2016年4月9日

古田史学会報

133号

1,「是川」は「許の川」
 岡下英男

2,「近江朝年号」の実在
 正木 裕

3,筑前にも出雲があった
 中村通敏

4,「要衝の都」前期難波宮
 古賀達也

5,「善光寺」と「天然痘」
 阿部周一

6,令亀の法
 服部静尚

7,追憶・古田武彦先生3
蕉門の離合の迹を辿りつつ
 古賀達也

8,「壹」から始める
 古田史学Ⅳ
 正木裕

 

古田史学会報一覧

「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」 服部静尚(会報131号)
考古学が畿内説を棄却する(会報134号)

令亀の法

八尾市 服部静尚

一、三国志の令亀の法とは

(一)魏志倭人伝の令亀の法

 魏志倭人伝に、「其の俗挙事行来に、云為うんいする所有れば、輒すなわち骨を灼きて卜ぼくし、以って吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ、其の辞は令亀れいきの法の如く、火坼かたくを視て兆しを占う。」とあります。倭人は骨を灼いて吉凶を占っている。その辞は令亀の法と同じであるというわけです。

 

(二)ここで言う「辞」とは何か?

 その前に、令亀の法とは、殷の時代より行われていた卜占ぼくせんの方法と考えられます。殷墟より出土した亀の甲に刻まれた卜辞ぼくじには(白川静「甲骨文の世界」および貝塚茂樹「古代殷帝国」によると)、
①卜する目的をあらかじめ亀に告げる「命亀めいきの辞」と、
②灼いてできたひび割れの形から、王みずからがその吉凶を判断した言葉「繇辞ようじ」、
③そしてその判断の結果が、その後の事実と一致したことを刻した「験辞けんじ」の三種類の「辞」があります。
 倭人伝には「先ず卜する所を告ぐ」とあるので、この内の「命亀の辞」が同じだとなります。

 

(三)「命亀の辞」の(殷墟での)出土実例をあげると、

「癸丑の日に貞う。今歳に粟の良き実りを授かるか」

 この辞を構成要素で分解すると、(干支日)+(貞う=占うと同じ)+(何を占うかの内容)これだけです。干支日を除くと「何々を占う」という当たり前の辞になります。つまり命亀の辞特徴は干支日です。倭人が骨を灼いて吉凶を占う際に発した「命亀の辞」を聞いて、魏使は「其辞如令亀法」と記述したわけです。もし倭人の占い人が、干支日以外の言葉、例えば数字日であったり、あるいは日付けを辞さなければ、これを見て聞いた魏使が「其辞如令亀法」とはしないと考えられます。

 

(四)つまり、邪馬壹国では干支日を使っていて、倭人は干支日で卜占していたことになります。

 しかし、(二)項の亀の甲に刻まれた「命亀の辞」の内容は、二〇世紀初頭の殷墟の発掘・甲骨文字の発見解読によって、明らかになったものです。当然、魏使および(三国志の著者)陳寿(三世紀の人)がこの発掘・発見を知っていたとは考えられません。そこで次に、魏使および陳寿が「令亀法」とした、これがどのようなものであったかを探ります。


二、 史記の亀策列伝

(一)この列伝は司馬遷(紀元前二世の人)没後に散逸し、前漢の元帝・成帝の時代、紀元前四十九~七年に補われたものとされています。
 この中で亀卜きぼくについて次のように記されています。(新釈漢文大系、明治書院、青木五郎著による)
 夏・殷・周の三代では亀卜の方法が異なり、四方の少数民族では卜筮ぼくぜい※の方法が違っているが、それぞれ亀卜や卜筮を用いて吉凶を判断しているので、その要点を概観して亀策列伝を作ったとしており、
  卜するに先ず造(イバラの枝)を以って亀甲に鑽(さん 穴)を灼き,中央部に鑽をほり終わったら、又亀首を灼き、これを各三回行なう。又再び鑽をほった中央部を灼くことを正身といい、亀首を灼くことを正足という。これを各三回行う。つづいて造をもって亀の周りを三周めぐり、祈って言う。
  「玉霊(亀)の神通力に助けを借りる。玉霊よ私は,荊(イバラ)でその心を灼き、未来を予知できるようにした。あなたは上は天までのぼり、下は深い淵までくだり、諸の霊や数(メドギ)も、汝ほど信頼できるものはない。今日は良日、良き占いを行なう。某は某のことを占うが、もし吉兆が得られれば喜び、得られなければ悔やむ。もし願いがかなえられるのなら、長く大きなひび割れを私に示し、首と足を引っ込めてひび割れの形が全て対をなし上向くようにせよ。かなえられぬなら、折れ曲がったひび割れの形を私に示し、中央部と周囲のひび割れが整合せず、先端と末端のひび割れを消せ。」

※筮〓めどぎ、占筮のために用いる五〇本の細い棒のこと。蓍萩めどはぎの茎を使ったが、のちに竹で作り筮竹ぜいちくという。

(二)左記が「命亀の辞」となりますが、その内容のほとんどの部分が、「あなたは上は天までのぼり、下は深い淵までくだり、…」という部分も含めて亀に関わっています。
 しかし倭人伝で占いに用いられているのは「骨」で「亀の甲」ではありません。倭人が骨に亀の神通力を願うとは考えられないので、魏使が聞いた辞はこれでは無いと考えてよいと思います。


三、儀礼ぎらいの士喪礼

 儀礼は、周公(紀元前千年頃)の制定によるもの、あるいは孔子(紀元前五五二~四七九)編纂説もある、五経の一つ礼経として伝わったものです。
 士喪礼は士階級★の者が、その親を葬る際の儀礼を規定したものです。ここで、その葬儀の日を決めるのに亀卜をし、その詳細な方法が記述されています。
(東海大学古典叢書、儀礼、池田末利訳注より)
★周代の支配者層で、周王―諸侯―卿―大夫―士

 「葬る日を卜うらなう…
 日を卜する。朝哭が終われば皆殯門の外に戻る。
 卜人が先ず亀を西門の脇の部屋に置いて、頭を南に向ける。敷物があって、葦を束ねたタイマツを亀の東に置く。
 族長で卜事にのぞむ者が一族の(公の臣)宗人と吉服をきて、門の西に立ち、東面して南を上とする。
 占者三人がその南にいて北を上とする。卜人とタイマツ・敷物をとる者は脇部屋の西にいる。門の東の扉を閉じる。
 主婦(亡くなった人の妻)は門の内に立つ。門の中央のしきりの西で敷居の外に敷物をしく。
 宗人が準備のできたことを主人(喪主=長男)に告げる。主人は北面して喪中のかざりをとって、左にこれをかかえる。
 族長が門の東で西面する。(主人に代わって卜を命ずる役の)卜人が亀を抱え、別にタイマツを持つ者が亀に先んじて進む。
 亀を頭を西にして、タイマツは北に置く。宗人は卜人から亀を受け取り(亀の腹甲の焼くべき)高い所を族長に示し、卜にのぞむ族長は亀を受け見て、宗人にこれをかえす。宗人は少し退いて卜にのぞむ者の命を受ける。
 卜にのぞむ者は「哀子某(主人=喪主の名)が、来る某の日(干支)に、その父某甫(父の字)を葬ることを卜う。父が死して土にもどるのについて咎に近づくことなきや」と。
 宗人が承って敷物の所にもどり西面して座り卜するところを亀に命じ、卜人に亀を授けて東の門扉を背負うようにして立つ。卜人が座って亀を焼き、立ち上がってこれを宗人にわたす。宗人は亀を受けて族長に示す。
 族長はこれを受けて視てこれを宗人にかえす。宗人は退いて東面し卜の結果をまつ。
 次々に卜い終わると亀を置かずに族長と主人に告げて言う。「卜ったところ某日は吉に従い宜しいとでました」と。
 亀を卜人に授けて主婦に告げる。主婦は葬の期日を知って哭する。宗人は爵を異にするもの(公卿大夫)にも告げ、人をやって同席できなかった衆賓に告げさせる。卜人は亀を撤去する。宗人は卜が終わったことを告げる。
 もし卜が吉に従わなければ別の日を選んで、初めの儀式のように卜する。」

 傍線部が「命亀の辞」となります。これはまさに殷墟より出土した亀の甲に刻まれた卜辞の、卜する目的をあらかじめ亀に告げる「命亀の辞(干支日)+(貞う)+(何を占うかの内容)」と同じ構成です。
 歴史文献資料と考古学の遺物が一致して疑う余地がありません。
 以上「邪馬壹国では干支日を使っていて、倭人は干支日で卜占していた」という結論になります。


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