2015年 6月10日

古田史学会報

128号

1、網野銚子山古墳の復権
 森 茂夫

2、「短里」の成立と漢字の起源
 正木 裕

3、妙心寺の鐘と筑紫尼寺
 阿部周一

4、長者考
 服部静尚

5、九州王朝の丙子椒林剣
 古賀達也

6,「漢音」と「呉音」
皇帝の国の発音
 阿部周一

7,メルマガ「洛洛メール便」
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古田史学会報一覧

「春耕秋收」と「貸食」 -- 「一年」の期間の意味について 阿倍周一(会報125号)

「熟田津」の歌の別解釈(一) 阿部周一(会報130号)


「漢音」と「呉音」皇帝の国の発音

札幌市 阿部周一

 「古田史学の会」の中でも「漢音」と「呉音」について議論があるようですが、以下はこの「漢音」と「呉音」についての別の観点からの考察です。
 「漢音」と「呉音」という用語は時折「混乱」されていることがあります。それは「漢音」と「日本漢音」、「呉音」と「日本呉音」の関係においてです。
 「漢音」という「用語」は、その「初出」が「唐」の「高祖」(李淵)の「詔」に出てくるものであり、そこでは自らを「漢」の正統な後継者であると宣言し、「唐」の都「長安」の発音を称して「漢音」と言い、「南朝」「陳」の発音を指して「呉音」と言っていることが分かります。
 これらはいわば「政治的」用語であり、「唐」の立場から言うと自らの王朝を「正統化」し、「南朝」を「侮蔑」するために造られた「概念」であると考えられます。つまり、彼がこのような「政治的」レッテルを「南朝」に投げつけている理由は「大義名分」の確保という重大な理由があると考えられるものです。
 「北朝」は「基本」としてその主体が「漢民族」ではありませんし(鮮卑族主体か)、その「言語」も元々は「漢民族」とは異なっていたと考えられます。しかし、「北魏」以降強大な勢力となった時点以降各「北朝」の王朝は「漢民族」との「宥和政策」や中には積極的「漢化」政策をとるものも現れました。そのため「言語」も「漢語」を公用語として使用するようになったものと思料されますが、その「北朝」が「隋」に至り「中国全土」を統一したわけです。その「隋」を「クーデター」で打倒した「唐」の「高祖」にしてみれば、その後も「中国」を代表する王朝でいるためには「南朝」の「復活」を一番畏れていたものと思われます。
 それは「南朝」の始原をたどると、本来「正統」な「漢民族」の「王朝」であったのは「南朝」の側であったためであり、「匈奴」の侵入により「西晋王朝」が崩壊した際に、王族の一部のもの(「司馬睿」)が江南地方(揚子江の南側地域)へ脱出し、その地に新たに建国したのが「晋」(東晋)であったのです。これが「南朝」の始まりとなるのですから、「大義名分」のある漢民族の王朝であったのはむしろ「南朝」の方であったとも考えられます。周辺の諸国はその間「南朝」の皇帝の配下の諸侯王の一人として「将軍」号を受けていたものです。
 このような状況でしたから、「唐」の高祖「李淵」は「隋」が打倒された時期の「国内」の不安定な状況が、元の「南朝」勢力に益することや、「国内」の「唐」政権に対する批判的勢力が「南朝」の権威の元に再結集することを強く畏れていたのだと思われます。
 そのようなことが起きないために「南朝」の持っている「大義名分」を破壊し、滅却することが必要であったと考えられ、このため、南朝に対し「古の」「呉国」の末裔であって「正統な」王朝、つまり「漢王朝を継いだもの」ではないというイメージを植え付けようとしたのでした。
 そのような「政治的」意図で造られた用語が「漢音」と「呉音」であるのです。
 このような経緯で発生した「漢音」と「呉音」という用語を、「八世紀」以降の「日本国」王権が追従して受容したものであり、その「時点」における「唐」など「北朝」系の発音を導入して、それを「漢音」と称したものであり、これが「日本漢音」を形成します。
 現代の「音韻学」によれば「唐代長安音」(後期中古音)の特徴としては「非鼻音化」という現象があり、これが「日本漢音」に顕著に見られることなどから、(注二)「日本漢音」の成立もこの時代付近であることが確実視されています。 そして「北朝」王権の意図に則して、それまで「倭国内」で使用されていた「発音」を「南朝」の発音であって「呉音」(日本呉音)と称されるべきものであるとして「禁止令」を出すなどの政策を実行していくのです。それまでは「倭の五王」に代表される「南朝」との交流が継続していたと思われ、「国内」では「南朝」系の漢字発音が使用されていたものであり、これが「八世紀以降」の「日本国」の王権から「呉音」として名指しされ、呼称として定着します。これが「日本呉音」を形成したものです。

 これについては、近年の多くの研究が「日本呉音」にかなり近似しているのは現在の「上海」から「香港」付近の「発音」であるとされており、また「漢音」に近似しているのは「北京」付近の北方地域の「発音」であるとされています。(ちなみに「三国時代」当時の「呉音」つまり、「南方発音」は現在更に南方に所在する「河南省」付近の発音がそれに近い可能性が高いと考えられています。)
 「倭国」はそもそも「歴史的」には「前漢」の「武帝」が半島に「帯方郡」を設置して以来、「漢」と通交するようになり、「漢」(後漢)の文化を受容するようになったと考えられます。その後「半島」が「公孫氏」に占拠されると「交流」は「一時的」に停滞したようですが、「公孫氏」が滅亡した以降は再び、「漢」の直接後継王朝である「魏晋朝」に「遣使」し、「魏晋」王権の元の「候王国」として存在することとなったものです。
 当時南方の「呉国」の影響も「倭国」に及んでいたものと思料しますが、(「狗奴国」が「邪馬壹国」と対立していた背景には「呉国」がいたという可能性があると考えられます)「倭国」の代表政権としての「邪馬壹国」は「卑弥呼」「壱与」と継続して「魏晋朝」に臣事しており、以降の王朝も変わらなかったものと推量します。その「西晋」は「三一六年」、北方異民族である「匈奴」の侵入を受け、滅亡します。そして、半島にあった「西晋」の出先機関であった「楽浪郡」などが「西晋」の滅亡とほぼ時を同じくして消滅してしまったため、「倭国」からの「朝貢」の道が閉ざされてしまいました。
 その後「四世紀」末になって「倭の五王」の最初の「王」である「讃」の代に「拡張」政策が始まり、半島にも「軍」を送り「附庸国」の拡大と種々の物資の「収奪」などの政策を始めたと考えられます。特に「半島」からは「鉄」を獲得するために執拗に軍事政策を展開し、「新羅」の地を属国(附庸国)化すると共に、そこを地盤として「半島」内に勢力を拡大することとなりました。このため「高句麗」とぶつかることとなり、そのため「百済」と友好を結び「軍事援助」を得ると共に数々の文物の交流を開始したものです。そのような中に「海岸線に沿って朝鮮半島から揚子江付近まで南下する」という「北路」といわれる「航路」の開発があったものと推察します。この航路は「百済」が先行して開発したものと推察され、それを「讃」が取り込んだものと考えられます。
 そして、この航路を使用して「東晋」以降のいわゆる「南朝」に対して「倭国」は「遣使」を「再開」したものと思われますが、「倭国」がこの「東晋」以降の王朝に対して以前のように「臣事」する事となった理由の一つは、もちろん中国北半部が「五胡十六国」という戦乱状況が続いたこと、「帯方郡」が消滅したことなど、「北朝」への「ルート」がなくなったことに加え、「航路」が開拓され、「南朝」に「遣使」する事が「技術的に」可能となったという事情もあると思われますが、実はもう一つの大きな理由として、「東晋」以降の「南朝」の「言語」(発音)が、以前の「魏晋朝」と「同じ」であったからという可能性があると思われます。
 もし「南朝」の言葉が「魏晋朝」とは違って、以前の「呉」の国と同じ「発音」であったなら、「倭国」としては「臣事」する事はなかったのではないでしょうか。
 「倭国」は、以前「魏晋朝」と同じ「大義」に生きていたものであり、「呉国」に対しては「魏晋」の立場と同様「正統な王権」とは認めていなかったものと思われます。しかもその「呉国」は「倭国」中央政権であった「邪馬壹国」に対抗していた「狗奴国」を背後で支援していた可能性があるわけであり、「南朝」がそのような国の「発音」を継承していたとすると、「倭国」にはすぐ「区別」がついたであろうと考えられます。
 彼らは「漢」以降「魏晋朝」と続いた「当時」の中国中央政権の「漢字発音」に継続して接してきていたわけですから、「敵対国」である「呉国」と同じ「発音」の国には「臣事」する事はできなかったものと推察されるものです。
 また、このように考えると「隋」に対して「柵封」されることがなかった理由のひとつも、同様に「発音」の違いであったとも考えられます。「隋」は「唐」と同じ民族であり、その発音は「中国北方音」としての「漢音」系統の発音であったと考えられますから、「倭国」としてはそれまで「臣事」してきていた「南朝」との「発音」の違いを確認し、それまでの「伝統的」な、自分たちが慣れ親しんだ「皇帝の国の発音」とは違う、としてこれに対し反発心を持ったものではないでしょうか。このことが彼らをして「天子の対等性」「天子の多元性」主張という「過激」な政策を選ばせる動機の一部を形成したと思われます。
 このように、「南朝」に臣事することとなり、また「北朝」を拒否することとなった理由のひとつとして「発音」があったと考えられるわけですが、その「南朝」の「発音」は「唐」の皇帝からは「呉音」と「蔑視」された発音となったわけであり、それは現在私たちが「呉音」と呼称している「日本呉音」に「非常に近い」とされているわけですから、この事から「日本呉音」は「魏晋音」に近いと考えられることとなるでしょう。
 「中古音」は「広韻」などがありますから、復元は出来ますが、「魏晋音」以前の「上古音」については資料が少なく、復元が不完全であるのが現実です。しかし、そのような中でも「研究」の結果、「漢音」よりはまだ「呉音」に近いと考えられており、このことから、「三国志」はやはり「呉音」で読む方が現実的ではないかという推定が可能であると思われます。
 そもそも「魏」「晋」(西晋)が「漢民族」の国家であるのは論を待たないと思いますが、「隋」「唐」が「北魏」から続く「匈奴」や「鮮卑族」などによる国家であることもまた確かであると思われます。つまり、これらの国家は「民族」が異なるわけです。
 「北魏」以降の「北朝」は「漢民族」との「融和」を掲げながらも、その言語を捨てなかったと考えられます。(「隋」の「文帝」(高祖)の言葉として「書き言葉」としての「漢語」がよく分からない、という意味のことを云っているのが「隋書」に出てきます。)

(以下該当部分)
「隋書列伝第三十一『栄? 兄建緒』」
「建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰 且躊躇,當共取富貴。建緒自以周之大夫,因義形於色曰 明公此旨,非僕所聞。高祖不悦*。建緒遂行。開皇初來朝,上謂之曰 卿亦悔不 建緒稽首曰 臣位非徐廣,情類楊彪。上笑曰 朕雖「不解書語」,亦知卿此言不遜也。?始、洪二州刺史,?有能名。」

  ここに書かれた「不解書語」という文章の意味は「文言と口語」との間に「乖離」があることを示すものというのが一般の理解のようですが、「文章」としての「漢語」に対する「理解力」がないということも言わんとしているのではないかとも思料します。
 「隋」「唐」の漢字発音にも彼らの民族特有の言語の要素や影響が強く出ていると考えられ、この彼らの漢字発音を称して「漢音」と称するわけですが、当然これは「漢民族」であった「魏」「晋」とは異なっていると考えざるをえません。
 「魏」「晋」における「漢字」の発音を「漢音」(この場合「日本漢音」とも等しい)と同じであるとするならば、このように民族と時代が異なっているにも関わらず、発音は同一ないしは同系統である事を補強する別の「証拠」ないし「資料」が「必須」なのではないでしょうか。

(注)「非鼻音化」とは、「前期中古音」において鼻音(m、n、N)であった「声母」が、「有声破裂音」化してゆく現象を言い、代表的な例を挙げると「m」が「mb」へ、「n」が「nd」へ、「N」が「Ng」となるような現象などが挙げられます。これにより「木」を「呉音」では「モク」というところが、「漢音」では「ボク」になり、「内」が「呉音」では「ナイ」であるのが、「漢音」では「ダイ」となるなどが挙げられます。
〈参考〉富山大学人文学部中国言語文化演習テキスト1998
全昌煥「日本呉音と呉方言の音韻的対応関係 -- 主に蟹摂字の音価を中心として」現代社会文化研究二十三号二〇〇二年三月 これによると、「中国」における「呉音」から「漢音」への音韻変化と「日本」における「漢音」と「呉音」の間の関係は、中国における音韻変化を忠実に「伝写」しているとされ、また「呉音」は南北朝期の音韻実態を表していると考えられると述べられています。


 これは会報の公開です。

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