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『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房
2010年12月刊行 古代史コレクション6

第四章 帯方の東南大海の中に在り

古田武彦

一 帯方の東南

帯方の地

 帯方という言葉は、案外わかりにくくて、いつからはじまったのかよくわからないのですが、諸橋の『大漢和辞典』では、
  郡名。後漢の末、置く。漢の帯方県の地。帯方を以て名づける。今、朝鮮平安南道平壌府の南。帯水は今の漢江。

 とあります。また『遼東志略りょうとうしりゃく』には、
  古帯方国、漢末、曹操郡を置く。遼東の東に在り、平州に属す。括地志に云う、帯方の故城、楽浪界に在り。

と書かれています。ほかにも公孫氏がこれを置いたという記事もありますが、これは『遼東志略』の記事と矛盾しないと思われます。というのは、公孫氏は、漢の地方大名みたいなもので、その漢の天子の下に臣下ナンバーワンとして曹操(そうそう)がいたわけです。だからその曹操が置いたといっても、大義名分的にいえば漢朝が置いたということになります。といっても、時は、後漢王朝が事実上崩壊して各地に内乱が起こりつつあった時期ですから、大義名分も乱れていたと思われるのですが、筋道からすれば、漢の末期に楽浪郡の中の一つの県であった帯方県が分郡されて帯方郡になった。そしてその分郡に関しては、都では曹操の意思が働いており、現地そのものは遼東太守であった公孫氏が支配したということです。それが、『遼東志略』の読者には、後漢の天子が分郡を命じたという形になっているわけです。つまり後漢の終わりに(何年かわからない)楽浪郡から帯方郡が分れた。場所は、現在のソウル(京城)近辺だろうといわれていますが、はっきりした証拠はありません。
 ただ帯方という言葉は、高句麗の好太王碑の中に「倭不軌侵入帯方界」として出てきます。この文章からすると帯方郡を誰が握るかが、高句麗と倭の争点だったということがうかがえます。というのは、三一六年西晋は新興匈奴の侵入によって滅亡しました。その結果、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡の支配が、実質上空洞になってしまったのです。そこで北の高句麗、南の倭国、または百済・新羅という国々がこの東アジアの戦国時代に、その目標としたのが空白の楽浪郡、空白の帯方郡であったわけです。そういう背景で見ると「倭不軌(ルールに反すること)にして」といっているのは、高句麗側の主張であって、「われわれ(高句麗)が支配すべき帯方郡に倭が入って来た」ということになります。
 そしてまた、帯方という言葉が出ている[土専](せん 瓦)が出土しました。図2(右側が原物、左側にその銘文)に「使君帯方太守張撫夷」という名前がみられ、帯方郡の太守であった張撫夷の墓であることがわかります。
     [土専](せん)は、JIS第3水準ユニコード587Cの異体字。

[土専](せん 瓦) 倭人伝を徹底して読む 古田武彦

 帯方郡は、それまでソウル付近といわれていましたが、瓦が出てきたのは沙院、もしくは沙里院で、ソウルよりはるかに西北の地です。この出土によって、沙里院あたりが帯方郡の中心地ではないかという意見も出てきています。わたしも帯方の地はソウル付近としながら、それは狭い意味ではないという注記をしていましたが、よく考えてみると、沙里院に帯方太守の墓があったといっても、必ずしもそこが帯方郡の中心の都であったということにはならないということに気がつきました。なぜかというと、「漁陽張撫夷」(漁陽の張撫夷)と書かれており、張撫夷は漁陽郡の出身だからです。漁陽というのは、北京のすぐ北です。すると張撫夷がたとえ遠く、帯方郡にあっても、その故郷をしのんで“漁陽を海の彼方に望む位置”にその墓を築いたという可能性もあります。
 わたしの父親が広島市の郊外に墓をつくったとき、やはり四国が見える位置を探してつくりました。というのも自分の郷里が土佐で、広島から土佐は見えるはずはないのですが、土佐の方角が見えるところにつくりたいという気持ちが働いたのです。案外、人間にはこういった心理があるものです。とすると、沙里院につくったというのは、海の彼方に漁陽を望めるところだったからかもしれません。ですから、ここが帯方郡の中心であるとは必ずしもいえないと考えます。これも実際現地に行って調査しないと確実なことはいえないのですが、一つの課題として挙げることとしておきます。

 

帯方の東南

 「倭人伝」では、「倭人は帯方の東南」といっています。なぜ東南といっているか。これを見るには、このあとに詳しく書かれている倭国の中心邪馬一国に至る里程と方角を見る必要があります。

  (1) 韓国を歴るに、乍たちまち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪韓国こやかんこくに到る。

 ここでは方角として南と東が出てきます。これはまたあとで問題にしますが、南へ進んだかと思うとまた東へ行く、東へ進んだかと思うとまた南に行くという動作を反復していくことを、「乍ち南し、乍ち東し」と書き表わしています。

  (2) (対海国)南北に市糴してきす。

 交易をする場合に、南北にしている、ということです。つまり北の端っこに狗邪韓国があり、南の端っこに末盧まつろ国がある。その間の海中に対海たいかい国、一大いちだい国が存在する。これを南北の通路と見て、その南北の交易線上に対海国が位置していることをいっています。

 (3) (一大国)亦、南北に市糴してきす。

 これも(2)と同じく、狗邪韓国から末盧国に至る南北の一大交易路の線上に、一大国が位置していることをいっています。この(2)と(3)の表現から、狗邪韓国から末盧国に至る通路というのは、魏の使者がたまたま通った冒険路ではなく、韓国から倭国の間では大変有名な中心の道路であることがわかります。

  (4) (末盧国→伊都国)東南陸行

 これも八分法で東南という表現が出ています。

  (5) 《伊都国→奴国》東南

 これもあとで論ずることになりますが、これをわたしは傍線行程と呼び、倭の使が進んだメイン通路に対して、途中から分かれて東南へ百里行くと奴国があるといっているもので、二重カッコにして区別しました。こうした表現は二回出てきます(投馬国)。本来の方角には関係ないが、方向として東南です。

  (6) (伊都国→不弥国)
     東行中心行路の東です。

  (7) (不弥国→投馬国)
     傍線行路で南。

  (8) (不弥国→邪馬一国)南

 これもまたのちに論じますが、不弥国は邪馬一国の玄関と考えられるところで、ここでも南です。
 この(1)から(8)までを合わせてみると南・東・(南北)・(南北)・東南・東・南となっていて、この主線行程は、結局「東南」になります。南北という言葉も出てきますが、これは北から南へ、つまり北の帯方郡から南の倭国へですから、方角としては南だけが生きることになり、結局「東南にある」ということになってくるのです。これは非常に大事なことです。後に出てくる里程問題を考える場合に、このことが非常に重要な意味をもってきます。従来は部分の里程を足して総里程にならなくてもかまわないという態度でした。しかしそれはおかしい。やはり倭人伝は、部分の方向を総まとめにして全体(総合)方向を見るという姿勢で書かれていると見て正しいとわたしは思いますから、同じく里程の場合も、部分の里程を足したらおのずから全里程一万二千里にならなければおかしいはずです。

 

 二 大海

『尚書」にみる海/海を知っていたか/四海と海隅/粛慎と日本の交流は

 

 三 今使訳所通三十国

使訳/通ずる関係/大夏之属に通ずる/差錯問題/卑弥呼は三十国の代表/三十国の国名/狗奴国と倭国の対立

 

 四 「狗邪韓国、倭地」論

倭地五千里/任那日本府の問題

 


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