2019年 6月11日

古田史学会報

152号

1,天平宝字元年の功田記事より
 服部静尚

2,「船王後墓誌」の宮殿名
大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か
 古賀達也

3,『史記』の中の「俀」
 野田利郎

4,「東鯷人」「投馬国」
「狗奴国」の位置の再検討
 谷本茂

5,『邪馬一国の証明』が復刻
 古賀達也

6,「壹」から始める古田史学
十八・「磐井の乱」とは何か(2)
古田史学の会事務局長 正木裕


古田史学会報一覧

乙巳の変は六四五年 -- 天平宝字元年の功田記事(会報151号)

天平宝字元年の功田記事より 服部静尚 (会報152号) ../kaiho152/kai15201.html

天平宝字元年の功田記事より

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 続日本紀天平宝字元年(七五七)十二月壬子条に、乙巳の変以来の功田の等級を定めた記事がある。これは当時の大和朝廷が、過去百年あまりの期間で、とくに重要だと認めた臣下の功績の記載と見られる。
 ところが日本書紀から見て、当然ここに記載されるべき功績が欠けている。そこでここでは大和朝廷が重要だと認めた功績を考察した後、欠けている、つまり重要だと認めなかった功績が、九州王朝の事績であったことに言及し、そこから古田武彦氏が指摘した日本書紀の編集作為をあぶり出す。

 

二、日本書紀・続日本紀に記載された臣下の功に対する報償記事

 乙巳の変から天平宝字元年までの期間で、臣下の功に対する報償記事が六十七件あり、その内の約3分の2に当る四十四件が壬申年の功の報償であった。大和朝廷が如何に壬申の乱の功を重要視していたかがうかがえる。
 この六十七件の内、功田に関連する記事に絞ると六項に示す二十七件(以下この記事を〈1~27〉の番号で表記する)となる。

 

三、天平宝字元年十二月壬子条〈27〉に記載の功田とその考察

 〈27〉は、「これまで功田授与した中で、大・上・中・下の等級を定めていなかったものがあるので、既に等級が定まっている十名の功と比較検討して、あらためて十四名の功の等級を定めた」というものである。ここに採りあげられた功は、
(A)乙巳年の功、
(B)壬申年の功、
(C)大宝二年律令作成の功、
(D)吉野(古人)大兄を密告した功、
(E)天平宝字元年(橘奈良麻呂の謀反を密告)の功
(F)遣唐使の遭難による功
(G)養老二年律令作成の功の七件である。

(A)乙巳の変に対する功田について紀には直接記述は無い。しかし、「天智八年藤原内大臣に大織冠と大臣位を授け、藤原姓を与える。」「天智五年皇太子自ら病の佐伯子麻呂連家に往き、初めより従った功を称えた。」とする状況証拠、そして続日本紀藤原仲麻呂の〈26〉記事より、又、〈27〉に佐伯古麻呂と同等の働きをした葛城稚犬養連網田の記載が無いことより、紀とは別記録があって、これによる記載と考えられる。
 尚、乙巳の変は実は六四五年でなくて、六九五年もしくは七〇五年であって、鎌足は実は不比等だとする説があるが、〈26〉に内大臣とその子太政大臣とあること、内大臣の命日を十月十六日(不比等の死亡日養老四年八月三日)とする点からこの説は否定される。

(B)壬申年功田で〈27〉には、尾治宿祢大隅功田四十町、村國連小依功田十町、文忌寸祢麻呂(書首根摩呂)功田八町、丸部臣君手(和珥部臣君手)功田八町、文忌寸智徳功田四町、置始連莵功田五町、星川臣麻呂功田四町、坂上直熊毛功田六町、黄文連大伴功田八町、文直成覺功田四町の合計十名の記載がある。
 壬申紀には(親王と大友皇子側を除き)合計四十四名の功績者名が見えるが、この十名中三名は壬申紀に登場しない。しかし、〈19〉霊亀二年(七一六)四月条、壬申年功田を各々の子に伝えるという記事に登場する十名に合致する。つまり〈19〉が紀とは別の記録を元に記載され、〈27〉は〈19〉又は〈19〉の元になった記録に基づいて記載されたと考えられる。
 尚、〈19〉にはこの十名まとめて子へ伝える記載をした理由が書かれていない。偶然まとまったのか、もしくは数年分をまとめて記載したのであろう。そうであれば、この時期と年を隔てて〈19〉以外に子に伝える壬申年の功田もあったと考えるべきだろう。それを受けての〈27〉だから、そこに採りあげられた人名が全てであるとは言えない。ここで重要視すべきは人名ではなく事件の方であろう。
 又、壬申紀にも見えず〈27〉にも見えない授与もある。〈6〉、〈7〉、〈14〉に見える阿倍御主人と大友御行の二名である。〈7〉によると二人とも壬申年の功で封戸を賜り、〈6〉で阿倍御主人は功田二十町を賜っているが、〈19〉および〈27〉には記載が無い。この理由は不明であるが先の通りここでは人名は重要ではないということだ。

(C)大宝二年の律令作成の功田は、下毛野朝臣古麻呂・調忌寸老人・伊吉連博徳・伊余部連馬養の四名に各十町とある。〈11〉を元にした記載と考えられるが、〈11〉では馬養のみ六町であって別記録の可能性もある。

(D)吉野(古人)大兄を密告した功田、笠臣志太留への二十町中功は、乙巳の変と同じ年の事件であるが、その報償について紀に全く記載が無い。その子の麻呂(~七三〇年)は〈18〉の木曽路を拓いた功で功田六町を賜っており、その孫の名麻呂(~七八七年)は〈27〉当時生存している。〈27〉が子孫の申請による等級確認であるとする見方があるが、〈18〉の功田に触れていないので、この説は否定される。大和朝廷が重要だと認めた功績の再評価なのだ。

(E)天平宝字元年の橘奈良麻呂の謀反を密告した功田は、ここで初めて授与記事の登場である。

(F)遣唐使での漂流遭難を慰労する坂合部宿祢石敷(坂合部連石布)への功田六町下功であるが、斉明紀五年の伊吉連博徳の書によると石布はこの六五九年の遭難で死去している。(D)でも述べたが、〈27〉が功績者子孫の申請による等級認定とする見方はここでも否定される。尚、石敷に子がいたかどうかの記録はないが、いたとしても七五七年までには死去しているはずだ。

(G)養老律令作成の功田は、大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)四町・陽胡史眞身四町・矢集宿祢虫麻呂五町・盬屋連古麻呂五町・百済人成四町に授与されるが、これらは養老六年の〈20〉に基づいている。

 

四、日本書紀・続日本紀に記載があって〈27〉に記載が無い功田

 六項にあげた功田関連記事の中に〈27〉の七件以外の功績が十六件ある。この一六件を大略分類すると、
国内政治などでの功績〈2〉・〈3〉・〈9〉・〈13〉・〈16〉・〈18〉、
白村江戦で長期に捕虜となったものへの慰労〈1〉・〈4〉、
遣唐使での功績〈15〉・〈25〉、
長屋王の変の密告〈24〉、
征夷〈21〉・〈22〉・〈23〉、
薩摩の隼人平定〈10〉・〈17〉・〈21〉

に分類できる。この内、薩摩の隼人平定記事にのみ、人名と報償内容が欠落している。

五、まとめ

 〈27〉は当時の大和朝廷が、ほぼ百年あまりの期間で、特に重要だと認めた臣下の功績をまとめ、再評価したものと考えられる。これらは紀・続紀とは別の記録によって抽出されたものであって、その抽出にあたっては三項で述べたように、功田を受けた本人・子孫の存在や、その功田の有効期間内かどうかを抽出条件にしていない。
 そうであれば、紀・続紀の他の記事から見て、次のような疑問が生じる。

(1)続日本紀大宝元年八月三日条に「(大宝)律令を選定する。大略は浄御原朝庭(の律令)を准正する。」とある。つまり大宝律令は、これに先行する浄御原律令をほとんど踏襲したとする。大宝律令・養老律令制定の功があって、その元になった飛鳥浄御原律令制定の功が見えないのはなぜか。

(2)古人大兄謀反の密告があって、もっと具体的に計画された有間皇子謀反の(蘇我赤兄の)密告の功が見えないのはなぜか。

(3)斉明紀の遣唐使の慰労があって、推古紀・舒明紀・孝徳紀(白雉四年には船の沈没もあった)の遣唐使についての慰労が、ここに見えないのはなぜか。

(4)征夷の功については、〈27〉でも抽出が無いのではあるが、斉明紀の阿部比羅夫による蝦夷征討・粛慎征討があってしかるべきではないか。

(5)薩摩の隼人平定〈10〉・〈17〉・〈21〉にのみ、人名と報償内容が欠落しているのはなぜか。

 もうお気付きだろう。(1)~(4)の疑問は、全て大和朝廷では無くて九州王朝の事績と考えれば首肯できるし、(5)も含めて紀・続紀が九州王朝の存在を隠蔽した、その作為の結果と考えれば首肯できる。

 

六、紀・続紀に現れる臣下に対する報償記事(主に功田関連に絞る)リスト

〈1〉持統四年(六九〇)十月、大伴部博麻に斉明七年(六六一)の百済を救う役で唐の捕虜になった際の我身を売っての忠で、務大肆、水田四町などを贈り、水田は曾孫まで伝える(上功)。

〈2〉持統六年(六九二)十二月、音博士續守言・薩弘恪に水田を各四町賜う。

〈3〉持統七年(六九三)正月、船瀬の沙門法鏡に水田三町賜う。

〈4〉持統十年(六九六)四月、伊豫國風速郡の物部薬と、肥後國皮石郡の壬生諸石に追大貳を授け、水田四町などを贈り、長く唐地で苦しんだことを慰労した。

〈5〉持統十年五月、尾張宿禰大隅に水田四十町を賜う。

【以下は続日本紀】
〈6〉大宝元年(七〇一)三月、右大臣従二位阿倍朝臣御主人に備前・備中・但馬・安藝國の田二十町を賜う。

〈7〉大宝元年七月、壬申年の功臣に功の等級に従って食封を賜う。先朝が功を論じて封を行うのに、村國小依に百二十戸、當麻公國見(壬申紀に見えず)・縣犬養連大侶・榎井連小君・書直知徳・書首尼麻呂・黄文造大伴・大伴連馬来田・大伴連御行(壬申紀に見えず)・阿倍普勢臣御主人(壬申紀に見えず)・神麻加牟陀君兒首の十人に各百戸、若櫻部臣五百瀬・佐伯連大目・牟宜都君比呂・和爾部臣君手の四人には各八十戸。合計十五人の賞の異はあるが、同じ中級であって令の通り四分の一を子に伝える。

〈8〉大宝元年七月、功臣の封は子に伝えるべし。もし子無きときは伝えること勿れ。但し兄弟の子を養って子とする者には伝えることを許す。その封を伝える人、子が無ければ、更に養子を立てて伝えることを許す。その世代数は実子と同じくする。

〈9〉大宝元年八月、三田首五瀬が對馬嶋で金を採鉱したので、正六位上と封五十戸、田十町を授ける。

〈10〉大宝二年(七〇二)九月、薩摩の隼人を討った軍士に勲を授ける。各の差あり。

〈11〉大宝三年(七〇三)二月、下毛野朝臣古麻呂等四人は律令を定めたので功賞を与える。古麻呂と伊吉連博徳に賜田十町封五十戸。調忌寸老人に田十町封百戸。伊余部連馬養に田六町封百戸。封戸は身に止め田は一世に伝える。

〈12〉大宝三年三月、下毛野朝臣古麻呂に功田二十町。

〈13〉大宝三年九月、僧法蓮の医術を褒め、豊前國の野四十町を与える。

〈14〉慶雲元年(七〇四)七月、阿倍朝臣御主人(壬申紀に見えず)の功封百戸の四分の一は子の廣庭に伝える。高田首新家の功封四十戸の四分の一は子の首名に伝える。

〈15〉慶雲元年十一月、正四位下粟田朝臣眞人の遣唐使の功で、大倭國の田二十町などを賜う。

〈16〉和銅二年(七〇九)九月、伊勢守大宅朝臣金弓・尾張守佐伯宿祢大麻呂・近江守多治比眞人水守・美濃守笠朝臣麻呂に、政の功で当國の田各十町などを賜う。

〈17〉和銅六年(七一三)七月、隼の賊を討った将軍および士卒等戦陣の有功者一二八〇余人に授勲した。

〈18〉和銅七年(七一四)閏二月、美濃守笠朝臣麻呂に封七十戸と田六町、伊福部君荒當に賜田二町、木曽路を通した功で授ける。

〈19〉霊亀二年(七一六)四月、壬申年の功臣、村國連小依の子の志我麻呂・星川臣麻呂の子の黒麻呂・坂上直熊毛の子の宗大・置始連宇佐伎の子の虫麻呂・文直成覺の子の古麻呂・文忌寸知徳の子の塩麻呂・丸部臣君手の子の大石・文忌寸祢麻呂の子の馬養・黄文連大伴の子の粳麻呂・尾張宿祢大隅の子の稲置等十人に田を賜うこと各の差あり。

〈20〉養老六年(七二二)二月、矢集宿祢虫麻呂に田五町、陽胡史眞身に四町、大倭忌寸小東人に四町、盬屋連吉麻呂に五町、百濟人成に四町、これらは律令を選定した功なり。

〈21〉養老六年四月、陸奥の蝦夷、大隅薩摩の隼人等を征討した将軍たちや功のあった蝦夷、譯語人に勳位を与えること各の差あり。

〈22〉神亀元年(七二四)四月、陸奧國大掾の佐伯兒屋麻呂が蝦夷の反乱で死に、従五位下と田四町などを贈る。

〈23〉神亀二年(七二五)閏一月、征夷将軍以下一六九六人に勳位を授け、藤原朝臣宇合・大野朝臣東人・高橋朝臣安麻呂・中臣朝臣廣見・後部王起・佐伯宿祢首麻呂・五百原君虫麻呂・君子龍麻呂・出部直佩刀・紀朝臣牟良自・田邊史難波・坂下朝臣宇頭麻佐・丸子大國・國覓忌寸勝麻呂等十人田二町を賜う。

〈24〉天平元年(七二九)二月、長屋王事件の密告者、人漆部造君足・中臣宮處連東人に食封三十戸と田十町を賜う。

〈25〉天平八年(七三六)二月、入唐した学問僧の玄昉法師に封百戸と田十町を施す。

〈26〉天平宝字元年(七五七)閏八月、藤原仲麻呂が「淡海大津宮の時に曾祖父藤原内大臣(鎌足)は功田百町を賜り、これは代々絶えず伝わり今に至る。今、山階寺(興福寺)の維摩会は内大臣が始めたもので、藤原朝庭に至って胤子太政大臣(不比等)が再興し、毎年十月十日に始め内大臣の命日に当る十六日に終える。そこでこの功田を寺に施して、維摩会を永く興隆させたい」と願い出た。

〈27〉天平宝字元年十二月、我が天下、乙巳(六四五年)以来人々功を立て各封賞を得た。但し大功・上功・中功・下功と(田)令で指定しているが、功田を賜ったという記事にはその等級が記載されない場合があった。今、それ故にこれら昔・今を比校してその等級をはかり定める。

 大織藤原内大臣の乙巳年功田百町は大功なので世々不絶である。村國連小依に壬申年功田十町、文忌寸祢麻呂と丸部臣君手に贈られた壬申年功田各八町、文忌寸智徳へ贈られた壬申年功田四町、置始連莵に贈られた壬申年功田五町は、五人ともに中功なので二世に伝える。下毛野朝臣古麻呂と調忌寸老人と伊吉連博徳と伊余部連馬養に贈られた、大宝二年の律令作成の功田各十町は四人ともに下功とし其の子に伝える。〈以上の十條は先朝の定める所である〉
 佐伯連古麻呂に贈られた乙巳年功田四十町六段は、他(中大兄の太刀)に続いたものであって誅姦に功は有るが大功とまではならず令の上功で三世に伝えられる。尾治宿祢大隅に贈られた壬申年功田四十町は、淡海朝庭諒陰の際、(大海人皇子が)潜かに関東に出た時に参じ迎え導き、自らの館を行宮として併せて軍資を提供した。その功は重く大功には及ばないが中功に余りある。令の上功とし三世に伝える。星川臣麻呂に贈られた壬申年功田四町と、坂上直熊毛に贈られた壬申年功田六町と、黄文連大伴に贈られた壬申年功田八町と、文直成覺に贈られた壬申年功田四町は、戦場で忠を成した功績は四人異なるが効果は同じである。比べると村國連小依等に同じである。よって令の中功であり二世に伝える。笠臣志太留に贈られた吉野(古人)大兄事件の(乙巳の変と同じ六四五年)功田二十町は、この密告が証拠に基づくものでないので令の中功で二世に伝える。上道朝臣斐太都の天平宝字元年(橘奈良麻呂の謀反を密告)功田二十町は、謀反の密告でこれを未然に防ぎ効果は大きい。しかし一人の通報によるものではないので令の上功で三世に伝える。坂合部宿祢石敷功田六町は、奉使唐國漂著賊洲したことによるもので、令の下功であり子に伝える。大和宿祢長岡と陽胡史眞身に贈られた養老二年修律令功田各四町、および矢集宿祢虫麻呂と鹽屋連古麻呂に贈られた同年功田各五町と百濟人成同年功田四町は、五人ともに刀筆を持って律令の条文を刪定した功は大だが、難事を正すものではない。比べると下毛野朝臣古麻呂等に同じで、令の下功とし子に伝える。〈以上十四條はここに定める所である〉


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