2016年6月8日

古田史学会報

134号

1,〔追悼〕藤沢徹さん
 (東京古田会会長)
 鬼哭啾々、痛惜の春
 代表 古賀達也

2,隋・煬帝のときに
 鴻臚寺掌客は無かった!
 谷本茂

3,九州王朝を継承した
 近江朝廷
 正木新説の展開と考察
 古賀達也

4,盗まれた九州王朝
 の天文観測
 正木裕

5,考古学が畿内説を棄却する
 服部静尚

6,古賀達也氏の論稿
 『要衛の都』
 前期難波宮」に反論する
 合田洋一

7,追憶・古田武彦先生(4)
坂本太郎さんと古田先生
 古賀達也

8,「壹」から始める古田史学Ⅴ
 『魏志倭人伝』の里程記事
 解釈の要点
 正木裕


 

古田史学会報一覧

「近江朝年号」の実在について 正木裕(会報133号)へ

盗まれた風の神の祭り 正木裕(会報135号)へ


盗まれた九州王朝の天文観測

川西市 正木裕

1、天文観測は天子の専管事項

 古代より「天文観測・天文予測」と、これに基づく「暦」の制定は王朝の重要責務でした。
 天子は「天命を受け統治している」という建前ですから、天文の異変は「天命が離れた」ことを疑わせるものです。従って、古来中国・朝鮮半島の歴代天子は、天文観測により吉凶の占い等を行ない、日蝕等を予言することで「天命」のあることを示し、その地位と力の誇示に努めてきました。
 我が国でもこうした天文観測が天子の専管事項であったことは疑えず、『書紀』にも多くの天文事象が吉凶の予知と関連して記されています。
 本稿では、『書紀』の「占星台」設置をはじめとする天文観測に関する記事から、我が国で初めて「占星台」を設置したのは九州王朝であり、『書紀』はこれを盗用し近畿天皇家の天武の事績としたことを示します。

2、天武四年の「占星台」記事

 天文観測を行うために設置された施設が「占星台」です。
 近隣諸国では、『三国史記』によれば、百済では四世紀頃から占星台を建て天文観測を行っていたとされ、『三国史記』に記録された天文現象の数は一二五件にのぼります(*「大阪市立科学館」加藤賢一データセンター「『三国史記』天文記事」より)。
 また『三国遺事』によると、新羅では善徳王代(六三二~六四六)に「瞻星台」設置記事があり、現在も慶尚北道慶州市に高さ約九メートル、石造りの遺構を留め国宝に指定されています(岩波『書紀』補註)。(註1)
 一方、わが国では、遥か後代の天武四年(六七五)一月の『書紀』記事に「始めて占星台を興つ」との記事があるため、この時初めて占星台が設置されたとされています。
◆天武四年(六七五)一月丙午朔に、大学寮の諸の学生・陰陽寮・外薬寮・及び舎衛の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁等、薬及び珍異しき等物を捧げて進る。庚戌(五日)始めて占星台を興つ。

 しかし、倭国は歴代百済・新羅と密接な交流を行い、推古期には、天文・歴の専門家の百済僧観勒が来朝し、天文現象をもとに吉凶を占う術である「遁甲」の書物まで渡ってきています。こうした中で、倭国で「天武四年(六七五)に始めて占星台が築かれた」とあるのはいかにも不自然です。
◆推古一〇年(六〇二)冬十月。百済僧観勒来けり、仍りて暦の本及び天文・地理の書、并て遁甲・方術の書なり。是の時に、書生三四人を選びて、観勒に学び習はしむ。陽胡史の祖玉陳、暦法を習ふ。大友村主高聡学、天文遁甲を学ぶ。山背臣日立、方術を学ぶ。皆学びて業を成しつ。

3、舒明紀に頻出する天文記事

 ところで、天武四年(六七五)の占星台設置の四〇年ほど前の舒明紀に、何故か天文記事が頻出します。また、先に瞻星台を築いていた新羅や、天文観測先進国の唐から、この時期相次いでの来朝・帰国も記されています。
◆舒明六年(六三四)の秋八月に、長き星、南方に見ゆ。時の人、彗星といふ。
◆舒明七年(六三五)の春三月に、彗星廻りて東に見ゆ。
◆舒明八年(六三六)の春正月の壬辰の朔に、日蝕えたり。五月に、霖雨して大水あり。是歳、大に旱して、天下飢す。
◆舒明九年(六三七)の春二月の戊寅(二三日)に、大きなる星、東より西に流る。便ち音有りて雷に似たり。時の人曰く、「流星の音なり」といふ。亦は曰く、「地雷なり」といふ。是に、僧旻僧が曰く、「流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ」といふ。
◆舒明十一年(六三九)の正月己巳(二五日)に、長き星西北に見ゆ。時に旻師が曰はく、「彗星なり。見ゆれば飢す」といふ。
 秋九月。大唐の学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従ひて京に入る。
 冬十一月庚子朔。新羅の客、朝に饗たまふ。因りて冠位一級給ふ。
◆舒明十二年(六四〇)の春二月甲戌(七日)に、星、月に入れり。
 十月乙亥(十一日)。大唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理、新羅より伝りて至りけり。仍ち、百済・新羅の朝貢使、共に従ひて来けり。則ち各に爵一級賜ふ。

 このように、舒明七年から十二年にかけて、彗星・流星・日蝕・星蝕などの天文現象と大水・旱魃・飢餓が相次ぎますが、旻法師は、彗星などの現象は災いを齎す「凶兆」であるとします。これは既に倭国に「占星術」が伝わっていたことを示すものです。またその間、唐・新羅・百済からの学問僧・学生・朝貢使が頻繁に来朝していますが、これは新羅に「瞻星台」が設けられた時期と一致するのです。

4、「新羅の仕丁」と「百済王善光」の朝貢

 なお、天武四年の「占星台」開設の直前に天文・暦・気象観測を所掌する役所である「陰陽寮」の記事があり「新羅の仕丁」が捧進していますが、岩波の注釈では「(仕丁の)来朝時日は未詳」としています。

 古田武彦氏は持統紀の吉野行幸記事が三四年前の九州王朝の事績からの盗用であるとされました。私はこれを受け、この「三四年前からの盗用」は、天武・持統紀に広く見受けられることを述べてきました。その典型が天武十二年(六八三)十二月の「凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往りて家地を請はれ。」という「難波副都詔」で、難波宮は六五二年に完成しているのに不自然であり、三四年前の六四九年であれば時期として相応しいのです。
 そして、天武四年(六七五)の「「新羅の仕丁」記事が三四年前の舒明十三年(六四一)のことであれば、前年の舒明十二年には学問僧清安らが「新羅より伝りて至る」とあり、また「百済・新羅の朝貢使」の来朝もあります。
 従って、この時に来朝したと考えれば、新羅から「瞻星台」建築に携わった「仕丁」が送られ、倭国でも瞻星台を作ったことになり、①学問僧の「新羅より」の帰国、②新羅の朝貢使来朝、③「新羅の仕丁」の捧進、④瞻星台建築という一連の記事となるのです。
 また百済の朝貢ですが、『書紀』には記されていませんが、『続日本紀』に百済王善光は豊璋とともに義慈王によって「舒明朝」に入侍(質)とあります。そして、「舒明十三年(六四一)は義慈王の即位年」にあたります。つまり、天武四年記事が三四年前の六四一年のことであれば、義慈王は倭国と連合する為、即位にあたり彼らを質に遣したことになるのです。そして翌六四二年義慈王は新羅に侵攻し大耶城を下し、城主を妻子ともども斬首し、男女千人を捕虜とするなど大勝を収めています。まさに「質」の効果てき面といえるでしょう。『書紀』では“あっさり”「百済・新羅の朝貢」と書き流していますが、百済・新羅それぞれ対倭国外交上の重責を担った朝貢だったことになるのです。
 また天武四年を待たず、既に堕羅(吐火羅と同じ)は、白雉五年(六五四)、斉明三年(六五七)、五年(六五九)、六年(六六〇)に、舎衛は白雉五年、斉明五年に九州「日向」に漂着した等の記事が見えていますが、これも天武四年記事が過去からの盗用であることを示しているものでしょう。

5、九州王朝の占星台設置

 つまり、天武四年(六七五)一月庚戌(五日)の「始めて占星台を興つ」との記事は、三四年前に遡る舒明十三年(六四一)に、打ち続く天文の「凶兆」に対応するため、新羅使や、唐から帰国した学問僧らの知識に基づき、倭国でも占星台を興てた、その記事からの盗用だったと考えられるのです。
 そして「三四年繰り下げ」られた記事は、持統吉野行幸と同様九州王朝の事績からの盗用と考えられますから、倭国で「始めて占星台を興」て、天文観測を行ったのは近畿天皇家の天武ではなく九州王朝だったことになるのです。

6、「天文観測」の本格的開始時期

 国立天文台の谷川清隆氏らは、「舒明四年(六三二)一月朔の日蝕は日没時」で、食分は〇.〇五と殆ど見えない。従って「僅かに〇.〇五の日食に、何の予備知識も無しに気づいたとは考え難いので、食の予測はされていたと考えられる」とされ、また、「推古紀には二八年(六二〇)の『十二月庚寅朔,天有赤気長一丈餓.形似雑尾』とオーロラの記録があり,更に『三十四年春正月桃李華之.三月,寒以霜降』,『六月,雪也』と続く。このように推古期の晩年から『書紀』には自然現象の記述が急に増加」するため、我が国における天文観測はこの時期に始まったとされています。
 推古一〇年(六〇二)に「暦・天文・地理・遁甲・方術」を学び始めたとすれば、しだいに天文観測や自然現象の記述が増え、また六三二年には食の予測が出来るほど熟達していて何の不思議もないのです。

7、天文記事の空白期間の生じた理由は「九州王朝を消す」ため

 しかし、『書紀』では、こうした天文記事は舒明紀でいったん途絶え、再び記されるのは天武五年以降なのです。
 たとえば、皇極・孝徳・斉明・天智紀に書かれなかった彗星記事が、突然天武五年七月、天武一〇年九月に記され、また日蝕記事も天武九年、天武一〇年に記されます。天武三年、天武四年には中国で日蝕が観測され、これは飛鳥でも見えたことが国立天文台の谷川氏らの研究でわかっています。しかし、なぜか天武五年以降しか記されていません。
 これについて、谷川氏らは「天文観測は連続して行われるはず」なのに「皇極、孝徳、斉明、天智の時代に天文観測記録がない。三〇年間は天文観測しなかったのか、それとも観測はしていたのだが記録が失われたのであろうか」という疑問を呈しています。
 その理由は明らかで、『書紀』編者は「占星台」設置を三四年繰り下げることにより、「倭国で天文観測を始め、日蝕の予想も行ったのは近畿天皇家の天武天皇だ」と偽りました。このため、天武四年の占星台設置までの天文記事を抹消し、設置以降に天文記事を頻出させたのだと考えられます。
 尤も、実際に天文を観測し日食予想を行いうるのは、年号を建てるのと同じ天子の専管事項で、それは九州年号を持つ九州王朝でしたから、天武五年以降の天文記事も九州王朝の事績・記録からの盗用ということになります。

8、持統紀の「日食予測の誤り」は王朝交代を示す

 ただし、持統紀の日蝕記事は、谷川氏らにより実見でなく予測に基づいたもので、しかも「不正確」、というより「でたらめ」なものだということが分かってきました。
◆推古三六年から天武一〇年の間には五例の日食記録があり,全て観測事実と確認できるのに対し、持統紀の日食記録は全て観測事実ではなく,当時の暦法による予測によるものである。日本で観測出来た筈の日食が一例も記録されていないこと、「旧唐書」・「新唐書」に記載されている日食の過半数が記録されていないなど記録する日食の選択が不可解である
(『日本書紀天文記録の信頼性』(河鰭公昭、谷川清隆、相馬充「国立天文台報 第五巻」二〇〇二年)

 これは、天文観測は九州王朝の専管事項で、近畿天皇家では行われておらず、従って記録は残っていなかった。また、計算(予測)技術も無いか不完全だった。一方、九州王朝においても朱鳥元年(六八六)の難波宮の焼失後の天文観測は中断されたか、筑紫で行われたため、その資料を持統や『書紀』編者は入手できなかった。つまり九州王朝滅亡時に近畿天皇家が奪おうとした「禁書」(註2)のうち、当時の「日食観測記事」や予想技術に関するものは、ついに得られなかったのではないでしょうか。
 ただ、『書紀』編纂に際しては、持統を天子とするために「天子行」たる天文観測、即ち日食記事が不可欠で「逆って計算(推算)」し記入せざるを得なかった。しかし近畿天皇家は九州王朝の「元嘉暦」にかえ「儀鳳暦」を採用したため、再計算は混乱し誤った日食記事を書くことになった、これが「持統紀のでたらめな日食記事」の原因ではないでしょうか。(註3)
 天文観測が近畿天皇家の事績なら、持統期に暦法が変更されても、少なくとも実際に観測された日食記事はあるはずです。しかし持統紀の日食記事は「でたらめ」でした。これは、九州王朝は王朝の専管事項として天文観測を行い歴法の運用を行ってきましたが、持統期から『書紀』編纂までの間に、九州王朝から近畿天皇家へ王朝交代がおき、評制が郡制に変わったように暦法も変更された、その結果だと考えられるのです。

(註1)「瞻星台」の「瞻」は「仰ぎ見る」の意。所在地は慶尚北道慶州市仁旺洞八三九―一。高さ九・一七m、上底二・八五m、下底四・九三m。暦年の日数と一致する総計三六五枚の花崗岩切石で造られている。

(註2)『続日本紀』和銅元年(七〇八)正月、山沢に亡命して禁書を挟蔵し、百日まで首せずんば罪に復すること初めの如くす。

(註3)福岡市西区の元岡古墳(七世紀中ごろ)で発掘された象嵌大刀の銘文「大歳庚寅正月六日庚寅(五七〇年一月二七日)」は元嘉暦による暦日干支推算結果と一致する。また、明日香石神遺跡から持統天皇三年(六八九)三月・四月の元嘉暦に基づく具注暦を記した木簡が発見されている。

◆文武天皇元年(六九七)八月朔の干支を、『日本書紀』は乙丑と元嘉暦を採用しているが、『続日本紀』では甲子と儀鳳暦を採っている。「増田修『倭国の暦法と時刻制度』(市民の古代第十六集一九九四年)」なお、増田氏は九州王朝の暦法は「四分暦」だったのではないかとされている。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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