2006年10月10日

古田史学会報

76号

敵を祀る
旧真田山陸軍墓地
 大下隆司

白雉改元の史料批判
 盗用された改元記事
 古賀達也

「炭焼き小五郎」の謎
 多元史観の応用
 で解けた伝説
 角田彰男

七支刀鋳造論
 伊東義彰

5洛中洛外日記より転載
 九州王朝と筑後国府
 古賀達也

木簡に九州年号の痕跡
 「元壬子年」木簡の発見
 古賀達也

7 『 彩神 』
 シャクナゲの里1
 深津栄美

阿胡根の浦
 水野孝夫

9伊都々比古(後編)
倭迹迹日百襲姫
と倭国の考察
 西井健一郎

10洛中洛外日記
九州王朝の部民制
 古賀達也

11
なかった 真実の歴史学
創刊号を見て
 木村賢司

古田史学の会・四国 
定期会員総会の報告
 竹田覚

 事務局便り


古田史学会報一覧

巣山古墳第七次調査現地説明会(会報75号)

九州古墳文化の展開(抄) 伊東義彰(会報77号)


七支刀鋳造論

生駒市 伊東義彰 


 一月の中ごろ、私が加入している「橿原考古学博物館トークの会」から、二月に開く「古代刀剣の復元」という展示会の解説要員ボランティア募集の案内が届きましたので、二月の中ごろに応募し、その研修会に参加しました。
 研修会の講師は、奈良県無形文化財保持者の河内国平氏、すなわち、名の通った刀鍛冶でした。古墳から出土した数振りの刀剣を復元されているそうで、「藤ノ木古墳」の飾り大刀(玉纏の大刀)や劔の復元も手がけられた方です。実は、石上神宮の七支刀の復元・複製も手がけられ、その経験と刀鍛冶の名工として眼力から、七支刀鋳造論を唱えられています。唱えるだけではなく、幾多の実験を繰り返して、鋳造の七支刀を造り上げてしまった方です。
 七支刀には、その解読が日本の古代史を動かすほどの文字が金象嵌で書かれていることは周知の通りですが、その中に「百練鋼七支刀」の文字が書かれていることも有名です。この金象嵌の文字から、七支刀は「鍛造刀」であることを誰も疑ったことがなかっただけに、「鋳造刀」の可能性がある、と聞かされたときは驚きでした。それも実際に、鍛造で七支刀の複製品・復元品を造られた経験に基づいての鋳造論ですから重みがあります。
 鍛造刀は、玉鋼(含有炭素約0.3〜1.5パーセント)から次のような工程を経てつくられます。
 水圧し(みずへし 玉鋼を薄く圧して適材を取り出す)→積み沸かし(小割りにした玉鋼を選別し、積み重ねて加熱し塊とする)→鍛錬(鍛え、練り、幾層にもなった強い美しい地鉄をつくる)→火造り(練り上げた地鉄を組み合わせ、鍛接して打ち延ばし、刀の形を作る)→土置き(土を塗ることによって波紋が現れる)→焼入れ(土置きした刀身を過熱し、水で急冷する)→鍛冶押し(かじおし 焼入れの済んだ刀身の形を整え、線と肉置きを決める)→樋かき(ひかき 形の整った刀身に、樋などの彫刻を入れる)→銘切り(めいきり 研師より研ぎ上がってきたものに、鏨たがねで銘を入れる)。
 復元品をつくるとき、枝部を別の鉄で鍛接する方法を考えられたそうですが、実物には鍛接面が認められなかったので、刃の枝になる部分を加熱して鏨などで切り出し、槌で叩いて整形する方法を採られたそうです。地鉄を「素延べ」し、枝部を切り出すのも大変難しく、「火造り」段階では枝部の先を加熱しようとすると芯部も加熱してしまい、枝部と芯部の内側の火造りがうまくたたけなかったそうです。鋼は焼入れすることによって硬くすることができ、刃物として用をなすのですが、このような異形の刀の焼入れは極度に難しく、結局、「焼入れ」せずに復元品を完成させざるを得なかったそうです。このように鍛造で復元品をつくることの難しさから、故末永雅雄氏が生存中から鋳造刀ではないかと考えられていたそうです。
 鍛造による復元品製作の難しさの他、七支刀の折れ方(下から二つ目の枝部の少し上でポッキリ折れています)、刀身断面に鎬(しのぎ)ががなくレンズ形(楕円形)であることなど、鋳造ではないかと思われる特徴があるところから、七支刀は鋳造されたものではないかと考えられ、それを実証すべく鋳造による七支刀の復元品製作に取りかかられたわけです。
 しかし、鋳鉄は硬くて脆(もろ)く割れやすいので象嵌は難しいとされています。中でも白銑という鋳鉄はガラスのように硬くて脆いのですが、この白銑(炭素3パーセント以下、珪素0.9パーセント程度)を長時間高温で加熱処理することによって粘り強い可鍛鋳鉄に変える技術が当時(四世紀ごろ)から朝鮮半島にはあったことがわかっており、これを応用して、鋳上がった白銑製の復元七支刀を八九〇度前後の炭火で六時間加熱処理したところ、ガラスのように硬く脆かった白銑が力を加えると曲がるほど粘り強く、柔らかくなったそうです。もっともここまで来るまでに五回ほどの失敗を重ねたということですが、成る程と頷けます。このように、考えるだけでなく、いくつかの方法で実際に繰り返し作って試し、古代の技術に迫る研究方法を「検証ループ法」と言うのだそうですが、河内国平氏はこれを実践されたのです。
 こうして作られた白銑製の折れ口は、鍛造鉄剣の折れ口よりも実物(七支刀)の折れ口によく似ています。もちろん象嵌を施すこともできます。
 七支刀の価値は類例のない異形にあるこもさることながら、刀身に施された金象嵌の文字にあることは言うまでもありません。その文字は刀身に線の溝を彫って、直径0.2ミリほどの金線を嵌め込んで書かれています。
 鉄剣への線象嵌では、金線を嵌め込むための溝を彫る技術と溝に嵌め込んだ金線が半永久的に脱落しないようにする技術が要求されます。「蹴り彫り」(溝の底にアンカーとなる凹部をつくる)や「ナメクリ彫り」(溝の縁にできるカエリを被せる)という超微細な技術で溝を彫るのです。
 ところで七支刀の象嵌は実物を観察するまでもなく、腐食が少なくて象嵌の溝が残っているのに金線の脱落している文字がたくさんあることが知られています。文字全体の約五〇パーセントの金線が脱落しており、輪郭の線文様では九〇パーセントが脱落しているそうです。これはナメクリ彫りで溝を彫った後、溝の底の狭いところに金線を押し込むことで辛うじて留めているからではないかとされています。同じ頃の中国鉄剣の線象嵌は蹴り彫りで溝を彫っており、腐食しない限り金線が脱落することはありません。
 また、脱落が多いばかりでなく、金線が溝の外にはみ出しているのもあります。線象嵌では金・銀線を嵌めた後、研磨して平にしますが、七支刀では象嵌溝の周囲に「立ち上がり(カエリ)」がそのまま残っているそうで、仕上げの研磨加工が十分に行われていなかったためにはみ出した金線がそのまま残ったのではないかと考えられています。
 七支刀の文字も何故か読みにくい形のものが多く、専門家の解読を苦しめています。中国の象嵌文字は微細な文字線の中に、筆文字ならではの線の肥・痩や筆の勢いまでが表現されていますが、それに比べると七支刀の文字はかなり見劣りし、隷書体から楷書体への過度期の文字に混じって草書体の影響とも言える文字が含まれているとのことで、どのような社会で作られたのか、よくわからない文字だそうです。言えることは、文字文化が未成熟であった社会で生まれたもの、ということではないでしょうか。
 さらにわからないのは、四世紀の百済を含む朝鮮半島には、鉄で鉄に溝を彫る象嵌技術を施した鉄製品の例は見あたらず、当時の朝鮮半島に鉄への象嵌技術が定着していたとは考えられないということです。また、鉄への象嵌技術は、鉄に関する高度な技術の蓄積が必要ですから、百済で自然発生する可能性は低いとされています。すなわち、中国の技術が伝わったものと考えられますが、七支刀の象嵌は成熟した中国中原の象嵌技術とはかなり大きな距離があるそうです。
 河内国平氏が中心となって「検証ループ法」により復元された七支刀が、金象嵌も鮮やかに二本(表裏)展示されており、ボランティアの立場も忘れて長時間立ちつくしていました。
 尚、象嵌された文字のうち、「音」か「晋」かで古田先生が「晋」と読まれた文字は、「晋」に見えるのは錆の線のせいであって、象嵌技術的に見れば「音」であるとの説明文がありました。
    平成十八年三月二十八日

参考資料・文献
『古代刀剣の復元展図録』橿原考古学博物館
『読売新聞記事 やまとの遺宝』平成十八年三月十六日
『七支刀と石上神宮の神宝展図録』奈良国立博物館
 追伸 三月十一日に、古田先生、水野さん、太田さんをご案内しました。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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