2006年10月10日

古田史学会報

76号

敵を祀る
旧真田山陸軍墓地
 大下隆司

白雉改元の史料批判
 盗用された改元記事
 古賀達也

「炭焼き小五郎」の謎
 多元史観の応用
 で解けた伝説
 角田彰男

七支刀鋳造論
 伊東義彰

5洛中洛外日記より転載
 九州王朝と筑後国府
 古賀達也

木簡に九州年号の痕跡
 「元壬子年」木簡の発見
 古賀達也

7 『 彩神 』
 シャクナゲの里1
 深津栄美

阿胡根の浦
 水野孝夫

9伊都々比古(後編)
倭迹迹日百襲姫
と倭国の考察
 西井健一郎

10洛中洛外日記
九州王朝の部民制
 古賀達也

11
なかった 真実の歴史学
創刊号を見て
 木村賢司

古田史学の会・四国 
定期会員総会の報告
 竹田覚

 事務局便り


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阿漕的仮説ーーさまよえる倭姫 (会報69号) 

泰澄と法連 水野孝夫(会報75号)


阿胡根の浦

奈良市 水野孝夫

 二〇〇六年七月は全国的に天候不順で日照が極端に少なく、豪雨禍が多かった。それらに関する報道の中で、わたしは鹿児島県阿久根市の名前に気付いたのである(地図)。
 万葉集・巻一・歌番号十二は次である。

 我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ [或頭云 我が欲りし子島は見しを]
 原文:吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾[或頭云 吾欲 子嶋羽見遠]

 わたしの感じたこと。「この万葉歌の阿胡根能浦とは阿久根市を指すのではないか?」
 万葉集中の歌番号十、十一、十二は一連で、中皇命徃于紀温泉之時御歌との題詞が付き、この三歌に対する古田武彦氏の斬新な解釈は著書注(1)に発表されている。そこでは、中皇命は九州王朝の天子、紀温泉は和歌山県の温泉、野島は淡路島北部の陸地、阿胡根の浦は三重県・英虞湾と理解され、子島は岡山県児島半島をあてられたことは、読者はよく御存知であろう。なお古田説以外では「阿胡根の浦」も「野島」も所在不明であり、野島は和歌山県御坊市にある字地名か、とされていることは古田氏が述べておられるとおりである。しかし「野島」にしろ「子島」にしろ、その候補地がなぜ海中の「嶋」でないのだろうか?
 古田氏の理解によれば、中皇命とその恋人の女性を含む一行は、九州(太宰府?)から瀬戸内海を通り、明石海峡、大阪湾から白浜温泉あたりに到り、潮岬を廻って英虞湾に到り、また九州に帰る大航海だったことになる。
 わたしたち数人は古田氏と共に、神武東侵の経路探索に潮岬や新宮を訪れているが、ここを廻る大航海が古代に可能であったか否かについては確証はない。もちろん七世紀には白村江に千艘を越える軍船を送ったのであり、不可能ではなかろうが、温泉や珠拾いといった物見遊山の旅に熊野灘へ乗り出すだろうか?、という疑問はあった。九州王朝の天子ならば、九州内を旅行してもよいではないか?「阿胡根の浦」は「阿久根の浦」では?「英虞湾」よりは文字表記が近い。
 考えてみると、急な思いつきではあるが、永く暖めてきた問題へのひとつの回答でもあった。わたしはかって「阿漕的仮説 ーーさまよえる倭姫 注(2),(3)」という論を発表した。
 要約すると、伊勢神宮に伝わる文献『倭姫命世記』の地理的記載は具体的でリアルである。「淡海」は球磨川河口、倭姫命の当初の伊勢神宮は八代市あたりであり、その付近は亜熱帯性の樹木・アコウ(またはアコギ・赤生木)が生育する場所のはずである、というものであった。ならば、そのあたりに伊勢国や伊勢海があってもおかしくない。
ところが、三重県・英虞湾、また阿漕が浦はアコウの生育北限よりはるかに北にあり、アコウが生育しない。「阿胡根の浦」とは「アコウが根づく」土地ではないか?これがわたしの暖めてきた問題意識だった。
 鹿児島県阿久根市を調べると、東シナ海に面した海岸であり、現在もアコウ樹の群落がある。確かに「アコウが根づく」土地である。すぐ近くに名所・黒之瀬戸がある。東シナ海と八代海の接点で、潮の干満につれ渦を巻く急流の海峡(幅二百から五百メートル)である。
 この名所をよんだ歌が万葉集に二首あるというのが定説である。
03/0248 長田王作歌、隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我れは今日見つるかも
06/0960 帥大伴卿(注:大伴旅人)遥思芳野離宮作歌一首 隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり
 九州王朝の天子が見たいと思う場所ではないか?
 八代海付近には現代地図上に「野島」「子島」はいくつかある。陸地の一部の地名ではなく、島の名前である。しかし古代から有名であったような野島、小島を確定するには至っていない。黒之瀬戸に接するあたりに野島があったのかも知れぬ。
 また珠は通常の理解のように真珠だろうが、阿久根市の現在の特産水産物に真珠はない。しかし古代の真珠は天然真珠であったはずであり、それを抱いていた貝はアコヤ貝とは限らず、アワビやタイラギも候補となる。阿久根市に近い天草の牛深市に久玉浦があり、地名からしても真珠産地であったらしい。
 魏志倭人伝で壹與が魏へ献じた物に「白珠五千個」があり、太古から九州は真珠産地であった。倭の水人は「沈没して魚蛤を捕らう」と記録されているが、蛤は比較的浅い海におり、沈没して捕るのはアワビ等ではなかろうか。阿久根市で天然真珠が採れてもおかしくはなく、付近には古代の貝塚が多い。但し江戸時代に薩摩藩主が阿久根市沖の大島で真珠母貝を育てようとしたが成功しなかったとの記録があるのは、難点である。
 八代海(不知火海)を「伊唐島あたりでは伊勢海と呼ぶ」という地元の方のHP注(4)がある。野間口道義氏によるこのHPの「古代史復元」は興味深いものではあるが、本報告ではその内容は採用せず、地名に関する伝承や海流、気候などに関する部分のみを、地元の研究者としての証言として参考にさせていただく。例えば野間口氏は不知火海付近での製鉄は北九州より早期であり、「不知火」とは製鉄炉の火が遠くから見えたのではないか?とされる。しかしわたしは、これは論証不十分と考える。「不知火」は景行紀十八年の「火国」命名伝説や肥前国風土記逸文にあるが、なにかの火が有明海から見て南方に見えたには違いない。
 これは製塩の火ではなかっただろうかとわたしは考える。朝日新聞2006/07/25夕刊に「鉄の見返り・朝鮮へ塩──弥生・古墳時代 近藤義郎氏らが新説」という記事があった。「朝鮮半島には製塩土器が見つからない」ことに疑問をもって研究された結果、輸入鉄の見返り物資は塩だったという説に至られたそうであるが、不知火海沿岸でも製塩が行われた形跡はあり、製鉄よりは炉の数が多かったものと思われる。「八代海を伊唐島あたりでは伊勢海と呼ぶ」か否かについて、佐賀県の会員・古川清久氏は伊唐島へ行かれたが、確認には至らなかった。
 垂仁紀二十五年条に(倭姫命世記にも)、天照大神が倭姫命に誨えられた言葉として「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重波帰する国なり」というのがある。注釈に「神風は伊勢の枕詞」とあるが、なぜ神風が伊勢の枕詞になるのか、納得できる説明にお目にかかったことがない。「伊勢の神が大風を起されるから」と説明する人があるが、それは「伊勢の神風」の説明にはなるが、「神風の伊勢」の説明にはならない。アイヌ語まで持ち出して「伊勢=神風」の同義語とする論文も見たが、なぜ同義語を重ねる必要があるのか。
 「神風の伊勢国」とは「神風が名物である伊勢国」と理解するのが当然と思われる。しかし三重県は特別に大風が名物というわけではない。だからこの当然の理解ができないのである。ところで日本列島で「台風銀座」といえばどこを指すか、鹿児島県・熊本県の特に西岸である。神風とは台風のことであると理解すれば明快である。だから八代海近辺が伊勢国であれば理解しやすい。野間口氏のHPには春から秋にかけてのいわゆる台風シーズンには黒潮の分流が南から八代海を目指すように流れることが説明されている。「常世の浪の重波帰する」とは、「黒潮と台風の浪が重なった大浪の寄せる」八代海であると理解すれば明快である。
 万葉集の歌番号九は、その最初の十二文字が難読で知られる。
01/009  幸于紀温泉之時額田王作歌
 莫囂円隣之大相七兄爪謁気 吾瀬子之射立為兼五可新何本 
 過去に百通りくらいの読みが提案されているらしいが、「定説はない」とされている。古田氏の解は発表されていない。東京古田会の福永晋三氏が「静まりし大浪騒げ 吾が背子のい立たし兼ねつ厳橿が本」と読み、神功皇后船出の歌とされたのはご存知だろう。注(5) この歌を取り上げるのは、十〜十二歌と共に「紀温泉」行きの時の歌であり、九〜十二歌の四首が共に額田王の作とする説があるからである。配列からみても「紀温泉」は四首に共通の温泉だと考えられる。この歌の研究史を詳しく調べた伊丹末雄氏の解(注(5) 但し謁は湯の誤りとする)は
 夕月の光(かげ)踏みて立つ、わが瀬子が、い立たせりけむ、厳橿がもととなっている。
 厳橿(いつかし)がもと、とは何だろうか?従来説は一般に「神聖な橿の木の本」でとどまっている。書紀にはただ一ヶ所に厳橿が現われる(垂仁紀二十五年、一書)。古事記では雄略が赤猪子に与えた歌中にある。書紀のそれは「倭姫命が天照大神を祀る場所」である。ここまでの経過から「厳橿」とは特定の樹木の種類名、それもアコウのことではないか?という連想が生まれた。アコウ樹の根元は神聖な場所、古代の天皇の即位式もここでおこなわれたのではないか?初代天皇・神武は「畝傍の橿原宮」で即位されたことになっている。畝傍は畝火が原義であろう。畝火=火を噴く火山の近くにアコウの生えているところ。候補としては二ヶ所考えられる。雲仙普賢岳のふもとと桜島のふもとである。どちらもアコウの育つところである。古川清久氏が最近行かれた島原半島と天草が有明海を扼する地・早崎海峡に面して育ったアコウの写真を送信していただいた(写真)。額田女王が「わが背子」と呼ぶ方は即位後の天子たる中皇命のことではないか、という理解が生まれた。
 多くの神社のご神木がクスノキである。杉や桧がご神木というところは少ない。南方系の神社の、本来のご神木はアコウだったのではないか、しかしアコウは海岸でないと生えない。すこし陸地へ入ると、似た樹相のクスノキで代用することになったのではなかろうか?
 さて、中皇命が阿久根市へ向われたとすると、紀温泉とはどこか?が問題になる。書紀を調べると「温泉」の語はなく、表記はみな「温湯」になっている。舒明天皇は有馬、伊予温湯へ行かれるが、九州へは行かれない。それでどうして、万葉集二番歌・別府鶴見岳の歌が作れたのか?書紀の温泉行幸の記事には疑問がある。雲仙(うんぜん)という表記は新しいもので、もとは温泉(うんぜん)という表記であった。江戸時代を含むそれ以前には九州では温泉とは雲仙温泉を指したのである。長崎県雲仙温泉は、古代は高来県にあった。来温泉→紀温泉と万葉集編者によって書き換えられたのではなかろうか。

(注)
(1) 古田武彦『古代史の十字路』東洋書林,2001/04
(2) 古田史学会報 No.六九,2005/08
(3) 『古代に真実を求めて』第九集、2006/03
(4) 野間口道義氏のHP
http://www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/ 2009
(5) 東京古田会ニユース七五号(平成十二年九月)
(6) 伊丹末雄『万葉集難訓考』、国書刊行会、1970

190. 阿胡根の浦 古田史学の会会報 NO.76 掲載論文


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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