め尽くされていて、空欄はない。最初の「善記」から文字列最下段末尾の「天明元」まで年数にすれば千二百六十年分(三〇年×二列×二一段)である。佃氏の話では「善記」は西暦五二二年、天明元年は一七八一年。その間の年数は千二百六十年で、ぴったり合う。しかし、はたして信頼できる年号一覧表なのかどうか。
「宝暦四甲戌盃春上浣」
年号一覧表の左端欄外に太く「宝暦四甲戌盃春上浣」と墨書してある(写真1)。この年号一覧表を作成した時期を指すと思われる。宝暦四年は西暦一七五四年で、干支は確かに「甲戌」で合っている。「盃春」は春の初めの意味であり、「上浣」は今の「上旬」を指すらしい。つまり、この年号一覧表は宝暦四年(一七五四)春先に完成した、という添え書きである。
それに続き、一覧表の最下段には宝暦十三年の次に「明和元年」、明和八年の次に「安永元年」、安永九年の次に「天明元年」と、宝暦以降の年号、年数が記入してあり、元号も年数も正しいものである。もっと注意して観察すると、宝暦の「六」以降の漢数字の書体、「安永二」の漢字、(安永)「三」?天明七までの書体は違っていて、三つの筆跡のように見える。これによって、宝暦四年(または五年)につくられていた年号一覧表に、その後天明年間までを書き足した文書であることが、筆跡の違いで明瞭にわかる。宝暦四年は今から二百六十年前、最後の筆を入れた天明元年(一七八一)は二百三十三年前である。
干支の照合
次に、各元号の干支が正しいかどうかで、この表の信憑(しんぴょう)性が多少は分かると思い、「大化」以降の各年号元年の干支が、現在使われている西暦干支対照年表と合っているかどうかを、手元の資料などで調べてみた。
なじみの江戸時代から逆に見ていくと「天明元年=辛丑」「安永元年=壬辰」「明和元年=甲申」「宝暦元年=辛未」で、確かに合う。さらにさかのぼって「慶長元年=丙申」「弘安元年=戊寅」「天暦元年=丁未」「延暦元年=壬戌」「天平元年=己巳」「和銅元年=戊申」「大宝元年=辛丑」、これらもすべて合っている。
だが、今回発見した年号一覧表では「大宝」の前の元号は「大長」で、その前が「大化」となっていて、この一覧表の「大化元年」は西暦六八六年の欄にある。今の日本史資料にはどこにも「大長」という年号はなく、学校で習う「大化元年」は西暦六四五年であって、六八六年ではない。四十年以上も食い違う。そして一覧表には、この「大化」年号の前に二十九の年号と、「大化」の次ぎに見慣れない一つの年号と年数が記されているのである。
「正しい元号」とは
手元の「歴史読本臨時増刊号 万有こよみ百科」(昭和四十八年刊)には「大化という年号の実在についても疑問が持たれるようになってきた」「孝徳天皇の死後長い間、年号を建てられた記録がない」「大化や白雉(註=年号)が実在したと、やみくもに信じることも考えものである」「六世紀末から七世紀初頭のわが国(筆者注=ヤマト朝廷か?)では、年号を使用するまでに至っていなかったことは、年号の永続的な開始がそれ(筆者注=大化、白雉)よりさらに半世紀後であったことをみれば理解されるであろう」(159ページ、160ページほか)とあって、教科書に出ている大化前後の年号や期間は、あくまで一つの考え方であると強調してある。
それなら、江戸時代中期に書写されたであろう今回発見の古代年号が、いまの学校教科書(正史?)の年号一覧表と違っていても、決しておかしくない。学校教科書にいう「大化年号が初めての年号である」という記述は、真実とは言い難いのではないか。
「九州年号」比較表
さらに調べると、年号には「私年号」「異年号」と呼ばれる、教科書(正史?)以外の年号があること、さらに大化以前には九州北部を主勢力とした王朝が制定したとされる「九州年号」があって、それを詳しく調べている在野の研究者が九州を中心に全国にいることや、九州年号に関するウェブサイトがあることを知った。
そこで、最古の「善記」から「大化」直後まで三十の「九州年号」を西暦年表に落とし込み、手に入った二点の資料(A=ウェブサイト「九州年号」古賀達也氏調査、B=上記歴史読本別冊「万有こよみ百科」)と比べてみたのが表1である。
結論からいうと、今回見つかった年号一覧表には明らかな誤記(五三六年の「告貴」。五九四年に同一年号があって、五九四年が他の二つと合う)や、漢字のわずかな違い、西暦年の違いなどはあるものの、ほぼ他の「九州年号」と一致する。
この一覧表をもとに、在野の研究者たちと情報を交換し合えば、正史が認めない「九州年号」に関する研究がさらに進むのではないか。あるいは「九州年号などなかった」と断定する日本正史?に風穴を開けることができるのではないか。そのような興奮も湧いてくる。
浮かび上がる疑問
いずれにしても九州年号の最初の「善記」は、日本史で学ぶ最初の年号「大化」元年(六四五年)より百二十三年前の年号で、それが江戸時代に知られていたことになる。
「これは大変な古文書ではないか、大変な資料ではないか」というのが正直な気持ちである。今後、「善記」という九州年号と同時代の江田船山古墳(この古文書が残されていた熊本県玉名郡和水町前原は、菊池川流域の集落であり、江田船山古墳から直線で二??しか離れていない)をからめて、何とか地域おこしに生かしたいと夢はふくらんでいるが、次のように問題点も数多い。
1、庄屋家に残された古文書と一緒に見つかったのは間違いないが、どこの誰が作成した年号一覧表かは分からない。どうすれば制作者を特定できるか。
2、宝暦年間につくられた年号一覧表に、なぜ「大化」以前の古い年号が書写されているのか。古代の年号と期間をどのようにして知った(情報を手に入れた)のか。
3、大化以前の年号は、九州地方だけ(古代九州王朝の範囲?)で知られていたのか。全国的にも知られていたのか。
4、内田手永前原村の庄屋が作成したとして、なぜ千二百六十年間分もの年号表を当時の庄屋が必要としたのか。
5、前原村の庄屋が作成したとして、同様の一覧表を他の手永、惣庄屋もつくったのか、他の藩でも農村部ではつくったのか。どこかで見つかったことはないか。
6、最上段の「鐘」「行燈」「池」と二段目の金、火、水など「五曜」は、納音(なっちん)占いの文字に使われていると、ある在野研究者から教示を得たが、「善記」というはるか大昔の時代のことを、江戸時代に占う必要がなぜあったのか。また、当時の庄屋は何を占ったのか。
残された楽しみ
7,6に関係するが、今回発見した年号一覧表と一緒に出てきた古文書に「薬業」関連の古文書が数点見つかっている。仮に健康などの吉凶を占ったのであれば、前原村を含む玉名地方が製薬や売薬業が盛んだったことと関係しているのではないか。玉名地方の売薬(家庭配置薬)は、十八世紀初頭から代々医業を営んだ松村大成の先祖が背景にあるという。薬業と納音占いとの結びつきにも興味が湧いてくる。
このように疑問は増え、調べる範囲も広がる。皆さんのご教示を待ちたい。一方、所属する菊水史談会の「古文書の会」有志に相談して、今回預かった古文書群を「前原村庄屋石原家文書」と名づけ、目録づくりも始めた。もしかして「九州年号」に結びつく文書も含まれているかもしれない。何が飛び出すか、これからの目録づくりと解読作業が楽しみである。
『歴史玉名』第六八号より転載


これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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