中国語ホームページ 史之路 へ(文字化けすれば、ユニコードUTFにして下さい。)
古田武彦
一
「古田史学の会」編集部(古賀達也)から、この表題をお聞きしたとき、即刻「諾(イエス)」のお答えをした。まさに、語りたかったテーマだったからである。
中国の人々に対する、わたしの思いは、遠くかつ深い。いつも連綿とわたしの心の奥底に低音として流れているのだ。
「朝(あした)に道を聞けば夕に死すとも可なり。」この有名な、孔子の言葉はそのまま現在のわたしの心裡である。
「道行われず、桴(いかだ)に乗って海に浮かばん。」当時の中国の政治状況、倫理世界に絶望した彼の苦渋が身に沁みる。東海に出れば、その先には朝鮮・韓半島 日本列島があった。ただ半島は燕(北京)などの“陸地廻り”で行けるから、むしろ日本列島こそ彼の“あこがれ”の地だったのかもしれない。彼の崇敬してやまなかった周公のとき、日の出ず(づ)る国から来たのは「倭人たち」だった。
二
現在に知己を見た。日本在住の中国人、張莉さんである。「『倭』『倭人』について」の一稿だ。立命館大学白川静記念東洋文学文化研究所、第七号抜刷、二〇一三年七月発行とされている。
「邪馬壹(やまい)国は日本名で『ヤマ』と称される倭人の住む国をさすこととなる。」とし、それは「北九州の地名」としての「ヤマ」に基づく、とされる。従来の「邪馬台国」という、「改定名称」から立論してきた“憶説”と一線を“分って”いるのである。
さらに「九州王朝」について。「イ妥国の王多利思北孤は男性の王であるから、女性の推古天皇や 王でない聖徳太子 ではありえない。」(四六ページ上段)とした上で、唐初に書かれた『翰苑』を引文し、
「この文中の『阿輩奚隹彌』は『隋書』イ妥国傳の『阿輩奚隹弥』と同じであり、多利思北孤を指す。」(四七ページ上段)と、的確である。
さらに、わたしの説と異なる点も、明確にしめした上で、「『卑彌呼』の読みは「ヒミカ」であることが類推される。」(四七ページ下段)とし、最後に
「これらからみると、『古事記』『日本書紀』では『倭』『日本』がもともとは一系であるとして書かれて(い)る。しかしながら中国人の私よりみれば、『邪馬壹国』の卑弥呼から「イ妥国」の多利思北孤を一系統とする『倭国』と、神武天皇から推古天皇を経て天智天皇、天武天皇と続く近畿大和勢力の『日本』が、どうしても同じ系統とは思われない。」(五〇ページ上段)」と断言する。そして「あとがき」に言う。
「本稿を書き終えて、私の書きあげた『倭』『倭人』の説明が日本の定説でないことに、自分のことながら驚いている。だが、これらは私なりに日中関係の古文献を解釈し、その論理の赴くままの結果である。」
と。「後生、畏る可し。」 わたしは若い中国人女性に知己を見出した。望外の幸せである。
三
わたしの研究を導きつづけた史家、それは陳寿である。三世紀、魏・西晋朝の歴史官僚だ。敗戦国、蜀朝に生まれ、若くして洛陽に移った。その著、三国志は抜群の史書である。その的確な叙述はいまだ多くの研究者たちが、十分には理解しえていない。たとえば、第一に当書のハイライトをなす魏志中の倭人伝をカットした『三国志演義』が中国内で流行してきた。第二に倭人伝中の「侏儒国」「裸国・黒歯国」の記事は黒潮と日本列島との接点、さらにフンボルト大寒流との合流地域を指している。「日の出ず(づ)る所」(東夷伝序文)として漢書西域伝の「日の入る所」の記述との双璧をなしている。史書として抜群の意義が、中国側の研究者にも、さらに多くの日本側の研究者にも「無視」されている。第三に「邪馬壹国」」「俾弥呼」という魏朝あての「国書」(上表文)の自国名と自署名が無視されてきた。古事記・日本書紀という「後代史書」の立場、その大和中心主義のイデオロギーによって「邪馬台国」と「改ざん」された上で“論争”を行ってきたからである。
一国の歴史の中で千年や二千年は、単なる「一時期」にすぎない。たとえ「公権力」が「公教育」によって「偽史」を流布させようとも、「時の力」はそれをキッパリと洗い流すことであろう。陳寿の筆の持つ真実性(リアリティ)はいよいよ輝く他はない。
四
歴史は「政治上のイデオロギー」のために存在するものではない。真実のために存在する。
政治家達は自派の利害のために「歴史」を取捨し、利用しようとする。たとえば、中国と日本の間には、先述のように深くて長い歴史がある。陳寿の一例が見事にしめしているように、輝かしい両国の“消すことのできぬ”歴史がある。それらを無視(シカト)し、現在の自分たちの主張に“合う”ものだけを取り上げる。“合わない”ものは捨てる。
現在の「自国民」を、現在のイデオロギー一辺倒へと駆り立てる。そして自国の「内部の矛盾」を隠す。「自国民」の目がそこへ注がれないようにするためだ。
しかし、歴史は悠遠である。千年や二千年の“短い単位”の存在ではない。相手の“言いつのり”に同ぜず、自国の非も相手国の非も、たじろがず明らかにする。そのような「一国の姿勢」こそ、世界と人類の未来を決定する。アジア世界はその先達となるのである。
五
権力を握った者は、必ず自己を「神聖なる出自をもつ」かのように“公布”する。自己の「功績」をPRする。それを「歴史」と称するのである。歴史上の「自国の非」には、“口をぬぐって”すまそうとする。「偽史」だ。日本の「寛政年間(一七八九〜一八〇一)」を中心として活躍した思想家、秋田孝季(注)はこの道理を鋭く突いた。人間のための「公教育」が人間を害するのである。それだけではない、「他国」 ことに隣国に対する“非難”の声を高くして、自分の政権を“守ろう”とするのだ。
宗教や国家は人間のために作られた。人間が宗教や国家のために作られたのではない。この自明の道理が生き生きと輝きわたる領域、それが日本と中国との間の指標でありたい。わたしは両国の未来を信じている。
(注)『東日流(つがる)外三郡誌』の著者。市浦村村史版・北方新社版・八幡書店版がある。寛政原本の写真版はオン・ブック二〇〇八年刊の『東日流〔内外〕三郡誌』古田・竹田編、所載。
二〇一四年六月二十九日 記了
歴史の道 -- キイ・ポイント 古田武彦
中国語ホームページ 史之路 へ(文字化けすれば、ユニコードUTFにして下さい。)
すべての歴史学者に捧ぐ 古田武彦