古田武彦講演録  古田史学の会・新年賀詞交換会 二〇一四年一月十一日 午後一時半〜四時半 場所:大阪府立大学I-siteなんば  歴史の中の再認識   論理の導くところへ行こうではないか -- たとえそれがいずこに至ろうとも 古田武彦 一、安国のこころ  古田でございます。次々と心籠もるお話しをいただきましてありがとうございます。講演が始まる三十分前まで控え室に一人待機しておりました。それで講演で話すことそのものはあらかじめ確認して参りした。それ以外に何か話さなければならないことがある。そういうことが胸に閊(つか)えておりました。それが遅まきですが、やっと分かりましたので、この会場にきたわけでございます。  始めに申しあげたいのは最近現役の総理大臣である安部さんが参拝し問題になっている靖国神社の問題です。この問題に対しては、もちろんわたしと安倍首相とは考え方も違います。また一般の新聞・テレビが扱っている論点とも違っています。そのように感じております。まずそれがわたしから見ると、どう見えるかについてお話ししたい。このことそのものは最初から考えていたことですが、次の展開を述べてしっかりと論文に書きたいと考えます。  それでこの問題を考えるために、史料としてわたし自身の本『まぼろしの祝詞誕生 -- 古代史の実像を追う』(新泉社 第一刷 1988年)を読み直しておりました。ここでは『祝詞』(『古事記・祝詞』岩波日本古典体系本)を扱っております。初めは『祝詞』全体を扱いたいと考えておりましたが、書いているうちに問題が次々と展開しました。それで三木太郎氏と論争した「邪馬台国論争」と、先頭に書いた基本をなす「祝詞誕生 -- 「大祓」の史料批判」だけになりました。  これを読み直しているうちにハタと気がついた。  それは引用しましたように「安國 やすくに」という言葉が『祝詞』に二回出ています。  今問題のところは何か、「天つ罪」と「國つ罪」という言葉が出てまいります。  まず「天つ罪」とは何か。「畦放ち あはなち」「溝埋め みぞうめ」「樋放ち ひはなち」「頻蒔き しきまき」「串刺し くしさし」「生け剥ぎ いけはぎ」「逆剥ぎ さかはぎ」「屎戸 くそへ」とあります。「許多ここだくの罪」  次に上げるのは「國つ罪」です。凄い罪「生膚絶ち いけはだたち」「死膚絶ち しにはだたち」「白人 しらびと」「胡久美 こくみ」「おのが母犯せる罪」「おのが子犯せる罪」「母と子と犯せる罪」「子と母と犯せる罪」「畜けもの犯せる罪」「昆はふ虫の災わざはひ」「高つ神の災」「高つ鳥の災」「畜仆けものたふし、蠱物まじものする罪」「許多ここだくの罪」とあります。「母と子と犯せる罪」と「子と母と犯せる罪」は、順序は逆ですから内容が違うのではないか。それらの罪を、何処から何処へ払い捨てるという展開になっています。  結論から言いますと、北部九州・筑紫の海が原点になっていて、そこの河に罪を流して捨てる。その罪は、北部九州・筑紫の海から出雲付近にあると思われる「根の国・底の国」にたどり着く。その国につけば、罪が払われていく。それが全体のストーリーになっている。  それを後には近畿天皇家を主語にしたものに読み替えてみる。しかし近畿天皇家にしてしまうと具合の悪いのは、近くの海というと瀬戸内海になるから、瀬戸内海から罪を流し捨てると西のほうに廻りめぐって出雲のほうに着くのは不可能だ。ありえない。話が大和中心では成立できない話である。これはやはり「倭」を「ヤマト」でなく「チクシ」と読む立場でないと理解できない内容になっている。そのことはこの本の中で詳しく論じている。  いま問題にすべきことは、この二つの罪「天つ罪」と「國つ罪」は、実にリアルだ。人には言えないような罪ばかりだ。子供には聞かせたくない内容でズバズバ書いている。 『まぼろしの祝詞誕生 -- 古代史の実像を追う』(新泉社 第一刷 1988年) 「祝詞誕生 -- 「大祓」の史料批判」の見出しと「大祓」の祝詞      一/二 /三 第一、「天」の所在地 /四 第二、「天孫降臨」到着地 /五 第三、「根の国・底の国」の所在地 /六 第四、「二つの倭」について /七 /八 第五、「日」と「日高見之国」 /九 第六、「天津宮事」と「大中臣」 「大祓」   六月晦大祓〔十二月は此に准へ〕 みなづきのつごもりのおおはらへ  (しはすはこれにならへ) 「集はり侍る親王・諸王・諸臣・百官人等、 諸聞食へよ」と宣る。 「うごなはれる おおきみたち まへつぎみたち もものつかさのひとども もろもろききたまへよ」 と のる。 「天皇が朝廷に仕へまつる、領巾挂くる伴男・手襁挂くる伴男 靫負ふ伴男 剱佩く伴男、伴男の八十伴男を始めて、官官に仕まつる人等の過犯しけむ雑雑の罪を、今年六月の晦の大祓に、祓へたまひ清給ふ事を、諸聞こしめせ」と宣る。 すめらが みかどに つかへまつる ひれかくる とものを たすきかくる とものを ゆきおふ ともをの たちはく とものを とものをの やそとものをを はじめて つかさづかさに つかへまつる ひとどもの あやまち おかしけむ くさぐさのつみを ことしの みなづきの つごもりの おおはらへに はらいたま ひきよめ たまふことを もろもろききたまへよと のる。 「高天原に神留ります、皇親神ろぎ神ろみの命もちて、八百万の神等を 神集へに集へ賜ひ、神議り議りたまひて、  たかまのはらに かむづまります すめむつ かみろぎ かむろみの みこともちて やほよろづの かみたちを かむつどへに つどへたまひ かむはかりに かはりたまひて 『我が皇孫之尊は、豊葦原の水穂の国を 安国と平らけく知ろしめせ』と事此さしまつりき。  あが すめみまのみことは とよあしはらの みづほのくにを やすくにと たひらけく しろしめせ と ことよさしまつりき かく依しまつりし國中に 荒ぶる神達をば 神問しに問し賜ひ、神掃ひに掃ひたまひて、語問とひし磐ねに、樹立、草の垣葉をも語止て、天磐座放ち、天の八重雲をいつの千別に千別て、天降し依しまつりき。  かく よさしまつりし くにちに あらぶる かみたちをば かむとはしに とはしたまひ かむはらひに はらひたまひて こととひし いはねに  こだち くさのかきはをも こと やめて あまのいはくら はなれ あまの やへぐもを いつの ちわきに ちわきて あまくだし よさし まつりき   かく依しまつりし四方の國中に、大倭日高見之国を安國と定めまつりて、下つ磐ねに宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、皇御孫之命の瑞の御舎仕へまつりて 天の御蔭・日之御蔭と隠りまして、安國と平けく知ろしめさむ國中に、成り出でむ天の益人等が過ち犯けむ雑々の罪事は、天津罪と、畦放ち・溝埋め・樋放ち・頻蒔き・串刺し・生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸、許多の罪を、天津罪と法り別て、国津罪と、生膚断ち・死膚断ち・白人・こくみ・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜犯せる罪・昆う虫の災・高つ神の災・高つ鳥の災・畜仆し、蟲物する罪、許々太久の罪出でむ。   かく よさしまつりし よもの くになかに おおやまと ひたかみのくにを やすくにと さだめまつりて したつ いはねに みやばしら ふとしきたて たかまのはらに ちぎ たかしりて すめみまのみことの みづの みあらか つかへまつりて あまのみかげ ひのみかげと かくりまして やすくにと たひらけく しろしめさむ くぬちに なりいでむ あまの ますひとらが あやまち おかしけむ くさぐさの つみごとは あまつつみと あはなち みぞうめ ひはなち しきまき くしざし いきはぎ さかはぎ くそへ ここだくのつみを あまつつみと のりわけて  くにつつみと いきはだたち しにはだたち しろひと こくみ おのがはは おかせるつみ おのがこ おかせるつみ ははとこと おかせるつみ  ことははと おかせるつみ けもの おかせるつみ はふむしの わざわひ たかつかみの わざわひ たかつとりの わざわひ けものたふし まじものせるつみ ここだくの つみいでむ かく出でば、天つ宮事もちて、大中臣、天つ金木を本うち切り末うち断ちて、千座の置座に置き足はして、天つ菅麻を本苅り断ち末苅り切りて、八針に取り辟きて、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。  かくいでば あまつみや ごともちて おおなかとみ あまつ かなぎを もとうち きりすえ うちたちて ちぐらの おきくらに おきたらはして  あまつ すがそを もとかりたち すえかり きりて やはりに とりさきて あまつ のりとの ふとのり とごとを のれ かく宣らば、天つ神は天の磐門を押し披きて、天之八重雲を伊頭の千別に千別て聞しめさむ、国つ神は高山の末、短山の末に上りまして、高山のいゑり、短山のいゑりを撥き別けて聞しめさむ。 かくのらば あまつかみは あまのいはとを おしひらきて あまのやへぐもを いつのちわきに ちわきて きこしめさむ くにつかみは たかやまの すえ ひきやまの すえに のぼりまして たかやまの いゑりひきやまの いゑりを かきわけて きこしめさむ。 かく聞こしめしては皇御孫の命の朝廷を始て、天の下四方の國には 罪と云ふ罪はあらじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧・夕の御霧を朝風・夕風の吹き掃ふ事の如く、大津邊に居る大船を、舳解き放て、艫解き放て、大海原に押し放つ事の如く、彼方の繁木がもとを 焼鎌の敏鎌もちて、うち掃う事の如く、遺る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を、高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比めという神、大海原に持ち出なむ。  かく きこしめしては すめみまの みことの みかどを はじめて あまのした よものくにには つみといふ つみはあらじと しなとのかぜの あまのやへぐもを ふきはなつ ことのごとく あしたのみきり ゆうべのみきりを あさかぜ ゆうかぜの ふきはらふ ことのごとく おおつべにおる おおふねを へときはなち ともときはなちて おおうなばらに おしはなつ ことのごとく をちかたの しげきが もとを やきがまの とがまもちて うちはらう ことのごとく のこるつみは あらじと はらひたまひ きよめたまふことを たかやま ひきやまの すえより さくなだりに おちたぎつ はやかわのせにます せおりつひめといふかみ おおうなばらにもちいでなむ かくもちいでなむ。 かく持ち出でいなば、荒塩の鹽の八百道の、八鹽道の鹽の八百会に坐す速開つひめといふ神、持ちかか呑みてむ。かくかく呑みては、気吹戸に坐す気吹主といふ神、根の國・底の國に気吹き放ちてむ。  かくもち いでなば あらしほの しほの やほぢの やしほぢの しほの やほあいにます はやあきつひめ といふかみ もちかか のみてむ  かくかく のみてば いぶきどに ます いぶきどぬし といふかみ ねのくに そこのくにに いぶき はなちてむ かく気吹放てば、根の國・底の國に坐す速さすらふという神、持さすらひ失てむ。天下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと、高天の原に耳振り立てて聞く物と、馬牽き立てて、今年の六月の晦日の、夕日の降の大祓に、祓ひたまひ清めたまふ事を、諸聞しめせ」と宣る。  かく いぶき はなちてば ねのくに そこのくにに ます はやさすらひめ といふかみ もちさすらひ うしなひてむ あまのした よもには きょうより はじめてつみといふ つみはあらじと たかまのはらに みみふりたてて きくものと うまひきたてて ことし みなづきの つごもりのひの ゆふひの くだちの おおはらへに、はらひたまひ きよめたまふことを もろもろ きよめたまふ ことを もろもろ きこしめせ」とのる。 四国の卜部等 大川道に持ち退り出でて、祓へ却れ」と宣る  よくにの うらべども おおかわぢに もちまかり いでて はらひやれ  とのる (日本古典文学大系『古事記・祝詞』 岩波書店による)  ところが現在の靖国神社にはそのような内容が書いてあるか。靖国神社に祀られている人が、こんな罪を犯した。このような残虐な罪を働いた。そのようなことが書いてありますか。  それで言うのもおろかな話ですが、「中国大虐殺」について靖国神社の「祝詞」に書いてありますか。わたしは「南京大虐殺」という言い方には反対です。南京だけ大虐殺をおこなって外では行わなかったのか。それは嘘です。あれは「中国大虐殺」と言うべき大虐殺を行ったことは間違いない。いくら日本国内で法的にもう済んだ話だと言ってみても、歴史事実そのものは、日本・日本軍がそういう大虐殺をおこなったことは決して消えさることはない。  その点は何回も話し、ご承知のかたは又言っていると思うかもしれませんが、わたしは広島県廿日市小学校の時に経験したことがある。  朝礼の時には校長先生が、我皇軍は中国の民衆にたいへん慕われて歓迎されております。当時シナと言った中国での日本軍の活躍を、ピーアールとして毎日話をされた。  ところが昼休みになると、わたしたち男のガキ共は、小使室(用務員室)へ行くわけです。小使いさんが二人いて、一人は年配のかたで、もう一人は若い二十代のかたでした。若いかたは、中国から帰ってきたばかりの人です。彼が戦争の経験を話してくれる。どんなことを言うかというと、中国の村へ入っていくと女たちが誰もいない。しかしわたしらはチャンとわかっている。彼女らが隠れている場所、納屋とかベットの下とか床下であるとか、そういう場所を知っているから、そこを探して引っ立てて女たちを出して並ばせる。そしてマッ裸になれと命令する。彼女らは、はずかしそうに怖ず怖ずと裸になる。ところが何人かの女は裸にならない。そうすると彼女らは危ない。こういう女は怖い。何が危ないかというと心構えのきつい女は怖い。今は子供だけど、やがて八路(中国共産党)になる。彼女たちは生かしていてはいけない。そう言って銃剣でヘソから背中にグサッと突き刺して、裸にならない女たちを殺すんだ。わたしらには、それは何の罪にもならない。なぜなら上官の命令は、天皇の命令と心得よ。これでわたしらはやっている。上官の指揮の下にやったことは、天皇の命令でやったことだから、まったく罪にならない。そういうことをトクトクと語る。  そのリアリティのある話を、ガキ共は目を光らして話を聞いている。もっといろいろの描写を具体的にしてくれる。わたしも一緒に聞いていた。  朝の朝礼の校長先生の話とは真反対。どちらが本当かは、子供はイッペンに感覚でわかる。校長先生は建前を言っている。小使さんは本当の話をしている。そういう経験をして、子供たちは育った。わたしも。ですから日本軍は悪いことをしていないと言う人がいても、その話はぜんぜん信用できない。南京大虐殺だけをいって、他ではやっていないという人はまったく信用できない。やはり中国大虐殺である。  さてそこで、そういう人たちが兵隊さんとして靖国神社に祀られている。そういう人たちは、虐殺の罪がある。その罪を『祝詞』の精神で言えば、中国で女を刺し殺し虐殺した罪が、現在の靖国神社の「祝詞」になければおかしい。いま靖国神社に祀られている人々は、そういう悪いことをした罪を犯した人々だ。そんなのありますか。又そういうことが知られていますか。そういうことを言わなくて、ただ日本のために戦争でお亡くなりになった。これは嘘で、『祝詞』の精神に反している。  それに加えて『祝詞』は嘘を書いている。『祝詞』は日本精神に反している。そんな意見もない。いかにも『祝詞』は日本本来の立場のように言われている。ですが本来の立場は『祝詞』自身が表明している。これに反して靖国神社にはそのような『祝詞』がない。『祝詞』の精神に反している。  それだけではない。例を上げますが中国自身も大虐殺をおこなっている。日中戦争の始めに、一般日本人が虐殺されるという西安事件があった。その事件の復讐という口実で、日本軍が中国本土にドンドン入って侵略していった。中国側にはそういう事件があったということは書いてあるが、虐殺とは書いていない。  もう一つ歴史的に言いますと中世の元寇があります。われわれが子供のころ聞いていた神風が吹いて助かったというのはウソ話です。実際は大変な被害を残している。対馬・壱岐・北部九州は糸島なども侵略されている。大義名分は「元」ですが、中身は中国軍と韓国軍。わたしが聞いたのは対馬です。対馬では伝承と歌が残っている。どんな伝承・歌かと言いますと、中国軍と韓国軍は、男たちを捕まえて掌(てのひら)に穴を開けて、男たちを数珠つなぎにして引きづって行く。それを岩山に隠れている女たち、つまり奥さんや娘たちから見える。泣きながら観ている。それが歌に残っている。これは完全に中国側が行った戦争犯罪。それをなぜ言わないで、中国の歴史認識からはずしている。歴史認識については、後で述べますが、自分たちがしたことを一切なかったことにしている。これも中国や韓国が大嘘をついている。  しかし『祝詞』の精神で言えば、「天つ罪」と「國つ罪」では、ずいぶん酷いことが書かれています。それをリアルに挙げています。  ですから『祝詞』の精神で言えば、靖国神社の「祝詞」に、中世の中国側の罪、「男たちを捕まえて掌(てのひら)に穴を開けて、男たちを数珠つなぎにして引きづって行く」、そういう罪が、靖国神社の「祝詞」に述べられていなければならない。しかしそれをわれわれは復讐するのではなく許すのだ。『祝詞』の精神で言えば、そういうところに行き着く。それがわれわれの姿勢であるが、事実としてはありのままに述べる。  もちろん、それだけではない。アメリカが日本を占領したときは、アメリカ軍が女を犯したり、無道なことをずいぶん行った。そのことは身の回りの話として知っている。しかし新聞やラジオはいっさい触れなかった。しかし触れなくとも、事実はわたしより上の世代は生きた経験として皆知っている。わたしの青年時代の記憶に焼き付いている。戦後の世代は、アメリカ軍はそんなひどいことをしたことは知らないという教育を受けた。現在の沖縄でも、アメリカ海兵隊が乱暴をときどき働いていると報道される。わたしなどの青年時代にはアメリカ軍のセックス犯罪は、一切なかったことにして報道されなかった。大きな男がいて、乱暴を働いたような表現でときどき報道がされた。  それに今までの例をあげたらもうお分かりでしょう。それでも足りません。なぜなら最高の戦争犯罪、未曾有の戦争犯罪があった。当然ヒロシマ・ナガサキでの原爆投下という大虐殺。あれだけのすさまじい戦争犯罪は、未だかって地球には無かった。イエスも釈迦も孔子も、あのような戦争犯罪が起きるなどとは、知らずに済んだ幸せな時代に去っていった人々。イエスも釈迦も孔子も知らなかったような戦争犯罪に対して、それを告発するというか、事実を罪として問わなければ、現代の『祝詞』に代わる「安国」の代用にならない。  以上、現在の靖国神社のありかたは、『祝詞』と対比してたいへんおかしい。「天つ罪」と「國つ罪」と同じように、相手の悪いことも自分たちの悪いことも、赤裸々にリアルに表現してこそ、本当に罪を清めることができる。本当の罪を贖(あがな)うことなしに、『祝詞』の「安国」の精神を継承することはできない。『祝詞』の「安国」は、そういうことを表している。いま靖国神社が使っている「靖」という字は、中国の字ですが、今の靖国神社の立場を示している。『祝詞』の「安国」の「安 やす」は日本側の字です。  ましてや結論から言えばあんなインチキなA級・B級・C級・D級戦犯という区分けはない。アメリカは原爆を落としたことが戦争犯罪であることを百も承知している。百も知っているから、原爆投下を合理化・美化するために、A級・B級・C級・D級戦犯と区分けし、彼らは戦争で悪いことをした連中ばかりだ。だから原爆を落としてもかまわない。そういう立場で説明している。日本人にも戦後教育を受けた者たちにも、そういう説明をしている。  ですから結論として被害者側も加害者側も罪を正面から受け止めて、それに対して正面から対応する。これが本来の『祝詞』の「安国」の精神、その本来の精神を投げ捨てて、「偽、安国」になっているのが現在の靖国神社。わたしは真実の安国(靖国)神社にならなければダメだ。それが靖国問題に感じているところです。  わたしに対して、あなたの靖国神社に対する考えは間違っている。言わないほうが良い。このような考えは靖国神社に迷惑だから言うな。それに対して、わたしは「安国」の精神と靖国神社の精神は違うよと言いたい。  A級・B級・C級・D級戦犯という区分けと、A級戦犯が靖国神社に合祀されているから(昭和)天皇が靖国神社に行かないという論理もおかしい。インチキだ。先ほどの小学校の小使いさんから聞いた話、あれも昭和天皇の責任です。勝手に昭和天皇の名前を使われただけだから、昭和天皇に責任はないという議論もおかしい。昭和天皇は戦争に反対だったから、戦争は天皇の責任ではない。このような理屈はまったく成立しません。事実天皇の名において、中国の民衆を殺したり、女を犯したしているのを知らない顔をしているのも昭和天皇だ。それをそのままにして措いたのも昭和天皇だ。わたしは昭和元年生まれと言うこともあり、昭和天皇は昭和という時代の顔であり、敗戦の詔勅などには評価し好意的に受け止めている。しかしそのことと中国における戦争犯罪が、昭和天皇の責任であるということは矛盾しないどころでない。トップが責任はない。本当は戦争に反対だったから責任はないというのは、責任という言葉の意味は不明だ。自分の統治下に起こった日本軍の事件はすべて天皇の責任であるというのが、本来の責任という言葉の意味だ。  後でも言いますが、アメリカ側が天皇の戦争責任はない。そう言ったのは天皇を利用しようとした。それに裕仁天皇は乗っかったに過ぎない。本当に天皇の戦争責任は、靖国(安国)神社に祀っていなければいけないし、おかしい。天皇の命によっておこなった人々だから、本当の責任は昭和天皇にある。これを言わないなら意味がない。このようにつぎつぎ論理が展開してくる。これもしっかり書いて、わたしが理解する現在の『祝詞』なら、どうなるかということを問いたい。これもしっかり書いて現在の靖国神社、あなたがたは間違っている。安部さんに対しても、そういうことを認識してほしい。認識した上で、どういう態度を取るかは彼らの責任である。  これがお話ししようとした一番目のテーマです。どうもありがとうございました。 参考 「靖国神社論 -- 奇兵隊の未来」多元的古代研究会編『TAGEN』No,99 Sep2010   二、「言素論」について  それでは後半に入らせていただきます。   まず申し上げたいテーマがあります。わたしは元素論という問題を持っております。そして多元的古代研究会の機関誌「TAGEN」で永らく続けております。ですが古田史学会の友好団体ですので、かならずしも古田史学会のかたがお読みになっているとは限りません。ですがここでは、八王子での大学セミナーなどで述べた元素論に対する考え方を本日配布しております。ですから、ここでは考え方を中国黄河文明との関係を例に簡明に述べてみたい。 顔回(がんかい)という者あり。学を好みしが、不幸短命にして死せり。今や則ち亡(な)し。 (巻十一、先進篇、七) 顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天は予(われ)を喪ぼせり、天は予を喪(ほろぼ)せり。 (巻十一、先進篇、九)  わたしがこの問題にぶつかったのは「死ぬ シヌ dead」という言葉でございます。「死」という言葉は孔子の『論語』に出てくる。「天われを喪ぼせり」という有名な台詞で孔子が言っています。だから「死」という言葉・音や字は、わたしは長らく中国語だと考えていました。ところが日本語の「死ぬ」という言葉にぶつかって、ハタと困りました。「死ぬ」という言葉は日本語でもdeadを意味する代表的な言葉です。死なない人はいない。だから基本的な日本語です。  ですが「死ぬ」という言葉の元が、中国語ならどうなるか。つまり「死」という中国語に「ぬ」という接尾語を付けてdeadの意味になるというのなら、「死」の反対語の「生」ではどうなるか。中国語として呉音で「セイ」、漢音で「ショウ」ですが、「生ぬ セイぬ ショウぬ」と日本語で言っても良いはずですが、ありません。日本では「生ぬ セイぬ ショウぬ」とは言わない。日本語では「生きる いきる」と言います。これは中国語ではない。「息をする」という本来の意味を持った日本語を、「生きる」という意味に使っている。ですから「生きる」という言葉は、本来の日本語である。このように考えると、その対語のほうの「死ぬ」も日本語である。こう考えざるを得ない。  一方『論語』に「願淵(願回)死」という言葉にあるように中国語として存在する。東シナ海の海一つ隔てて両岸に、偶然deadの意味に「死」という言葉が使っていた。これは偶然の一致だということは、それも考えにくく無理がある。他方先に挙げたように日本語でないとも考えにくい。  そうすると実際は反対ではないか。つまり基本の日本語である「死ぬ シヌ」という言葉が、中国語の「死 シ」という基本的な言葉として現れた。つまり日本語の「死ぬ」が元で、中国語の「死」は日本語が伝播して基本的な言葉として現れた。こういう考えたこともない課題が現れてきた。  しかし、これも考えてみると当然の話だ。なぜ当然かと言えば、中国語ではdeadを意味する言葉はたくさんある。「死」のほかに、失なうの「亡」や、「滅」、山編に月二つの「崩」、それに「没」もある。これは中国人が、いろいろな死に方を心得ていた訳ではないと思う。とうぜん中国の周辺に、いろいろな民族の言語がある。その周辺の民族の言語にdeadを意味する言葉がないことはありえない。そのいろいろなdeadを中国語の漢字記号・音として含み入んで、いはゆる中国語・漢文が成立した。こう考えるのが当然ではないか。いろいろな死に方を心得た巨大民族が、最初から居たということはあり得ない。つまり周辺の言語を取り込んで、次第に中国語世界が成立した。こう考えるほうが正しい。とすると東のお隣が日本列島だから、日本語の「死ぬ」という言葉が、中国語に含み込まれて『論語』に「死」という言葉が現れた。つまり『論語』に現れているのは日本語だ。そのような考えてもみない問題にぶつかった。それが元素論のもとになり発展していった。 『史記』巻二 夏本紀 第二  太史公言う。禹は姒姓であるが、その子孫は分封せられ、国名を姓としたので、夏后氏・有[尸/邑]氏・有男氏・斟尋氏・彫城氏・褒氏・費氏・杞氏・繪氏・辛氏・冥氏・斟氏・戈氏がある。孔子は夏の暦を正しいとしたので、学者は多く夏小正を伝えるのだという。虞・夏の時代から貢賦の制が整った。ある人は、禹が諸侯を江南に会し、諸侯の功を計って崩じたので、そこに葬り地名を会稽と名付けた。会稽は会計で、諸侯の功を計ったからだという。  右の例によってみると、「会稽 かいけい」という言葉がある。これは司馬遷の『史記』に出てくる。堯・舜・禹の禹が会稽で死んだと書いてある。ところが「会稽 かいけい」について、司馬遷が説明を加えている。司馬遷は自分で「太史公」の号を名乗っている。司馬遷は自分の考えというかたちで「太史公曰」と説明を加えている。どういうことを言っているか。禹は会稽で死んだ。死ぬ前に禹は会稽に諸侯を集めて、論功行賞をおこなった。その行為を「会計」と言った。今われわれがお金の勘定をすることを「会計」と言いますが、功績を計るから「会計」と言いますと。それが今の会稽山の「会稽」に代わった。それ以前は「苗山」と言った。草冠に田を書いて、「苗山」と言った。そういう説明を加えています。  ですが考えてみますと、この司馬遷の説明はおかしい。なぜおかしいかと言うと司馬遷は中国語としての「会稽 かいけい」の意味がよく分からなかった。それで屁理屈と言っては失礼だが、分かったような分からない説明を加えた。しかしそんな会稽に諸侯を集めて、論功行賞をおこなったから「会計山」になり、のちにわれわれが知っている「会稽山」に代わったという回りくどい説明になったのか。なぜこのような説明になったのか。それはわれわれが知っている「会稽 かいけい」は中国語ではなかった。司馬遷は理解不能だった。それで司馬遷は一つの解釈として「会計」という論功行賞を行ったという、このような解釈を加えていた。司馬遷には申し訳ないが、そのような例はない。  それでは日本語で言えばいったい何か。「か」は、河の「か」であり神聖な水、「い」は井戸、「け」は、物の怪(け)、おばけ、津保化(つぼけ)などの神様の一つの表現、最後の「い」は、南方に多いダブリ言語としての表現です。ですから「会稽 かいけい」という言葉は、ダブリ言語で表した水の豊富な場所という日本語ではないか。それを中国では知らなかったから、先ほどのような屁理屈を並べた。「ア行の「い」とワ行の「ゐ」の問題は後で言います。それを司馬遷は知らなかったから、あのような説明を加えた。  それでおもしろい経験の話を付け加えておきます。会稽山には二回以上行きました。二回目に行ったとき、中国の通訳の方が、今日会稽山に行きますが、決して期待されないようにお願いしますと、トウトウと述べた。決して期待されないようにという通訳さんもめずらしい。ですが行ってみればすぐ分かる。なぜなら会稽山というのは山という名前が付くのがおかしいくらいの丘です。歩いて上がっても二十分程度かかるていどの丘の山です。丘の上には何もなくて、西は平野部、かつ東の方の高い山々の末端の丘ですので、そこに山々からの水が会稽に集まってくる。今でもたいへん水が豊富です。それで水は杭州湾に流れ込んでいく。ですから「会稽 かいけい」という言葉が水の豊富な場所という意味ならドンピシャリです。  だがしかしそう理解するから分かるのであって、知らずにおれば、どんな凄い絶景が見えるような山だろうと日本人は期待する。しかし行ってみれば、低い丘だからなーんだとなる。口々にガッカリしたと文句を言う。それを通訳さんは聞いていて居たたまれないものだから、あらかじめ断る弁舌を振るわざるを得ない。ですから会稽山は日本語であるというテーマが出てくる。 (現在の中国で一般に会稽山だと主張しているところは、九百三十七メートルの山で別の山です。)  途中で河姆渡(カモト)遺跡も見学した。われわれは河姆渡(かぼと)遺跡と発音しましたが、現地上海や河姆渡の通訳さんに何回も発音してもらったが皆「カモト」と言いました。「カモ」は、日本語では賀茂(カモ)川や鴨山という地名や鳥の鴨(カモ)を当てています。「か」は神聖な水の豊富なところ、「モ」は集まっているところ。「ト」は、神殿の戸口・入り口です。ですから河姆渡(カモト)は神聖な水の豊富なところの入り口という日本語であるということは、今のわたしには明白です。ですから先の『論語』のように中国語の中に日本語が入り込んでいるとテーマは、動かすことが出来ないテーマであると考えます。そのようにわたしは考えていた。  それがさらに新しい問題にぶつかってしまった。なぜかという「崩 ホウ」という言葉です。これも、『礼記』などを観ると、天子が死ぬときに「崩」と言う。本来の「崩」という字は「月」のあいだの「二」は点二つです。庶民が死ぬときを「死」という。間に「薨 コウ」、「卒 ソツ」、「没 ボツ」という字があり、身分によって使い分けている。下に『礼記』の表記をあげておきます。(微妙に字形が違っているの何か意味があるかも知れません。) 『礼記』曲礼下 「天子の死は崩と曰い、諸侯は薨と曰い、大夫は卒と曰い、士は不禄と曰い、庶人は死と曰う」  ところが「崩」という字は、考えてみると変なのです。日本語で「葬る」という言葉があります。日本語の「葬る」という言葉を「崩 ホウ」と音で表してある。山の下に月が二つある形です。これももしかしたら日本語が元になっているのではないか。  このことに昨夜気付いたが、わたしにとって大事件です。なぜ大事件なのか。わたしにとって、中国語は原初日本語を吸い上げて言葉の一端にしている。この論理はわたしとしては、いちおう納得できた。しかし「崩 ホウ」もそうである。「葬る」という日本語から来たとすると、原初日本語というものが、言語として本当に素朴なまだ赤ちゃんが生まれる程度の日本語という感じで捉えることができない。しかし天子が死んだことを「崩 ホウ」というのだから身分がたいへん高い。この「葬る」という日本語が中国語に影響を与えたというなら、素朴な日本語ではなくて、すでに身分関係で表記が違っている日本語が中国語に吸い取られ、中国語がかってに四〜五段階の身分に当てはめていっただけなのではないか。そういう問題が出てくる。これは昨日からの考えであるから断言はできないが、場合によるとそれもウソではない。  考えてみると『論語』に「死」という日本語が出てくる。これも皆さんはまさかと思われるでしょうが。しかしその問題はさらに進展した。それは『礼記』などを観ると日本語が出てくる。昧(舞 まい)という言葉が出てくる。昧=舞であるなら、舞(まい)は日本語だ。しかも解説まで付いているから間違いなく日本語だ。それが『礼記』に現れている。『四書五経』の『四書』の一つ『論語』だけでもたいへんなのに、『五経』の一つに『礼記』にまで日本語が現れているとは。『礼記』は『四書五経』の一つで孔子が礼拝する書物です。それに日本語が使われている。そこまでは論理が届いていた。偶然の一致とは見なしがたいと。 『礼記らいき』明堂位めいどうい、第十四  「魯公(ろこう)に命じて世世、周公(しゅうこう)を祀(まつ)るに天子の礼楽を以てせしむ。・・・(中略)・・・『昧まい』は東夷の楽なり、『任』は南蛮の楽なり。夷蛮の楽を大廟(たいびょう)に納め、広魯を天下に言うなり」  もう一度言いますと、「崩 ホウ」という最高の身分の dead を表す中国語も日本語だった可能性がある。素朴な日本語ではない身分関係をもった階級言語としての日本語を中国側が受け入れた。最高の身分の言葉「崩 ホウ」と最低の身分の言葉「死 シ」をほかの言語のdeadと共に配置して身分関係に当ててみた。  そうなると先ほどの『論語』願回の「死」の場合も問題がある。願回はほんとうに庶人なのか。それ以上の民でないことしか示さない。そういうところに問題が発展していく。  この「崩 ホウ」が日本語なら、「崩 ホウ」と「死 シ」の例のように、原初日本語とはじめ考えていたように素朴な日本語ではなくて、階級言語としての日本語が中国語に取り入られて、さらに拡大して四〜五段階の身分に漢字を当てはめていった。  これは昨日思いついた今日の考えですから、断言する気はありませんが、  これも言っておけば、中国語に対する影響は西側だけなく東側の影響をたいへん受けている。その例としては玉編の言葉がある。これは点のない王編の漢字に換わっていきますが、これらは皆優れた宝物に使っている。しかし数から言うと王編より、もっと数が多いのは貝殻の貝編です。財産の「財」、辞書を引けば、優れた言葉として貝編の言葉が出てくる。貝編だから海に関係がある。この貝偏の漢字は、圧倒的に数が多い。それに対し圧倒的に数は少ないが、天子の言葉として用いる「御璽 ぎょじ ギョジ」という言葉も玉編です。それに天子のシンボルが「玉」である。シルクロードの途中に「玉」がたくさん出る地帯がある。  やはりこれも実態があるわけで、その西の文明の影響を元に、中国黄河文明が成立したことを示している。だから自分たちの文明の淵源としての漢字に「玉」編の漢字を造っている。  ですからこの問題は調べ始めたら課題はたくさんあります。これは一応終わります。 三、『東日流外三郡誌』について  後半の次のテーマは、『東日流外三郡誌』について述べたい。  『東日流外三郡誌』に対して偽書であると、わたしを懸命に攻撃しており今でも言っている人がいます。わたしにとっては、まさにナンセンスの一言です。  たとえばわたしが『東日流外三郡誌』に感動したのは、『市浦村史』資料編下巻最後のところを読んでびっくりした。読み上げます。 『東日流外三郡誌』(昭和五八年一二月二五日発行)津軽審偽史録 秋田孝季 寛政五(一七九三)年 六巻 348〜49 津軽蕃偽史禄(ママ)  請行無常の中におのが一代を飾り、いやしき身分を貴家に血縁し、いつしか皇縁高官職の血脈とぞ世人に思はすはいつの世の(ママ)富や権を掌据[握カ]せる者の常なり。然るに、その実相はかくなれやと審さば人皆祖にして、平なりとぞ思ふべし。  津軽藩主とて為信のその上を審さば、今なる血縁なきいやしき野武士物盗りのたぐいなり。  いつぞや世とて勝者は過去の罪障も滅却すといふごとく、人ぞ皆蓮の根ある処の如く審さば泥の内に芯根もつものばかりなり。  然るに実相を消滅し、天の理に叶はずとも無き過去を作説し、いつしか真史の如くならむ事末代に遺るを  吾は怒るなり。津軽の藩史は偽なり。  依て吾は外三郡誌を以て是を末代に遺し置きて流転の末代に聖者顕れ是を怖れず世にいださむために記し置くもなり。      寛政五年            秋田孝季 解説  人は祖先をたどれば、みんな平等だ。第一代津軽藩主が為信です。初代津軽藩主として皆から神様のように扱われている為信ですが、元をたどれば卑しき物盗りの子孫にすぎない。勝った人間は、過去の悪い自分の罪はみな無かったことにする。ちょうど蓮(はす)のところにドロが付いているように、勝った者の過去をたどれば汚い泥にまみれている。(成り上がるには)悪いことをしている。しかるに天の理にあわなくともよい。つまり勝ったほうは、存在しない過去をかってに作って、いかにも先祖から自分たちはすばらしかったかの如くウソの歴史を作って、それを振りまく。今津軽藩で言っている歴史は偽物だ。しかしそれは偽の歴史である。いつしか真史のごとく末代に残るのを我は怒るのだ。  しかしわたしは、そういうことのない真実の歴史を書くのだ。ただそれは、現代(秋田孝季の生きていた十八世紀)の人々は相手にしないだろう。未来にあるべき権力者を恐れない聖者が現れて、わたしの書いたところを評価してくれる。何百年・何万年後かもしれないが、かならずそういう人が現れる。この人のために『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』を書いた。  わたしはこれを読んでギョッとした。わたしが本を書いたばあい、生きている同時代の反応がどうであるか。売れ行きがどうであるか一喜一憂している。ところが秋田孝季はそのようなことはぜんぜん問題にせず、未来のある日に『東日流外三郡誌』を理解する人が、かならずそういう人が現れる。その為に書く。こういう人がいる。この『東日流外三郡誌』は、上巻・中巻・下巻だけでも凄い量です。この人に対して偽作説の人は太刀打ちできない。偽作というのは、だいたい本物のように見せかけて、人をだます手口を偽作という。われわれは偽作をけしからんと考えるのはそこでしょう。しかし上で述べたことは高潔なる歴史認識ではないか。高潔なる偽作者という概念、そんな概念は成立し得ない。だいたい偽作説というのは、いろいろな目的のために使おうとして偽作するのであるから、それはまともな議論としては成り立えない。  さて『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』・和田家文書に関して、わたしは「寛政原本」が出る出ると言っていましたが、出ました。『東日流(つがる)[内・外]三郡誌(さんぐんし) -- ついに出現、幻の寛政原本』(株式会社オンブック 古田武彦/武田侑子 編)です。写真版で出しました。  その最後、第五資料「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人、秋田孝季、及び第一巻」として合作になったものだけが、和田喜八郎さんから、藤本光幸さんのところに送られて来た。さらに藤本光幸さんの妹さん武田侑子さんのところから、わたしのところに送られてきた。この第五資料の眼目は、「寛政五年七月二日 秋田孝季 花押」とあるところです。現代のわれわれが押す印鑑のかわりに秋田孝季の花押がある。これが秋田孝季の筆跡の基本になる。秋田孝季の若いときの字は繊細で非常に美しいもののですが、これは晩年の字で目が見えにくくなっていて書いている字と考える。最初わたしは別人が写したものと考えていましたが、やはり手慣れた晩年の寛政五年段階の字であることが分かってまいりました。内容が凄いの紹介します。  多元的古代研究会 機関誌『TAGEN』では、西坂氏が、『秋田孝季筆 東日流内三郡誌 次第序巻・第一巻』をはじめ「秋田孝季はじめ関係筆写者の筆跡対比史料」を公開しています。 『東日流(つがる)[内・外]三郡誌(さんぐんし) -- ついに出現、幻の寛政原本』(株式会社オンブック 古田武彦/武田侑子 編) 第五資料「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人、秋田孝季、及び第一巻」   (読み下し) 一、天地の創(はじめ)内至(ないし)命体(めいたい)の起源(きげん)  大宇宙に星なる天体の数、幾千万ぞ。その遠近亦(また)計(はか)り知らず。吾等に見ゆる光陰の月日とて、摩訶不思議なる天体にて古人よりただ神とぞ教へ伝わるのみなり。  凡そ大宇宙とてその天地の創(はじめ)あり。地上なる生命体とて起源ありて、現世に移(あわ)せみたるものならなり。大宇宙なる創(はじめ)において星の顕れき(「し」か)は宇宙空間に原相あり、無限の星幾千万と誕生せしめたるものにして、吾等が祖人は荒覇吐(あらはばき)祖神とぞ言ふなるも、他に解(と)きがたきゆえなり。  日輪・月界・地界とて星界より誕生せるものなり。地界に生命体の発生をせしは、日輪の光熱、月界の暗冷に依りて大海中に生命の原体誕生せ(「し」脱か)むなり。  抑々(そもそも)万物発生のものは皆、此の原(もと)なる生命体より種々に文生せりと言う。依(より)て、万物は皆、生命原素は同じき永き世襲にて、万種に類生せるものと思(おぼ)へ覚(さと)りて真實なり。  星界においても、生命あり。死骸あり。常々星も生死せり。  是(これ)すなわち天地の創(はじま)りにして、万物生命体の起源なり。  依(より)て、是(これ)を天然(てんねん)の原則と号(なづ)く。かまへて天地の開闢(かいびゃく)を神なる創造と迷信するべからず。         寛政五年七月二日                    秋田孝季(花押) (解説)  われわれは荒覇吐(あらはばき)祖神という言葉を使っているが、内容はそういう大宇宙の姿そのものを表現したものであって、仮に他に言いようがないから荒覇吐(あらはばき)と言って表現しているだけだ。  星の世界にも、生まれた時あり、滅んで死骸になるものもある。常々星も宇宙も生まれて殺されていく。死んで行くものもある。例外はないのだ。  これが天地・自然・生命の始まりであって、神様が別に居てこの宇宙を創ったというのは迷信だ。そのような迷信に騙されてはいけない。  この最後の言葉が凄いですね。最後に「寛政五年七月二日 秋田孝季 花押」とある。ですから『東日流外三郡誌』を本気で論ずるには、この花押が付いている文章から出発しなければならない。それに第一、和田喜八郎氏が偽作したというバカバカしい話を未だにいう人がいるが、秋田孝季の字と和田喜八郎氏の字を比べてみれば良い。和田喜八郎氏の字は問題にならないぐらい下手ですよ。一つだけ、このオンブック版に載せておいたけれども、幾らでもヘタな和田喜八郎氏の字はある。まったく違う。インターネットに多元的古代研究会の西坂氏が、「秋田孝季はじめ関係筆写者の筆跡対比史料」として和田喜八郎氏の字も載せていただいた。だから偽作説は、古田説を相手にしないように学界に奉仕しているだけです。本来の学問ではない。  本来の学問として、これが贋物というなら、これと同じ筆跡の人をどこからか探してこなければならない。わたし古田の字もあるが、本当にヘタな字でよかったと思う。わたしは思想的にはたいへんびっくりして感心しているけれども、わたしなどと違う筆跡のレベルの人たちである。  最後にわたしは提案したい。日本国家が『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』を収納する記念館を青森県五所川原市石塔山に造ってほしい。そこに東日流[内・外]三郡誌、明治写本、石塔山の地下のどこかに眠っている寛政原本を収納する。その石塔山は幸いなことに国有地、国家の土地であり所有物なのです。だから石塔山のどこかの穴にある。それを国家の力で出して保存してほしい。  和田家文書とわたしが呼んだのは、明治写本が残っていたことから、そういう呼び方を、わたしがしただけです。  その前には秋田孝季が作成したから、わたしが秋田家文書と呼んでいた時期がある。さらに遡(さかのぼ)れば阿部家文書である。東北・津軽を地盤とした安部・安東氏が津軽藩に追われて、秋田に移ってから地名を姓に換えて秋田某(なにがし)と名乗った。その秋田氏が福島県三春に移封され、ホンのわずかな領土の大名になっていた。その時秋田にいた秋田孝季を、三春藩の領主であった秋田千季が呼び出して、石塔山の地図を見せて言った。先祖が隠した金がある。それを探してほしい。先祖の持っていた金を探して欲しい。秋田孝季は、その地図を持って青森県五所川原市石塔山に行った。そしてその村の総代の若い息子和田吉次の家に居候させてもらって、場所を探し金を探し出した。それを三春藩秋田家に奉納した。秋田家は幕府から借りた借金を全部返した。そしてまだ余りがあったので、これで先祖の歴史を復元して欲しいと孝季に依頼した。火事で三春藩にあった史料が焼けてしまったので孝季に依頼した。それで秋田孝季は、また和田吉次の協力を得て、またりくという吉次の妹と三人一緒で、最初わたしが秋田家文書と呼んでいたものを造り始めた。  そういういきさつは何回も書いておりますが『秋田孝季記念館』を国立で造る。  もとに戻り肝心の話をすれば、今の秋田家は、元をたどれば今総理大臣になっている安部家である。平安時代近畿天皇家が東北に侵略した。前九年の役で敗れて兄安部宗任は殺されて、弟貞任は福岡県筑前大島に流される。その弟貞任の子孫が山口に行った。その子孫が総理大臣だった岸信介の娘信子さんと結婚して衆議院議員になった安部晋太郎氏です。その息子が選挙に出て現在総理大臣である安部晋三氏です。総理大臣のお母さんの信子さんは、和田家文書にたいへん理解のある方です。和田喜八郎氏が亡くなったとき、直ちにお知らせしたら、すぐ飛んでいかれお葬式に参列して下さった。  また出てきた寛政原本も久しく安部家に保存していただいた。分散して盗られてもいけないのでお願いしたら、快く引き受けていただいた。官邸でなく総理大臣安部晋三氏がいる場所が寛政原本の保管場所だった。その場所に何回も行って、お母さんである信子さんにお願いした。たいへん筋のとおったケレン味のないかたです。そういうお母さんをお持ちの総理大臣だし、わたしが呼んだ和田家文書は、本来阿部家文書。しかも日本国の総理大臣になっている。しかも石塔山の地は国有地。今年・来年ぐらいは、その条件がぜんぶ揃っている。国有地石塔山の地に『秋田孝季記念館』を建てて、寛政原本や明治写本などぜんぶ収納する。さらに大切なのは、安本美典氏の偽作説の本・雑誌などもぜんぶ収録する。今かれらは一生懸命偽作説を書いているけれども、やがて消え去っていく。消え去っていくけれども、彼らはどんなことを書いていたのか。寛政原本を贋物と言っているけれども、なぜ贋物と言えたのか。これを書いた筆跡のX氏という人物が、どこにも見当たらないままで悪口だけ書いて信用するひとが、よくもこの時代にいたものだ。後世の人は必ず疑問にする。そのためにも、平成の偽作説はこういうものであったと保存しておく。そういうことで偽作説も『秋田孝季記念館』に保存して大事にすべきである。  今日『秋田孝季記念館』を国立で造ってほしいという提案をはじめて申しあげます。 四、アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか?  この件は八王子の大学セミナーでも申しあげ、お渡しした多元的古代研究会の機関誌「TAGEN」で概要を掲載していますので、復習というか簡単に申しあげます。それでこの件は考えてみるとすぐ分かる。  第二次世界大戦(太平洋戦争)中、じゅうたん爆撃と言われるように焦土作戦でさんざん空軍が東京を爆撃した。ところが一回も爆撃していない場所が一ヶ所ある。どこかというと皇居です。一回だけ類焼した時がありましたが、すぐ消すことができた。  だから一回も皇居は爆撃にあっていない。もしこれが操縦士が毎回うっかりミスで皇居を爆撃するのを忘れた。毎回うっかりミスが続いていた。わたしの頭ではそんなことは考えられない。東京で空から見て、一番はっきりしていた場所が皇居です。ですが皇居に一回も爆弾を落としていない。もし皇居に爆弾を落としたら、天皇・皇后・皇太子などが死んでしまう可能性がある。可能性というより死んでしまう。かれらは他の場所にいるわけにはいかない。もし爆撃で天皇家が亡くなれば、アメリカは天皇家がいない日本を占領することになる。アメリカのプランでは、それはまずい。アメリカは勝った後、天皇家を利用して日本国を統治しなければならない。だから皇居は爆撃しなかった。  おなじく原爆を落とさなかったのは、いまのじゅうたん爆撃なら皇居を避けることができる。しかし東京に原爆を落とさなかったのは、皇居を避けて原爆を落とすことは不可能だからです。とうぜん皇居は原爆の中で消え去る。だから東京には原爆を落とさなかった。  同じ理由で京都になぜじゅうたん爆撃をおこなわなかったのか。京都は東京と違ってじゅうたん爆撃すれば、御所も一緒に焼けてしまう。爆撃すれば御所だけ特別の地域ではない。すぐお隣だから。いわんや京都に原爆を落とすと、一緒に御所も終わりだ。だから京都にはじゅうたん爆撃もせず、原爆も落とさなかった。  だから東京と京都をはずして、第三の領域の中でピックアップして原爆を落としたのが広島と長崎。これは想像ですが、これ以外の想像はありえない。ほかの説明は不可能です。  これは何か。結局アメリカは勝った後のことを考えて、そのために天皇家を利用することを考えて、戦争を開始した。  このことを見ましても、彼らのいう太平洋戦争、日本で言う大東亜戦争、日本が起こしたというのは大ウソです。日本がワシントンを攻撃して占拠することなど、まったく考えられない。アメリカが東京を占拠することは出来る。だからどちらが戦争を起こしたかは明らかである。イデオロギーでものを考えなければ。  このことは遡(さかのぼ)れば幕末に行き着く。幕末にアメリカが黒船としてやってきた。目的は何か。アジアで唯一独立国で残っていたのは日本だけである。それ以外はすべて西欧諸国の植民地だった。唯一独立国であった日本をアメリカの植民地にしたい。その目的で黒船が日本にやって来た。鯨の油を取るためとか、水の供給してもらいたいなどというのは口先の口実にすぎない。本当の目的は、アジアに残っていた独立国日本をアメリカの属国・植民地にしたいということです。この点は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の会長藤沢徹さんがそれを示す資料がありました。また発表しますと言っています。  マッカーサー自身もそれらを受け継いで、日本占領後の統治をおこなった。  ですから教育の場で現代日本を学ぶとすれば、「アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか?」について教育を始めなければおかしい。ところが、そのようなテーマで習ったかたはいますか。先生から考えてみなさいと言われたかたはありますか。ないのではないか。教育のテーマからスッポリはずしてある。教科書にもない。そういう一番わかり切っていること、その問いなしの教育を受けて暗記させられた。頭の良い人ほど記憶力が良くて暗記しているわけで、その暗記した内容がおかしいということはいっさい考えないように教育されている。  この点は、わたしにとって、さらに一歩前進した。と言うのは、旧制広島高等学校の同年の友人(永田泰次)から聞いた話がある。  彼は年は同年ですが、早生まれで学年は一年上だった。しかし事実はわたしより半年早く生まれただけです。かれは皆さんご存じ有名な湯川秀樹(日本初のノーベル賞受賞者)の京大の物理学教室の学生になった。  かれの家は広島市内の比治山(ひじやま)の近くにあった。お父さんとお母さんが、そこに居たので原爆で亡くなった。兄さん三人も広島市内の別のところにいたが、全員亡くなった。家族五人が全員原爆で亡くなった。かれ自身は家に居たのですが、間取りの関係もあるのでしょうが偶然助かった。その彼から聞いた話だ。  かれが比治山にあるABCC(Atomic Bomb Casualty Commission、原爆傷害調査委員会)という原爆傷害の調査機関に行ったときの話だ。わたしなども町内会から「ABCCに言ってくれ。」と命令というか言われて検査をしてもらった。しかしそこは検査だけで治療は一切しない。広島市民は、それが不満だった。しかしアメリカはデータを集めるための機関だった。そのABCCの所長とわたしの友人が知り合った。彼は湯川秀樹さんの弟子ですから自然科学に明るく、同じく相手のABCCの所長も彼に近い年齢で自然科学に明るかったので仲良しになった。  話しているうちにABCCの所長が言うには、おまえの家はどこにあったのか。少し待って見てくれと言って、ごっそり写真を持ってきた。その写真の中に広島市内が全部写真に写ってあった。しかも一件一件全部写真に撮っている。おまえの家は、どのあたりだ。間取りはどうなっているのか。それで窓はどちらだ。おまえが寝ていたのはどちらか。写真を元に聞かれた。彼はもちろん答えたが。もちろん写真を撮ったのは、原爆を落とす前の話だ。原爆を落とす前に、完璧に写真を取っている。完全に写真を取ったところに原爆を落とした。ですからかれは原爆投下は人体実験だと言うことをさかんに言っていた。そう言わざるをえない。単に落とすだけが目的なら東京湾や広島県の海上に落とせばよい。人口密集地に落とせば、どれだけの人間が死ぬか。どのような被害が起こるかを知りたかった。だから前もって調べて落とした。そこまでは書いたことがある。 原爆投下の倫理責任について ーーアメリカ大統領の前に 古田武彦 (古田史学論集『古代に真実を求めて』第三集 明石書店)    今回の問題の話す内容を反芻(はんすう)しているうちにハタと気がついたことがある。  アメリカはとうぜん上から東京の皇居も写真を取っている。わたしの友達の家のことを調べて撮ったわけではないのだから。つまり天皇の寝ている家屋はどの家屋だ。そして皇太子の寝ている家屋はどの家屋だ。空から観て詳しく撮っていると考える。想像だけれども、これ以外は考えられない。しかしこの写真は公開されていない。  最近の日本の機密保護法の論議で、アメリカはしっかりしていて三〇年ないし六〇年たったら公開されている。だから日本もそのようにしなければならないという新聞や週刊誌など世論としての議論もある。しかしわたしから観れば、これはまったくの大嘘。先ほどの話で、皇居は爆撃にあっていないと言いましたけれど、それはやはり司令所から、爆撃するなという指示だけでなく、地図を持たされて皇居を爆撃するなと命令された。しかしアメリカはその資料を六十年過ぎても公開していない。アメリカはきちんとルールに乗っといて公開されていると言っているけれども、わたしから見ればまったくのインチキ・大嘘。その大嘘に乗っといて新聞やテレビは報道されている。  第二次世界大戦当時であれば、空中写真は最先端の軍事技術。それが今では人工衛星により撮影されて、平和利用に解禁されて携帯電話やカーナビのGPS(Global Positioning System, 全地球測位網)となっている。皆さんが使っているカーナビというのは戦争中軍事技術の平和利用に転用しただけです。元の軍事技術の空中写真は、皇居にいる天皇はどこに居たか。皇太子はどこの窓のそばに居るのか。全部資料として持っていた。しかし六十年たってもアメリカは一切公開しない。そして日本のテレビや新聞は、アメリカはしっかりしている。一定の期限が過ぎたら公開する宣伝している。アメリカだけが悪者だとわたしは思いませんが、勝ったほうはそのように振る舞う。  また天皇の位置づけとしても、天皇が万世一系の象徴(シンボル)と想われているほうがアメリカの利益になる。天皇を通じて支配するという方法は役に立つ。  このことは古代史で、さらに明確です。わたしが何回も言っているように、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや。」の文言は、唐の始めに書かれた『隋書』に書かれている。『隋書』「イ妥国伝」を書いた魏徴(ぎちょう 五八○〜六四三)という人物は国書・上表文を見ながら書いている。歴史官僚ですから、とうぜん観る立場にある。それで隋は、使いを派遣して「[奚隹]弥(キミ)」という妻がいる多利思北孤(たりしほこ)という男性と会って記録している。      [奚隹]弥(キミ)の[奚隹]は、奚編に隹。JIS第4水準ユニコード96DE      イ妥国の[イ妥]は、人編に妥。ユニコード番号4FCO  史料としては第一史料中の第一史料です。それが教科書では女性である推古天皇の話になる。あるいは聖徳太子という天子になったことのない人物と間違えたということにした。そのような大嘘を基本にしている。いかに大嘘であっても公(おおやけ)の場で、これを原点にして歴史と認めている。七〇一年以前は、九州王朝を考えないと理解できない。しかし古田武彦が言っている九州王朝はなかったことにしている。  これはまさに秋田孝季の言ったとおりです。勝者は歴史を飾る。権力を握ったら自分の先祖を飾るものだ。嘘を本当の歴史であるかのように勝ったほうが歴史を作り直して、大ウソを「本当」にしている。吾はそれに怒る。秋田孝季が『東日流外三郡誌』の最後のところで書いている。 今の天皇家や政府・文部科学省の態度は、秋田孝季の言ったとおりの教育と政治です。  だから偽書説というのは、偽書説を出して『和田家文書』をはね除けなければならない。まともに太刀打ちしたらダメだ。皆さん大学の教授をしたり頭は良いですから、わたしが言ったことは初めから分かっている。九州王朝説を言い出したら自分たちの論理は成り立たないから、古田説はなかったことにしよう。九州王朝説は古田が勝ってに言っているだけで、相手にしないようにしよう。秋田孝季は、権力者はそういうやり方をするものだと言っている。その通りです。  最近プラトンの『国家論』を何回も読み、『和田家文書』を何回も読んで考えているのですが、最後に秋田孝季のすごいところを言います。前に書いたように秋田孝季の立場から言いますと、国家には始まりがある。つまり人類が発生して、すぐ国家が作られて始まったわけではない。国家が無い時代が、何万年、何十万年とあった。そのうちに国家が発生した。つまり始まりがあれば終わりがある。国家は滅びるときがある。そういうことを明らかにしているのが秋田孝季の論理です。  また宗教、これも人類が発生と同時に宗教が始まったわけではない。犬や猫や猿を観れば、宗教を持っているなんて誰も想わない。猿の一員である人間も、宗教なき世界は何万年を経過していた。人類は、何万年を経過して、やがて、あるとき宗教が誕生した。秋田孝季の論理から言えば、宗教には始まりがあれば終わりがある。宗教は滅びて、ない時代がやがてやってくる。こういう論理です。  ましてやアメリカが手前勝手なA級・B級・C級・D級戦犯という区分けを勝手に作って、当てはめて勝手に死刑にした。そういうやり方は始まりがあった。やがてそのやり方は終わりがやって来る。そういうことが言える。もちろん国連の常任理事国のみが原水爆を持てる。国連の理事国が認めた国だけが原水爆を持てる。これは多数決どころではない。勝手気ままな理屈ですが、戦後五〇年ぐらい、そのまま通っている。そのような時代はやがて終わりが来る。歴史学の真実を真実として認めるなら、一気に到来する。一人が気が付くと言うことは、万人が気が付くということです。やがて万人が気が付いて、今まで述べたことは消え去ってゆく。わたしが言っていることが理にかなうなら、そういう時代がやって来る。 参考(会員コーナーに藤沢徹氏の大日本帝国の降伏文書調印式の論証があります。) 一、学問論(第四十一回)「明日の死 -- 当面する課題と共に」(TOKYO古田会NEWS)NO. 154 Jan 2014) 二、『尺寸の地を我に我に与えよ -- 「ヒロシマ」の記念塔』古田武彦 歴史の探求3」『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、二〇一三年 第三篇永遠の平和のために  五 認識したものの再認識について  これで終わっても良いのですが、せっかく資料として付けておきましたので触れなかった件について説明します。  まず初めに井上章一さんというかたが、わたしの著書『真実に悔いなし -- 親鸞しんらんから俾弥呼ひみかへ 日本史の謎を解読して』に対して、わたしの言いたいことを的確に述べておられ、たいへん的確な指摘を書評としてされた。それでコピーをお付けしておきました。  その横にシベリアの地図があります。現在のロシア、旧ソ連の北極海に面したところにレナ川という川が南から北に向かって北極海に流れ込んでいる。その岸辺に「チクシ」という地名がある。レナ川というのは、ロシア語の「エレナ」から来ていることは間違いない。その隣にある川が「ヤナ川」です。  それで従来「筑紫」は「ツクシ」とも呼んでいるけれども、本来は「チクシ」である。事実「筑紫」という漢字は「ツクシ」とは読めない。皆建築の「築」や天竺の「竺」という「チク」という漢字を当てる。だから「チクシ」が本来の呼び名です。また日本九州福岡県には柳川(やながわ)がある。するとシベリアと九州に、「チクシ」と「ヤナ川」がある。そうすると、この同じ地名は偶然の一致かどうかが問題となる。それが現在では、日本側の学者もロシア側の学者からも、これは日本語である。そういう指摘がつぎつぎ出ている。ですから動かすことができないテーマとなります。  そうすると矢印はどちらか。日本語が南米に行ったという報告も大下さんが詳しく報告していただいたから、日本側から北極海へ伝播したという考え方も成り立たないこともない。そうならたとえば「三種の神器」なども一緒に伝播していないとそうとは言えない。今の状況では、方向としては北極海から日本へ伝播した地名である可能性が高い。  この点では、たとえば出雲神話で有名な「ヤマタノオロチ」。表記は「八岐大蛇 八俣遠呂知」などいろいろあるが。樺太の対岸ロシア沿海州のにいるのが「オロチ族」。この二つの「オロチ」は、まったく無関係ということはない。それがロシアに調査に行った目的でもある。調べてみると、まさに古い言語のオロチ語では、「オロチ」は神様を意味する言葉です。そういう状況が判明した。  そうしますと「チクシ」と「ヤナ川」いう地名は、北極海から日本に伝播した。言葉のみが来るのではなく人間が来た可能性がたいへん高い。  それで思い出したのですが『シベリア物語』という物語の歌があります。わたしと同世代の人なら誰でも知っている歌です。わたしなどはいつも歌っていたものです。朗読し、また歌として音程は狂いましたけれど歌ってみると、このような歌です。 「荒れ果てて けわしきところ イルトゥーイシの不毛の岸辺に エルマルクは座して 思いにふける」  ここで「エルマルク」はみんな知っているロシアの英雄で銅像もあります。ロシア語として問題はありません。問題は、「イルトゥーイシ」です。ロシア語にくわしい大下郁子さんなどに聞きますと、「イルトゥーツク」ならロシア語です。「イルトゥーイシ」はありませんねと返事がありました。ですが、わたしの記憶では「イルトゥーイシ」です。これはビデオでもあれば確認できるでしょう。それで「イルトゥーイシ」に対して、わたしが持っている問題意識では、「イルトゥー」までがロシア語で、最後の「イシ」は日本語では合わさった言葉ではないか。初めからロシア人がいたわけではない。十九世紀に来た。それ以前に現地の人がいて、現地の言葉があった。ロシア語と日本語の「イシ」の合成語ではないか。日本語では北海道石狩(いしかり)平野など「イシ」という地名はたくさんあります。「イシ」は「石」という漢字を当ててあるけれども、stoneの意味ではなさそうである。伊那(いな)・伊勢(いせ)などと同じく「イ」は接頭語で「神聖な」という意味です。越(こし)などまとまった言葉である。「シ」は言素論の出発点となった「人の生き死にする場所」という意味の「シ」である。「いし」とは、「神聖な場所」という意味ではないか。石狩平野を初め、地名に「イシ」が並んでいますが、そういう淵源を持っているのではないか。(この典、竹村順弘氏のご教示により解決、英語訳 irtuishの訳。別記) 参照 一、「古田武彦【講演記録】磐井の乱はなかった -- ロシア調査旅行報告と共に」(古田史学論集『古代に真実を求めて』第8集、明石書店、二〇〇五年) 二、元素論(40)「チクシ再論 -- 鈴木浩氏の論文をめぐって」  となると、今日言いたかったことですが『君が代』にも「イシ」がある。 君が代(よ)は 千代に八千代 さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔のむすまで  今まで日本語の「イシ」を、日本の国歌と言われている「君が代」にも「さざれ石」と歌われているとおりstoneの「石」と考えていた。stoneの石が、長い年月の間に、rockの岩になるという理解をしていた。しかしそれは違うのではないか。「イシ」は「神聖な場所」という日本語、「岩 イワ」はその神聖な場所にある石という意味ではないか。「石」が長い年月の間に、「岩」になるという意味ではない。 「岩 イワ」が神聖な場所にある石という意味なら分かる。福岡県福岡市高祖山連邦の東「井原」は、「いはら」でなく「イワラ」とお聞きしましたが、井原山(いわらやま)もあり、『君が代』に対する新しい理解として最近気がついた。  それを検査する方法はもちろんある。日本語にこの「イシ」はたくさん出てくる。その一つ一つを取り上げて、stoneの石なのか。神聖な場所という意味なのか。それを検査してみたら、わたしのアイデアが単なるアイデア倒れなのか、本当の意味だったかが分かる。調べて分かってから発表すればよいと言われるかもしれないが、わたしは今喋っているが明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきたい。  もう一度言いますと、「イシ」は、「神聖な場所」という意味の日本語である。「さざれ石」の「いし」も「イルトゥーイシ」の「イシ」も日本語である。ロシア語は新しい。「イシ」は現地語である。それがわたしの記憶に間違いがなければ「イルトゥー」というロシア語と結びついたという表現になる。  最初に言いましたが、ミネルヴァ日本評伝選 『 俾弥呼 ひみか 』を書いたし、ミネルヴァ書房シリーズ「自伝」『真実に悔いなし -- 親鸞しんらんから俾弥呼ひみかへ 日本史の謎を解読して』も書いたし、もう思い残すことはない。ですが、まだまだ大事な問題がいっぱい眠っている。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんに受け継いでというより乗り越えて、新しい学問の世界を築いてほしい。ミイラのような死んだ論理でなく、あくまで「論理の導くところへ行こうではないか。 -- たとえそれがいずこに至ろうとも」、この一語に尽きると想います。本日はどうもありがとうございました。 (古田先生の詩)  偶詠(ぐうえい) 古田武彦 八十七歳 竹林の道 死の迫り来る音を聞く (12/24) 天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき (12/23)   質問一  木津川市の竹村です。「葬る」と「死ぬ」という言葉が日本語であると伺いました。わたしが考えたことですが、一番最下層の「死ぬ」という言葉と「葬る」という言葉だけが日本から中国に輸出されたというより、現地で「葬る」と「死ぬ」いう言葉を使っていた人々が駆逐されて、その言葉だけが残っていて、後から来た侵略民族の王族が「葬る」という言葉を使った。最下層の人々に対して「死ぬ」という言葉を使った。その「葬る」という言葉を使った支配層の人がさらに細分化されて、「没」とか「卒」とかいう言葉に分かれていったと考えたらいかがでしょうか。 回答  今日、このような質問を伺いましてよかったと考えています。わたしが言いましたことを間違って理解されては困りますので確認します。  わたしは日本語の「葬る」という言葉が、中国語に入ったということを主張したのではありません。これはまた今後のテーマでたいへん重大な意味を持っている。だから結論が出てから喋れと言われても、生きている保証がないので、今言っておこう。このテーマに直面していると。  しかもその場合質問をいただいて良かったのは、「葬る」はdeadではないが関係している言葉です。死んだことを「葬る」とは日本語で言わない。死んだ後、一定のルールや礼節を守って埋めることを「葬る」という。「あの人は死んだ」とは言うが、「あの人は葬った。」とは言わない。ところが中国の場合には、完全に身分の高い人が死んだことを葬=deadのことです。日本語の「葬る」と「崩」とは用途は違う。これはたいへん面白い テーマだとわたしは考える。矢印の方向は日本→中国、中国→日本とも決めてはいない。あわてて決める必要はまったくない。方法はきわめて簡単で、「〜むる」という言葉・動詞を調べれば良い。「〜むる」という動詞は日本語でどれだけあるのか。また中国語では、今の考えでは「葬」という言葉は、高い身分のdeadのことです。いきなり身分によって違えるという説話の説明になっている。その点「死」とは少し違う。そのあたりは、繰り返しますように「〜むる」という動詞をぜんぶ調べる。中国の「葬」という表現を全部調べる。  われわれは「崩御」という表現はよく用いますが、今の中国語では使わないようだ。なぜ無いのかということも調べる。これは問題の出発点として、お調べいただく新たな原点の一つとして考えて頂ければありがたい。  参考 【追記】1/14に先生と電話したときの、先生からの追加報告を備忘の為に追記する。(水野孝夫)  「崩」(ほう)の字も「葬ほうむる」という日本語からきているのではないか。としが、その後の考え。  死や崩(dead)と「葬る」は同時ではない。『礼記らいき』の最初におかれている篇「曲禮きょくらい(れい)」の下には、  「天子死曰崩。諸侯曰薨。太夫曰卒。士曰不禄。庶人曰死。在休み曰戸。在棺曰柩。  中国では、死(dead)とストレートに言わず、表現を身分によって訳、その表現に使用する語を、中国周辺(の民族の言葉)から採用し、最初の「崩」と最後の「死」は、日本語から採用した。(ここまで考えがすすんだ。)   質問二  三重県の田村です。先ほど言われた皇居の写真という話は、今始めて聞いた話で面白い話です。それでアメリカが公開しないという話ではなくて、日本人がアメリカに取りに行って公開しないという話ではないかという質問です。 (回答)  その点お答えいたします。それはアメリカでは公開している。日本側が公開・報道しないというケースだと、アメリカに古文書館があるので、そこに行った人に聞いてみたらよい。日本人には見せないということは無理だと想う。かなり日本人が行って研究し調べていると思う。ところがいっさい皇居の写真のことは出ていない。だからアメリカが出したが日本人が公表しないというケースなのか、アメリカ自身が秘密にして報道していないのか。もしアメリカ自身が公表していて信用しますというなら調べたらよい。あるいはアメリカに行って調べた人は何人もいますから、その人に聞いたらよい。これは一つのアイデアですから。これもアメリカに行って調べた人は何人もいますから、みんな調べ忘れたという話は、ちょっと信用できない。ですから日本人の調べた著者は幾人も居ますから調べなかったのですか。調べたけれど発表したらまずいと思って発表しなかったのか、電話で聞くなり手紙で問い合わせすればよいわけです。 質問三  京都の坂倉です。感想を述べさせていただきます。今まで古田先生の説が世に受けいられないことを三〇数年間くやしい思いでおります。  最近安冨歩という東京大学東洋文化研究所教授が『原発危機と「東大話法」 -- 傍観者の論理・欺瞞の言語』(明石書店 二〇一二年)という本が出ていますので、すでにご承知だと思いますがご紹介いたします。  ここの「東大話法のトリック」で論じているように、いろいろな盲点を隠し通していることで、学界が成り立っている。このことを奇しくも法学やいろいろな分野で告発する人々が出てこられた。ここにおられるかたがたを始め、そのことを若いかたに伝えることが必要でないか。 (回答)  仰るとおりです。安冨歩氏の書かれた本は持っていて読んでおります。原発危機については、安冨歩氏の言われたとおりです。「東大話法」 という言葉ですが、いわゆる通説というか一般的に言われていることに立って、いかにも自分の説のようにいうことが「東大話法」であるという形で説明して言います。東大では「東大話法」が盛んであるので信用してはいけない。そのように言われています。安冨歩氏自身も東大におられて、あえて内部告発というか書いておられて立派なものです。  ところがそれについて、わたしは書いたことがあるのですが、「深慮の一失」として書いたことがある。この中で「大化の改新」については通説通りの形で六四五年に始まったとして、数ページにわたり通説通り書かれている。これについてはまさに九州王朝なしの「大化の改新」として書かれている。これも「東大話法」として処理されている。安冨歩氏自身もそういう間違いがあるかも知れないが、指摘してほしいと書かれているから、その点は誠実です。  基本的に「東大話法」 というのはそのようなものです。ある「たてまえ」を取っていて、その「たてまえ」に合うものだけを取り入れて、合わないものを知らん顔をする。これは日本のおおきな欠陥です。その点はアメリカのほうが率直に言うことがあるとわたしは思います。先ほどのようにアメリカは全部フェアーであるかどうか分かりませんが、「東大話法」がはびこっていることは間違いない。 閑中日記(第八十四回)「原発と「大化の改新」」(多元的古代研究会編)『TAGEN』N0.151 July2013 質問四,五と回答(略)