2007年 2月10日

古田史学会報

78号

武烈天皇紀に
おける 「倭君」
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万葉集二十二歌
 水野孝夫

カメ犬は噛め犬
 斉藤里喜代

朝倉史跡研修記
 阿部誠一

朱鳥元年の僧尼
 献上記事批判
三十四年遡上問題
 正木 裕

夫婦岩の起源は
邪馬台国にあった
 角田彰雄

続・最後の九州年号
消された隼人征討記事
 古賀達也

洛中洛外日記より転載
九州王朝の「官」制

年頭のご挨拶
ますますの前身を
 水野孝夫

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朱鳥元年の僧尼献上記事批判

(三十四年遡上問題)

川西市 正木 裕

 古田先生は、日本書紀に記載する、都合三十一回の吉野行幸は、九州王朝の天皇の、朝鮮半島出兵の基地たる、「佐賀なる吉野」視察記事の、「白村江以前」からの遡上り盗用であることを明らかにされた(三十四年遡上)。
 私は前回の報告で、持統二年(六八八年)十一月四日の天武の葬儀記事は、孝徳十年(六五四年)白雉五年の「孝徳天皇の葬儀」記事の盗用であること、持統二年から三年の「蝦夷朝貢」は、孝徳・斉明時代の出来事であることなど、三十一回の吉野行幸の周辺記事でも、記事日付より「三十四年遡る白村江以前」の記事から盗用されている例を示した。
 本稿では、「三十四年遡上盗用」に関し、「朱鳥元年の僧尼献上記事」について検討していきたい。

 

一、朱鳥元年の僧尼献上記事の矛盾

 持統称制前紀、朱鳥元年(六八六年)閏十二月に、以下の記事がある。
(A)朱鳥元年(六八六年)閏十二月
 閏十二月、筑紫大宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人。
 この記事の直前には、「十二月丁卯朔乙酉、奉為天渟中原瀛真人天皇(天武)、設無遮大会於五寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田」とあり、当年九月九日に崩御した「天武の喪」に関する出来事のように記述されている。素直な解釈では「天武の葬儀」のため、高麗・百済・新羅の男女、僧尼が筑紫から献上された、と読める。
 しかし、高句麗は六六八年滅亡、百済も六六〇年に滅亡している。「高麗・百済の男女」らはどこから来たのか。この点で岩波の解説者も解釈に「苦慮」したのだろう、「高麗・百済の『遺民』と新羅からの帰化人を合わせたもの」としている。しかし、高麗は二十年、百済に至っては二十六年も前に滅亡している。亡命当時二十才だった者は四十六才、三十なら五十六、すっかり年取った爺さん婆さんだ。そうした国の「遺民」が、今ごろ登場するのはおかしい。
 彼らはこの間何をしていたのだろう。高麗・百済は旧友好国。奴隷扱いをしていたとも思えない。亡命者として、新たな居住地で新しい生活の年輪を重ねていたに違いない。二十余年もたてば結婚もし、子や孫も出来ている者もいるだろう。地域で欠かせぬ職についている者もいるだろう。今更彼らを、地域や家庭から「引っぺがして」連れてきたというのだろうか。
 また、戦勝国の新羅人が、敗戦国日本に「帰化」し、なおかつ、彼らが滅ぼした百済や高麗の遺民と共に行動するのも不審だ。要するに「時代」が合わないのだ。 更に、僧尼らも(文面上は三国の僧尼か、筑紫の僧尼かは決定しづらいが)これら諸外国から献じられたとすれば、持統天皇が使者を新羅に派遣し、天武の喪を新羅に告げたのは持統元年一月。それ以前に新羅が男女・僧尼等を献ずるというのは、より一層不自然なことになる。

 

二、白雉二年・三年には難波遷都祈念の僧尼記事

 一方、三十四年遡上した孝徳八年(六五二年)白雉三年十二月には、以下のような記事がある。
(B)孝徳八年(六五二年)白雉三年
 冬十二月晦、請天下僧尼於内裏、設斎大捨燃燈。
 この記事の前年の「十二月晦日」には、次に掲げるように、難波宮遷都について祈念する式典記事がある。
(C)孝徳七年(六五一年白雉二年)
 冬十二月晦、於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃二千七百余燈於朝庭内、使読安宅・土側等経。於是、天皇従於大郡、遷居新宮。号曰難波長柄豊碕宮。
 BC両記事は、時も十二月晦日、内容も僧尼を招いての「設斎大捨燃燈」と、極めて類似している。難波長柄豊碕宮が完成するのは、白雉三年九月だということから、その年末にも、前年同様の式典があると考えるのが合理的だ。従って、両記事は、白雉二年と三年末に連続して開催された、「難波宮遷都について祈念する一連の式典記事」だと考えられる。このことは、古賀氏の「白雉改元の史料批判」で議論されたところだ。
 ここで、朱鳥元年のA記事と、三十四年遡上った孝徳七年のB記事を比較しよう。
 いずれも「十二月の出来事」で「僧尼」が登場する。A記事は、僧尼の「献上」記事で人数等の情報がある。一方B記事は、僧尼が内裏で設斎大捨燃燈という「行事を司る」記事、行事の情報記事だ。
 ここで、AB両記事を合体すれば、「僧尼が献上され、行事を司った」という「僧尼情報と、行事情報」を併せ持つ、式典の記事としてまとめられる。

 

三、切り取られた「僧尼」記事

 ということは、Aの僧尼献上記事は、白雉三年十二月晦日の式典を記述する、「AB記事を合体した内容の元記事」から切り取られ、持統紀に貼り付けられたものだ、という疑いが極めて濃くなるのだ。
 つまり朱鳥元年のA記事は、B記事に記す、三十四年前の孝徳白雉三年(六五二年)十二月晦の、難波遷都に関する祈念式の記事から、諸外国からの僧尼等の派遣部分を切り抜き、持統称制前紀、朱鳥元年(六八六年)十二月に貼り付けたものというわけだ。
 そうすれば、高麗・百済の百姓男女らを、無理に滅亡した国の遺民とする必要はない。また、本国に連絡も無い内に、戦勝国新羅の「帰化人」が「献上」される不自然もない。
 さらに、文章上もこのことが裏付けられる。ABC三つの記事を並べてみよう。
(A)「筑紫大宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人」
(B)「請天下僧尼於内裏、設斎大捨燃燈」
(C)「請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃二千七百余燈於朝庭内」
 BC二つの記事は、語句も右に掲げるように、対句になっている。
 ここでA記事にあってB記事にないのは僧尼の数だ。A記事にはその数が「僧尼六十二人」とある。
 そして、A記事での「筑紫」とか「三国」という語に対して、B記事では「天下僧尼」とある。これは意味として一致する。「広く国内外から集められた」ということだ。AB両記事は、同様の性格を有する記事で、なおかつ補完性があり、元は一つだった事を伺わせる記事なのだ。
 一方、Cの記事(遷都直前の祈念式典)では「二千一百余僧尼」とあるが「どこの僧尼か」と言う記載は無い。一年後(孝徳八年)の式では、「天下」という修飾が付けられている。一年の経過を経て、遷都を祝し、諸外国(あるいは筑紫)など、広範囲から僧尼が派遣されたのだ。「天下」と言う表現は、遷都を国内外に伝え、祝福を各国・各地から受けることとなった経過を、十分に反映した言葉といえるだろう。

 

四、「半島との活発な交流」という時代背景も孝徳期と一致

 孝徳期は、孝徳六年(六五〇年)白雉元年夏四月の条(D記事)に、A記事に記す「高麗・百済・新羅」が毎年使いを送り、貢献してきたとあるとおり、活発な諸国交流の合った時期で、時代背景ともピッタリ一致する。持統紀のように、滅亡した諸国の「遺民」や戦勝国からの「帰化人」などを、不自然に持ち出す必要は一切ないことも、論証の補強として挙げておきたい。
(D)孝徳六年(六五〇年)白雉元年
 夏四月、新羅遣使貢調。或本云、是天皇世、高麗・百済・新羅、三国、毎年遣使貢献也。
 なお先に、「持統天皇が使者を新羅に派遣し、天武の喪を新羅に告げたのは持統元年一月。それ以前に新羅が男女・僧尼等を献じたのは不自然」と述べたが、このことに関しても、若干申し添えたい。

 

五、持統元年の新羅への遣使について

 天武の喪に関連する話題として、持統元年の新羅への遣使について申し添えたい。
 持統元年春正月甲申(きのえさる十九日)、持統は直広肆田中朝臣法麻呂と直広肆田中朝臣法麻呂等を新羅に遣わし、以下のE記事のとおり、天武の喪を告げた。
(E)持統天皇元年(六八七年)
 元年春正月丙寅朔(中略)甲申、使直広肆田中朝臣法麻呂與追大弐守君苅田等、使於新羅、赴天皇喪。
 この新羅への遣使に記事に関して、同じ持統紀のなかに不思議な記事がある。
 E記事では、遣使は明確に「持統元年」とされているのに対し、持統三年の次に掲げるF記事では、遣使は二年のことだとされている。
(F)持統三年(六八九年)、
 五月癸丑朔甲戌(きのえいぬ二十二日)、命土師宿祢根麻呂、詔新羅弔使級・餐*金道那等曰、太政官卿等、奉勅奉宣、二年、遣田中朝臣法麻呂等、相告大行天皇喪。
餐*は餐の別字。二水編に食。JIS第4水準ユニコード98E1
 この点で、岩波の解説は
 「元年正月十九日の条に見えるので、元年と意改した写本もあるが、田中朝臣法麻の出発は遅れ、二年に新羅に通告したのであろう」
 と推測している。しかし、そんな論が通用するなら、書紀に年号の記された遣隋使も遣唐使も、いや全ての遣使が「実際はいつ出発したのか判らない」ことになる。「持統元年に新羅に遣わして、天皇の喪を赴げしむ」とあるからには「持統元年」である。また、根拠の無い意改=原文改定はすべきではないこと勿論だ。

 

六、遣使の「二年」は朱鳥二年

 それでは、真相はどうなのか。
 「二年」とは「九州年号朱鳥二年」のことだ。
 書紀では天武十四年(六八五年)に続き朱鳥が一年(六八六年)だけあり、すぐ持統元年となる。しかし、九州年号では朱鳥は六百八十六年に始まり、九年間続く。すなわち「持統元年」は九州年号「朱鳥二年」なのだ。何の不思議も無い。九州年号で記述された記録から書紀を編纂する際、文頭の記年は近畿天皇家の暦に従い「持統元年」と改定したが、「二年」の語は「曰く」以下の詔文中(語り言葉部分)にあった為、九州年号が残ってしまったのだ。
 F記事中の持統紀三年の新羅遣使「二年」の語は「朱鳥二年に新羅への使者を派遣し、喪をつげた」という意味であり、九州年号実在の、またひとつの証明となろう。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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