2019年 4月10日

古田史学会報

151号

1,五歳再閏
 西村秀己

2,盗まれた氏姓改革
 と律令制定(下)
 正木裕

3,前期難波宮
 「天武朝造営」説の虚構
整地層出土「坏B」の真相
 古賀達也

4,乙巳の変は六四五年
天平宝字元年の功田記事
 服部静尚

5,複数の名を持つ天智天皇
 橘髙修

6,「壹」から始める古田史学
 十七「磐井の乱」とは何か(1)
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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 新・万葉の覚醒(Ⅰ)(Ⅱ)正木裕
盗まれた氏姓改革と律令制定 (上)(下) 正木裕

神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か 正木裕(会報156号)


盗まれた氏姓改革と律令制定(下)

川西市 正木裕

一、倭国(九州王朝)の統治制度改革

1、一四九号の盗まれた氏姓改革と律令制定(上)の概要

 一四九号では、
➀『日本書紀』の天武十年(六八一)から十三年(六八四)にかけて記す「八色の姓やくさのかばね」等の「氏姓改革」記事は、「小野毛人墓誌」や韓国双北里さんぶんに遺跡出土の「那尓波連公なにわのむらじきみ」と記す木簡から、

➁また天武十年(六八一)の「修理天社地社神宮」記事は、『赤渕神社縁起』の「常色じょうしき三年在遷宮為修理祭礼」記事の発見等から、それぞれ「九州年号常色期(六四七~六五一)の九州王朝の事績が三十四年繰り下げられた」可能性が高いことを述べた。(注1)

 

2、『海東諸国紀』では常色三年(六四九)に八省百官が設置された

 ところで、朝鮮の史書『海東諸国紀』(申叔舟。一四七一年)には、「八省百官及び十禅師寺」の設置・任命と「九州年号の改元」記事が次のように記されている。
◆『海東諸国紀』「孝徳天皇皇極同母弟元年乙巳《用命長》。三年丁未(六四七)改元常色。三年己酉初置八省百官及十禅師寺。六年壬子改元白雉。在位十年寿三十九。」

 これは「孝徳天皇は皇極と母を同じにする弟で、その元年は乙巳(六四五)で、「命長年号」を用いた。(孝徳)三年丁未(六四七)に常色と改元した。(常色じょうしき)三年己酉(六四九)に初めて八省百官及び十禅師寺を設置・任命した。(常色)六年壬子(六五二)に白雉と改元した。(孝徳の)在位は十年で三十九歳で崩御した」というものだ。(*「孝徳六年」は六五〇年「庚戌」。「壬子」は六五二年・九州年号白雉元年)
 ここでは「八省百官及び十禅師寺」の設置・任命が、「孝徳の在位年」ではなく、全て九州年号で記されている。
 そして、『書紀』でも「八省百官」は六四九年(大化五年)に設置・任命されている。これは九州年号では常色三年にあたる。
◆『書紀』大化五年(六四九)春正月是月。博士高向玄理と釋僧旻みんとに詔して、八省・百官を置かしむ。

 

3、九州年号常色三年に全国に「評制」が施行された

 一方、「庚子年(七〇〇)四月 若佐国小丹生評」等の藤原宮出土木簡から、七〇〇年以前、九州年号時代の我が国の地方制度が「評制」だったことが確認され、またその施行は『常陸国風土記』や伊勢『神宮雑例集』から、九州年号常色三年(六四九)だったことがわかっている。
➀『常陸国風土記』難波の長柄豊前の大朝に馭宇あめのしたしろしめしし天皇のみ世、己酉年(六四九年・九州年号常色三年)(略)神の郡を置く。
➁『神宮雑例集』己酉年(六四九年・九州年号常色三年)を以て始めて度相わたらい郡を立つ。(「郡」とあるが七〇〇年以前の実際は「評」)

 ところが、大和朝廷の史書たる『書紀』では「評」が消され、始めから「郡」だったと書き換えられており、かつ、七〇一年の大和朝廷による律令制定・大宝建元とともに「評制」が廃止され「郡制」に変更されている。
 こうしたことから、「評制」は九州王朝の制度だったと考えられる。
 そして、これまで見てきたように「八省百官」の設置・任命と「評制施行」の年次は共に己酉年(六四九)だった。そこから、九州王朝は中央集権体制による統治を目指して、全国に評制を敷き、その運営のため「八省百官」という官僚機構を整備したことになる。

 

4、「十師」の任命は常色元年(六四七)

 また、『書紀』では大化元年(六四五)に「十師とたりののりのし」を任命し、各地の「寺の造営」を助けよとの詔が下されている。
◆『書紀』大化元年(六四五)八月癸卯(八日)(略)沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙を以て十師とす。別に惠妙法師を以て百済寺の寺主とす。此の十師等、能く衆の僧を教へ導きて釋教を修行おこなふこと、要かならず法の如くならしめよ。凡そ天皇より伴造に至るまでに造る所の寺、営ること能あたはずは、朕、皆助け作らむ。今、寺司等と寺主を拜さむ。諸寺を巡り行きて、僧尼・奴婢・田畝の實を験かむがへて、盡ことごとにあきらめ奏まうせ。即ち来目臣《名を闕かせり》・三輪色夫君・額田部連甥を以て、法頭ほうずとす。

 ところが、「寺の造営」に関しては、前号で述べたように天武十年(六八一)に諸国に「神宮修理」の詔勅が出された記事があり、「三十四年繰り上げ」れば、『書紀』大化三年(六四七)(九州年号常色元年)となる。
◆『書紀』天武十年(六八一)の春正月(略)己丑(一九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理おさめつくらしむ。

 このことから大化元年の寺の造営と十師任命記事は、本来九州年号常色元年(六四七)のことであり、九州王朝はこの時期に、「菩薩天子」を自負した多利思北孤の路線を引き継ぎ、全国規模で「仏教による統治の制度化」をはかったのだと考えられる。そして、『書紀』編者は、これを孝徳の事績とするため、「常色元年」記事を「二年繰り上げ」、孝徳の即位年の「大化元年」に移動させたものと考えられよう。(注2)

 

二、九州王朝の「律令制定」

1、天武十年の「律令制定」と常色元年の「礼法制定」

 さらに、『書紀』天武十年(六八一)の「律令制定」記事も、九州王朝の常色期における「律令制定」の事績を「三十四年繰り下げた」ものと考えられる。
 天武十年(六八一)には、「氏姓改革」や「神宮修理」以上に重要視されている記事がある。それは「律令制定」だ。
◆『書紀』天武十年(六八一)二月庚子朔甲子(二五日)に、天皇・皇后共に大極殿に居して、親王・諸王及び諸臣を喚して、詔して曰はく、「朕、今より更た律令を定め法式を改めむと欲す、故に倶つぶさに是の事を修めよ。然も頓にはかに是のみを務まつりごとに就さば公事闕くこと有らむ、人を分けて行ふべし。」とのたまふ。

 これは通説では天武による「飛鳥浄御原律令制定」の詔とされている。

 ところが、『書紀』には三十四年前の大化三年(六四七)(九州年号常色元年)に小郡宮で「礼法」を定めた記事がある。
◆『書紀』大化三年(六四七)是の歳、小郡を壊ちて宮営る。天皇、小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有たもちあらむ者は、要かならず寅の時に、南門の外に、左右羅列つらなりて、日の初めて出ずるときを候ひて、庭に就きて再拝をがみて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍べること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鍾の台は中庭に起てよ(注3)」といふ。

 ここに記された「礼法」の内容は律令の「令」(官衙令、開閉門条ほか)にあたる。つまり、「律令を定めよ」と詔した天武十年(六八一)の三十四年前の大化三年(六四七年・常色元年)に「令」が作られていたことになる。

 そして、天武十一年(六八二)には、唐突に「礼(礼儀)」に関する記事が現れる。
◆『書紀』天武十一年(六八二)八月壬戌の朔に、親王以下及び諸臣に令して、各法式として用ゐるべき事を申さしむ。甲子(三日)に、高麗客を筑紫に饗へたまふ。是の夕の昏時いぬのときに、大星、東より西に度る。丙寅(五日)に、造法令殿のりのふみつくるみあらかの内に大なる虹有り。
 八月癸未(二十二日)に、礼儀・言語の状を詔したまふ。且、詔して曰はく、「凡そ諸の考選しなさだめこうぶりたまはむ者は、能く其の族姓うからかばね及び景迹こころばせを検かむがへて、方まさに後に考しなさだめむ。若たとひ景迹・行能しわざ灼然いちしろしと雖も、其の族姓定まらずは、考選はむ色(しな)には在らじ」とのたまふ。

 「礼儀」とある以上、「礼儀・言語の状」とは大化三年(六四七)(常色元年)是歳条にある「礼法」の内容に相当するものだ。つまり六四七年に制定され、翌六四八年(常色二年)に公布された「礼儀・言語の状」が、三十四年後の天武十一年(六八二)に「繰り下げ」られたものと考えられる。
 そして「造法令殿」が見えるが、これは九州王朝が六四八年に「小郡の宮」に設けた法令制定作業のための施設だと考えられよう。

 

2、俾弥呼時代からの「跪礼・匍匐礼」を廃止

 そして九月には、「難波朝廷之立礼を採用する」との具体的な「礼」の作法についての勅が出されている。
◆『書紀』天武十一年(六八二)九月壬辰(二日)に、勅したまはく、「今よりは以後、跪礼ひざまつくゐや・匍匐礼はふゐや並に止めよ。更に難波朝廷の立礼たつゐやを用ゐよ」とのたまふ。

 「跪礼」とは「ひざまづき、両手を地につけて行う礼」であり、「匍匐礼」とは「宮門の出入りに際し、両手を地につけ、足をかがめて進む礼」のことだ。(*岩波『書紀』解説より引用)
 これは、『書紀』でいう「難波朝廷」、すなわち孝徳時代には「立礼」が採用されていたが、天武時代には跪礼・匍匐礼がおこなわれていた。そこで「立礼」を復活したという意味だ。しかし孝徳紀に「立礼」を採用したという記事は無いし、一旦採用された「立礼」が廃止されたという記事も無い。
 従って、この天武十一年(六八二)の「立礼を採用」する記事も、実際は三十四年前のことで、常色二年(六四八)に、九州王朝は「礼法」を制定し、その中で「跪礼・匍匐礼」を禁止し、立礼を採用した。その記事が天武紀に「繰り下げ」られたものと考えるのが自然だろう。
 『魏志倭人伝』には「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲つくばひ或は跪ひざまづき、両手は地に拠り、恭敬を為す。対応の声を噫あいという、比するに然諾ぜんだくの如し」

と跪礼・匍匐礼の原型が記されている。
 従って「跪礼・匍匐礼」は邪馬壹国の俾弥呼時代から続く伝統儀礼であり、九州王朝は六四八年にこうした旧来の「儀礼」を廃止した事を示すものと考えられる。

 

3、新冠位制度と服飾規定の改正

 また、天武十年(六八一)四月には服飾を規定する「禁式九十二条」が出されている。
◆『書紀』天武十年(六八一)夏四月。辛丑(三日)に、禁式いさめののり九十二条を立つ。因りて詔して曰はく、「親王以下、庶民に至るまでに、諸の服用ゐる所の、金・銀・珠玉・紫・錦・繍ぬひもの・綾・及び氈褥おりかもののこしき・冠・帯、并あわせて種々雑色の類、服用ゐること各差有れ」とのたまふ。辞ことばは具つぶさに詔書に有り。

 「辞は具に詔書に有り」と書かれているが、そのような「辞」はどこにも書かれていない。ところが、『書紀』大化三年(六四七)(九州年号常色元年)是年条に「七色一十三階の冠」という「冠位」制度が創設されたとある。これは位階を冠・服の色や素材で示すもので、冠位ごとの服飾(色と素材)が、例えば、服の色は織冠・繡冠は深紫、紫冠は淺紫、錦冠は眞緋、青冠は紺、黑冠は緑というように「つぶさ(詳細)」に記されている。
 従って、『書紀』天武十年(六八一)の「禁式九十二条」制定が、三十四年前の常色元年(六四七)のものであれば、「七色一十三階の冠」と合わせて「無かった具つぶさな辞(具体的条文)」が備わることになる。
 そして、六四七年(常色元年)制定の「七色一十三階の冠」は「この冠どもは、大会し、饗客し、四月・七月の斎の時に、着る所なり」と書かれているから、実際の施行は翌年四月となろう。ここから、六八二年(天武十一年)三月の「位冠・装束をとどめる」記事(後掲)も、三十四年前の六四八年(常色二年)のもので、前年の六四七年に定めた新たな礼法や位階・服飾令を「四月に施行」することし、そのため旧制の運用・適用を停止せよという詔となる。

 また、食封へひとの返上は、新冠位の施行に際し、旧冠位に基づく食封を一旦返上させ、新冠位に基づき再配分するためだったと考えられよう。
◆『書紀』天武十一年(六八二)三月辛酉(二十八日)に、詔して曰はく。「親王より以下、百寮の諸人。今自り已後、位冠及び畢まへも・褶ひらおび・脛裳はばきも、著ること莫なかれ。亦膳夫かしはで・釆女等の手繦たすき・肩巾、〈肩巾ひれ、此を比例と云ふ。〉並に服ること莫なかれ」とのたまふ。是の日に、詔して曰はく、「親王より以下諸臣に至るまでに、給りし食封へひと皆止めて、更また公に返せ」とのたまふ。

 

4、天武十一年の「刑罰」制定記事

 このように天武十年(六八一)・十一年(六八二)の「律令」の「令」にあたる禁式九十二条や礼法記事が、七色一十三階の冠などの位階の見直しとセットで、九州王朝の常色元年(六四七)・二年(六四八)に遡るなら、以下の、天武十一年十一月の「律」にあたる「刑罰を定める記事」も、当然同時期のものということになる。
◆『書紀』天武十一年(六八二)十一月乙巳(十六日)に詔して曰はく、「親王・諸王及び諸臣、庶民に至るまでに、悉ことごとくに聴くべし。凡そ法を犯す者を糺弾たださむときには、或は禁省之中にも、或は朝廷之中にも、其の過失発らむ処にして、即ち随見随聞みきかむままにして、匿蔽かくすことなくして糺弾ただせ。其の重き事犯しし者あらば、請もうすべきことは請せ。捕ふべきは捉へよ。若し対捍こばみて捕はれずは、当処の兵を起して捕へよ。杖の色に当らば、乃ち杖一百より以下、節級しなじなにして決うて。亦、犯をかしの状灼然かたちいちしりきを、欺きて無罪と言して、伏弁うべなはずして、争ひ訴へば、累ねて其の本罪に加へよ」とのたまふ。

 これは明白に刑法即ち「律」に当たる規定であり、先述の「令」とあわせ、九州王朝が常色期に「律令」を制定していたことを示すものとなろう。

 

5、九州王朝の「飛鳥浄御原律令」制定

 古田武彦氏は『壬申大乱』において、筑紫小郡宮を「飛鳥浄御原宮」とされたが、『書紀』大化三年(六四七)、九州年号常色元年に「小郡の宮」が建設されている。九州王朝はこの年に『書紀』に記すように小郡の宮で律令の「令」にあたる「礼法」を定め、「七色一十三階の冠制」による冠位の改定などをおこなった。加えて、これまで述べてきたとおり「天武紀」に書かれている立礼の採用や服飾・用語の規定、「禁式九十二条」と刑法(律)制定も、実際は常色期から「繰り下げ」られたものだと考えられる。
 そうであるなら、「飛鳥浄御原律令」とは、本来は九州王朝が常色期に制定した「九州王朝の律令」であり、これを『書紀』編者は「記事の繰り下げ」手法により、天武の事績だと「潤色」したことになる。

 

6、九州王朝の事績を「天智・天武」の事績に

 結局『書紀』編者は、九州王朝の「常色期の改革」を分割し、小郡宮建設と礼法や七色一十三階の冠制制定は「実年」に残し、他の改革は「天武紀に繰り下げ」た。この手法によって九州王朝の事績を孝徳と天武の事績に「入れ替え」たのだ。ただ、孝徳時代の「政治上の首班は中大兄(岩波『書紀』注釈)」だから、「天智・天武」という『書紀』編纂当時の大和朝廷にとって「二人の偉大な天皇」の事績としたことになるのだ。

 

三、九州王朝の仏教統制施策―盗まれた多利思北孤の事績

1、『書紀』天武紀の僧・尼統制

 『書紀』天武十二年(六八三)に僧正らを任命し、僧侶の統制は「法」に従えとの詔が見える。
◆『書紀』天武十二年(六八三)三月戊子朔己丑(二日)、に僧正・僧都・律師を任けたまふ。因りて勅して曰はく、僧尼を統べ領おさむること法の如くにせよ」、と云々。丙午(一九日)に多禰に遺しし使人等返れり。

 ところが、『書紀』の推古三十二年(六二四)にも同様の記事がある。
◆『書紀』推古三十二年(六二四)四月戊午戌(十三日)、詔して曰はく「夫れ道人も尚方を犯す。何を以てか俗人を誨をしへむ。故に、今より已後のち、僧正僧都を任けて、仍なほ僧尼を検校かむがふべし」とのたまふ。
 壬戌(一七日)に、觀勒僧を以て僧正とし、鞍部德積を以て僧都とす。即日そのひに阿曇連《名を闕かせり》を以て法頭とす。

 通説では「最初に」僧正・僧都が任命されたのが推古三十二年(六二四)で、天武十二年(六八三)に「改めて」僧正・僧都を任命し直したのだとする。しかし「僧正・僧都・律師を任け」の句は共通する上、「僧尼を統べ領むる」と「僧尼を検校ふ」も同義だ。

 

2、九州王朝による九州年号「仁王」期の僧・尼統制

 ところで、『書紀』では、「神功皇后紀」の百済関係記事が実年より「二運(一二〇年)繰り上げ」られるなど、干支を同一とする年に繰り上げ・繰り下げるという記事移動手法が用いられている。
 そして、天文学者・暦学者小川清彦氏(一八八二~ 一九五〇)が『日本書紀の暦日について』(一九三八年頃の論文)で、『書紀』の「月朔干支の誤り」を検討し、岩波『書紀』が底本とする「天理本」などの諸本で「推古三十二・三十三年」とあるのは「岩崎本」の「推古三十一・三十二年」とあるのが正しいことを明らかにされている(注4)。つまり推古三十二年(六二四)記事は、本来推古三十一年(六二三)(九州年号「仁王」元年)の記事だったことになる。
 そして、天武十二年(六八三)記事を「一運(六〇年)繰り上げ」れば推古三十一年(六二三)(*岩崎本)となる。前年の六二二年は釈迦三尊像光背銘に記す「上宮法皇」すなわち多利思北孤の登遐年(法興元三十二年)であり、六二三年は九州年号「仁王元年」で、次代の「利(利歌弥多弗利)」の即位年にあたる。
 上宮法皇の登遐をうけ即位した「利」は、父多利思北孤の仏教による統治手法をさらに進めるため、僧侶の統制を図り、僧正・僧都等の「位階制」を定めたものと考えられる。つまり僧正らの任命は、天武の事績ではなく、「仁王」元年の九州王朝の天子「利」の事績ということになる。

 

3、「多禰たね遣使」記事も示す「一運(六〇年)繰り下げ」

 このことを示す傍証が、同じ天武十二年(六八三)三月の「多禰(種子島)に遺しし使人等返れり」との記事だ。
 『書紀』には天武六年(六七七)に多禰島人への饗宴、天武八年(六七九)に多禰島への遣使、天武十年(六八一)八月には多禰への遣使の帰国記事がある。そして、天武十一年(六八二)には隼人と多禰人・掖玖人・阿麻彌人の来朝が記されており、天武十二年記事は、彼らの「南方諸国への帰国に同行した使人」が返ってきたと考えられている。
◆『書紀』天武十一年(六八二)七月丙辰(二五日)に、多禰人・掖玖やく人・阿麻彌あまみ人に、禄を賜ふこと各差有り。戊午(二七日)に、隼人等を明日香寺の西に饗あへたまふ、種々の樂を発おこす、仍なほ、禄を賜ふこと各差有り。道・俗悉ことごとくに見ゆ。

 しかし、そもそも何故天武六年から十一年という時期に、南方諸国がこぞって朝貢したのかが不明だ。

 種子島(多禰)に隣接する屋久島(掖久・夜勾)人は推古二四年(六一六)・舒明三年(六三一)に帰化、その間の舒明元年(六二九)には使節も派遣されている。
◆『書紀』推古二四年(六一六)三月に、掖玖人三口、帰化まうおもぶけり。夏五月に夜勾人七口、来けり。秋七月に、亦掖久人二十口来けり。二八年(六二〇)秋八月に、掖玖人二口伊豆嶋に流れ来れり。
◆『書紀』舒明元年(六二九)夏四月辛未の朔に、田部連《名を闕かせり》を掖玖に遺す。三年(六三一)春二月庚子(十日)に、掖玖人帰化けり。

 ところが屋久島より九州に近く、かつ平野も広く古代から豊であったことが遺跡等から確認される種子島への遣使が、五〇年以上後の「天武時代」の事となっている。これは不可解で、多禰島への遣使も「一運(六〇年)繰り下げ」られていると考えるのが自然だ。

 

4、「京」は「倭京・筑紫太宰府」

 これを証するのは天武十年に記す「京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り」という多禰島の位置だ。
◆『書紀』天武十年(六八一)八月。丙戌(二〇日)に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り。

 種子島は奈良飛鳥からは七〇〇~八〇〇㌔のところ、「五千余里」は律令の一里(約五三〇m)で約二七〇〇㌔。短里(約七六m)では約四〇〇㌔となり何れも全く合わない。ところが筑紫太宰府付近から種子島は約四〇〇㌔で「五千余里」と一致する。つまりこの多禰島記事は、本来「京」が太宰府(注5)で短里の時代のものだったことになる。
 そして、多禰島人への饗宴記事のある天武六年(六七七)の「一運(六〇年)前」は六一七年で、翌六一八年は九州年号「倭京元年」だから、六二一年は太宰府が「倭京」だったことになろう。多禰島人は「太宰府遷都」を祝すため来朝したのではないか。
 そして隼人や南方諸島人が大挙来朝した天武十一年(六八二)の「一運(六〇年)前」の六二二年こそ、先述のとおり上宮法皇=多利思北孤の登遐年、すなわち「葬儀年」だった。彼らの来朝は多利思北孤の法要と新天子の即位のためということになろう。
 このように「天武十二年(六八三)三月」の僧正・僧都任命が「一運(六〇年)前」の六二三年の事だったことは、同じ「天武十二年(六八三)三月」の多禰島への使人の帰還記事からも分かるのだ。

 

四、九州王朝の「三代の天子」の仏教による統治

 多利思北孤は菩薩天子を自負し、宗教(菩薩)と政治(天子)の両面での権威による統治を目指し、廃仏派の物部氏を討伐した。次代の「利」は前述のように父を受け継ぎ仏教による統治が揺るがぬように、位階制の導入による「仏教支配の制度化」を進めた。
 さらに六四六年の「利」の崩御をうけて常色元年(六四七)に即位した九州王朝の天子(注6)は、この施策を更に推進するため十禅師の任命や僧尼を規制する法制整備、さらに大規模な寺社の整備に取り組んだと考えられる。
 『隋書』や『海東諸国紀』、『書紀』の推古紀・孝徳紀・天武紀の仏教関係記事は、九州王朝の「三代の天子」の仏教による統治の歴史を物語っていたのだ。

(注1)ちなみに、常色三年は六四九年だが、『赤渕大明神表米ひょうまい大明神』には「常色三年丁未六月十五日迁(遷)宮アリ」(*常色三年六四九は己酉。丁未は六四七年)とある一方、『赤渕大明神縁起記』に「定年号常色元年丁未」(年号を常色と定める。元年は丁未)となっていることから、『赤渕神社縁起』の「常色三年」は、元記事では「常色元年(六四七)」だったと考えられる。

(注2)『書紀』の白雉元年は九州年号白雉元年が「二年繰り上げ」られており、これに伴い直前の「常色年間の記事」も「二年繰り上げ」られたうえ「大化」と変えられていたと考えられる。

(注3)天武十一年(六八二)四月に筑紫太宰丹比真人嶋らが「大なる鐘」を献上した記事がある。三十四年前なら六四八年で、「鍾の台を設置せよ」との詔の翌年に当たり、この詔に対応した行為と考えられる。

(注4)推古三十一年(六二三)の真の朔日干支は「岩崎本」に記すように四月は丙午、九月は甲戌、十月は癸卯だが、「天理本」ほかの諸本では推古三十二年(六二四)四月・九月・十月の朔日干支となっている。推古三十二年一月朔干支も正しくは壬申で「岩崎本」と一致するが、他の諸本では推古三十三年一月朔が壬申とあり、明確に「一年繰り下がって」いる。

(注5)但し、六一八年当時の首府を「太宰府」と称したのか、その宮の位置が後の太宰府政庁付近にあったのかは不明。古賀達也氏は太宰府政庁の南方の扇神社がある通古賀地区をその候補の一つとされている。

(注6)「善光寺文書」に、「命長七年(六四六)」の年号と、天子の重病を記す文面がある。古賀達也氏は、六二一年崩御の「聖徳太子」であろうはずはなく、多利思北孤の次代の九州王朝の天子「利」(利歌弥多弗利)が「命長」七年に重病に陥り、崩御し「常色」と改元されたのではないかとしている。

◆『善光寺縁起集註』(善光寺文書)御使 黒木臣 名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念 命長七年丙子二月十三日 進上 本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘 上

 なお、『書紀』天武十年(六八一)五月の「皇祖の御魂を祭る」、同年閏七月の「皇后、誓願して、大きに斉して、経を京内の諸寺に説かしむ」等の記事は、誰の為の、また何故この時期の法要かは不明とされている。しかし、三十四年遡上した常色元年(六四七)の「利」の葬儀等の法要と考えれば自然に理解できる。


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