古田武彦著作集
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角川文庫 4675

邪馬一国の証明

古田武彦

 始めの数字は、目次です。「はじめに」は下にあります。「あとがきにかえて」と「解説にかえて ーー魏志倭人伝と短里『周髀算経』の里単位」は別置。

【頁】【目 次】
007 はじめに

011 倭国紀行
  筑紫の真相/天の下の秘密/卑弥呼の年齢・その一/卑弥呼の年齢・その二/関東に大王あり・その一/関東に大王あり・その二/韓国陸行/陳寿反対派の証言/子供でも分かる謎・その一/子供でも分かる謎・その二/卑弥呼と俾弥呼・その一/卑弥呼と俾弥呼・その二/壁画古墳と石馬/九州王朝/卑弥呼の後裔

054 わたしの学問研究の方法について
  はじめに/「母の国」親鸞研究/村岡史学への傾倒/『古代史疑』からのスタート/わたしの研究方法/なかほどに/おわりに
 
118 邪馬壹国の論理性ー「邪馬台国」論者の反応について
  問題意識の初源/至高文字の存在/たゆまぬ検証の成果/文字の機能と文章/史料のに依拠するものの勁さ

135  「謎の四世紀」の史料批判
  はじめに/『南斉書』の証言/「倭の五王=九州」説の根拠/邪馬嘉国の問題/「傍国」説と史料分析/表意訳と表音訳/大胆な省略/『広志』の成立年代/結論

155 古代史の虚像ーその骨組を問うー
  “日出づる処の天子”の謎/『異称日本伝』の見事な割り切り/同時代史としての『隋書』/“倭王武・雄略”は正しいか/稲荷山鉄剣銘文が語るもの/古墳のあり方にみる近畿と九州と関東/さて卑弥呼の国は? 

175 邪馬壹国の証明
  皇国史観の三世紀/国名問題/里数問題/その他

197 古代史を妖惑した鏡
  問題のキイ・ポイント/舶載とイ方*製/冨岡四原則と私の公理/黄金塚古墳を訪れる/動詞の重用/「之」の用法/作者の“身元”/「論語・千字文伝来前」の状態/鋭い一つの問題提起/主観主義的方法との決別/大きな反省を/在野の研究者の偉大な直観/鏡の再点検の重要性/鏡は語る

221 九州王朝の史料批判−薮田嘉一郎氏に答える−
  はじめに/「天下の孤証」について/史料批判と「多数決の論理」/「臺」は卑字か貴字か/魏における「臺」の用例/「イ妥*」と「倭」の異同/『北史』と『南史』の「イ妥」と「倭」/「遂に絶つ」の主体は何か/薮田氏の誤解について/藪田氏への質問

254 邪馬壹国と冢
  はじめに/個々の論点を駁す/「邪馬台国一所不在説」について/「径百余歩の問題/おわりに

269 古代船は九州王朝をめざす
   飛鳥の海流/航海実験の時代/「謎のX区間」の設定/文章読解のルール/「以北略載の論理」/瀚海と東まわり航路/三世紀、倭人は帆を使った/卑弥呼の後裔/軽率なルート比定/「其」の用法と解釈/「基準点が指示領域に入らない」事実/九州王朝−多利思北孤の国−/九州王朝−火の山は語る−/むすび/本稿後記

325 あとがきにかえて

329 初出一覧

330 解説にかえて
  魏志倭人伝と短里『周髀算経』の里単位 谷本茂

イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF

▼初出一覧▼
〔文庫の編纂にあたり、収録の論文は、一部加正した〕
「倭国紀行」 ーー「読売新聞」西日本版 一九七九年十一月十二日〜十二月二十五日
「わたしの学問研究の方法について」 ーー「季刊邪馬台国」三・四号 一九八〇年一月・四月
「邪馬壹国の論理性 ーー『邪馬台国』論者の反応についてー」 ーー「伝統と現代『邪馬台国』特集」二十六号 一九七四年三月
「『謎の四世紀』の史料批判」 ーー「歴史と人物」 一九七六年五月号
「古代史の虚像 ーーその骨組みを問うー」 ーー「文化評論」二二七 一九八〇年三月号
「邪馬壹国の証明」 ーー「文化評論」二二八 一九八〇年四月号
「古代史を妖惑した鏡」 ーー「歴史と人物」一九七九年八月号・毎日新聞 一九八〇年五月十六日
「九州王朝の史料批判 ーー藪田嘉一郎氏に答える」 ーー「歴史と人物」 一九七五年十二月号
「邪馬壹国と家」 ーー「歴史と人物」 一九七六年九月号
「古代船は九州王朝をめざす」
       “飛鳥の海流”「野性時代」 一九七五年九月号。
       “古代船は九州王朝をめざす”「野性時代」 一九七五年十月臨時増刊号

昭和五十五年十月二十日 初版発行
発行者 ーー角川春樹
発行所 ーー株式会社角川書店
東京都千代田区富士見二〜十三〜三
印刷所 ーー厚徳社
製本所 ーー多摩文庫
装幀者 ーー杉浦康平


“邪馬一(やまいち)国のすすめ” ーー邪馬一国の証明

 今まで「邪馬台国やまたいこく」という言葉を聞いてきた人よ。この本を読んだあとは、「邪馬一国」と書いてほしい。しゃべってほしい。
 なぜなら、「台」は「臺」の当用漢字だ。ところが、『三国志』の原本には、どこにも「臺」や「台」を使ったものはない。みんな「邪馬壹やまいち国」または「邪馬一国」だ。それを封建時代の学者が「ヤマト」と読むために、勝手に直したものだった。
 それがわかった今、あなたが真実を望むなら、この簡単明瞭な「邪馬一国」を、誰の前でも恐れず使ってほしい。

 たとえば、東京の静嘉(せいか)堂文庫にある『三国志』(明みん代に復刻された北宋本ほくそうぼん)にも、「邪馬一国」と版刻(はんこく)されている(なお、この本の中では、字形の論証のために必要なとき、「邪馬壹国」の方が用いられている)。

 

 はじめに

 どれほど遠い道をわたしは歩いてきたことであろうか。ふりかえってみて、時にぞっとすることがある。
 江戸時代以来、日本の古代史の「定説」として公的にきめられてきた道、それと全く異なった、ひとりの道を、四十代から五十代にかけてこつこつと、わたしは歩みつづけてきたのであるから。
 そこには従来、日本古代史界の学者たちがしめしつづけていた姿、その看板とするところとは全く相貌を異にした世界が開けてきた。
 だがそれは、奇をてらう異流の世界ではない。なぜならわたしにとって、人間の理性のさししめすところ、認識の自然な大道、それ以外の何物でもなかったのだから。
 一個のわたしの頭脳が狂っているのか、それとも従来の“万人の認識”が狂っていたのか。新しい局面をしめす発見に接するたびに、このような問いを深夜ひそかに発し、慄然としたこと、それは稀ではない。しかし窓外の竹林の葉ずれの音がこれに答えてくれるのみであった。
 けれどもこのさい、言うべきことがある。わたしの研究は、終始わたしひとりの探究に尽きたにもかかわらず、望外にも少なからぬ「知己」をえたことである。東京・大阪や博多・下関・小倉と、各地に熱心な読者の方々が生じ、講演会の開催はもとより、読者の会による冊子(「市民の古代 ー古田武彦とともにー」)の発行まで再度に及んだ。また読者の方々の熱心なお便りは日に月に山積し、御返報の暇なきに苦慮しているけれども、そこからうる励ましはわたしにとって何物にも代えがたい。ある方など、“あなたはいつも孤独の探究云々と書いているが、わたしはこれほど支持しているではないか”とお書き下さって、うれしさは身にあふれた。
 わたしのような者の“身のほどにも似ぬ”このような事態は、なぜおこったのだろうか。思うに、それは“わたし”そのもののせいではないであろう。たとえばわたしのような「身心昏昧こんまい」の者の目にも、ありありと映じてきた道理の大道、それが人々をひきよせているのではあるまいか。もとより一個のわたしなどは、未来の数多くの探究者のささやかな“露はらい”にすぎぬ。
 一方、学界の反応は冷たかった。もちろん文化人類学者・哲学者・国文学者、さらに宇宙物理学者・地球物理学者から医学者・哲学者に至るまで、各界の諸学者から手厚い御理解の言葉をいただいた。さらにわたしの研究は「正しい方法」とのべられた古代史学者(水野祐氏)、またわたしの名前こそあげね、沖の島の三角縁神獣鏡(菅谷文則氏)や大和の弥生遺跡(IV末〜V期)の激変(寺沢薫氏)についての論文など、わたしのすでに提起していたテーマ(『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社刊)とまさに呼応すべき、考古学者側の論文もようやく出現してきた。
 これらの現象は、ひときわ刮目せられる。が、概して言えば、古代史学界はわたしの問題提起に対して正面から“答えてきた”とは言いがたいようである。
 ところが反面、興味深い現象がはじまった。わたしに対する“篤実な批判”や“情熱的な攻撃”やさらには、“悪罵”と“嘲弄”の数々の出現だ。
 たとえば藪田嘉一郎氏は、京都の商人(書肆)にして篤実な研究者という、この地の伝統を体現された方だ。この方との緊迫した論戦、またその途次における氏の急逝、それは哀(かな)しく忘れえぬ思い出となった。この論戦においてわたしは『隋書』において「イ妥*たい」と「倭」がハッキリ書き別けられている事実を確かめえた。
 また文献統計学の専門家たる安本美典氏との論争も、わたしにとって楽しき収穫を生んだ。たとえば「周朝の短里」の発見などがそれである(「歴史と人物」昭和五十五年七月号、対談)。
イ妥*(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO

 「意見の対立はよい。正面からの論争、それはさらによい」。この自明の道理を、この方々との論争の中で確認できたのである。
 本書の題名とするところ、それは“ことの逆”であるかもしれぬ。なぜなら、『三国志』の全版本には一つとして例外がない。すべて邪馬壹(一)国と書かれている。このような状況下で、「証明」を要するのは、原文(現版本)とちがった表記に“奔(はし)ろう”とする「原文改定者」側、すなわち「邪馬台国」論者の方であって、原文のまま、邪馬一国として記述する、わたしの方の責務ではないからである。
 たとえば『三国志』の原文のまま、「卑弥呼」として使う研究者にその「証明」はいらない。これに反し、たとえば「卑弥乎」(後代〈十三世紀〉成立の『三国史記』)とか、あるいは「貴弥呼」の類に直して使おうとする論者がもしあったとすれば、その論者にこそその「証明」が厳格に課せられねばならぬ。それと同じだ。
 従って“すべての「原文改定者」側が結局、有効な改定理由を提出できない”この事実を厳正に確認すること、それにまさる「邪馬一国の証明」はありえないのである。
 最後に、文庫本という、若い読者にとってなじみやすい形で、従来の「文庫本」の概念にはない、このような形の論集が出版されること、それをことに喜びとしたい。なぜなら、未来の日本古代史を真に方向づける者、それは一にぎりの現在の“定説メーカー”たる大家たちではない。今はまどいと夢に満ちた、しかし新しい真実をうけ入れることを決して恐れぬ若い探究者たち、この人々にほかならないのであるから。
 ※「文化評論」(一九八○・四)所載論文名による。

〔参考文献〕
水野祐「九州王朝と倭の五王」(『ゼミナール日本の古代史』下・光文社刊・所収)
菅谷文則「三角縁神獣鏡をめぐる諸問題」(同右)
寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質 ーー初期ヤマト政権成立史の再検討」(橿原考古学研究所論集』第四集所収)

 あとがきにかえて 古田武彦

 解説にかえて 魏志倭人伝と短里『周髀算経』の里単位 谷本茂


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