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「磐井の乱」はなかった 『古代に真実を求めて』第八集

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『失われた九州王朝』ーー天皇家以前の古代史(ミネルヴァ書房
2010年2月刊行 古代史コレクション2

第四章 隣国史料にみる九州王朝

古田武彦

 一 磐井の「反乱と滅亡」

 誰と誰とが死んだのか

 『日本書紀』中、従来もっとも難解だった箇所。それは、継体紀の末尾である。「(継体二十五年、五三一)二十五年の春二月に、天皇病甚(おも)し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮(いはれのたまほのみや)に崩りましぬ。時に年八十二。冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる。
 (A)或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬと。
 (B)而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて文を為(つく)れるなり。
 (C)其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、師(軍)進みて安羅(あら)に至りて、乞モ*城(こつとくのさし)を営(つく)る。是の月に高麗、其の王、安を弑(ころ)す。
 (D)又聞く、日本の天皇及び太子、皇子倶*に崩薨(かむさ)りましぬといへり。
 (E)此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当る。後に勘校(かむが)へむ者、これを知らむ」
     モ*は、JIS第4水準ユニコード4E47
     倶*は、倶の異体字。JIS第3水準ユニコード4FF1、以下論証に直接関係しないので略。

 右の(A)〜(E)にのべている所を要約すると、つぎのようだ。
 (一)継体天皇崩御の歳について二説ある。
 (二)或本(日本側の本であろう)には、継体二十八年に崩じた、とある。
 (三)ところが、『百済本記』には、継体二十五年に当る辛亥の歳(五三一)に、「日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨せぬ」とある。
 (四)そこで、『百済本記』の説を採用して、本文では継体二十五年に、継体天皇は崩じたことにした。後の人はよく調べ、かつ考えあわせてほしい。

 こういう趣旨だ。ところが、このように、『日本書紀』編者が『百済本記』の記事を信憑し、優先的にこれを採用したために、『日本書紀』の編年上および事実上、重要な矛盾をひきおこしてしまった。
 その第一は、「三年のずれ」問題だ。継体天皇をうけついだ長子の安閑天皇。その元年は五三四年だ。「(安閑元年、五三四)是年也太歳甲寅」〈安閑紀〉とあることによってハッキリしている。ところが継体天皇の死は、先のように、本文によれば継体二十五年(五三一)だから、五三二年・五三三年の二年間は完全な空位となる。空位というだけなら、おかしくはない。おかしいのは、安閑紀はじめのつぎの記事だ。「(安閑元年)(継体)二十五年の春二月の辛丑の朔丁未に、男大迹おおど天皇、大兄おほえを立てて天皇としたまふ。即日そのひに男大迹天皇崩薨かむあがりましぬ」。右の男大迹天皇とは継体天皇、大兄とは安閑天皇のことだ。その継体天皇は、安閑天皇を後継ぎの天皇ときめ、その日に亡くなったという。だから当然、「継体二十五年=安閑元年」のはずだ。しかるに、「継体二十五年=辛亥=五三」「安閑元年=甲寅=五三」となっているのである。だから、五三二年・五三三年の空位は、右の記事自身と決定的に矛盾しているのだ。
 第二の矛盾は、先の『百済本記』の内容だ。「日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨せぬ」といっている。けれども、右の記事の示すように、継体天皇はただひとり死んでいる。しかも、太子に当る勾大兄(まがりのおおえ)を立てて、後継ぎの天皇とした上で死んでいる。「天皇と太子」が一緒に死んだ、など、とんでもないことだ。その上、継体天皇の他の皇子たちも、天皇と一緒に死んだ、という形跡は全くない。
 継体紀にあげられた継体の皇子・皇女はつぎのようだ(○は皇子)。
 ○1勾大兄皇子まがりのおおえのみこ=安閑天皇
 ○2檜隈ひのくま高田皇子=宣化天皇〔以上母、目子媛めこのひめ
 ○3天国排開広庭あめくにおしひらきひろにわ尊=欽明天皇〔母、皇后手白香たしらか皇女〕
 ○4大郎皇子おほいらつこのみこ
  5出雲皇女〔以上母、稚子媛わかこひめ
  6神前かむさき皇女
  7茨田まむた皇女
  8馬来田うまぐた皇女〔以上母、広媛〕
  9荳角ささげ皇女〔母、麻績娘子 をみのいらつめ
  10茨田大娘まむたのおおいらつめ皇女
  11白坂活日いくひ姫皇女
  12小野稚郎皇わかいらつめ女(又の名、長石姫)〔以上母、関媛〕
  13大娘子おほいらつめ皇女
 ○14椀子まろこ皇子
 ○15耳皇子
  16赤姫皇女〔以上母、倭媛やまとひめ
  17稚綾わかあや姫皇女
  18円娘皇つぶらのいらつめ
 ○19厚あつ皇子〔以上母、夷*媛はえひめ
 ○20免うさぎ皇子
 ○21中なかつ皇子〔以上母、広媛〕
     夷*媛はえひめの夷*はえは、草冠に夷。JIS第3水準ユニコード8351

 二十一人中、皇子は九人だ。この中、最年長は安閑天皇であり、「正式の皇后の生んだ皇子」としては欽明天皇だ。「太子」といえば、この二人以外に該当者はいない。しかるに、二人とも、それぞれ天皇の位についている。継体天皇と「倶に」死んだりはしていないのだ。他の七人の皇子もそうだ。継体天皇と倶に死んだ形跡は全くない。まことに“狐につままれたような話”ではないか。当然、この点に諸学説は論を競うこととなった。

 

 平子説と喜田説

 論争の第一石は、明治三十八年、平子鐸嶺(ひらこたくれい)の「継体以下三皇紀の錯簡を弁ず」によって投ぜられた。平子は、「宣化紀」末尾のつぎの記事に注目した。「(宣化四年、五三九)四年の春二月の乙酉の朔甲午に、天皇、檜隈盧入野(ひのくまいほりの)宮に崩りましぬ。時に年七十三。冬十一月の庚戌の朔丙寅に、天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうえ)陵に葬りまつる。皇后橘皇女及び其の孺子(わくご)を以て、是の陵に合せ葬る。皇后の崩(かむさ)りましし年、伝記に載すること無し。孺子は、蓋し未だ成人(ひととな)らずして薨(うせ)ませるか」。右の「天皇と皇后と孺子」を同じ陵に葬った、その事実を『百済本記』は誤伝したのだ、と考えたのである。このような論定の上に立ち、宣化四年=五三一年という新たな設定をその軸として“年代関係の大きな編成変え”を敢えて行なったのである(継体の死を二十一年〔五二七〕とし、安閑元年を五二八年、宣化元年を五二八年、欽明元年を五三二年とする)。この平子説に辛辣な批判を行なったのは、昭和三年、喜田貞吉の「継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問」であった。喜田は平子の“新年代編成”をもって恣意的にすぎる、と論じ、それに代って大胆な新説を提示した。それは一言にしていえば、「南北朝対立」古代版の想定である。「安閑ーー宣化」(五三四〜三九)と、「欽明」(五三一〜七一)のはじめとは両朝が並行した。そして、五四〇年以後、前者は欽明朝に統合されたのであろう、というのである。
 その理由の一は、先にあげたように、安閑・宣化と欽明が腹ちがいの兄弟であることだ。前二者が年長であるのに対して、欽明は皇后の生んだ皇子だ。継体が後継ぎとして国を託した太子は実は欽明であったのであろう。しかるに、安閑・宣化はこれを承認せず、中二年をおいたのち、みずからも新王朝をひらいたのであろう、というのだ。そして、天皇家の内にこのような両朝対立の大動乱があったからこそ、『百済本記』は、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」といった誤伝をしたのであろう、というのである。
 この喜田説は、昭和二十七年、林屋辰三郎(『継体・欽明朝内乱の史的分析』)によって再生させられた。「いずこの国を例にとってみても、歴史は内乱によって形作られるといっても過言ではない」。いかにも敗戦後のこの時期のムードをあらわした文章で、林屋の論文ははじまっている。そして継体二十二年(五二八)の「磐井いわいの反乱」を重視し、このような状勢は九州のみならず、全日本列島をおおうていたであろう、と考える。そして、全国的な“民衆の反抗、豪族の内乱”を背景として、喜田説のような「両朝対立」が生れた、と説くのである。「一体『天皇及太子皇子倶崩薨』というような重大事変は、決して単に皇室内にのみその原因があったとは考えられず、その基づくところはきわめて根深いものがあったとせねばならない」。そして、『百済本記』に一旦「薨」を誤伝された太子とは、当時六十五歳の安閑天皇だったという。要するに、林屋説は実証的には喜田説の構想を継承し、それに思想的肉付けをほどこしたものなのである。
 平子・喜田・林屋の三説を通して共通していることは、「百済本記誤伝説」という一点だ。つまり、「天皇及太子皇子倶崩薨」という歴史事実は存在しなかった。しかるに『百済本記』はこれを誤伝した、というのである。もっとも、この一点については、通説もまた、右の三説と「共同の土俵」に立っている。ただ通説では“何等かの理由による奇怪なる誤伝”と見るだけで、これを深くは追究しなかった。それに対し、右の三説は、それぞれ“理由”を見出そうとして努力したのである。しかしながら、三説の理由づけは、遺憾ながらいずれも薄弱である、とわたしには見える。
 まず平子説。「天皇・太子・皇子」と「天皇・皇后・孺子じゅし」では対象がちがう。その上、宣化天皇の場合、陵を同じくした、というだけで、没年が同じだとはいっていない。こんな違いを無視して、百済側がこれを誤伝した、というのは、薄弱としかいいようがない。
 つぎの喜田説。中世の南北朝対立にヒントをえた“古代の南北朝”創出の努力も『百済本記』問題に焦点をおいてこれを冷静に観察すれば、意外に平凡である。すなわち、「平常時ならこんな『誤伝』は起きにくい。だが、南北朝対立といった異常時なら、こんな『誤伝』もありうるのではないか」という程度の臆測にすぎぬ。
 林屋説は、反抗・反乱といった背景によって、さらにその“ありうる”度合いを高めようとしたのである。しかし、わたしはこう考える。
 (一) “天皇と太子と皇子が倶に死ぬ”といった重大事実は、そんなに簡単に「誤伝」されうるものではない。
 (二) しかも、右の記事が、その当の時点において百済側の聞いた噂が、同じ当の時点において日本に伝わってきた、というのなら、まだしも「誤伝」もあるかもしれない。しかし、『百済本記』は『日本書紀』に引用されているのが「継体二年(五〇八)〜欽明十七年(五五六)」の間であり、少なくとも五五六年以降の成立だ。喜田ーー林屋説にいう“欽明朝への統合(五四〇)によって「南北朝」が解消”してから、少なくとも十六年以上は経っているのである(実際はさらに後の成立であろう)。つまり、百済側は“実際は死なずに生きのびた太子”に当る安閑なり欽明なりの治世を見ていたのである。しかるに依然として、過去の騒然たる時点の中の誤伝そのままに、このような重大な問題の誤記を行なった、とは考えられない。
 この点、右の三説を“純技術的”な立場から批判した坂本太郎・三品彰英・笠井倭人の場合も同じだ。三氏は先の「三年のずれ」問題について、先の三氏のような政治的もしくは思想的背景や、大がかりな編年の再編成を行なう、という方法を非とし、単純な「年表作成上の誤差」という見地から、この「三年のずれ」問題を処理しようとしたのである。しかしながら、後の三氏の場合もやはり、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の文面に対しては、ついに解答を提出できなかった、というほかない。ところが、継体紀末尾に『日本書紀』編者がみずから語るごとく、「三年のずれ」問題は、「倶崩薨」問題を優先させたための自然的帰結だ。その結果生じた「三年のずれ」を書紀の編者自身が読者にかくしてはいないのである。だからこそ、「後に勘校かむがへむ者、ごれを知らむ」といって、後代の研究者に事の真相の解明を託したのだ。だから、この「倶崩薨」問題を抜きにしては、「三年のずれ」問題も解決できぬ。 ーーこれが誰人も避けることのできぬ“論理の輪”である。

 

 わたしの視点

 これに対して、論者はいうであろう。“ともかく、『古事記』『日本書紀』を通じて、継体天皇に限らず、天皇も太子も皇子も「倶崩薨」といったような不祥事は伝えられていない。いない以上、『百済本記』が誤伝したということは、どうにも動かせない結論ではないか”と。しかし、この、いわば“自明”とも思える理路は、“学問的に検証せざる前提”の上に安心して両足をかけ切っている。そのように、わたしには見える。
 その前提とは、すなわち“「日本天皇・・・・」という以上、それは近畿大和の天皇家以外にない”という、“不動の信念”である。それは、『日本書紀』の編者以来、現在のあらゆる学者まで、確固として一度も疑われたことがない。いわばもっとも「神聖な観念」だ。だから、学問の紛々たる論議の上に、超然とみずからの「自明性」を誇ってきたのである。しかし、わたしの視点はこれと異なる。『古事記』『日本書紀』の記述は、根本において、“天皇家自身の大義名分論”に貫かれている。あるいはおおわれている。したがって、それは客観的な史書ではなく、根本において主張の書である。その主張とは何か、それは、「日本列島内の支配者は、永遠の昔から天皇家だけだ」という一語につきよう。『古事記』序文の天武天皇の“主張”たる「削偽定実さくぎていじつ」(偽りを削り、実を定める)の基本概念もそこにあった。決して、今日にいう実証的・客観的に、学問上の「偽」を削り、「実」を定める、という意味でなかったのはむしろ当然である。
 しかし、『百済本記』はちがう。『日本書紀』編述の百五十年も前に成立していた。しかも、日本列島の外にあってそれは成立した。右のような近畿大和の天皇家の大義名分論にしばられるいわれはないのである。しかも、これまでの論証の示すように、東アジアの政治と文明圏の中枢にあった中国ですら、天皇家を日本列島の主人公として認証したのは、八世紀初頭(大足二年、文武の大宝二年、七〇二)であった。それを一世紀遡る七世紀初頭の『隋書』イ妥国伝に、「新羅・百済、皆イ妥を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恒に通使往来す」とある。この「イ妥国」とは、すなわち九州王朝であった。いまだ近畿大和の天皇家は隣国たる朝鮮半島の国からも、日本列島の代表者とは認められていないのである。

 こうしてみると、それを更に半世紀遡る六世紀半ば(五五六)以降の成立である『百済本記』の論述対象が、もしかりに、近畿大和の天皇家であったとすれば、むしろ不思議である。『百済本記』の成立は、六世紀後半と見られる。それは多利思北孤の第一回遣隋使(六〇〇)から、それほど前ではない。したがって、『百済本記』の論述対象は、近畿大和の天皇家ではなく、九州王朝ではないか。 ーーこれはこの本のたどりきった論証の至るべき当然の結論だ。
     イ妥国の[イ妥]は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 

 日本という国号

 この結論によって、『百済本記』中の問題の箇所をズバリ解明する前に、ここに用いられている「日本」「天皇」の用語について、しばらく検討する、 ーーこのまわり道を許していただきたい。
 『旧唐書』日本伝はのべている。倭国(九州王朝)がみずから、その国名の“雅ならざる”をきらって「日本」と名乗ったのだ、と。つまり、「日本」と名乗った最初の王朝は多利思北孤の王朝だ、というのである。ところが、その多利思北孤はみずから「日出ずる処の天子」と称した。この形容からすれば、この王朝が「日本」と名乗っても何の不審もない。字義一致しているからである。そのあと、近畿大和の小国であった天皇家は、「倭国」を併合した。そして、「日本」の名を継承したのである。すでにふれたように、このような『旧唐書』の記述は、きわめて史料的信憑性が高い。なぜなら、唐朝はみずからの内部に阿倍仲満(あべのなかまろ 仲麻呂)のような日本人をかかえていたからである。しかも、仲満は唐朝の官人として昇任し、唐朝の中で一生を終えた。その点近畿大和は、彼の母国の地であっても、「天皇家の大義名分論」のわくの中にみずからを縛る必要はなかったからである。このような運命をたどったのは、仲満だけではあるまい。学問僧・学生その他、数多い渡来の日本人の中に、仲満と同じく中国の大地に永遠に化した人々も多かったはずである。このような日本列島出身の人々を胎内にふくんだ唐朝の、「日本」認識が正確だったことは、むしろ当然であろう。
 つぎに、『百済本記』の史料性格を考えよう。『百済本記』の中の「日本」という国名について、津田左右吉以来「信用しない」のが通説化しているといえよう(たとえば岩橋小弥太『日本の国号』)。しかし、百済系三史料を検証すると、この津田説は不自然である。なぜなら、先に「貴国」問題についてのべたように、「貴国」の名は『百済記』にのみ出現して、『百済新撰』『百済本記』に出現しない。このことは、“『日本書紀』の論者が勝手に「貴国」と書き換えたのだろう”という津田説を拒否する史料事実だ。
 これと同じことは、「日本」についてもいえる。「日本」の国号は、『百済記』『百済新撰』に出現せず、『百済本記』にだけ出現する。このことは、この『百済本記』の「日本」が『日本書紀』の編者の造作ではないことを示す史料事実だ。造作したとする津田の仮説は、『百済記』『百済新撰』が「日本」の国号に書き直されていない ーーこの事実を説明しえないのである。もっとも、津田はこの問題について、つぎのようにのべている。「しかし時には改訂すべくして改訂せられず、編者の注意を逸した文字が原文のままで残っている場合がある。・・・・また日本のことを貴国と改めたり(神功紀六十二年、応神紀八年二十五年所引百済記、応神紀三年本文)、大倭と変えたり(神功紀六十二年、雄略紀五年の条所引の百済記、及び百済新撰、応神紀二十五年本文)、又は日本としたり(継体紀三年所引百済本記等)、書き方が区々となっているのは、幾人かの手で改訂が行なわれたために統一が失われたのであろう」(『日本古典の研究、下』二二三ぺージ)。津田の視点では、改訂すべきところを改訂していないのは、何人もの人々の手で改訂されたため、不統一のままになったのだろう、というのだ。『日本書紀』のような大冊が一人の手で行なわれたのではないことはいうまでもない。しかし、だからといって、一見明白な「国号矛盾」について、“そこまでは気がつかなかったのだろう”とか、“最後の責任編者の不注意で見のがしたのだろう”というのは、あまりにも、編者を馬鹿にした理由づけではあるまいか。
 本文については、『百済記』『百済新撰』段階でも「日本」は出現している。第一、神武天皇ですら、神日本磐余彦尊と書き直されているのである。それなのに、百済系三史料直接引用の部分だけ、歴然と右の「表記の差」があらわれている。これは、“原史料そのものの表記に編者は変改を加えなかった”と見るのが、もっとも史料事実に立脚した理解であろう。こうしてみると、津田の論証は、意外にも杜撰なのである。しかも、決定的に重要なことは、『百済本記』と『旧唐書』の記述が一致していることだ。両者は直接の関連のない、別の国の史書だ。日本列島に隣接した二つの国が一致して、「日本」の国号の由来が古いことを記しているのである(「倭国。武皇后〔則天武后〕改めて日本国と日う」〈『史記』夏本紀、正義〉というのは、「倭国」から「日本国」へと、日本列島代表の王者としての認証対象を変えた、というにすぎず、国号自体の発展をいっているのではない)。
 その上、第二章にあげたように、武寧王陵の墓誌銘によっても、『百済新撰』や『百済本記』の記事の正確さが裏づけられている。ここに表記された「日本」の国号を、軽々に、「後世の改定」視することは、道理に反する。しかしながら、津田の考察も、つぎの点においては正当だ。“天皇家は、いまだ六世紀において、「日本」という国号を名乗ってはいなかった”この一事である。

 

 天皇の称号

 「日本」問題以上に、一種“エキサイトした”論議をよぶのは、「日本天皇・・・・倶崩薨」の、「天皇」の表記であろう。しかし、中国において、「天皇」の称ははるかに長い伝統をもっている。
 (1)古えに天皇有り、地皇有り、泰皇有り。〈史記、帝紀六、秦紀〉
 (2)天皇・地皇・人皇、兄弟九人、九州を分ち天下に長たるなり。〈春秋保乾図〉
 (3)夫れ越王勾践、東僻と雖も、亦、天皇の位に繋がるを得。〈越絶書、越絶外伝記呉王占夢〉
 (4)唐書高宗紀、上元三年八月壬辰、皇帝天皇と称し、皇后天后と称す。〈称謂録、天子古称、天皇〉

 右の『史記』中の天皇の用例は有名だ。漢代の『春秋保乾図』において、天皇が九州を統治するといい、同じく漢代の『越絶書』において、天皇が東僻の語に関連して用いられているのは興味深い(日本の現代の地名としての「九州」も、用字そのものとしては、『書経』や『史記』『春秋』に用いられる「九州」に淵源していると思われる)。このように、淵源するところの古い「天皇」の語だから、日本列島内の王者が、四世紀ないし六世紀の頃からすでに模倣しはじめていたとしても、別に不思議はない。
 『日本書紀』内の百済系三史料の「天皇」の類の表記を見よう。
  〈百済記〉
  (神功六十二年。ここに通例『百済記』の「天皇」二例がある。しかし、これは北野本では本文に属するから、ここに例挙しない)。
 天朝(応神八年及び同二十五年)
  〈百済新撰〉
 (1)(雄略二年、四五八)天皇、阿礼奴跪を遣はして、来りて女郎を索(こ)はしむ。百済、慕尼(むに)夫人の女を荘飾(かざ)らしめて、適稽(ちやくけい)女郎と曰ふ。天皇に貢進(たてまつ)るといふ。
 (2)(雄略五年、四六一)辛丑年に、蓋歯(かふろ)王、弟昆支君(こにききし)を遣はして、大倭に向まうでて、天王に侍らしむ。以て兄王の好を脩むるなりといへり。
  〈百済本記〉
 (3)(継体二十五年、五三一)日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨(かむさ)りましぬ。

 右の(1)において、天皇は阿礼奴跪を遣わしたというが、この人物は大和朝廷に該当者がない。このように、百済系三史料に出て来る日本側の人名で、該当者が見つからぬものがきわめて多い。
 百済本記に云はく、津守連己麻奴跪といふ。而れども語訛(ことばよこなまり)て正しからず。未詳(いぶか)し。
 百済本記に云はく、河内直、移那斯・麻都といふ。而るに語訛りて未だ其の正しきを詳(つまびら)かにせず。
 百済本記に云はく、汝が先(おや)、那干陀甲背(なかんだかふはい)・加猟直岐甲背(からふぢきかふはい)といふ。亦那哥陀甲背鷹哥(なかだかふはいようか)岐弥といふ。語訛りて未だ詳ならず。
 百済本記に云はく、我が印支弥を留めし後に、至(まうこ)し既洒臣が時といへり。皆未だ詳ならず。

 これは、もっとも集中的に出現する『書紀』の欽明五年(五四四)の項中の『百済本記』の引用からとったものである。『書紀』の編者は、大和朝廷の中に伝承された人名の中に該当する者がなくて、困りはてた態だ。『百済本記』側で記録した日本人名の多くは、日本側の代表的人物、もしくは日本側から派遣された人物であるから、これほど該当者のいないことは、異常である。

 (2)では「天王」という表現が出ている。
  (皇始元年、三九六)呂光、僭して天王と称し大涼と号す。使を遣して朝貢す。
  (天興二年、三九九)呂光、其の子紹を立て天王と為す。自ら太上皇と称す。
  (天興六年、四〇三)是の年、島夷桓玄其の主司馬徳宗を廃して自立し、僭して大楚と称す。
               〈魏書、紀二太祖紀〉

 右のように、四世紀末にはすでに、中国北朝に属する夷蛮の王朝、北涼(大涼に同じ、三九七〜四三九)で、「天王」の称号が用いられている。また、五世紀はじめには、大楚といった国号を称している。このような東アジアの状勢から見ると、四五八年乃至五〇二年、つまり五世紀後半から、六世紀初頭までの記事を有し、六世紀前半に成立したと見られる『百済新撰』に、「天王」や「倭」といった称号・国号が出現しても何の不思議もない(「大倭」の称はすでに三世紀の「邪馬壹国」において用いられていた〔『「邪馬台国」はなかった』復刊、二九六〜三〇六ぺージ参照〕)。また、呂光が「天王」を子に譲ったあと「太上皇」と称しているのから見ても、「天皇」の称号が、夷蛮の王朝において用いらるべき、その機運は十分に熟していた、といってよいであろう。また、ここにあげた後魏(北魏・東魏・西魏)の史書である『魏書』は、北斉の天保二年(五五一)魏収の撰にもとづくものだが、その帝紀十二巻を「魏書紀」と称している(百衲本二十四史、宋蜀大字本)。この書名が『日本書紀』という書名の先例となっていることも注意せられる。
 論点を整理しよう。
 (一) 『百済新撰』と『百済本記』に出現する「天王」や「天皇」を、『日本書紀』編者の“書き換え”と見ることはできない。なぜなら、「天」というような表記を、書紀の編者が造作するはずはないからである(前田本は、ここを一度「天皇」と書いたのち、「皇」を消して右に「王」と書き直している。これは、○1前田本の書写原本が「天王」とあったこと。○2書写者はうっかり「天皇」と書いてしまったあと、そのことに気づき、書写原本に従って訂正したこと。こういう書写経過を示している。だから、平安後期成立の古本とされる前田本の書写原本には、やはり「天王」とあったことは、明らかである。それなのに、右の書写者の「書き直し」状況にふれつつ、「百済新撰には『大王』などと書かれていたのであろうか」(岩波古典文学大系、「日本書紀、上」四七一ぺージ)と推定しているのは恣意的である。書写者がこのように注意して、自分の一旦書いたものをとくに訂正しているのは、書写原本のその箇所に照らして十分注意し、みずから校正を加えたもの、と見るのが書写本解読の常道である。思うに、大和朝廷内の用語として異質な、この「天王」の語を強引に消し去らんがための、一種の“苦肉の弁”というほかない)。
 (二) 「天王」「天皇」というような表記は、東アジアの他の夷蛮王朝の表記先例から見ても、五〜六世紀の日本に出現することは、何の不思議もない。
 (三) 同様の理由によって、日本列島内においても、「天皇」の称号が近畿大和の天皇家に特定されねばならぬ理由は全くない。すなわち、いわゆる天皇家の場合に先行する使用例が存在していても、当然である。
 (四) 『百済新撰』『百済本記』に「天王・天皇」をめぐって出現する人名は、あまりにも大和朝廷内の伝承人名と異質である。このことも、最初の「天皇」家は、大和朝廷ではなかったことを指示している。
 (四) 近畿大和の天皇家に先行する「天皇」家とは、『隋書』イ妥国伝・『旧唐書』の「日本伝」の記載内容から見ても、当然、九州王朝以外ではない。

 

 いわゆる「磐井の反乱」

 以上は一般論だ。この一般論を立証するためには、何が必要だろう。具体的な史料を解く上で、右の視点が実際に有効かどうか。それを実証的にためすことだ。その検証のための最大の難問。それが、継体紀末引用の『百済本記』にあらわれた、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の一句だ。そして、そのために引きおこされた「三年のずれ」問題だ。これを解いてみよう。

 (一) 第一のテーマ
 最初に注された「或本」の記載、すなわち、継体天皇が「二十八年歳次甲寅」に崩じたという記事は、日本内部(つまり大和朝廷内部)の伝承として、正しいものであると思われる。なぜなら、この立場に立つとき、「三年のずれ」は存在せず、安閑紀のはじめのつぎの記載に合致する。「(安閑元年、五三四)二十五年の春二月の辛丑の朔丁未に、男大迹天皇、大兄を立てて天皇としたまふ。即日(そのひ)に、男大迹天皇崩(かむあが)りましぬ」。すなわち、継体天皇が死の直前に長子の安閑天皇を立てて後継ぎの天皇とした、というこの記事は、右の「或本」の内容とピッタリ一致しているのである。

 (二) 第二のテーマ
 ところが『日本書紀』の編者は、『百済本記』の記事(「倶崩薨」)の方を信用し、継体紀を「二十五年」で終結させた。この判断は当然、継体紀全体の年次に影響を及ぼす。すなわち、問題を、“実際は「二十八年」の項に入れるべき継体天皇の崩御の記事をあやまって「二十五年」の項目に入れた”という一点だけに局限することはできない。なぜなら、「二十八→二十五」の移動は、当然、「二十七→二十四」「二十六→二十三」という形の“三年ずつ”のくり上げを順次に引きおこすこととなるであろうから。
 今、継体紀の各年別事件を列記してみよう(◎印は百済関係記事)。

 元年(五〇七)   即位(是年、太歳丁亥)。
 二年(五〇八)   武烈天皇を葬る。
 三年(五〇九)  ◎百済への遣使。
 五年(五一一)   山背の筒城つつきに遷都。
 六年(五一二)  ◎百済への遣使。
          ◎百済の朝貢。
 七年(五一三)  ◎百済の朝貢。
          ◎百済の太子淳陀薨。勾大兄皇子(安閑天皇)、春日皇女と婚。
           継体の詔勅。
 八年(五一四)   春日皇女の逸話。
          ◎伴跛はへの記事。
 九年(五一五)  ◎百済への遣使〈百済本記〉。
          ◎伴跛の記事。
 十年(五一六)  ◎百済からの遣使。
 十二年(五一八)  弟国おとくにへの遷都。
 十七年(五二三) ◎百済の武寧王薨ず。
 十八年(五二四) ◎百済の太子明、即位。
 二十年(五二六)  磐余の玉穂に遷都(一本に七年という)。
二十一年(五二七)  磐井征討の宣告。
二十二年(五二八)  磐井滅亡。
二十三年(五二九) ◎百済王と加羅王の逸事。
          ◎任那王の来朝。
二十四年(五三〇)  継体の詔勅。
          ◎任那の遣使。
二十五年(五三一)  継体の崩。

 まず、“順次くり上げ”の問題について、慎重に検討しよう。
 (1) 継体崩御の年が「二十五→二十八」と移動した場合、「二十五、二十六、二十七」の三年間は、何ら記載記事のない年となる。
 (2) もし、偶然、“この三年間は、記録するほどの事件がなかった”とすれば、他の年の項目は移動しないでいい。
 (3) けれども「二十〜二十四」の五年間は、量的に、各年とも記事が連続しており、質的にも“磐井の「反乱」”をふくむ、むしろ多事多端の時期だ。だから、この直後に「三年にわたる記事空白の期間」をおくことは、不自然である。
 (4) したがって、「二十五→二十八」という復元にともなって、右の連続した五年間「二十〜二十四」も、「二十三〜二十七」へと移動させるのが自然である(百済・任那関係の記事は、『百済本記』にもとづいているから、干支によって固定させられていると一応考えうる。しかし、継体十七年〔百済の武寧王薨〕・継体十八年〔百済の太子明、即位〕のような独立の記事とは性質を異にし、日本と関連した記事だから、やはり一緒に移動させられた可能性が高い)。
 (5) その場合、「十八〜二十」の間隔は「十八〜二十三」となり、「五年のずれ」が生れよう。しかし、「十二〜十七」の間にも「五年のずれ」がある。しかも、十七年と十八年の記事は、先にのべたように百済側の独立した記事だから、実際上、国内記事としては、もともと「十二〜二十」という八年間の弟国首都時代の記事が空白なのである。それが三年ふえて十一年間の空白となるだけだ。「弟国時代の空白」という実質に変化はない。
 (6) 二十四年の項の、継体天皇の詔勅の中には、「朕われ帝業承くること今に二十四年、天下清すみゆたかにして、内外に虞うれへ無し」の句がある。この項目が二十七年に移った場合には、当然右の句も、「今に二十七年」が“原型”だったこととなろう。
 右のような検討ののち、末期五年間を三年ずつあとにずらしてみよう。そのとき、問題の辛亥の年、「天皇及び太子皇子倶に崩薨せぬ」という新しい継体二十五年の項目は、いかなる事件のあった年となるだろうか。当然、旧継体二十二年、「磐井の滅亡」の年である。「二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子(十一日)に、大将軍物部大連麁鹿火(あらかひ)、親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と、筑紫の御井郡に交戦(あひたたか)ふ。旗鼓相望み、埃塵(ちり)相接(つ)げり。機を両(ふた)つの陣の間に定めて、万死(みをす)つる地(ところ)を避(さ)らず、遂に磐井を斬りて、果して彊場(さかひ)を定む。十二月に、筑紫の君葛子、父のつみに坐(よ)りて誅せられむことを恐りて、糟屋屯倉(みやけ)を献りて、死罪贖はむことを求(まう)す」。右において、「磐井の滅亡」に際し、斬られたのは、当然“磐井ひとり”ではない。子の葛子は「恐父誅」(父に坐して誅せられむことを恐れて)糟屋屯倉の献上を申し出たという。ということは、これを裏返せば、磐井の一族の多くは“連坐して斬られた”ことを意味しよう。継体天皇の子は二十一人、その九人が皇子であった。同様に磐井もまた、多くの男子をもっていたはずだ。そしてその多くは、父の磐井と運命を共にしたであろう。わずかにその子たちの中の一人であった葛子が生き残り、天皇家との和平工作に成功した。右の叙述は、そのように理解するのがもっとも自然であろう。
 このように理解すると、『百済本記』の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」は、この「磐井の滅亡」とは矛盾しないこととなろう。なぜなら、『百済本記』(欽明紀)につぎの文がある。「(欽明六年)百済本記に云はく、十二月の甲午に、高麗国の細群と麁(そ)群と、宮門に戦ふ。鼓を伐ちて戦闘(たたか)へり。細群敗れて兵を解かざること三日。 (ことごとく)細群の子孫を捕へて誅(ころ)しつ」。また『百済記』(雄略紀)にも、つぎの文がある。「(雄略二十年)百済記に云はく、蓋歯王の乙卯年の冬に、狛(こま)の大軍、来りて大城を攻むること七日七夜。王城降陥(やぶ)れて、遂に尉礼(ゐれ)を失ふ。国王及び大后、王子等敵の手に没(し)ぬといふ」。右のように、「尽く」「皆」というような表現にくらべると、「日本天皇・・・・崩薨」の場合は、ちがっている。「倶に」である。“全部”というのではないのだ。ところが、「天皇及び太子」はそれぞれ特定されているから、当然この二名は死んだことになる。だから、「尽く」「皆」と書かなかったのは、結局「皇子」たちの中に生き残った者がある、そのことを指している、ということになろう。このことは、先の『日本書紀』継体紀の記す、“磐井の子葛子は生き残って和平を求めた”という記事とまさに一致しているのである。

 

 一王朝の全面的敗北

「日本天皇及太子皇子倶*崩薨」 ーーこの記事は端的にいって、“一つの王朝が敵国の大挙侵入を受け、全面的な敗北を喫した”ーーそういうときの表現だ。実際問題としても、そのような場合でなければ、容易におこりえない異常事態である。このことは、先にあげた『百済記』の「国王及び大后、王子等皆敵の手に没ぬといふ」という文を見てもよくわかる。これは百済の敵手(ライバル)であった高句麗の侵入によって、百済側が全面敗北を喫したとき、いわゆる“漢城の落城”事件だ。これに匹敵するような、一王朝の全面的敗北をのべたのが、「日本天皇・・・・」の記事だ。両方とも「AとB、C」という文形まで相似している。
     倶*は、倶の異体字。JIS第3水準ユニコード4FF1

 このような悲劇的な全面的敗北を、六世紀初頭に近畿大和の天皇家が喫した例はない。それゆえ、右の「日本天皇云々」が近畿大和の天皇家でないこと、それは明白だ。そして六世紀初頭の日本列島において、それに該当する事件、 ーーそれはいわば「磐井王朝の滅亡」以外にない。

 

 社稷の存亡

 『日本書紀』継体紀のつぎの記事が示しているように、磐井の攻略は、けっして天皇家が“自分の統治下の一豪族の反抗を討伐する”といった類のものではない。
 継体二十一年八月、継体天皇は詔して「社稷しゃしょくの存亡、是に在り」といったという。“国家の存在するか亡びるかは、この決戦にかかっている”という意味だ。何だかわたしたちが子供のときよく聞かされた、日露戦争の「日本海大海戦」のときの、「皇国の興廃この一戦にあり」という檄文を思い出させるような句だ。この檄文、大国ロシアとの決戦をむかえたその直前の、小国日本の将軍の緊迫感をありありと物語っていよう。これと同じく、継体天皇は“磐井と戦う”という事実を前にして己に上まわる大敵に向う緊張を示しているのである。もっとも、この句は『抱朴子ほうぼくし』の「社稷存亡、於是乎在」をもとにしている。これはよく知られた事実だ。しかし、『日本書紀』で豪族討伐のたびごとに、こんな表現を使っているわけではない。だから、『日本書紀』の編者がここにこの表現を用いたのは、“やはり天皇家の運命を賭けた一戦であった”という内容をあらわそうとして、そのために『抱朴子』の表現を惜用した、と見るべきであろう。それを、“たかだか一豪族の反抗を討伐するだけなのに、『日本書紀』の編者が例によって中国古典の文句によって「造作」し、大げさに表現しただけだ”、と見ようとするなら、それは一見合理主義的に見えながら、その実は恣意的な理解法におちいっているというほかはない。
 実は継体二十一年、右の「社稷の存亡・・・・」の詔に先だち、継体が磐井の攻略理由を示したところに、磐井の実体がよく表現されている。「是に、磐井、火・豊、二つの国に掩およそ拠りて、使修職つかへまつらず。外は海路を邀へて、高麗こま・百済・新羅・任那等の国の年としごとに、職貢みつぎものたてまつる船を誘わかつり致す」。右において、事実関係をぬき出せばつぎの三点だ。
(1) 磐井は、筑紫を中心に肥前・肥後・豊前・豊後にかけて勢威をふるっていた。
(2) 近畿大和の天皇家に対して朝貢などの態度をとっておらず、自主し、独立していた。
(3) 高麗・百済・新羅・任那等、朝鮮半島の国々は、磐井を日本列島代表の王者として、そこへ遣使していた。

 これに対し、天皇家の「大義名分」の視点から見た評価はつぎのようだ。
 (a) 磐井が天皇家に服従しないのは不当である(「叛逆」)。
 (b) 朝鮮半島の国々が天皇家に遣使してこないのは、不当である。磐井が自分を日本列島の代表の王者と詐称して、これを自分のところへ「誘致」しているにほかならぬ。

 すなわち、東アジアにおいて、日本列島の代表の王者として現実に遇せられていたのは磐井王朝だった。近畿大和の天皇家が自分の「大義名分」論から、これを不当とし、攻略の名分(理由づけ)としているのである。このように、『日本書紀』の継体紀の記述自身が、六世紀初頭、東アジアの諸国から日本列島を代表する王者として認められていた王朝は、磐井王朝であったという事実を、裏面から如実に証言しているのである。

 

 「反乱」の大義

 これに対して論者はいうだろう。“けれども、この部分の『日本書紀』の記載を信用しようとするなら、「ここではあくまで磐井の『反乱」として描写されている」という事実はどうするのか”と。無論、継体紀に「反乱」という用語はない。これは後世の歴史家の「造語」だ。しかし、その“もと”をなす表現は継体紀中、いくつも出ている。「磐井陰ひそかに叛逆そむくことを謨はかりて(継体二士年)」「磐井反そむき掩おそひて(同)」、しかし、これは『日本書紀』のよって立つ「大義各分」論にもとづく用語。前にもあげたように、天皇家の他国との国交はすべて「朝貢」として書かれている。
  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。〈仁徳紀五十八年〉
  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。〈雄略紀六年〉

 ここでは高麗(こうらい 高句麗)はおろか、呉国(中国の南朝)も、天皇家に「朝貢」してきたことになっている。これは「事実」ではなく、“天皇家へ他国が使を遣わしてくれば、それはすべて朝貢だ”という、大義名分論に立った表記なのである。先にのべたように、大唐の国書でさえ「上表文」(表函)として表記されていたのである(天智紀四年九月)。これは、中国の史書の模倣、そのミニチュア版だ。つまり、“中国の天子の所へ他国から使節が来れば、すべて「朝貢」と見なす”という方法論を輸入したのである。だから、これはいわば『日本書紀』を一貫する「文法」ともいうべきものだ(その点から見ると、例の七支刀が神功紀に「献」「奉貢」として書かれていることにもとづき、「献上」としてその銘文の文面を解読しようとした福山敏男以前の学説は、『日本書紀』解読の「文法」を考えなかった、ということとなろう)。この「文法」は、他国つまり日本列島外に対してだけ向けられているのではない。それどころか、一層強烈に日本列島内に適用されているのである。
 天皇家の軍と戦うものはすべて「叛逆」者であり、「反き掩ふ」存在だ。それは決して、“その戦い以前は天皇家に服従していた”という事実関係を客観的に示す用語ではない。あくまで大義名分論上のイデオロギー用語なのである。このような見地から見ると、近世の本居宣長ら国学者たちが、磐井をもって天皇家に「叛逆」したものと信じ、明治以後の歴史学が「磐井の反乱」と称してきたのは、『日本書紀』の大義名分論とおのが学問の立脚地とを同一化してきたものだ。それだけではない。敗戦後の林屋説において、「反乱が歴史を前進させる」という命題のもと、「磐井の反乱」の歴史的意義が強調されたとき、それはまさに戦争中の皇国史観から解放された爽快たる戦後史学の誕生、と見えた。しかし、今、その内実をつきつめてみると磐井の滅亡を「反乱の挫折」と見なす、その肝心の一点において、なお『日本書紀』大義名分論のわくの中から、みずからを解放し切ってはいなかったのである。

 

 占領地分割案の示唆するもの

 継体紀二十一年項の末尾に、継体天皇が磐井攻略を物部大連麓鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)に託するときの有名な言葉がある。「天皇親みづから斧釿まさかりを操りて、大連に授けて曰はく、『長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ・・・・」と」。右の継体天皇の言葉は、磐井をたおしたのちの、磐井の領域に対する支配の仕方をのべたものだ。つまり、率直にいえば、占領地の分割プランである。筑紫以西、つまり九州は当然磐井の領域だ。そして、長門以東に当る部分にも、磐井の領域がなければこの言葉の語気に対して適切ではないように思われる。なぜなら、長門以東がすでに天皇家の安定した領域であるのなら、今さら気おいこんだ口調で、「長門以東朕制之」というのは不自然だからである。
 倭王武の上表文によれば、九州一円に当ると思われる「衆夷を服すること六十六国」、中国地方や四国西半部に当ると思われる「毛人を征すること五十五国」についてのべられていた。それが自分の領域だというのである。この際、五十五国という国の数が九州の六十六国より小さい点から見て、近畿地方や中国地方・四国のそれぞれ東半部は、ほぼ入っていない。すなわち、そここそ天皇家の支配領域だったのである。このように倭王武の表現は、一見したところ国の数が多い,にもかかわらず、その実体は決して過大表現ではない。この倭王武が最後の中国史書に姿をあらわすのは、前にものべたように天監元年(五〇二)だ(『梁書』武帝紀)。これは実に磐井の滅亡(辛亥、五三一)の二十九年前にすぎない。つまり、磐井の領域は、まさにこの倭王武の範囲をうけついでいたものと見られる。こうしてみると、右の継体天皇の占領地分割案は、まさに現実(リアル)なのである。
 なお、磐井が「筑紫の国造」(継体二十一年)と書かれている点について一言しておきたい。これも、“磐井が天皇家に従属する「国造くにのみやつこ」として任命をうけ、それに従ってきた”という事実関係そのものを示すものでは決してない。逆に、“日本列島内において、天皇家以外の権力所有者はすべて「豪族」だ。それゆえ、天皇家統治下の「国造」と見なさなければならない”という大義名分論に立つ表現なのである。すなわち、一見非イデオロギー的用語に見える「豪族」「国造」等の用語。これも、その本質は“日本書紀大義名分論”の掌中に存在するものなのである(この点、稿を改めて詳論したい)。

 

 古老伝えて云う

筑紫地方の石人墳分布略図 失われた九州王朝 古田武彦ミネルヴァ書房

 筑後の『風土記』中に、「磐井の滅亡」時の記録がある。
 (一)古老の伝へて云ふ。(A)雄大迹(おほど)の天皇の世に当りて、筑紫君磐井、豪強暴虐、皇風に偃(したが)はず。(B)生平けりし時、預(あらかじ)此の墓を造る。俄(には)かにして官軍動発し襲はんと欲する間、勢、勝たざるを知り、独り自ら遁れて豊前國上膳縣に遁(のが)れ、南山の峻嶺の曲に終る。是に於て官軍、追ひ尋ねて蹤(あと)を失ふ。士の怒り未だ泄(や)まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)す、と
 (二)古老伝へて云ふ。「上妻県、多く篤疾有りき」と。蓋し茲(これ)に由る歟(か)

 右の文の直前には、磐井の墓墳の実態がつぎのように記されている。
筑後国風土記曰、上妻県、県の南二里、筑紫国磐井の墓墳有り。高さ七丈、周六十丈、墓田南北各六十丈、東西各四十丈。石人石盾各六十枚。交陣、行を成し、四面を周匝(しうさふ)せり。東北角に当り、一別区有り。号して衙(が)頭と曰ふ。衙頭は政所なり。其の中に一石人有り。縦容として地に立つ。号して解部(ときべ)と曰ふ。前に一人有り。裸形にして地に伏す。号して偸(とう)人と曰ふ。生きて猪(ゐ)を偸(ぬす)みき。仍(よ)りて罪を決するに擬す。側(かたはら)に石猪四頭有り。臟物(ぞうもつ)と号す。臟物は盗物なり。彼の処も亦石馬三匹、石殿三間、石蔵二間有り。

 最初の問題は、(二)の箇所の読み方だ。なぜなら、従来の読みではわたしの読みとちがう。そしてそのちがいが、この一段を理解する上で、重大なわかれ目となっているからだ。
 たとえば、岩波古典文学大系本ではつぎのように読んでいる。「古老ふるおきなの伝へて云へらく、上妻かみつやめの県あがたに多く篤き疾やまひあるは、蓋しくは茲に由るか」。ここでは、末尾の「由るか」までが古老の伝の内容となっている。大系は「茲」に注して、「磐井君の崇りという意」といっている(五〇八ぺージ)。つまり、、現在“上妻の県に障害者が多いのは、恐らく磐井君のたたりのせいだろう”と古老がいっている、というのである(「篤疾」の語義。戸令に両目盲、二支廃〔両脚発育不全、歩行不能〕、癲狂などを「篤疾」とする〔同ぺージ〕)。
 ここの原文はつぎのようだ。「古老伝云、(a)上妻県多有篤疾、(b)蓋由茲歟」。つまり、古老の伝を(a)だけとするか、(a)(b)全部とするか。そのちがいなのである。
 この点、同じ筑紫の『風土記』のつぎの文を見ると、解決する。「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(なが)さ一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円きこと磨成せるが如し。(A)俗伝えて云う、『息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、新羅を伐たんと欲し、軍を閲するの際、懐娠漸く動く。時に両石を取りて裙(も)の腰に插(はさ)み著(つ)く。遂に新羅を襲い、凱旋の日、芋眉*野(うみの)に至りて太子誕生す。此の因縁有りて芋眉*野と曰う』。産を謂いて芋眉*と為すは、風俗の言詞のみ。(B)“俗間の婦人、忽然として娠動すれば、裙の腰(くんよう)、石を插(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延べしむ”蓋し此に由る乎」。ここでは「俗伝」の(A)と、現在の風俗(B)とを比較して、“BはAに由来するのであろうか”と、『風土記』の編者が推定をのべているのである。
 もう一つ、同じ例が駿河国『風土記』にある。「風土記を案ずるに、古老伝へて言ふ。(A)『昔、神女有り。天より降り来て羽衣を松の枝に曝しき。漁人拾ひ得て之を見るに、其の軽く軟きこと言ふべからず。所謂六銖(しゅ)の衣か、織女の機中(はた)の物か。神女之を乞ふも、漁人与へず。神女天に上らむと欲す。而るに羽衣無し。是において遂に漁人と夫婦と為る』と。蓋し已むを得ざるなり。(B)『其の後一旦(あるひ)、女羽衣を取り、雲に乗りて去りぬ。其の漁人も亦登仙す」と云ふ」。
 ここは(A)(B)と古老の伝を二つに分割し、その中間に『風土記』の論者の感想「蓋し已むを得ざるなり」を、はさんでいるのである。つまり、(A)は「夫婦と為る」で一旦終っている。だから、後日談としての(B)の末尾に「と云ふ」と付せられているのだ。
     [革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795
     眉*は、三水偏に眉。JIS第3水準ユニコード6E44

 以上によって、「蓋し・・・・(か)」の形が、『風土記』の論者の簡潔な推定の辞であって、「古老の伝」の内容ではない、ということがわかる。
 さて、以上のように文脈の整理を終えたのち、先の筑後『風土記』「磐井の滅亡」の内容を検討しよう。
 まず、(一)の「古老伝」について。その内容は(A)と(B)と二つの異質な文章に分れている。
 (A)の方は明らかに、「天皇家の目」で書かれた文だ。磐井が「豪強暴虐、皇風に偃したがはず」というのは、『日本書紀』の継体紀と同質の、磐井を敵視した表現だ。ところが、(B)になると、文章の調子トーンが一変する。「官軍発動し、襲はんと欲するの間」という表現は、現地(磐井の都)の住民側の視点だ。“突如天皇家の軍が襲来してきた”といっているのである。これに対し、文頭の「生平の時」は、“磐井の君が生きていた、平常のときに”という意味だ。
  生平、耳・余の賢を聞く。(「耳」は張耳、「余」は陳余)〈史記、張耳、陳余伝〉
  生平、未だ始めて聞かず。之を歌うに安いずくんぞ能く詳つまびらかにせん。〈劉禎、公燕詩〉

 官軍襲来前の平和時の日常の描写である。
 その上、磐井の君は、時の非なるを悟り、「独り自ら遁れて」山中に入ったという。まるで、“戦乱をいとう有徳の人君”のような描き方だ。これに対する近畿大和の天皇家の軍兵の行動描写はすさまじい。磐井の君を発見できないのに怒い狂い、その腹いせに現地の住民の間で神聖視せられていたはずの、墓墳の石人石馬を無茶苦茶にこわしてまわった、という。まことにヒステリカルな暴力行為が描かれている。これでは、磐井の君の方は「豪強暴虐」どころか、弱くかつ繊細である。逆に天皇家側の「皇風」の方こそ、まさに「豪強暴虐」に見える書きぶりだ、というほかない。さらに、磐井の君の終末の運命は、『日本書紀』継体紀が「磐井を斬る」と記しているように、結局、発見されて斬られてしまったはずだ。それを「南山峻嶺の曲に終る」と娩曲に叙している。露骨に「官軍に発見されて斬られた」とは、いうにしのびないといった趣だ。このように、古老の事実描写は、冒頭部(A)とはうってかわり、磐井の君に対し、深い哀悼の涙をそそいでいる。
 次に(二)の「古老伝」について。先に論証したように、この「古老伝」の内容は、「多有篤疾」という短い一句だ。これは、「多く篤疾有り」とか「篤疾有ること多し」といった現在形の文章ではない。なぜなら、“現在障害者が多い”という眼前の事実なら、古老の伝えをまつ必要はないからである。(一)の「古老伝」の内容もすべて過去形であった。この(二)の方も当然過去形で理解せねばならぬ。
 また、(a)「多有篤疾」の表現は、(b)「多篤疾」とも少しニュアンスを異にしている。(b)の方だと“他の地方に比べて不具者が多かった”。たとえていえば、他の地方では障害者はせいぜい一パーセントどまりだが、上妻県には二〜三パーセントもあった、といった感じだ。ところが(a)の場合はちがう。“多くの住民が「篤疾」をもっていた”つまり、たとえていえば、“住民の五、六〇パーセントもが障害者だった”という感じになるのだ。いいかえれば、“住民の多数は障害者で、まともな人間の方が少ない”といった表現だ。こんなすさまじい時期が本当に過去にあったのだろうか。そんな過去とはいつか。当然、「磐井の滅亡」の直後の時期だ。天皇家の「皇軍」は、けっして石人・石馬の手や頭を折っただけではない。当時の社会において、「石人・石馬」は人命以上に神聖にして重んぜらるべき対象だったであろう。その石人・石馬さえ、狂ったように皇軍は破壊したのだ。だから、当然、敗戦側の磐井の軍や住民に対して、なお一層仮借ない追及を行ない、無残に荒れ狂ったのであろう。ために、多くの青年や住民の屍は積まれた。そして、そのあとに辛うじて生き残った住民。彼らもそれぞれ、つぶされた両眼や折られた両脚や白痴化し病み呆けた頭の、自失した人々の方がおびただしい。そのようなむごたらしい歳月が流れはじめたのだ。そういう何十年かの異常な時期がこの地方には確かにあった。 ーーその悲惨な記憶を、古老たちは正確に伝承してきたのである。
 この際、私事にわたることを許してほしい。わたしの少年時代は広島だった。原爆が投下されたとき、わたしの父や母は広島市内にいた。中学時代の名簿を見ると、わたしの数年下の学年は、「全員死亡」だ。市内で学徒動員中だったからである。この直後の時期がわたしの青年時代だった。敗戦によって戦争が終ったあと、その長い年月、戦禍がいかに住民の内部に生きつ、づけ、すべてをいためつくしたか。わたしは痛いほど目にしてきた、耳にふれてきた。そのようなわたしにとって、この「多く篤疾有りき」の一語にひそめられた、しかし明確に聞こえてくる人間の痛苦と懊悩の声に、耳をふさぐことはできない。
 『百済本記』は、「日本天皇及・・・・」という支配者層の潰滅を記録した。それと同じ時期において、筑後『風土記』は民衆の惨たる窮迫を伝承していたのである。

 

 二 二つの王朝

倭と日本/『旧唐書』の日本国/『旧唐書』の史料価値/二つの「実」/倭国と日本国の境界/代表王者はいつ交替したか/不明の学問僧たち/泰山たいざんの召集/唐からの使者/二つの使節団/年代の誤差

 

 三 九州年号の発掘

海東諸国記かいとうしょこくき/日本側の記録/襲国偽悟考/明治の学界/昭和の学説/わたしの論証/公権力別在の証明/僧聴という年号/「発倒はっとう」とは?/「兄弟」と「煩転はんてん」/九州年号の最終証明/「九州年号」研究史の問題性

 

 四 仏教伝来と任那みまな日本府

戊午ぼごと壬申じんしん/編者の撰択/「仏教伝来」の論証力/任那日本府とは/三面の史料/「日本府」架空説/『三国史記さんごくしき』の史料的性格/日本兵、国に還かえらん/朝鮮側から見た「倭と日本」/珠玉の説話「堤上ていじょう」/死を誓って倭国に向う/『三国遺事さんごくいじ』の描く「堤上」悲話/悲痛な説話の語るもの


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