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『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房
2010年12月刊行 古代史コレクション6

第七章 戸数問題

古田武彦

一 魏の制度としての戸

倭人伝の戸と家

 本章では、倭人伝の戸数問題を取り上げてみたいと思います。倭人伝の中で戸数が出てくるのは、次に挙げるようなところです。

  (1) (狗邪韓国)ナシ
  (2) (対海国)千余戸
  (3) (一大国)三千許家
  (4) (末盧国)四千余戸
  (5) (伊都国)千余戸
  (6) (奴国)二万余戸
  (7) (不弥国)千余家
  (8) (投馬国)五万余戸
  (9) (邪馬一国)七万余戸
  (10)(狗奴国)ナシ
     〈計十四万六千戸と四千家〉

 この中で気になるところは、一大国と不弥国だけが戸でなく“家”になっていることです。これについては、これまでたびたび質問を受けてきたのですが、はっきりわかりません、混用ではないでしょうか、という返事しかできませんでした。というのは、『三国志』全体を見ても両方出ているからです。そしてまた戸という単位が、一体どのくらいの単位であるのかということも答えることのできないテーマでした。
 そこでこれをどの程度まで解くことができるか、改めて今、考えてみたいと思います。

 

落と家と戸

 まず見るのが、鳥丸・鮮卑・東夷伝の戸数と落数と家数です。
  (1) (遼西の鳥丸大人、丘力居)  衆五千余落
  (2) (上谷の鳥丸大人、難楼)   衆九千余落
  (3) (遼東属国の鳥丸大人、蘇僕延)衆千余落
  (4) (右北平の烏丸大人、烏延)  衆八百余落
     (全て 烏丸伝)

 この「落」という表現は、何でもないようですが、考えてみると見逃せない一つの表現です。なぜかというと、倭人伝の場合、中国風に「戸」と表現したのだろうぐらいに思っていたからです。もしそうなら烏丸も「戸」でいいはずで、別に「落」という表現を使わなくてよい。ところが実際は「落」という特殊な表現をしている。ということは、裏返すと、倭人伝の場合もなぜ倭国風の表現にせず、中国風の「戸」という表現にしたのかということです。
  (5) 魏人千余家を遣わして上谷に居らしむ。  (鮮卑伝)
  (6) (夫余)戸八万  (夫余伝)
  (7) (高句麗)戸三万  (高句麗伝)
  (8) (東沃沮)戸五千  (東沃沮伝)
  (9) (悒婁)ナシ(悒婁伝)

 悒婁は書いていません。が、書いていないというのにも意味がある。というのは、わからなかったということです。わかっていたら書かれていたはずで、中国側は“確証のあるものだけ”を書いたのです。

  (10)(穢*)戸二万  (穢*伝)
  (11)(馬韓)大国万余。小国数千。総一余万。  (韓伝)
     穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA

 (11)を見ると大国の場合は家で小国も家、それを合わせると戸になっています。これは一体なぜだろうか。次の(12)もまた同じです。
  (12)(弁・辰韓)大国四五千、小国六七百、総四五万。  (韓伝)

 このように家・家・戸という表現が揃ってとられているということは、これも混用といってしまえば簡単ですが、むしろ「故意」的な表現ではないかと考えられます。

 

魏志の邑と戸

 次は『三国志」帝紀・列伝の戸数と家数です。
  (1) (太后の弟、秉らい)黄初七年、開陽侯かいようこうに封ず。邑千二百戸。  (后妃伝、第五)
  (2) 太和元年三月、中山・魏昌の安城郷、戸千を以て逸(文昭甄皇后〈文帝の后〉の父)に追封す。  (同右)
  (3) 帝、表(文徳郭皇后の従兄)の爵を進じて観津侯と為し、邑五百を増やし、前の千戸に并あわす。  (同右)
 (3) で注目されるのは、「邑五百を増やし、前の千戸に并す」という言い方です。「邑」と「戸」という言葉が、結びつけて使われている。これは、これから何回も出てきます。
  (4) 時に三輔(地名)の民、尚数十万戸。  (董卓伝)
  (5) 安国亭侯に封ず。邑五百戸。  (張燕伝)
  (6) 復、増邑凡そ二千戸。是の時、天下の戸口減耗し、十裁一在、諸将の封、未だ千戸に満たざる者有り、而して繍(張繍)特に多し。  (張繍伝)
  (7) 漢川之民、戸、十万を出づ。財富み、土沃し、四面険固なり。  (張魯伝)
  (8) 太祖、逆に魯(張魯)を鎮南将軍に拝し、待つに客礼を以てす。[門/良]中ろうちゆう侯に封ず。邑万戸。  (同右)
  (9) 邑千八百戸を増封し、前の二千五百戸を并す。  (夏侯惇伝)
     [門/良]は、門の中に良。JIS第3水準ユニコード95AC

 (9) でやはり「邑」と「戸」が相関連し、矛盾しない形で使われていることに注目しておく必要があります。実は、倭人伝にもこのようなことが出ているのです。そしてまた倭入伝の冒頭に「山島に依りて国邑を為す」と「邑」が出てきます。
  (10)惇(夏侯惇)に千戸を分く。  (夏侯惇伝)
  (11)邑二千を増し、前の三千五百戸に并す。  (同右)
  (12)前後の功を以て高陵亭侯、邑三百戸を封ず。  (曹仁伝)
  (13)(野王侯)邑千戸を益し、前の二千一百戸に并す。  (曹洪伝)
  (14)又別に兵を遣わし、江を渡らしめ、賊(呉軍)の営数千家を焼く。(同右)
  (15)邑を増し、前の二千九百戸に并す。(曹真伝)
  (16)初め、文帝、真(曹真)の邑二百戸を分つ。(同右)
  (17)明帝崩じ、斉王即位し、爽(曹爽)を侍中に加え、改めて武安侯に封ず。邑万二千戸。 (曹爽伝)
  (18)六百戸を益封し、前の千九百戸に并す。  (夏侯尚伝)
  (19)又尚(夏侯尚)の戸三百を分く。  (同右)
  (20)尚の従孫、本を封じて冒陵亭侯に封ず。邑三百戸。  (同右)
  (21)復、或*(荀或*)邑千戸を増し、合せて二千戸。  (荀或*伝)
  (22)(魏寿郷侯)邑三百を増し、前の八百戸に并す。又邑二百を分つ。  (荀攸伝)
  (23)旬月之間、襁*負して至る者、千余家。  (涼茂伝)
  (24)百姓之に帰し、数年の間、五千余家に至る。  (田疇伝)
  (25)(疇亭侯)邑五百戸。  (同右)
  (26)疇、尽ことごとく其の家属及び宗人三百余家を将ひきいて業*(ぎよう 魏の都)に居す。 (同右)
  (27)東牟の人、王営、三千余家を衆あつめ、冒陽県を脅して乱を為す。 (何キ*伝)
  (28)(成隅亭侯)邑三百戸。  (徐奕伝)
  (29)(定陵侯)邑五百を増し、前の千八百戸に并す。  (鍾ヨウ*伝)
     襁*は、襁の異体字。ムの代わりに口。
     荀或*の或*は、JIS第3水準ユニコード5F67
     業*は、業に阜偏。JIS第3水準ユニコード9134
     キ*は、JIS第3水準ユニコード8641
     ヨウ*は、JIS第3水準ユニコード7E47
 参考として挙げますと「孫壹、率いる所、口、千に至らず。兵、三百に過ぎず」(鍾毓伝)という記事に、「口」と「兵」という言葉が出てきています。これも注意しておく必要があります。
  (30)(博平侯)邑五百戸を増し、前の千三百戸に并す。  (華[音欠]伝)
  (31)(蘭陵侯)邑五百を増し、前の千二百戸に并す。  (王朗伝)
  (32)(安郷侯)邑三百戸を増し、前の八百戸に并す。  (程[日/立]伝)
  (33)(東亭侯)邑三百戸。  (劉曄伝)
     [日/立]は、日の下に立。JIS第3水準ユニコード6631
     [音欠]は、JIS第3水準ユニコード6B46
 〔参考〕(景初中)済(蒋*済)上疏して曰く「・・・・今十二州有りと雖も、民数に至りては、漢時の一大郡に過ぎず・・・・」と。(蒋*済伝)
 右の〔参考〕は、有名な文章です。十二州(魏の支配下全体)全部を合わせても、その人口は漢の一つの大きな「郡」程度のものでしかないという意味です。戦乱のなかで非常に人口が激減していることをいっています。
      蒋*は、蒋の異体字。JIS第3水準ユニコード8523

  (34)(広陸亭侯)邑三百戸。  (劉馥伝)
  (35)(西郷侯)邑二百を増し、前の四百戸に并す。(張既伝)
  (36)明帝即位し、邑二百戸を増し、前の四百戸に并す。(賈逵伝)
  〔参考〕(太和中)恕(杜恕)乃ち上疏して曰く「・・・・今、大魏、奄おおいて十州の地有り。而しかるに喪乱の弊を承け、其の戸口を計るに、往昔の一州の民に如かず。・・・・」と。(杜恕伝)

 この〔参考〕も似たような例で、戦乱によって漢時代より人口が激減しているということを言っています。
  (37)(豊楽亭侯)邑百戸。(杜恕伝)
  (38)太祖還り、進(楽進)と張遼・李典を留め、合肥(地名)に屯せしむ。邑五百を増し、前の凡そ千二百戸に并す。進の数しばしば功有るを以て五百戸を分つ。  (楽進伝)
  (39)増邑二百戸、前の千二百戸に并す。  (于禁伝)
  (40)追増邑二百戸、前の四百戸に并す。  (李通伝)
  (41)明帝即位し、邑五百を増し、前の三千五百戸に并す。  (臧霸伝)
  (42)邑五百戸を増し、前の千九百戸に并す。(文聘伝)
  (43)(万年亭侯)邑二百を増し、前の六百戸に并す。  (呂虔伝)
  (44)立ててケン*城王と為す。邑二千五百戸。  (陳思王植伝)
  (45)陳(国名)の四県を以て植(入名)を封じて陳王と為す。邑三千五百戸。(同右)
  (46)志(植の子)、累ねて邑を増し、前の九百九十戸に并す。  (済北王志伝)
  (47)食邑二千五百戸。  (哀王炳伝)
  (48)正元・景元中、累ねて邑を増し、前の二千七百戸に并す。  (豊愍王碗*伝)
  (49)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の千九百戸に并す。  (己氏公[王宗]伝)
  (50)(景初元年)県一千戸を削る。 (彭城王拠伝)
  (51)正元・景元中、累ねて邑を増し、前の四千六百戸に并す。  (同右)
  (52)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の五千五百戸に并す。  (燕王宇伝)
  (53)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の四千七百戸に并す。  (沛穆王林伝)
  (54)詔して県二、戸七百五十を削る。  (中山恭王袞伝)
     ケン*は、JIS第3水準ユニコード9104
     碗*は、石の変りに王。JIS第3水準ユニコード742C
     [王宗]は、JIS第3水準ユニコード742E

 (50)(54)では、「県」と「戸」という言葉が出ています。魏の時代は、「国」と「郡」があって、その下に「県」があり、またその下に「邑」や「戸」がありました。これも見逃せないことの一つです。

  (55)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の三千四百戸に并す。  (中山恭王袞伝)
  (56)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の千九百戸に并す。  (済陽懐王[王玄]伝)
  (57)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の千九百戸に并す。  (同右)
  (58)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の四千七百戸に并す。  (陳留恭王峻伝)
  (59)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の三千四百戸に并す。  (范陽閔王矩伝)
  (60)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の五千戸に并す。  (趙王幹伝)
  (61)詔して県三、戸千五百を削る。  (楚王彪伝)
  (62)景元元年、邑を増し、前の二千五百戸に并す。  (同右)
  (63)正元・景元中、累ねて邑を増し、前の千八百戸に并す。  (眉*戴公于整伝)
  (64)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の千九百戸に并す。  (樊安公均伝)
  (65)詔して県一、戸五百を削る。  (東平霊王徽伝)
  (66)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の三千四百戸に并す。  (同右)
     [王玄]は、JIS第4水準ユニコード73B9
     眉*は、眉に阜偏。JIS第4水準ユニコード90FF

 県・戸、邑・戸の例が多々みられます。
  (67)詔して県一、戸五百を削る。  (楽陵王茂伝)
  (68)嘉平・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の五千戸に并す。  (同右)
  (69)景初三年、戸五百を増し、前の三千戸に并す。  (贊哀王協伝)
  (70)正元・景元中、累ねて邑を増し、前の三千五百戸に并す。  (北海悼王スイ*生伝)
  (71)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の六千二百戸に并す。  (東海定王森霖伝)
  (72)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の四千五百戸に并す。  (元城哀王礼伝)
  (73)景初・正元・景元中、累ねて邑を増し、前の四千四百戸に并す。  (邯鄲懐王邑*伝)
  (74)人民流入して荊州に入る者、十万余家。  (衛覬伝)
  (75)邑五百を増し、前の千三百戸に并す。  (陳羣伝)
  (76)羣(陳羣)の戸邑を分つ。  (同右)
  (77)邑二千六百戸を増す。  (陳泰伝)
  (78)爵東郷侯を進ず、邑六百戸。(陳矯伝)
  (79)(容城侯)邑二千三百戸。(盧毓伝)
  (80)(西陵郷侯)邑二百戸。(和洽伝)
  (80)邑三百を増し、前の五百五十戸に并す。(楊俊伝)
  (82)邑千戸を増し、前の二千五百戸に并す。(王観伝)
  (83)氏の雷定(地名)等の七部、万余落、反して之に応ず。(楊阜伝)
  (84)一時に皆平ぐ。戸二万を得。(満寵伝)
  (85)寵、前後、邑を増す、凡そ九千六百戸。(同右)
  (86)又懐し来る鮮卑、素利・彌加等、十余万落、皆款塞せしむ。(牽招伝)
     スイ*は、JIS第4水準ユニコード7524
     邑*は、巛の下に邑。JIS第3水準ユニコード9095

 (83)の氏の場合「落」が出ています。また(86)でも「十余万落」と「落」の表現が使われており、北方の民族について「落」が多い。
  (87)(陽曲侯)邑凡そ二千七百八十戸。三百戸を分つ。  (郭淮伝)
  (88)邑千戸を増し、前の四千七百戸を并す。  (王昶伝)
  (89)(南郷侯)邑千三百五十戸。  (王凌伝)
  (90)(安邑侯)食邑三千九百戸。 (母かん丘倹伝)
  (91)(高平侯)邑三千五百戸。  (諸葛誕伝)
  (92)(征西将軍)前後増邑、凡そ六千六百戸。  (登*艾伝)
  (93)(東武亭侯)邑三百戸。  (鍾会伝)
  (94)(亭侯)邑、各千戸。  (同右)
     登*は、登に阜偏。JIS第3水準ユニコード9127

 

「戸」が出てこない

 ところが問題は、次の蜀志です。
  正(法正)牋して璋(劉璋)に与えて曰く「・・・・今、此れ全く巴東・広漢・健*為を有し、過半已に定まる。巴西の一郡、復また明将軍の有に非ざるなり。益州を計るに、仰ぐ所は惟ただ蜀のみ。蜀も亦破壊す。三分、二を亡い、吏民疲困し、乱を為すを思う者、十戸にして八・・・・」と。(法正伝)
     健*は、人偏の代わりに手偏。JIS第3水準ユニコード728D [牛建]

 暴動寸前の状況をしめしていますが、蜀で「戸」という行政単位が行われていたことはまちがいないと考えてよいでしょう。直説法の言葉だし、陳寿は蜀の出身ですから。
  (95)達(孟達)、封(劉封)に書を与えて曰く「・・・・但ただ、僕と倫と為るのみに非ず、三百戸の封を受く。・・・・」と。  (劉封伝)

 蜀志において「戸」がオープンに使われたことはまちがいないのですが、ところが蜀志全体で、戸という言葉が出てくるのは実はこの二つだけなのです。魏志に数多く出てきたのにもかかわらず、蜀志では、皆無といっていい。分量のちがいを考えても少ない。これは一体なぜなのか、これは呉志でも同じです。
  (96)初め、曹公(曹操)、江浜の郡県、権(孫権)の為に略せられるを恐れ、徴して内移せしむ。民転うたた相驚き、盧江・九江・キ春(きしゅん)・広陵より戸十余万、皆東のかた江を渡る。江西、遂に虚むなし。合肥(地名)以南、惟ただ皖城(地名)有るのみ。・・(呉主伝)
      キ*JIS第3水準ユニコード8604
 ここに「戸十余万」と出てきますが、よく文章を読んでみると、これは呉の内情をあらわすものではありません。曹操が、揚子江流域を孫権に支配されると、そこから税を収奪されるし、若い者は兵隊に取られ、孫権の戦力、経済力になる。それを恐れて住民を大移動させた。それが「戸十余万」です。したがってこれは呉志に出てくるけれども、魏の行政単位で「戸十余万」と表現していることになります。
  (97)秋、魏将、梅敷(人名)・張倹(人名)に使して、求見撫納せしむ。南陽の陰・贊*・筑陽(筑・音逐)・山都・中盧(以上地名)、五県の民、五千家、来附す。(呉主伝)
     贊*は、贊に阜偏。JIS第4水準ユニコード9147

 ここでは「五県の民、五千家、来附す」とあって、呉の方から魏の勧誘に従ってきたとしていますから、これは当然呉側の文章で、「五千戸」とはいわず「五千家」といっています。
  (98)(作*融)乃ち大いに浮圖ふとの祠を起し、銅を以て人を為し、黄金塗身、衣するに錦采を以てす。銅槃九重を垂らし、下、重楼閣道を為し、三千余人を容る可し。悉く課して仏教を読ます。界内及び旁郡の人、仏を好む有らば、受道するを聴ゆるす。其の他の役を復し、以て之を招致す。此に由りて遠近前後、至る者、五千余の人戸。浴仏の毎ごとに、多く酒飯を設け、路に布席す。数十里を経て、民人来観し、就食に及ぶすら、且、万人、費すに巨億の計を以てす。  (作*融伝)
     作*は、草冠に作。JIS第4水準ユニコード7B2E
 これは、仏教の風俗のことが書かれていて面白いものですが、ここでも「五千余の人戸」という表現になっていて、五千戸というストレートな表現ではありません。
  (99)蒙(呂蒙)の子、覇、爵を襲い、守家の三百家と与ともに、田五十頃けいを復す。  (呂蒙伝)

 守墓人のことです。ここでも「三百家」で、「戸」とはいっていません。
  (100)璋(潘璋)の妻、建業(都)に居す。田宅を賜い、客五十家を復す。(潘璋伝)
  (101)其の年、父の和(孫和)に追諡ついしして文皇帝と曰う。明陵に改葬す。園邑二百家を置く。(主語は孫晧)  (孫休伝)

 ともに「家」です。晋に攻められて捕虜になり、西晋に連れていかれる呉の最後の天子孫皓のお父さんの話です。

 

魏の制度としての戸

 呉志はわずかですが、そこには「家」という形が出ています。たとえ「戸」が使われてもそれは実質的に魏に関係するところであって、要するに『三国志』の呉志や蜀志では、基本としては、「戸」は使われていない。「戸」が使われているのは魏志だけということになります。しかも注目すべきことは、まず第一に、北方でも鳥丸・鮮卑などは「戸」とはいわないのに、倭国では「戸」の表現がふんだんに使われていることです。ということは、倭人伝の「戸」は独立、孤立の「戸」ではなく、「魏志に出てくる戸の一環」としての「戸」であり、「魏の概念の戸」であると考えられます。もちろん実態としては、中国本土の場合と高句麗、日本列島の場合ではちがうことがありえます。ありうるにもかかわらず、建前としては、「魏の戸」であるということをはっきり認識しておく必要があります。
 第二に注目すべきことは、呉や蜀で「戸」という行政単位がなかったか、ということです。蜀は、漢の後を受け継ぎ、制度も漢と同じでしたから、漢に盛んに使われていた「戸」が、当然蜀でも使われてしかるべきなのに一切使われていない。しかし直説法の文章の場合は、断片的に出ていますから、直説法の場合はかまわないが、制度としては全部消してしまう。そういう立場に立って『三国志』は書かれていた、ということがいえます。これは呉についても同じことです。それほど『三国志』では、「魏の制度の戸」という立場が非常に強引に貫かれているのです。

 

郡評論争

 ここで思い出されるのが郡評論争です。戦後、日本の古代史で有名になった論争で、この問題を持ち出したのは、故井上光貞氏です。東大の史学会で、大化改新の詔勅はおかしいのではないかという発表をしました。これについては、戦前津田左右吉氏もおかしいと言っていたのですが、井上氏の恩師に当たる坂本太郎氏がおかしくないという立場から、『大化改新の研究』という著述の中で、津田氏に反論していました。それに対して坂本氏の愛弟子であった井上氏が、「やはり大化改新の詔勅はおかしい」と言い出した。「なぜならば、大化改新の詔勅には「郡」という言葉がふんだんに出てくる。ところが那須国造碑などの金石文において見る限り『郡』という言葉が使われた形跡はなく、『評』(評督)という言葉が使われている。『郡』という言葉が使われている大化改新の詔勅は、そのまま信用するわけにはいかない」と。昭和四十年代前半、奈良県の藤原宮跡から木簡が大量に出土し、それに「評」という字が書かれており、「七世紀末までは評で、八世紀になって郡という単位が使われ出した」ことがわかりました。加えて伊場木簡がJR線浜松駅構内の遺跡から出てきて井上説が確認され、これで郡評論争は一応結着がついたのです。
 これに対してわたしは、論争はまだ終わっていないのではないか、と考えます。事実としてはまちがいないかもしれないが、では、なぜ『日本書紀』や『続日本紀』まで「評」を「郡」に書き直しているのか、という疑問が残るのです。この問題については、『古代は輝いていた』III(朝日新聞社、一九八五年/朝日文庫一九八八年)の末尾で取り上げましたが、結局天皇家は、『日本書紀』『続日本紀』を通して「評」という制度を隠したということです。それはなぜか。それはいいかえれば、「評」という制度を生んだ公権力を隠すことにほかならなかった。そしてその評制度を生んだ公権力とは、天皇家に先立つ、弥生・古墳時代から続いた九州王朝であるわけです。それを近畿天皇家は隠すために書き直した。ところが不思議なことに『続日本紀』の中に「評」単語がチラチラと出てくる。人物の肩書に「評督」などと出てくる。こうしたことから「評」制度が施行されていたことはにおってくるのですが、施行された事実も、廃止された事実も、『日本書紀』『続日本紀』には全く書かれていない
 これは、ちょうど『三国志』に魏の制度としてだけ「戸」が現われ、呉志、蜀志では一切消されて、直説法の場合、その断片だけが出てくるのと同じです。『日本書紀』『続日本紀』はそのやり方を受け継いでいるのです。この事実は非常に重要だと思います。

 

戸と家の区別

 先ほど「戸」と「家」の混用問題にふれましたが、「戸」を使うところでは「戸」を使い、使うべからざるところでは「戸」は使われていない。混用でありながら、その使い分けはいい加減でなく、非常に厳しいものがあります。
 そうして見ていくと、章のはじめに出てきた一大国・不弥国は、「三千許戸」「千余戸」とは書いてはならなかったのです。各国それぞれ特色はあるにしても、「戸」というのは、「魏の大義名分上の戸」であることが先の結論でした。すると一大国・不弥国に関しては、「戸」だけではなかったのではないか。先の例を見ていくとよくわかるように、「家」の場合は、「戸」と書いてはならない、いろいろなケースがあります。たとえば「魏人千余家を遣わして上谷に居らしむ」(鮮卑伝)を見ると、「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位になっています。ところが下部単位以外のものもふくめてでは「戸」とはいえない。つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。そういうふくみがあるから、ここは「戸」を使わずに「家」と使っているのです。「家=戸プラス戸以外」です。このように「戸」以外のものをふくんでいるケースでは、「家」でなければいけなかったのではないかと思われます。
 すると、一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。
 わたしは「陳寿を信じとおした、ただそれだけだ。はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったらどうなるか」ということで倭人伝にとりくんだはずなのに、このようなことに気がつかなかったことに慄然(りつぜん)とし、陳寿に「お前ばかだな」と笑われているような気持ちがします。
 なお「(一大国)三千許家」の「許」も無意味に使われているわけではありません。目立った例でいうと、対海国の場合は「方四百余里」で、一大国の場合は「方三百里」となっていて「余」がない。ということは、「方四百余里」の方が「強」で、「方三百里」の方が「弱」、それに対して「許」は「ばかり」で「前後」あるいは「強弱不明」ということです。したがって「三千許家」は、「三千強か三千弱」または「その前後」という表現であろうと思います。

 

夷蛮の地に戸なし

 次に『史記』と『漢書』の用例を見てみましょう。『史記』大宛列伝による「衆数」と「控弦者数」です。
  (1) (大宛)其の属邑、大小七十余城、衆、数十万なる可し。

 ここでも、中国における「戸」制度と同じでないという認識で、「戸」という言葉を使っていません。
  (2) (烏孫)控弦者数万、敢戦す。
  (3) (康居)控弦者八九万人。
  (4) (奄蔡)控弦者十余万。
  (5) (大月氏)控弦者十二万。
  (6) (安息)ナシ

 控弦者とは、弓を引く者という意味で、兵士上いう概念とはちがい、女、子どもで弓を引くことができる者のことをいいます。実態に即した表現です。安息の「ナシ」は「わからない」ということです。

  (7) (條支)人衆甚だ多し。
  (8) (大夏)大夏の民多し、百余万なる可し。
  (9) (昆莫)控弦数万、攻戦に習う。
  (10)(大宛の車界)人民相属する、甚だ多し。

 このように『史記』の大宛列伝でも「戸」は全く出てこない。いたずらに夷蛮の地で「戸」をつけないのが中国の歴史書の伝統になっているという、一つの例でもあります。

 

『漢書』地理志の戸数

 次は『漢書』地理志の戸数です。

  (1) (京兆尹)元始二年、戸十九万五千七百二、口六十八万二千四百六十八。県十二。
 師古曰く「漢の戸口、元始の時に当りて最も殷盛と為す。故に志、之を挙げ、以て類と為すなり。後皆此に類す」と。
  (2) (左馮翊)戸二十三万五千一百一、口九十一万七千八百二十二。県二十四。
  (3) (右扶風)戸二十一万六千三百七十七、口八十三万六千七十。県二十一。
  (4) (弘農部)戸十一万八千九十一、口四十七万五千九百五十四。県十一。
  (5) (河東郡)戸二十三万六千八百九十六、口九十六万二千九百一十二。県二十四。
  (6) (太原郡)戸十六万九千八百六十三、口六十八万四百八十八。県二十一。
  (7) (上党郡)戸七万三千七百九十八、口三十三万七千七百六十六。県十四。
  (8) (河内郡)戸二十四万一千二百四十六、口百六万七千九十七。県十八。
  (9) (河南郡)戸二十七万六千四百四十四、口一百七十四万二百七十九。県二十二。
  (10)(東郡)戸四十万一千二百九十七、口百六十五万九千二十八。県二十二。
  (11)(陳留郡)戸二十九万六千二百八十四、口一百五十万九千五十。県十七。
  (12)(潁川郡)戸四十三万二千四百九十一、口二百十一万九百七十三。県二十。
  (13)(汝南郡)戸四十六万一千五百八十七、口二百五十九万六千一百四十八。県三十七。
  (14)(南陽郡)戸三十五万九千一百一十六、口一百九十四万二千五十一。県三十六。
  (15)(南郡)戸十二万五千五百七十九、口七十一万八千五百四十。県十八。
  (16)(江夏郡)戸五万六千八百四十四、口二十一万二百一十八。県十四。
  (17)(盧江郡)戸十二万四千三百八十三、口四十五万七千三百三十三。県十二。
  (18)(九江郡)戸十五万五十二、口七十八万五百二十五。県十五。
  (19)(山陽郡)戸十七万二千八百四十七、口八十万一千二百八十八。県二十三。
  (20)(済陰郡)戸二十九万二十五、口百三十八万六千二百七十八。県九。
  (21)(沛郡)戸四十万九千七十九、口二百三万四百八十。県三十七。
  (22)(魏郡)戸二十一万二千八百四十九、口九十万九千六百五十五。県十八。
  (23)(鉅鹿郡)戸十五万五千九百三十」、口八十二万七千一百七十七。県二十。
  (24)(常山郡)戸十四万一千七百四十一、口六十七万七千九百五十六。県十八。
  (25)(清河郡)戸二十万一千七百七十四、口八十七万五千四百二十二。県十四。
  (26)(啄*郡)戸十九万五千六百七、口七十八万二千七百六十四。県二十九。
  (27)(渤海郡)戸二十五万六千三百七十七、口九十万五千一百一十九。県二十六。
  (28)(平原郡)戸十五万四千三百八十七、口六十六万四千五百四十三。県十九。
  (29)(千乗郡)戸十一万六千七百二十七、口四十九万七百二十。県十五。
  (30)(済南郡)戸十四万七百六十一、口六十四万二千八百八十四。県十四。
  (30)(泰山郡)戸十七万二千八十六、口七十二万六千六百四。県二十四。
  (32)(斉郡)戸十五万四千八百二十六、口五十五万四千四百四十四。県十二。
  (33)(北海郡)戸十二万七千、口五十九万三千一百五十九。県二十六。
  (34)(東莢郡)戸十万三千二百九十二。口五十万二千六百九十三。県十七。
  (35)(琅邪郡)戸二十二万八千九百六十、口一百七万九千一百。県五十一。
  (36)(東海郡)戸三十五万八千四百一十四、口百五十五万九千三百五十七。県三十八。
  (37)(臨淮郡)戸二十六万八千二百八十三、口百二十三万七千七百六十四。県二十九。
  (38)(会稽郡)戸二十二万三千三十八、口百三万二千六百四。県二十六。
  (39)(丹揚郡)戸十万七千五百四十一、口四十万五千一百七十一。県十七。
  (40)(予章郡)戸六万七千四百六十二、口三十五万一千九百六十五。県十八。
  (41)(桂陽郡)戸二万八千一百一十九、口十五万六千四百八十八。県十一。
  (42)(武陵郡)戸三万四千一百七十七、口十八万五千七百五十八。県十三。
  (43)(零陵郡)戸二万一千九十二、口十三万九千三百七十八。県十。
  (44)(漢中都)戸十万一千五百七十、口三十万六百一十四。県十二。
  (45)(広漢郡)戸十六万七千四百九十九、口六十六万二千二百四十九。県十三。
  (46)(蜀郡)戸二十六万八千二百七十九、口百二十四万五千九百二十九。県十五。
  (47)(健*為郡)戸十万九千四百一十九、口四十八万九千四百八十六。県十二。
  (48)(越[崔/冏]郡)戸六万一千二百八、口四十万八千四百五。県十五。
  (49)(益州郡)戸八万一千九百四十六、口五十八万四百六十三。県二十四。
  (50)(佯*柯郡)戸二万四千二百一十九、口十五万三千三百六十。県十七。
  (51)(巴郡)戸十五万八千六百四十三、口七十万八千一百四十八。県十一。
     啄*は、口偏の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6DBF〜
     健*は、人偏の代わりに手偏。JIS第3水準ユニコード728D [牛建]
     [崔/冏]は、崔の下に冏。
     佯*は、人偏の代わりに爿。JIS第4水準ユニコード7242〜

 これは特に説明はいらないと思いますが、当時の地理を知る上で参考になろうかと思います。

 

 二 戸数問題の副産物

県の存在/二つの風土記と二つの里程/万葉の短里

 


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