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古田武彦
倭人伝の中には三十国の名前が出てきます。
その三十国というのは、一体何を意味しているのかという問題を考えてみたいと思いますが、しかしこれを考えるにあたっては、倭人伝だけ見ていては理解できない。もっと広く『三国志』全体、さらに『史記』『漢書』など他の世界まで目を転じていかなければ理解できない。そこでまず手がかりに、倭人伝に出てくる固有名詞を抜き出してみました。
倭人・倭・韓国・狗邪韓国・対海国・卑狗・卑奴母離・瀚海・一大国・末盧国・伊都国・爾支・泄謨觚・柄渠觚・奴国・[凹/儿]馬觚・不弥国・多模・投馬国・弥弥・弥弥那利・邪馬壹国・伊支馬・弥馬升・弥馬獲支・奴佳[革是]・「斯馬国・巳(已)百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・鳥奴国・奴国」・狗奴国・狗古智卑狗・憺*耳・朱崖・伊都国・侏儒国・裸国・黒歯国・難升米・卑弥呼・都市牛利・牛利・伊声耆・掖邪狗・卑弥弓呼・倭載・斯鳥越(載斯・烏越)・壹与
[凹/儿]は、凹の下に儿JIS第3水準ユニコード5155
[革是]は、JIS第3水準ユニコード97AE
憺*は、立心偏の代わりに人偏。JIS第3水準ユニコード510B
次に「倭」の付く固有名詞は以下のようになります。
倭人・倭・倭水人・使大倭・倭国・倭種・倭女王・親魏倭王・倭王・倭難升米・倭女王・倭載(前出)・倭大夫
次に『三国志」(魏志)帝紀の夷蛮固有名詞を挙げると、
於夫羅(南単于ぜんうの子)・鮮于輔(せんうほ 漁郡の壙*平)・榻*頓(たふとん 遼西の単于)・楼班(同上)・能臣抵之(右北平単于)・速僕丸(遼東単于)・普富盧(代郡の烏丸の行単于)・那楼(上郡の烏丸行単于)・千萬(氏王)・氏・羌・胡・呼廚泉(匈奴の南単于)・去卑(右賢王) (武帝紀、第一)
楊僕(武都氏王)・呼廚泉(前出)・善*善・亀茲きじ・于[門/眞]うてん・西戎(文帝紀、第二)
波調(大月氏王=親魏大月氏王)・調(同上)・軻比能(鮮卑附義王)・丁零(鮮卑辺の地名か)・児禅(丁零の大人)・歩度根(鮮卑の大人)・比能(前出)・胡薄居姿職(匈奴の大人)・戴胡阿狼泥(歩度根の部落の大人)・宮(高句驪王)(明帝紀、第三)
榻*頓(たふとん)の榻*は、木偏の代わりに足偏。JIS第4水準ユニコード8E4B
善*は、善に邑 (おおさと) 編。JIS第3水準ユニコード912F
[門/眞]は、門の中に眞。JIS第3水準ユニコード95D0
壙*は、土編の代わりに獣偏。JIS第4水準ユニコード7377
「宮」に見られるように、三世紀の中国周辺の夷蛮は、民族名称のまま名乗るケースと、中国語の一字名称で名乗るケースの混用の時代で、倭人伝もそうではないかという問題が出てきます。
そして、次が倭国の名前が最初に出てくるところです。
倭国・俾弥呼(倭国女王)・高句驪・康居・大宛 (三少帝紀、第四)
この事実もはじめから読んでいけばわかりきったことですが、考えてみれば重要なことです。倭人伝は、魏志の最後の章です。ですから中国の読者は、倭人伝を読むときには既に三少帝紀を読んでいるということになります。当然、倭人は、倭国の人という意味に受け取るはずです。これは、韓伝で韓人とか韓国という言葉も出てきますが、韓人といえば当然韓国の人のことと理解するのと同様です。それを第三章でのべたように松本清張氏は倭人と倭国とは全然別だとおっしゃっている。そうした議論は、最初から読んでいけば、失礼ですが、とても出てくる考え方ではないのです。
次は『三国志』夷蛮伝の固有名詞です。
儼*允*(けんいん 周代の北狄の名。秦・漢には匈奴)・匈奴・両越・朝鮮・貳師・大宛・邱*乍*こうさく・夜郎・胡・呼廚泉(南単于)・烏丸・鮮卑・榻*頓・冒頓・軻比能・東胡 (鳥丸・鮮卑伝序文)
烏丸・丘力居(烏丸の大人)・難楼(鳥丸の大人)・蘇僕延(鳥丸の大人)・峭王(蘇僕延の自称)・烏延(鳥丸の大人)・汗魯王(烏延の自称)・楼班(丘力居の子)・榻*頓・鮮卑・速附丸(鳥丸の大人か) (鳥丸伝)
鮮卑・歩度根・扶羅韓・軻比能・能臣氏(代郡の烏丸)・泄帰泥(扶羅韓の子)・比能・帰泥・修武盧(代郡の鳥丸)・素利(東部鮮卑の大人)・瑣奴(比能の別小帥)・壇石槐(鮮卑の故王)・鬱築[革建](比能の女壻)・蒲頭(西部の鮮卑)・楼煩(地名)・弥加(鮮卑の大人)・厥機(同上)・沙末汗(厥機の子)・成律帰(素利の弟) 〈鮮卑伝〉
儼*允*(けんいん)の儼*は人偏の代わりに獣偏。允*は、獣偏に允。
邱*乍*(こうさく)の邱*は、丘の代わりにエ。JIS第3水準ユニコード909B。乍*は、草冠に乍。
「厥機」というのは、わたしの論証の手がかりになった人物で、『三国志』の前に書かれた『魏書』(魏・西晋の王沈の著。全体は残っていないが、一部引用されたものだけ残っている)の中に、同じ人物が「闕機」という字で表わされています。ところがそれを陳寿は「厥機」に変えた。というのもこれは音自身は変わりありませんが、意味に問題があったからです。つまり「闕」というのは、漢代にはもっぱら宮殿の門、さらには天子それ自身を呼ぶいい方でした。三国時代でも少数ではあるが使われています。このため陳寿は、この字を夷蛮の固有名詞に使うのを避けて「厥」という字に変えたわけです。これは、さらに魏・西晋の時代には「臺」と呼ばれ、倭人伝の中にも天子にいたることを、「臺に詣る」と書いてあります。すると、前の時代に天子を指すのに使われた「閾」という字をも避けていた陳寿が、三国時代にもっぱら天子を指すのに使われていた「臺」という字を、夷蛮に使うはずがない。邪馬臺国などと書くはずはありえないのです。そういう論証を得たのが、この「厥機」です。
夷蛮伝の固有名詞を続いて挙げます。
粛慎・西域・・亀茲きじ・于眞*うてん・西戎・康居・鳥孫・疎勒・月氏・善*善・車師・鳥丸・骨都・沃沮 〈東夷伝序文〉
眞*は、ウ冠に眞。JIS第3水準ユニコード5BD8
善*は、善に邑(おおさと)編。JIS第3水準ユニコード912F
夫余・高句麗・[才邑]婁・鮮卑・馬加・牛加・猪加・狗加・大使・大使者・使者・匈奴・尉仇台(夫余王)・句麗・簡位居(夫余王)・麻余(簡位居のゲツ*子、夫余王)・位居・大加・依慮(麻余の子、夫余王)・穢*・穢*貊わいはく 〈夫余伝〉
[才邑]手偏に邑。JIS第3水準ユニコード6339
ゲツ*は、JIS第3水準ユニコード5B7D
穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA
高句麗・朝鮮・穢*貊・沃沮・夫余・丸都(高句麗の都)・相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・[白/十]衣先人・涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部・胡・[巾責]溝婁*・溝婁*・大加・古雛・桴京(高句麗の小倉)・東盟(高句麗の大会)・壻屋(女の家が大屋の後に作る小屋)・跪拝(壻が暮れてより、女の家の戸外に至ること)・沃沮・東穢*・小水貊・句麗・貊・[馬芻](とう 句麗侯)・下句麗(高句麗の別称。新の王莽による)・宮(句麗王)・伯固(宮の子)・優居(高句麗の大加)・然人(高句麗の主簿)・抜奇(伯固の長子)・伊夷模(伯固の小子)・沸流水・句麗国・駮位居(古雛加)・位宮(伊夷模の子)・位(「相似」をいう)・宮(位宮。第二代の宮)・涓奴 〈高句麗伝〉
[白/十]JIS第3水準ユニコード7681
[巾責]JIS第3水準ユニコード5E58
婁*は、三水偏に婁。JIS第4水準ユニコード6F0A
[馬芻]は、JIS第4水準ユニコード9A36
この中で面白いのは「跪拝」という言い方です。これは、どう見ても中国語で、中国語を高句麗では民族的な風習の表現にまで使っている。中国化が進んでいたことがうかがえます。
東沃沮よくそ・高句麗・蓋馬大山・[才邑]婁ゆうろう・夫余・穢*貊わいはく・句麗・沃沮・単単大領・不耐城・不耐・華麗・不耐穢*侯・功曹・主簿・穢*・三老(沃沮の諸邑落の渠帥)・句麗・使者・使大加(従来は「大加」をして ーーせしむ」と訓す)・宮(句麗王)・北沃沮・南沃沮 〈東沃沮伝〉
[才邑]婁・夫余・北沃沮・句麗・粛愼氏 〈[才邑]婁伝〉
穢*・辰韓・高句麗・沃沮・朝鮮・侯・邑君(あるいは「侯邑君」)・三老・句麗・単単大山領・不耐穢*・領東穢*・朝鮮侯・不耐穢*・不耐穢*王 〈穢*伝〉
次は韓伝に入りますが、これにはたくさん出てきます。(読みは、一応の、仮りの読み。以下、同じです)。
韓・倭・馬韓・辰韓・弁韓・辰国・臣智・邑借ゆうしゃく・爰襄えんじょう国・牟水むすい国 ・桑外国・小石索さく国・大石索国・優休牟豕*たく国・臣濆ふん沽 国・伯済はくさい国・速盧不斯国・日華国・古誕者国・古離国・怒藍どらん国・月支国・咨離牟盧しりむろ国・素謂乾国そいけん・古爰国こえん・莫盧もろ国・卑離国・占離卑国・臣釁しんきん国・支侵国・狗盧ころ国・卑弥ひみ国・監奚かんけい卑離国・古蒲こほ国・致利鞠国ちりきく・冉路ねんろ国・児林国・[馬四]盧しろ 国・内卑離国・感奚国・万盧国・辟卑離きひり国・臼斯鳥旦ぐしうたん国・一離国・不弥国・支半国・狗素国・捷盧しょうろ国・牟盧卑離国・臣蘇塗しんそと国・莫盧もろ国・古臘ころう国・臨素半国・臣雲新国・如来卑離にょらいひり国・楚山塗卑離国・一難国・狗奚国・不雲国・不斯濆邪ふしふんや国・奚池けいち国・乾馬国・楚離国
豕*は、三水偏に豕。JIS第3水準ユニコード6DBF
この中で「伯済国」は、「百済」のもとの国名で、四世紀以降になってかなりの国土を領有する百済に発展します。
また注目すべきことは、同じ名前の国名が二度出てきていることです。たとえば莫盧国がそうですが、これは一体何か、この二回出現の持つ意義については第三節の「馬延国」問題でふれることにします。
人名や官名では、
辰王・魏率善・邑君・帰義侯・中郎将・都尉・伯長・侯準(王を僣号す)・衛満(燕の亡人)・穢*・韓国・天君(天神の名)・蘇塗(別邑の名)・州胡・鮮卑・邦(=国)・弧(=弓)・冠(=賊)・行觴(=行酒)・徒(=皆)・阿残(=楽浪人)・阿(=我)・秦韓・弁辰・臣智(前出)・険側・樊穢*・殺奚・邑借
ここで注目されるのは、まず魏率善です。三世紀の魏という国名が官名に使われています。さらには、帰義侯(中国の天子に服従するという意)・中郎将・都尉といった中国の官名が、馬韓の官名になっています。
なおわたしは、文字の音読についてはタブー視してきていましたが、最近は少し変わってきて、三世紀の読みと、いまわれわれが漢和辞典で使っている読みとは、かなり近いのではないか、という印象を持つようになってきました。これについての論証は『古代は輝いていた』I (朝日新聞社、一九八四年)でのべていますが、理由は、三世紀に韓人が中国では滅びたような、「行觴」「徒」といった古い言葉を使っているのと同じように、日本でも中国ではすでに滅び去ったような、古い音を保存している、という面があることです。そう考えると弥生時代もそう遠くはない、という気がしてきます。
次にまた国名が並んでいて、
巳(已)柢み(い)てい国・不斯ふし国・弁辰弥離弥凍べんしんみりみとう国・弁辰接塗せつと国・勤耆きんき 国・難弥離弥凍なんみりみとう国・弁辰古資弥凍ベんしんこしみとう国・弁辰古淳是べんしんこじゅんぜ国・冉奚ぜんけい国・弁辰半路べんしんはんろ国・弁楽奴べんらくぬ国・軍弥ぐんみ国・弁軍弥べんぐんみ国・弁辰弥烏邪馬べんしんみうやま国・如湛によたん国・弁辰甘路国・戸路国・州鮮国・馬延国・弁辰狗邪国・弁辰走漕馬国・弁辰安邪国・馬延国・弁辰賣*盧べんしんとくろ国・斯盧しろ国〔優中国〕・辰王・賣*盧国・弁・辰韓・辰[巾責]沾韓(人名)
[巾責]は、JIS第三水準、ユニコード5E58
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
以上が、帝紀と夷蛮伝に現われた夷蛮の固有名詞です。
さて、これから何が考えられるかとなるのですが、ここで「倭人」に関しての記事をもう一度ふり返ってみましょう。まず帝紀(三少帝紀)に、
(1) (正始四年)冬十二月、倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す。
と出てきます。また韓伝にも、
(2) (韓)南、倭と接す。
とあり、当然、帝紀の記述と同じ、その倭国と、国境で接しているという意味です。
(3) 建安中(一九六〜二二〇)、公孫康、屯有県以南の荒地を以て帯方郡と為す。公孫模・張敞等を遣わして遺民を収集す。兵を興して韓・穢*を伐ち、旧民梢やや出ず。是の後、倭・韓遂に帯方に属す。
帯方郡に倭と韓が属するようになった契機が書いてあります。
(4) 国に鉄を出す。韓・穢*・倭、皆従いて之を取る。諸市買、皆鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。
ここまでは、これまでわたしは何回も引用し、卑弥呼の倭国は鉄本位制であった、鉄が貨幣のようにして使われていたと、鉄本位制の三世紀、鉄本位制の倭人伝という形で理論を展開してきましたが、ところが抜かしてしまったことに次の文章があります。
又以て二郡(楽浪郡・帯方郡)に供給す。
ここでは、中国側が韓地に関心をもった、重要な理由が、鉄の問題にあった、というキイをなすテーマが露出しているのです(拙稿「アイアン・ロード(鉄の道)」『よみがえる卑弥呼』所収、駸々堂出版、一九八七年/朝日文庫版、一九九二年、参照)。
(5) 今辰韓人、皆褊*頭、男女、倭に近し、亦文身す。
辰韓人は倭に非常に風俗が近い。倭人と同じく文身(入れ墨)をしている。
褊*は、褊の異体字。
(6) (弁辰)其の賣*盧国、倭と界を接す。
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
弁辰賣*盧国と倭は国境で接している。
明白に「倭地」が朝鮮半島内にあったことをしめしています。このことは、倭人伝を考察する場合に非常に大切になることです。こうした六例を背景に倭人伝ははじまっています。
ここで倭を論ずる上で落としていた史料を紹介します。それは「九夷」という問題です。
これは、『爾雅じが』という本の中に出てくるのですが、爾雅というのは十三経の一つで、周公の著作説、孔子の門人の著作説(漢の揚雄の「方言」、あるいは梁の劉キョウ*(りゅうきょうの練字篇)、漢人の著作説(欧陽修は秦・漢の学者説、宋の葉夢得は漢人説)などいろいろな説があり、『詩経』の言葉を主とし、毛詩の説によるとされています。したがって、漢代の著作との説もありますが、もとは周代のもので、それがプラスアルファされ、その上で現存のものは漢代に完成したのではないか、と思われます。
その『爾雅』の中に、釈地・九夷というところがあります。その注に李巡という人が出てくる。李巡は、後漢の汝陽の人で、霊帝(一六八〜一八九)のとき、中常侍となり、五経文を石に刻した(『後漢書』)ことで有名な人物です。この李巡が、九夷の内容を説明しています。
一玄菟、二楽浪、三高麗、四満飾、五鳧更ふこう、六索家、七東屠と、八倭人、九天鄙てんぴ
わたしは、この最後の七、八、九あたりが日本列島を息味し、倭人が博多、東屠が近畿、天鄙が沖縄あたりではないだろうかと思いめぐらしながら長らく課題としてきました。ところが一九八二年隠岐島へ行って、手がかりらしきものをつかんだのです。隠岐島は島前と島後に分かれており、島前は西の島・中の島・知夫里(ちぶり)島の三島から成っています。そのうち中の島の海士(あま)村(現在海士町)が天国(あまくに)の原点ではないだろうかと思って確かめに行きました。そこの郷土資料館館長の波多總一さんが、一○年ぐらい前に海士村の小字を全部調べたことがある、というので、それを見せていただきました。そしてその中に、“天日”という字を見つけたのです。これは「あまひ」ですかと聞くと、いや「てんぴ」ですと言われました。「ええっ」とわたしは驚きました。というのは、先ほどの李巡の「天鄙てんぴ」に長らく悩んできたのが、意外や意外、出雲の隠岐島の海士村に同音の「天日てんぴ」があったからです。もちろんこれがそうだという決定はできないけれども、はじめて手がかりらしきものを目にした、という感じでした。
劉キョウ*(りゅうきょう)キョウ*は、JIS第3水準ユニコード52FD
前にものべたことがありますが、倭人というのは元来「ゐ」人という読み方をします。「ゐ」の音を中国人が「委」という字で表わし、それに「にんべん」を付けたものと思われます。日本語で「ゐ」といえば恐らく「井」でしょう。福岡県に有名な井原遺跡があるし、または春日市の近くに井尻遺跡があって、どちらも原という接尾辞(地形、または集落を指すか)と「尻」という、端っこといった意味の接尾辞を「井」という字に加えたものです。ですから、「ゐ」は、こうした博多湾岸に多い「井」という地名の発音が背景になったのではあるまいかと内心思っていたのです。ところが今度隠岐島で「天日」という名にぶつかってしまった。すると、「ゐ」は、弥生時代の博多湾よりもっと古い話ではないか。事実『爾雅』などが引用されており、周代のにおいが強い。李巡は後漢の人だけれども、この「九夷」が後漢時代の話かどうかはわからないし、むしろそうではないのではないか、という感じがします。
なぜかといえば、後漢代の話なら『後漢書』などを見れば大体見当がつくはずなのに、『後漢書』にない言葉が出てくる。五の「鳧更」や六の「索家」、七の「東屠」などは朝鮮半島では出てこない。しかしこれは実在したものと思われ、空想の作品とは考えられない。したがって『後漢書』などよりもっと古い段階の名前、それも「小字名」的な小さな地名ではないか、と思われるのです。だからここに出てくる楽浪や高麗も東アジアに威勢をはせた大楽浪郡ではなくて、大楽浪郡の言葉のもとになった、小さな「小字楽浪」といったものではなかったか。「高麗」も好太王が国を広げた「大高句麗」ではなくて、その名前のもとになった、小さな地名ではないかと思われます。ともあれ、由緒の古い地名であることには変わりありませんが。そうなるとこれは、周代あたりの地名ではないかということになります。最後の日本列島らしきところも、いわゆる「弥生以後」の話ではなく、むしろ周代あたりの日本列島の地名か氏族名ではないかというふうに考えられるようになってきました。
また、対馬の浅茅湾の北岸に和多都美神社という有名な神社があって、そこに「天の真名井」という井戸があります。ここは『記』『紀」の山幸・彦海幸彦の伝説の地で、山幸彦が兄さんの海幸彦から借りた釣り針を失い、それを探しに尋ね尋ねて天の真名井のところへ行き、思いあぐねていると、竜宮城の乙姫の使が声をかけてくれて、竜宮城に連れていかれ、そこで歓待され、針も見つかる、といった話の舞台です。いまは枯葉が浮き、カエルの住処になっている小さな井戸で、ここが本当の「天の真名井」であるかどうか確認はできませんが、少なくともこの井戸は、浅茅湾では“有名な井戸”だったのではないかと思われます。というのは、海人族にとって寄港には湾形の土地も大事だけれども、“飲み水がある”ということが必須で、彼等の活動に欠かせないものだったからです。そういう意味で井戸というのはまことに大事であった。しかも浅茅湾は、壱岐・対馬の中でも屈指の大きな湾です。 とすると、真名井の「井」が、倭人の「倭ゐ」の原点になった、という考え方もありうるのではないか。弥生権力発展の原点になった博多湾岸にも井戸はたくさんあるが、やはり海人族の壱岐・対馬における拠点であった浅茅湾の「天の真名井」は、その代表の一として欠くことができない。この天の真名井の「井」を中国側が倭国の「倭」と表わすようになったか、と考えてみてもいいように思います。
とすると、先ほどの隠岐の「天日てんぴ」とバランスがとれる。そして弥生の代表地名であるというよりも、むしろ縄文期における“海人族の二つの拠点”を表わした地名ではなかろうかと考えられるのです。
そうすると、「東屠」というのは、必ずしも日本列島である必要はないわけです。「東屠」は朝鮮半島側で、あとの「倭人」「天鄙」の二つが日本列島側である。しかも日本列島側の中でも海人族の二つの拠点に住む人が「倭人」「天鄙」と表わされたと考えると、落ち着く感じがします。むろん玄菟・楽浪・高麗ははっきりしているので、その他の満飾・鳧更・索家・東屠といった地名を朝鮮半島あたりに探すことができれば、なおさらはっきりしますが、とにかくこの九つは、周代の地名、氏族名ではないだろうかと、わたしは考えています。
これに対して一般的な九夷は、『後漢書』東夷伝に、
夷に九種あり。曰く「[田犬]夷けんい・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷。故に孔子、九夷に居らんと欲せしなり」と。
[田犬]夷(けんい)の[田犬]は、JIS第4水準ユニコード754E
と書かれています。普通「九夷」はこれが引用されますが、どうも抽象的で、実在の地名や氏族名というよりも、中国の方位観的な立場に立って、“理念”“観念”から導き出された名前のようにわたしには見えます。
その原拠として、『礼記』明堂位に「九夷之国」と出ています。九夷の国といっている以上、周代の人が九夷という言葉を使ったことは確かで、九夷の実体を知って使ったにちがいない。その実体を知らずに使う、とは思われない。そしてその実体とは、李巡のいう九夷と『後漢書』の九夷とがあり、わたしの感じでは具体的な李巡の方が本来のものではないかど思います。
また、『書経』旅[敖/犬](りょごう)に「遂に道を九夷・八蛮に通ず」とあります。「通ず」というのは、前にふれたように、中国と国交が開かれたということで、当然相手は実在の国、氏族です。とすればこれも『後漢書』がいっているような「抽象的な国」と国交が開かれたのではなく、李巡の注の方が当たっていると思われます。こうした例から見ても周代に「九夷」という概念があったことはまちがいない。
旅[敖/犬](りょごう)の[敖/犬]は、敖の下に犬。JIS第4水準ユニコード7352
そして一番有名なのは『論語』子罕(しかん)の「子(孔子の尊称)、九夷に居らんと欲す」という言葉です。孔子は、九夷という言葉を知っていた。恐らく孔子はこれについて弟子にも語っていたことでしょう。以上が「九夷」問題です。
記された三十の国名/韓伝に現われた国名/倭人伝は韓地陸行なり
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