敵祭 -- 松本清張さんへの書簡 第一回から第六回へ
『古代に真実を求めて』 第十一集 「寛政原本と学問の方法」
(特別掲載)古田武彦講演
古田武彦
古田でございます。皆様がたの、お招きをいただいて、たいへん喜んでおります。
深志時代の好きな歌を思い出しておったのですが、「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」、これは西行が詠んだ歌ですが、それを踏まえて芭蕉が追想している(芭蕉、野ざらし紀行)。芭蕉が若いころ、この小夜の中山に来た。それを、これだけの年を経て、もう一度ここに来れるとは思わなかった。ほんとうに、わたしの運命でもある。このような素晴らしい歌があります。
ほんとうにわたしが松本深志高校に来ましたのは昭和二十三年、二十一歳の時から教師として六年間ここに居たわけです。その時の最初の教え子の才が十八才。二十一才に対して三才若い年下の生徒たちにたいして、わたしが相手にしていた。教師と生徒というよりも、やんちゃ仲間。ですので、わたしは生徒よりも至らないお粗末な落第教師であったわけです。それが今年二〇一四年八月八日に、八十八歳の米寿を迎えることができたわけです。そして今日まで命があればよい思って、指折り数えて待ち構えて臨んでいたわけですが、無事に生きて皆さんの前に立つことができた。これ以上の喜びはございません。
本日は限られた時間ですので、一時間半ばかりお話しして、後三〇分ばかり質疑応答の予定となっているようです。お話しすることはたくさんありますが、たくさん話していると焦点がぼけますので、簡単明瞭にわたしにとっての研究のキーポイント、それを申しあげる。詳しい論証のところは、いろいろなところで書いたりいたします。幸いなことに学校の生徒さんが創っておられる校内誌に字数制限なしに書いてくれと、若い生徒さんからご依頼を先日受けました。そのこともあり、またありがたく思っておりますので、今日はわたしの研究のアウトラインを簡単明瞭に申しあげる。しかもそれは二十一才から二十八才まで居た松本深志高校の時代に捉えた基本的なイメージをもった論点ばかりである。
「深志から始まった九州王朝」、九州王朝の出発点は深志からという与えられた題、その通りの出発点から、その到着点まで、今一時間半内にみなさんにお知りいただくことができる。そのように考えております。
まずわたしが松本深志高校で古代史に関心をもつ前に、関心を持っていたのは浄土真宗の親鸞の研究です。なぜ親鸞かと言いますと、わたしは広島県の呉市で育ちました。そこは西本願寺の門徒として浄土真宗の信者がたくさんいる地帯です。
そこで最初戦争中に言われていたのは、「親鸞上人は、護国(国を守る)の念仏者である。」「念仏よりも、より国が大事だ。そういうことを仰っていた。」これがあらゆる機会にPRされておった。
ところが敗戦、一九四五年を境に一変する。まったく時代がひっくり返った。
「親鸞上人は民主主義の先達の念仏者である。」「何を隠そう、アメリカが持ってきた民主主義、あれは親鸞上人の言葉だ。」「民主主義の念仏者として、親鸞上人これ以上の人はいない。」
同じ名前の学者が、まったくひっくり返った違ったことを言う。
敗戦の時わたしは十八歳、これは何だ! 前の話を信用して戦地に行って死んだ連中もいる。こちら側というか、わたしたち青年は、そういう学者、あるいは教団、あるいは国家の、そういうやり方に対して、まったく信用できない。わたしはそういう感じをもった。わたしだけでなく、その時代の青年は、ほとんど同じ感じを持ったと思う。
このように適当に時代に合わせて、いいかげんに喋る人たちばかりの、この世の中に生きていてもしようがない。これは青年らしい短絡した考えですが、事実そう考えた。そう考えて自殺をえらんだ若者も、稀ではありませんでした。わたしもそう考えて自殺の手前までいきました。このような世の中は生きるに値しないと。
これは昨今の自殺問題と深い関わりがある。昨今の青年たちにとって、世の中がどう見えているか。信用すべき世の中に見えているか。見えていないか。経済問題も関係ありますが、いつの時代にも、青年にとって基本的な問題で、大事にすべき問題です。今日はそれ以上問いませんが、わたしの青年時代はまさにそういう時代だった。
そこで、わたしが踏みとどまったのは、『教行信証』にある親鸞が言っている言葉。有名な「後序」の中の「主上・臣下、法に背(そむ)き義に違し、忿(いかり)成し、恨(うら)みを結ぶ。」という迫真の一節です。

ですが戦争中に出た一番流布し確かだと言われた親鸞の『教行信証』の活字版本(真宗聖教会書 二 宗祖部 興教書院 昭和十五年)。その二〇一ページの後序。それを見ますと、「□□臣下、法に背(そむ)き義に違し、忿(いかり)成し、恨(うら)みを結ぶ。」と「主上」という活字がカットされて除いてある。空白になっている。ない。
ですが『教行信証』の原本(板東本 東本願寺蔵 古田武彦著『親鸞思想 -- その史料批判』明石書店)では、これは親鸞自身が書いたものですが、はっきり「主上」という言葉が書いてある。
どちらが親鸞の本当の言葉か。
この「主上」という言葉が、戦争中は観られたようにカットされて印刷されていた。それではなぜカットされたか。「主上」というのは、とうぜん天皇・上皇をそのように呼びます。「臣下」というのは貴族を指します。ですから「天皇・上皇・貴族たちは、皆正しい法に背き、(論理に)違反している」となる。京都四条河原で親鸞の先輩・同僚たちを切り捨てて殺し、法然・親鸞を流罪にした。その彼らの行為は正義に違反し、法に背いているものである。そのようにはっきり自筆本に書いてある。
ところが、それでは天皇・上皇が間違っていることになるから、ぐあいが悪い。
「主上」をカットした活字本を造った。戦争中はこのようなやりかたをしていた。
ですが、このようなやりかたは具合が悪い。詳しくはでかい本『親鸞思想 -- その史料批判』(古田武彦 明石書店)の中に、例はいろいろ書いてあります。要するに本願寺のその時、その時のイデオロギーにしたがって、原文を書き換えたり、読み替えて解釈を変えたりする。明治維新の「廃仏毀釈」の苦難の時がありまして、その後すぐ本願寺は天皇家と血縁関係を結ぶわけです。その時の都合に合わせた解釈をおこなう。
要するにその時代、その時代の権力とか教団の都合にあわせて、原文を書き換えたり、読み替えて解釈を変えたりする。わたしはそういう方法はダメだ。そう考えた。
そうしますとやはり原文・自筆本にさかのぼって確認しなければいけない。そういうことが親鸞研究を通じて分かってきた。
そこに持ってきて古代史の問題が出てきた。有名な推理作家の松本さんが中央公論で連載されていた『古代史疑』の「陸行水行」には、次の一節があります。
(この部分の詳細は、インターネット「新古代学の扉」「敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第一回~第六回」に掲載しています)
いろいろな学者が『魏志倭人伝』について書いているが、いいかげんだ。自分の説に都合の悪いところを、原文を書き直している。「南」とあるのは、「東」の間違いだ。「一月ひとつき」とあるのは「一日いちにち」の間違いだと。このように原文を書き換えれば、「邪馬台国」が分からなくて当たり前だ。このように松本さんは、登場人物の浜中浩三に語らせている。もちろん作者の松本清張の考えでしょうが。
そのとおりだと思って読んで、たいへん期待していた。ところが二年間連載されたが、最後まで「邪馬台国」は、「邪馬台国」のままだった。ところが「邪馬臺(台)国」は書き換えだ。原文にはない。
それでは、なぜ「壹」が「臺」に書き換えられたのか。それは江戸時代の初めに松下見林という医者であり学者が居た。彼の書いた『異称日本伝』にその考え方が書いてある。わが国の中心は天皇家に決まっている。天皇家は大和(ヤマト)に居られる。だから「ヤマト」と読めないものは間違いだ。だから読めなければ、読めるように直せばよろしい。
原文には「邪馬台国」はない。「邪馬壹国」です。「豆」が入った「壹」、当用漢字では「ヒ」が入った「壱」です。その「壹 一」しかない。これでは「ヤマト」とは読めない。だからその「邪馬壹国」の「壹」は捨てた。「邪馬(臺)台国」なら、なんとか「ヤマト」と読めるようだ。要するに原文を書き換えて大和に持ってきた。
それをまた新井白石が、九州にも「山門 ヤマト」と読めるところがある。ここでないかと書いている。これなどはわたしから見ると二重のあやまり。つまり天皇家に決まっているというところから始まって、「ヤマト」と読めないから、合わない写本を捨てるという方法。これから始まって、さらに九州に「ヤマト」と発音できるところがある。そこではないかと、九州の「山門 ヤマト」に持って行く。これがもっとおかしい。
ところが明治以後、皆さんご存じのように教科書では、「邪馬台国」は「九州説」と「近畿説」、両方あると書かれている。両方あるのは「邪馬台国」で、「邪馬壹国」があるわけではない。「邪馬台国」があるのは、近畿の邪馬台国か九州の邪馬台国か、どちらか、まだ結論は出ていないと書いてある。これは大嘘です。
教科書には大嘘が書いてあって、それを覚えて、そのとおり試験で書けば○。大嘘を書けなければ×。それが明治以後、敗戦後もそうであり、現在にいたる国の教科書や有名な出版社の本も、すべてこの通り。みんな揃って嘘を書けばそれが通る。しかし、それは明治維新からわずか百四十年。その間の政府や有名な出版社が、こぞって嘘を書いても、そんなものは時間が過ぎれは消えてゆく。
嘘であっても満点取ればそれで良いよ。真実は関係ないよ。そういう人間をいつまで育てているのでしょうか。わたしは人間という者はそんなものではないと考える。問題意識をもった青年が出てくれば、わたしがおかしいと考えたように、かならず邪馬台国はおかしいと考える。やはり「邪馬壹国 やまいちこく」を原点にして考えていく。「邪馬壹国 やまいちこく」という言葉を、なぜ「邪馬臺国 やまたいこく」という言葉に直すことができるのか。だいたい「邪馬臺国」という言葉は『三国志』にはない。
『後漢書』という百五十年後の本にしかない。しかも「邪馬壹国」と邪馬臺国」とは場所が違う。「邪馬臺(台)国」は、江戸城(皇居)のような狭い範囲を指す言葉だ。「邪馬壹国」は東京都のような広い地域を指す言葉だ。それに『後漢書』で、「臺タイ」を「ト」と読む例はゼロだ。まったくない。そういうことは、『「邪馬台国」はなかった』という本ではっきり論じている。
はっきり論じているのに古田説はなかったという顔をして、二十年・三十年知らん顔をして公の立場、学校で、教科書で教えて続けている。
(この部分の詳細は、インターネット新古代学の扉「邪馬一国の証明・わたしの学問研究の方法について -- 『古代史疑』からのスタート」に掲載しています。)
もっとひどい問題がありまして、有名な言葉「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙つつがなきや。」についてです。これについておそらく聞き覚えのない人はいないとおもう。教科書にかならず出てくる。ところが『日本書紀』『古事記』『風土記』にはいっさい出てこない。出てくるのは唐の始めにできた、同時代史料という貴重な史料である『隋書イ妥たい国伝』にだけ出てくる。国の名前だけ出てくるのではなくて、「イ妥国の天子」である「多利思北孤たりしほこ」という王様の名前も出てくる。それに「鷄*弥きみ」という妻・奥さんがいると書いてある。
それで隋の使いが日本(九州)まで来ていて、多利思北孤(たりしほこ)会って会話している。この「阿毎多利思北孤・・・・日出ずる処の天子・・・・」は、中国(隋朝)に送った国書(正式には上表文)の中に書かれている。それを隋朝から次の唐朝にかけて歴史官僚だった魏徴が『隋書イ妥たい国伝』で書いた。
ところが、多利思北孤(たりしほこ)や鷄*弥(きみ)のことは『日本書紀』『古事記』にはいっさい出てこないし、「日出ずる処の天子」の名文句も出てこない。その時期は大和朝廷では推古天皇の時代に当たる。推古天皇はもちろん女性である。
(隋書イ妥*の原文と古田氏の読み下し文は、巻末資料をご参照ください。)
追記:この講演記録では、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』の関連部分を掲載。
新訂 『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(中国正史日本伝 (1) 石原道博編訳 岩波文庫)
『隋書巻八一・東夷伝・倭(1)国(『隋書』倭国伝)抜粋
(1) 『隋書』は倭をイ妥*につくる。以下すべて倭に訂正した。附録、原文参照。
イ妥*:人偏に妥。ユニコード番号4FCO 訳
『隋書』倭国伝 訳注
・・・
魏より斉・梁に至り、代ゝ中国と相通ず。
開皇二十年(1)、倭王あり、姓は阿毎((2) あめ)、字ば多利思比孤((3) たりしひこ)、阿輩鷄*弥(4) と号す。使を遣わして闕(5)に詣る。上(6)、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと」と。高祖(7)いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓(おし)えてこれを改しむ。王の妻は鷄*弥と号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(8)となす。城郭なし。
鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE
(1) 隋の高祖文帝の年号、推古天皇八年(六〇〇)。
(2) アメ(天)か。
(3) タリシヒコ(足彦、帯彦)か。第一、これは男性のよびかたで女帝の推古天皇(豊御食炊屋姫トヨミケカシキヤヒメ)の音をうつしたと思われぬから、つぎの舒明天皇(息長足日広額オキナガタラシヒヒロヌカ)と混同した。第二、この時の使者を小野妹子とし、その出自は孝昭天皇の皇子天帯彦国押人命(アメノタリシヒコクニオシヒトノミコト)であるから、これと混同した。私見では天皇の諱に足彦というのが多いから、阿毎・多利思比孤は天足彦で一般天皇の称号であろう。
(4)オホキミ(大君)、あるいはアメキミ(天君)であろうか。松下見林は推古天皇の諱(いみな)の訛伝とするが、どうであろうか。
(5) 隋都長安(陜西)をさす。
(6) 高祖文帝をさす。
(7) 『北史』には文帝とある。 隋初代の天子(六八一 ー 六〇四)。
(8) 不詳。事実は聖徳太子をさすわけである。利歌弥多弗利(ワカミタラヒ稚足)とでも解すべきか。ワカミトホリ(若いお世嗣ぎ)の説もある。
・・・・
阿蘇山あり。その石、故なくして火起り天に接する者、俗以て異となし、因って[示壽]祭を行う。如意宝珠(にょいほうしゅ)あり。その色青く、大いさ鶏卵の如く、夜は則ち光あり。いう魚の眼精なりと。
[示壽]祭(とうさい)の[示壽]は、示編に壽。JIS第3水準ユニコード79B1
新羅・百済皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒(つね)に通使・往来す。
大業三年 (1)、その王多利思比孤、使 (2)を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩(ぼさつ)天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云云」と。帝、これを覧(み)て悦ばず、鴻臚卿 (3)にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。
(1) 隋煬帝の年号、推古天皇十五年(六〇七)。
(2) 遣隋使小野妹子をさす。
(3) 四夷に関する事務、朝貢来聘のことをつかさどる官。今の外相のごときもの。明年(1)、上、文林郎斐清 (2)を遣わして倭国に使せしむ。
(1) 大業四年、推古天皇十六年(六〇八)。
(2) 『北史』には斐世清とする。『隋書』は唐第二代太宗のいみな李世民をさけて斐清としたのであろう。
・・・・
現代語訳 『隋書』倭国伝
・・・・
魏(三国曹魏五代四十六年、二二〇 ー 六五)から斉(せい 南朝蕭斉しようせい=南斉七代二十三年、四七九 ー 五〇一)・梁(南朝蕭梁四代五十六年、五〇二 ー 五七)に至り、代々、中国とたがいに通じた。
開皇二十年(文帝、推古八年、六〇〇)、倭王がおり、姓は阿毎(アメ.天か)、字は多利思比孤(タリシヒコ・足彦・帯彦か)、阿輩鷄*弥(オホキミ大君、アメキミ天君か)と号した。使を遣わして闕(けつ 隋都長安)に詣った。上(文帝)は役人(係官)にその風俗を訪ねさせた。使者がいうには「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という」と。高祖(第一代文帝、五八一 ー 六〇四在位)は「これは大いに義理のないことだ」といって、訓(おし)えてこれを改めさせた。王の妻は鷄*弥(キミ・后か)と号する。後宮(宮中の妃嬪ひひんの居る所、奥御殿・内宮・後庭)に女が六、七百人いる。太子を名づけて利歌弥多弗利(和歌弥多弗利か、ワカミタヒラ・稚足・ワカミトホリ・若い御世嗣、ここでは聖徳太子)となす。城郭はない。
・・・・
阿蘇山がある。その石は、故なくて火が起こり天に接するもので、習慣として異となし、よって[示壽]祭を行う。如意宝珠(にょいほうしゅ)がある。その色は青く、大きさは鷄*の卵のようで、夜は光をはなつ。魚の眼精(めのたま・めだま)だという。
新羅百済は、みな倭をを大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。
大業三年(煬帝、推古十五年・六〇七)、その王多利思比孤が、使(小野妹子)を遣わして朝貢した。使者がいうには「海西の菩薩(ぼさつ 梵語Bodhisattva 菩提薩[土垂]の略、大道心衆生・道衆生・覚有情大士、高士などと訳す。大勇猛心をもって衆生を済わんとする者、仏につぐ位置にある)天子が重ねて仏法を興す、と聞いている。故に遣わして朝拝させ、かねて沙門(しやもん 梵語、沙門那の略、勤息・止息などと訳す。僧尼・桑門)数十人が、中国に来て仏法を学ぶのである」と。その国書にいうには、
日出ずる処の天子が、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)はないか、云々
と。帝はこれをみて悦ばず、鴻臆卿(こうろけい いまの外相)に命じた、「蛮夷(倭国をさす)の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(天子に申上げる)するな」と。
[土垂]は、土偏に垂。第三水準ユニコード57F5
・・・・
だから皆さんが習った教科書と教えた教師は、多利思北孤(たりしほこ)=推古天皇、男が女であるという大前提で書かれ、教えている。しかし、それは「多利思北孤(たりしほこ)」が男だと書かれていないからであって、すぐ後に「鷄*弥きみ」という奥さんがいることが書かれているから、男であることはすぐ分かる。元の本、たとえば岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』を買えば、まったく大嘘であることはすぐ分かる。古代史に関心のある人はまったくの大嘘であることをみんな知っている。そのみんな知っていることを、みんなが女が男であるということを覚えて満足している。そんな不正常なことを言って、天皇家を不思議に思わないはずがない。それを出している。海外でも、少し日本史に関心のある人は、大嘘であることはみんな知っている。しかし日本人に会っても、教科書にそんな大嘘が書いてあっても、礼儀上言わないことになっているから、その日本人には言わない。しかし内心は、そんな大嘘をつく日本人は信用していない。信用していないことは間違いない。
わたしは、やはりそういうことはアウト。やはり真実の立場に立たなければならない。
加えて、昨年はわたしにとって、たいへん意味のある時代の始まりの年になったと感じている。日本に住んでいる中国人の女性張莉(ちょうり)さんの論文です。十七年日本に住んで居られ日本語も達者で、そのかたが立命館大学から論文を出された。そこではっきり「古田」という名前を出されて、やはり古田の言っていることは本当だ。あの『古事記』・『日本書紀』で書いている天皇家という王朝と、多利思北孤の居る王朝とは同じ王朝だと、どうしてもおもえない。別の王朝である。このように繰り返し繰り返し書かれている。
このように中国人が明晰に言っているのに、文部科学省や出版社さらに新聞・テレビなどは素知らぬ顔をしていて、日本側は未だにウソを言い続けているという現在です。
[参考 論考をインターネットで新古代学の扉「中国人へのメッセージ」に掲載しています。)
そういうことで今まで言ってきたことは明らかなことですが、それに対して反対論はどうか。これも時間をかけるわけには生きませんので、代表的な例として「三角縁神獣鏡が中国の鏡である」という反対論を簡単に出しておきます。
『三角縁神獣鏡綜鑑』(新潮社 平成四年 樋口隆康)で、樋口さんは、三角縁神獣鏡を次のように定義している。
1、径は二一センチ~二三センチのものが最も多く、まれに径が一九センチや二五センチのものがある。
2、縁の断面が三角形を呈している。
3、外区は、鋸歯文帯、複線波文帯、鋸歯文帯の三圏帯からなる。
4、内区の副圏帯は銘帯、唐草文帯、獣帯、歯文帯、鋸歯文帯のいずれかが多い。
5、主文区は四又は六個の小乳に等間隔に区分され、その間に、神像と瑞獣を求心式か同向式に配置する。
6、銘文は七字句数種と四字句一種がある。
この定義を造られた樋口隆康さんは、きちんと反論されるかたで、たいへん尊敬している。明晰にものごとを述べられるかたで、かつ古田はこのような問題を以前から言っている。そのようにきちんと答えて論文で反論を書かれたかたです。
それに対して、福永伸哉さんという大阪大学の教授がおられる。そのかたの講演があって聴きに行きました。そうしますと依然として、樋口隆康氏の先輩である小林行雄氏の三角縁神獣鏡の考えを踏襲して史料にしておられる。
「三角縁神獣鏡と邪馬台国 -- 所在地論争」福永伸哉(第六回学士会関西茶話会 二〇一四年四月十二日)
(『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(二〇〇五年八月)よりの資料)
その方がテキストに使われている『三国志魏志倭人伝』の原文というのが記載されています。ですが依然として「邪馬壹国」は「邪馬台国」の書き誤りだと、手直されたものを原文と称し、方向の「南」は「東」の誤りと解釈して、三角縁神獣鏡は、卑弥呼からもらった鏡だという議論を展開されている。
それから、もう一つ「へっ」と思いましたのは、簡単に言いますと『魏志倭人伝』の中に「銅鏡百枚」ともらったと書いてあります。しかし、この「銅鏡」がどんな種類の鏡とは書いていないがもらった。
ところが現在日本で出ている「三角縁神獣鏡」はもう五百枚を超えている。それにたいして福永さんが言うのは、書いてあるのは一回きりでしょうが、書かずにもらってきたものが、五回もらってきたなら五〇〇面になると講演で言われてたいへん驚いた。確かに日本で出土したのは五百枚を超えている。しかし本当は、存在したものは出土した五倍・十倍の数がある。存在したものが全部出土したはずがない。五倍なら二千五百枚、十倍なら五千枚眠っているし実物を造っている。ところが中国から、樋口隆康さんが定義した「三角縁神獣鏡」は、いっさい出土しない。
最近中国からも出土したという話だけはあるが、簡単に言うとこれは三角縁神獣鏡が造られる以前の元の鏡である。(最終的に現物を見てからもう一度話をしたい。)ここで樋口さんが定義した大きさや図柄に当たるものは一面も出ていない。中国で全部造って日本に持ってくる。もしそうなら千枚・五千枚になるでしょうが、一枚も中国から出ていない。
『魏志倭人伝』に書いていないだけ。実際は毎回中国から日本に持ってきていた。考古学の専門家がそんなことを言うのは、はっきり言えばダメである。
そのように考えました。
立ち入ったことは、今日は時間の関係でお話し致しません。
次にご紹介したいのがアメリカの独立のバイブルと言われ、アメリカ独立のきっかけとなった本が、トーマス・ペインの『コモン・センス』(岩波文庫 小松春雄訳)です。
そこで言われていることは、「今、アメリカは大英帝国というイギリスの植民地となっている。」アメリカ独立以前のことですから。そして植民地のアメリカにいるイギリス人のためにイギリスの軍隊を派遣している。要するに、アメリカの要所、要所にイギリスの軍隊を派遣しているのは、これは現地のイギリス人を守るためである。しかしそれは嘘だ。なぜ嘘かと言えばイギリス軍をアメリカに駐屯させているのは、大英帝国というイギリスの利益を守るためにイギリス軍を駐屯させている。イギリス自身の利益を守るために軍隊を駐屯させているに過ぎない。こういうことを言っている。これは「革命」ですね。革命だがこれを聞いて、皆さんピンと来ませんか。
アメリカは日本列島にアメリカ軍を各地に置いている。それは日本を守るためだ言っていますよね。だがそれは嘘だ。これと同じだ。この『コモン・センス』を書いたトーマス・ペインが、今の日本の現状を見たら、アメリカは嘘を言っている。
今日本は、アメリカの植民地になっている。そう皆さんは思いませんか。
さらに日本はアメリカの恩恵を一方的にこうむっているから、アメリカも財政的に苦しいから、やはり日本も在日米軍の費用を負担したり、自衛隊が海外でも戦えるようにして、アメリカにお返ししなければという議論が今されている。
従来この『コモン・センス』は、わたしの愛読書の一つだった。ところが今読み返してみると、もっと凄い本です。
ここで『コモン・センス』中の「厳粛な思い」を朗読、以下引用します。
『コモン・センス』 トーマス・ペイン
岩波文庫 小松春雄訳
「厳粛な思い」より引用
東インドでイギリスが行なっている恐ろしい残虐行為について深く考えてみるとき ――そこではいかに多くの人間が飢餓政策によって殺されていることか ――いかに宗教や名誉・公正を重んじる高潔な原則が一つ残らず快楽や高慢のために犠牲にされていることか、 ――また哀れな土着民が悲惨な光景を見るに忍びず戦うことを拒否したという理由で、ほかにはなんの罪もないのに抹殺されているという報道を見るとき、 ――さらにこれらに類した無数の野蛮な事例にっいてよく考えてみるとき、全能の神が人類を哀れに思われて、イギリスの権力をとり上げてくださるものと確信する。
またこの新世界の発見に当たって、イギリスがつくった慣行についてよく考えてみるとき ――初期の国王たちは王の王である神の偉大な目的を無視して真っ先に自分のちっぽけな、くだらない威厳を打ち立てようとしてきた ――イギリスはインディアンに対しキリスト教徒の手本を示さないで、卑劣にもかれらの激情を駆り立て、その無知につけ込んで、裏切りや殺人の道具としてきた、――さらにこのほかにも悲しい思いをさせられるものは数々あるが、なおその上に次のような悲しむべき意見をつけ加えねばならないとき ――アメリカ発見以来常にイギリスはどんな野蛮な国民でもしたことのない人間売買という、最も恐ろしい商売に専念して、毎年(平然と冷酷に)不幸なアフリカ海岸に侵入して無抵抗な住民を奪い取り、盗みとった西部の領土を開妬させてきたのだ、――以上のことを深く考えてみるとき、一瞬のためらいもなく、結局は全能の神がアメリカをイギリスから引き離してくださるものと確信する。それを独立と呼ぶかどうかは、自由である。それが神および人類の目的であるなら、いずれはそうなるであろう。
なお全能の神が慈悲を垂れたまい、われわれをただ神のみ服従する国民にしてくださるとき、大陸の立法部が制定する法律によって最初の感謝の意を表明したいものである。すなわちこれによって黒人の輸入や売買を禁止するとともに、すでにアメリカに来ている黒人に対しては、そのひどい運命を改善してやり、これを適当なときに解放することにしよう。
ヒュマヌス (Humanus ラテン語。「人間の」、「人間的な」という意味の形容詞。)
ここで東インドと言っていますのは、現在の東アジアのインドです。そのインドで、イギリスは残虐な行為を繰り返して行っている。そしてアメリカでは、黒人をアフリカで捕らえて人身売買の商売に使っている。
ところが、われわれが敗戦後与えられたイメージ、学校で覚えさせられた歴史のイメージはどうなのか。悪いのは日本の軍隊だ。日本軍が、朝鮮・韓国や中国でおこなった行為はとんでもないことだ。その考えそのものは、わたしはたいへん賛成です。ところがアメリカ・イギリスにより、朝鮮・韓国や中国の民衆は日本軍によって救われたと。そういうイメージを与えられていると思いませんか。
しかしアメリカ・イギリスは、トーマス・ペインの『コモン・センス』のようなひどい国である。そういうことは教育として教えられましたか。
むしろ教えられたのは、戦争中の日本軍はひどい。日本の敗戦によって日本を救ったと。民主主義の国アメリカ・イギリスが、日本(軍)を破ることにより、敗戦によって日本を救ったと。そういう教育をされませんでしたか。わたしも教師をやっていたから、そのことはよく分かる。
しかしわたしは敗戦のとき仙台にいたが、そんなことはない。アメリカ兵が乗り込んできたとき、仙台でも残虐行為を行っていた。
しかしアメリカ・イギリスに対するイメージだけは、幼い子供に対して、日本(軍)を破ることによって日本を救ったという良いイメージを形づくった。戦前の日本軍は酷かったが、戦後の日本は良い時代になったというイメージを、そういうイメージを持った頭の人間を大量に造ったのではないでしょうか。
これ以上詳しく言いませんが、一つだけ加えて付け加えておきます。最後に「ヒュマヌス (2)」とあります。注釈(2)で書いてありますが、ラテン語の意味で「Humanus」で、「人間の」と書いてあります。ラテン語は所有格とは言いませんが、しかし形容詞が最後に書いてあるのはおかしい。著者の名前なら分かるのですが。それで今日も持ってきていますがラテン語の辞書。それを見ますと、間違いなく名詞でなく形容詞が最後に書かれている。名詞は別にある。「Humanus」は、英語で言えば間違いなく所有格に当たる。
英語版の『コモン・センス』を読んでみれば分かりますように、「Humanus」とトーマス・ペインは間違いなく書いています。ですからトーマス・ペインが言いたいことは、「わたしが書いたことが問題ではない。真実かどうかが問題なのだ。」そういうことを強調しているのです。だからここは「Humanus 人間の誰か」が叫(さけ)んでいる。これが形容詞の「Humanus」で、この本を終えている意味なのです。素晴らしい本です。
ですからみなさんが人間なら、アメリカ・イギリスは素晴らしかったと思わない。人間にあらざる奇行、アタマを洗脳された人間、人間以外の行為をアメリカ人・イギリス人は行っていた。(その延長上に現在のアメリカ・イギリスはある。)それをアメリカ人・イギリス人自身がはっきり自覚することが大事だ。
そういうことがこの本に書かれている。
ということで、わたしの尊敬する人物の一人に『三国志』を書いた陳寿という人物が、おりますことは言うまでもありません。このアメリカ人であるトーマス・ペインもそれに劣らずたいへんな尊敬する人物の一人であった。 そういうすばらしい人物をご紹介させていただきました。
さてそう時間が残っておりませんが、もう一人尊敬する人物を紹介します。
秋田孝季(あきた たかすえ)の花押を押した文章を挙げておきます。『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』の中、寛政原本の一節です。
(『古代に真実を求めて』 第十七集 「歴史の中の再認識」、『古代に真実を求めて』 第十一集 「寛政原本と学問の方法」を参考にしてください。
さて『東日流外三郡誌』・和田家文書に関して、わたしは「寛政原本」が出る出ると言っていましたが、出ました。『東日流(つがる)[内・外]三郡誌(さんぐんし) -- ついに出現、幻の寛政原本』(株式会社オンブック 古田武彦/武田侑子 編)です。写真版で出しました。
この第五資料の眼目は、「寛政五年七月二日 秋田孝季 花押」とあるところです。現代のわれわれが押す印鑑のかわりに秋田孝季の花押がある。これが秋田孝季の筆跡の基本になる。秋田孝季の若いときの字は繊細で非常に美しいもののですが、これは晩年の字で目が見えにくくなっていて書いている字と考える。最初わたしは別人が写したものと考えていましたが、やはり手慣れた晩年の寛政五年段階の字であることが分かってまいりました。この内容が凄いの紹介します。(原文の写真は、後半部のみで、前半部は省略しています。)

『東日流(つがる)[内・外]三郡誌(さんぐんし) -- ついに出現、幻の寛政原本』
(株式会社オンブック 古田武彦/武田侑子 編)
第五資料「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人、秋田孝季、及び第一巻」
(読み下し文)
一、天地の創(はじめ)内至(ないし)命体(めいたい)の起源(きげん)
大宇宙に星なる天体の数、幾千万ぞ。その遠近亦(また)計(はか)り知らず。吾等に見ゆる光陰の月日とて、摩訶不思議なる天体にて古人よりただ神とぞ教へ伝わるのみなり。
凡そ大宇宙とてその天地の創(はじめ)あり。地上なる生命体とて起源ありて、現世に移(あわ)せみたるものならなり。大宇宙なる創(はじめ)において星の顕れき(「し」か)は宇宙空間に原相あり、無限の星幾千万と誕生せしめたるものにして、吾等が祖人は荒覇吐(あらはばき)祖神とぞ言ふなるも、他に解(と)きがたきゆえなり。
日輪・月界・地界とて星界より誕生せるものなり。地界に生命体の発生をせしは、日輪の光熱、月界の暗冷に依りて大海中に生命の原体誕生せ(「し」脱か)むなり。
抑々(そもそも)万物発生のものは皆、此の原(もと)なる生命体より種々に文生せりと言う。依(より)て、万物は皆、生命原素は同じき永き世襲にて、万種に類生せるものと思(おぼ)へ覚(さと)りて真實なり。
星界においても、生命あり。死骸あり。常々星も生死せり。
是(これ)すなわち天地の創(はじま)りにして、万物生命体の起源なり。
依(より)て、是(これ)を天然(てんねん)の原則と号(なづ)く。かまへて天地の開闢(かいびゃく)を神なる創造と迷信するべからず。
寛政五年七月二日
秋田孝季(花押)
(解説)
われわれは荒覇吐(あらはばき)祖神という言葉を使っているが、内容はそういう大宇宙の姿そのものを表現したものであって、仮に他に言いようがないから荒覇吐(あらはばき)と言って表現しているだけだ。
星の世界にも、生まれた時あり、滅んで死骸になるものもある。常々星も宇宙も生まれて殺されていく。死んで行くものもある。例外はないのだ。
これが天地・自然・生命の始まりであって、神様が別に居てこの宇宙を創ったというのは迷信だ。そのような迷信に騙されてはいけない。
この最後の言葉が凄いですね。江戸時代の人がこういうことを言っている。凄いですね。

まず最初に世界地図の中にあるギリシャ・ヨーロッパの地図をご覧下さい。そこにオリンポス山やアテネがあります。
まずギリシャ神話では、「太陽の神アポロは、毎日夕方になるとオリンポス山に向かって行く。そこに沈んでいく。」という一節がある。これはおかしいですね。なぜおかしいかと言えば、地図をご覧になれば分かるように、アテネから見ればオリンポス山は北西の方向にある。アテネでは太陽は北西の方向に沈むのですか。わたしは行ったことはないが、そのようなことはわたしには考えられない。それでは何かというとトロヤです。オリンポス山はトロヤから見ると真西。ですからギリシャ神話と言っているのは、本来トロヤ神話ではないか。それがギリシャがトロヤを征服して、神話も頂いてきてギリシャ神話と称した。わたしは、そのように考える。
これは九州王朝神話を『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。これは最初言いましたように『隋書』に出てくる「日出処の天子」は、わたしが言う九州王朝の天子である。『日本書紀』には出てこない。それを証明するものは神護石山城群の分布図である。

この神護石山城群は、どこを囲んでいるのか。それは筑紫である。ほとんど福岡県(筑紫)です。一部山口県(岩城山)にある。神護石山城は、山を取り囲んで雄大なる軍事要塞として建設された。この神護石で囲んだところが山城であることは、一九六三年鏡山猛(九州大学)さんを団長とするオツボ山神籠石(佐賀県武雄市)の発掘調査により判明した。「山城」だったのである。これら神籠石群のそばに、二重の柵列が延々と配置されていた事実が明らかにされた。
ところが現在の教科書・学界では、この神護石山城群は七世紀以後に大和朝廷がお造りになったと教えている。しかしそれでは、この神護石山城群の地図は出せない。筑紫(九州)中心の地図では、なぜ大和朝廷がこの神護石山城を造ったのか。そういう質問を生徒にされたら返事に困る。このような地図を隠しておいて、大和朝廷がここにお造りになったと言う。みんなは、それを覚えさせられていて、テストで大和朝廷が造ったと言えば○。間違っていると言えば×。
ところが今のように、説明は大和朝廷が造ったとも、わたしが言う九州王朝が造ったとも、どちらでも説明できる。しかし九州・筑紫を取り囲んでいる神護石山城群は、現実に実在している。九州・筑紫中心の神護石山城群を全部移築して、全部大和を中心にした要塞に作り替えたということはありえない。この神護石山城の存在、そのものを一つとっても、(三世紀に)初めから邪馬台国は近畿にあったという邪馬台国大和説や、九州にあった邪馬台国が近畿に移ったという邪馬台国東遷説はありえない。
むしろ三世紀以前から七世紀までは九州王朝が存在したという、わたしの説でないと客観的な事実は説明できない。説明できなくとも良いわけです。邪馬台国は大和であるということを、教育としては覚えれば良いわけです。しかしそういう時代はもうアウト。真実を真実として明らかにする。
この問題は、実はヨーロッパも同じである。ヨーロッパの始原をなすのは、一方はギリシャ文明、一方はヨーロッパでの人間の大移動。いわゆる「ゲルマンの大移動」。しかし、これは嘘です。人間が住んで居ないところに、草木しかない無人の地にゲルマン人が大移動した。そういうイメージを持っていませんか。
そんなはずはない。遺跡から見ても、何千年、何万年前の人間が造った遺跡が存在している。ですから人間はゲルマン大移動の前から住んで居た。かれらも宗教を持っていた。それをゲルマン人は、魔女の宗教と称して、(キリスト教に)従わないものを次々と虐殺して行った。その記録もある。ですからゲルマン人が、以前に住んで居た人々を征服して、その上に成立していったのが今のドイツ語・フランス語・スペイン語・英語である。単純化して言えばそうなる。今の英語・ドイツ語は、東から来たゲルマン人が征服して出来上がった言語である。
そういう解説は行われていない。嘘でも良いから、ヨーロッパで建前としていることをオーム返しに教えれば良い。
それで最後に申しあげたいことは、現在の国家、宗教には大きな矛盾がある。
宗教も国家も、それぞれ意味があって人類の中に誕生している。そして教育その他におおきな業績を挙げたわけです。しかしそれと共に大きな過ちも犯した。
自分の宗教に反する立場の人、自分の国家に敵対する人間は殺せばよい。殺せば殺すだけの栄誉を与える。日本の靖国神社だけではない。ヨーロッパも同じである。殺せば殺すだけの永遠の栄誉を与えられるという嘘を基盤にしているのが、現在の宗教であり国家である。
しかし絶対に間違いのないことですが、宗教や国家が人間を生んだのではない。
宗教や国家は人間が生んだものです。宗教や国家が人間を殺すことを奨励し、意義を保証するような宗教や国家は廃棄を主張すべきである。そういう時代は、すでに始まっている。
始まっているというのは、それをはっきりしめすのは原子爆弾。これははっきり言って人間の能力を超えている。
これに比べれば、今までの戦争は小競り合い。小競り合いだから、まだ国家に敵である人間を殺す権利を与えていた。しかし水素爆弾・原子爆弾が生まれたということは、人間としてはもう宗教や国家の手に余る世界に実際は移っている。
だから国家や宗教に人間を殺す権限を認められていた時代はもはや過ぎ去った。
そういう国家や宗教に対し、人類にとってお払い箱にならなければいけない時間帯に世界はなった。だから自分の国の法律がどうだと政治家はいろいろ言っているが、人類という立場に立ったとき、国家や宗教に人間を殺す権限を承認する時代は過ぎ去った。このように人間は今はっきりという権利がある。
これが今回のお話しの結論でございます。どうもありがとう御座いました。
(司会)ありがとう御座いました。これより質疑応答に入りたいと思います。
(質問1)大和朝廷は、邪馬壹国(邪馬台国)や卑弥呼のことを知っていたと思いますが、それが『古事記』『日本書紀』になぜ書かれていないのか。
(回答)
それは『古事記』『日本書紀』そのものでもお分かりのように、大和朝廷が公的な存在になったのは、七〇一年以後です。
有名な例では「郡評論争」というものがありまして、大和朝廷の制度が「郡」、九州王朝の制度が「評」です。その境目が七〇一年です。すでに坂本太郎・井上光貞氏等による「郡評論争」により、はっきり制度が、七〇一で変わったことを示しています。もし「評」という制度が大和朝廷の中での制度なら、「評」という制度を廃止して「郡」という制度に換えると詔勅が出なければおかしい。
ところが、そのような大和朝廷の詔勅は一切ない。『日本書紀』にもないし『続日本紀』もない。「評」という存在を消してある。自然発生的に、今までの「評」という制度が、パッと一年で「郡」という制度に換わることはありえない。事実、九州太宰府に都督府という名前が附けられている。
『日本書紀』の最大の目標が、九州王朝という存在を消し去る目的で造られたものです。だから歴史書というものは、事実をありのままに書くというものではなくて、その直前の王朝を消し去るために造られたものである。今後はそのことについて述べるつもりです。
(質問2)先生の著書を読んでいて、真実をどう捕らえるか。そういうことがたいへん印象に残った者です。新聞・テレビなどこれだけ膨大な情報量のある中で、「真実」なるものをどうして獲得されているのか。毎日どのような態度で過ごしたらよいか、どのようなことを注意して過ごされているのか。先生の体験から見て、アドバイスしていただければ、たいへんありがたい。
(回答)
一般論として、わたしの立場を言え。そのように理解して回答します。
わたしの立場は簡単と言えば簡単でして、現在教科書や学界が採用している考えをまず止める。捨てる。わたしの立場は元史料としての一番古い原本を尊重する。「邪馬壹国」であれば陳寿の書いた『魏志倭人伝』、「日出処天子」であれば魏徴が書いた『隋書イ妥国伝』という同時代史料をまず解読する。その結果と考古学資料、今日の話であれば、神護石山城(朝鮮式山城)がありましたね。神護石山城の分布図という考古学的な事実、それと文献が対応しているか検討する。通説では合わない。わたしの分析するところでは一致する。
ですから文献に対する解読と考古学的出土物が一致したときに、歴史学の真実になる。わたしの書いたものを読んでいただいて、そういう目で見直していただけたらありがたい。
(質問3)今日、上高地の西糸屋山荘の元主人奥原教永さんから、古田先生にぜひお聞きするように命ぜられましたことをうかがいます。「深志から始まった九州王朝 -- 真実の誕生」という今日のタイトル。これは先生が教鞭を執られたころ、生徒から質問された歌「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」。これが先生が大きな研究の端緒になったとお聞きしております。
そのことをぜひお話しいただけないかということです。よろしくお願いいたします。
(回答)
奥原教永さんは、わたしが先生として赴任したとき最初住まわせてもらった松本深志高校の「尚志社」の寮長です。この「尚志社」は、現在の深志教育会館にありました。わたしが先生でしたが、生徒の寮長のおかげで、住まわしてもらったありがたい存在です。
それで「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」、この歌の理解は、まさに深志で生まれた問題意識でありました。最初は通説通り解釈しておった。通説通りというのは、この歌は『古今集』にあり、阿部仲麻呂という人物が遣唐使で中国へ行って帰ろうとしたとき、呉の明州というところで船出するとき別れの宴会があった。月が上がってくるのを見て作ったと書いてある歌。
「天空を見上げて、振り返れば月が見える。我が故郷の大和の春日の三笠山にでた月だ。」とそういう解釈を授業で行った。
授業が終り帰ろうとすると、廊下でバラバラッと生徒たちに取り巻かれ質問を浴びせられた。
(生徒)先生、今日の歌について、質問していいかね
(古田)ああいいよ
(生徒)呉の国から大和は見えるのかね。
(古田)それは見えない。「ふりさけみれば」は、はるばるとその向こうにという意味ではないか。
(別の生徒)なぜみんな宴会の時、西向いとったんかね。
(古田)なんでそんなこと、ワシが言ったか?
(生徒)だって「ふりさけみれば」というのだから、振り返って日本が見えるというんだから、日本は東にあるじゃろ。それまで皆西向いておらにゃならんじゃないか。どうして宴会の席で、みんな西向いていたのかね。
この辺までは例によって、生徒が若い先生にイチャモンをつけて、苛めていると。連中来たな!
こっちはそのくらいに思って「負けんぞ」という気持ちでおった。ところが最後の質問でトドメを刺された。
(もう一人の生徒)先生、その春日ちゅうのは、中国でそんなに、有名なんかね
(古田) えっ!、どうして
(もう一人の生徒) だって、大和なる三笠の山と、どうして言わんのだい。大和なら中国でもみんな知っている地名だろ。春日というのは大和の中の小さい地名だろ。春日って中国ではみんな知っているのかい。
この質問には、ざっくり首を斬られた感じがした。生徒には「次の時間までに考えてくるから」とその場をおさめた。でもね、私はこのときは、「まだまだ。」と内心は思っていた。その時は新米の教師で、初めは社会科で一年やってから、校長から「国語に変わらんか」と言われて変わったが、国語はぜんぜん知らなかった。
でも土俵を割ったつもりじゃなかった。職員室へ帰れば、活きた虎の巻がいた。
石上順さん・・国学院出身で折口信夫(釈超空)先生の直弟子で、その先生の伝記にも名が出てくる・・・というベテランの先生が左隣の机にいられた。その先生に聞けばなんでも教えてくれた。帰ってその先生に「どうでしょうか」と聞くと、ニヤニヤ笑って「連中、なかなかやるねぇ」。何も教えてくれない。
つまり国語の古文の辞書まで作られた石上さんの目にも解説できなかった。
わたしは次の時間にも「わからん」と言わざるを得なかったんです。
これが解けたのは、質問を受けてから二十五年も経って、古代史の世界に入って対馬に船で行った時です。博多から壱岐を通って対馬へ船で向かったとき、あるところで西に向きを変える。博多からずーっと行きますと、対馬の西側浅茅湾へ入るには、大きい船は壱岐の北東側をまわって、そこの水道で、西に向きを変えるのがスムースなんです。船のデッキに出ていて、西むきの水道に入ったときに博多方面を観ていた。たまたま目の前に壱岐の島があり、船員さんに「ここはどこですか」と壱岐の地名を聞いたら、「天の原です。」と言われて、ギョッとした。こんなところに「天の原」がある。確かに考古学的には壱岐に天の原遺跡があり、銅矛が三本出土したことぐらいは知らないではなかったが、その遺跡がどこにあるかは、確かめたことはなかった。ところが目の前というか目の下に、船の曲がり角のところに「天の原」があった。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」、この歌が造られたのは、通説とは違って、ここ「天の原」ではないか。ここを過ぎれば、春日なる三笠の山は、もう見えなくなる。なつかしいふるさと日本は見えなくなる。
その時は、もう九州の「春日と三笠山」については、一応知っていた。旧制広島高校時代の無二の親友といってもよい友人が九州春日市にいた。そこの家に泊めてもらって、福岡・博多湾岸を歩き回った経験がある。だから一応地理は知っていた。春日市、須玖岡本遺跡があるところ。三笠山、現在名は宝満山。仏教的な命名で後で付けられた名前。ほんらいは御笠山という山がある。ここの御笠山は、御笠川が博多湾に流れていて、御笠郡がある。ですから「天の原 春日 三笠山」三カ所ピッタと結びついた。
ところが、「天の原」があり、船のデッキから見ると、ドンピシャリ見えるというわけではないが、大体あの辺りが御笠山となる。しかも後で知ったことですが、ふりかえって見ると、目の前に御笠の山が二つある。金印の出た志賀島。そこにもそんなに高くはないが御笠山あり、他方は宝満山とよばれる御笠山がある。「筑紫なる三笠の山」と言えば、どちらか分からない。ここでは宝満山を御笠山に特定するためには、「春日なる三笠の山」と呼ばなければならない。
たしかに仲麻呂は呉の国明州で、別れの宴でこの歌を歌ったでもかまいません。
しかし、その場で造って歌ったのではなくて、日本を別れる時に造った歌をそこで歌った。
これはわたしにとって、一つのエポックとなった。
これは古今集ですが、やはり万葉集というのは、歌そのものを正確に理解することが第一。まえがきという状況説明は併せて理解する。つまり歌は第一史料、まえがき・あとがきという状況説明は第二史料である。そういうテーマまでたどり着いた。これが深志高校での経験です。
ついでながらに経験したことを言いますと、万葉集の歌そのものの理解と、まえがきの理解とは、たいへん食い違う。歌そのものは女性の歌であるのに、まえがきは男の歌となっている。歌そのものは、春の歌であるが、ま えがきは冬の背景であったりする。歌の内容とまえがきとは各所で食い違っている。
やはりこれは歌そのものは、第一史料として正確に理解する。まえがきは後の解釈として理解する。つまりその「まえがき」が合っているかどうかは分からない。編纂者の都合で付けたものだから。両方合っているという立場で、解釈するとアウト。そういう立場で考える。
もう一言付け加えると、これだけ、まえがきと歌の内容がずれているのに、万葉集の編者は気がつかなかったのか。各所において合っていない。
これはそうではなくて、「これは違います」というシグナルだった。歌の内容とまえがきとは違っていますよ。そういうことを後世のわれわれに知らせたかった。
新しい歌集を作れ。つまり今までの九州王朝の歌を採用して、それを近畿天皇家の歌に造り替え、編集するように命ぜられた。命令するほうは新しき権力者ですが、命令されるほうはたまったものではない。そこに葛藤があった。九州の吉野(ヶ里)の歌を、擬せて奈良県吉野の歌にする。単語は共通しているが状況はみんな違っている。 これを読めば大和でないことは分かるでしょう。後世の人に謎をかける。そういうつもりで編纂したのではないか。そういうことに気がつきました。それで研究が進展しました。
最後にもう一言、二・三日前に対面したことをお話ししたい。
神様と悪魔、あるいは天国と極楽、これらはワンセットの概念ではないか。これがワンセットの概念であることは間違いないが、同一群・同一者の概念ではないか。同一の人間を、前から見る姿と、後ろから見る姿は、当たり前ですが違います。同じように、こちら側から見れば神様、あちら側から見れば悪魔ではないか。わたしは今そういう大問題にぶつかっている。材料はたくさんある。いろいろなかたが神様や悪魔、天国や地獄という概念を使っていろいろなことを書かれている。先ほどの『コモンセンス』でも、神様という基本概念の上に立って、イギリスのありかたを批判しています。ところが逆に、人間が国家に与えた権能は人を殺す権能を与える。宗教も国家も同じやり方をしている。やはりこれは何だろうか。
これはやはり同じものを違うところから、見ているのではないか。ですからそういう天国と地獄、神と悪魔、そういうものを見いだした母体をを批判すべき時に来ているのではなかろうか。なぜなら先ほど言いましたように、国家というものを発明した時代には、原水爆という思いもかけなかったものが人間の手に握られた現在。それを勝ったほう、アメリカ・ロシア・中国の手に握られている。
かれらは国家や宗教の権能を守ろうとしている。原水爆という思いもかけなかったものを勝ったから手に入れ、このまま続けたい連中。
われわれは、幸いというか負けたから人類にとって戦争というのは、不幸だということが分かる。原水爆・戦争はあるべきでないものだ。そういうことが分かる。負けた日本に生きているせいです。負けた日本に生きているということは、素晴らしい時代と地域を生きている。自殺などはとんでもない。そうだそうだと思うだけでも人類に多大な貢献をしている。そういう思想の問題を一生懸命考えているところで御座います。また今後どうなったかご報告いたします。ありがとうございました。
古田武彦講演記録
深志から始まった九州王朝 -- 真実の誕生
平成二十六年度「知の交差点」講演会,
古田武彦講演 二〇一四年一〇月四日 午後二時~四時
長野県松本市深志高等学校 深志教育会館にて
(テープ起こし 横田幸男)
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敵祭 -- 松本清張さんへの書簡 第一回から第六回へ
『古代に真実を求めて』 第十一集 「寛政原本と学問の方法」
制作 古田史学の会