2013年10月10日

古田史学会報

118号

1、古田史学の真実
   西村論稿批判
   古田武彦

2、「実地踏査」であること
を踏まえた『倭人伝』の行程
   正木裕

3、「廣瀬」「龍田」記事について
「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係
  阿部周一

4、難波と近江
の出土土器の考察
  古賀達也

5、荒振神・荒神・荒
についての一考察
  服部静尚

6,欠史八代」の実相
  西村秀己

7,書評
朱鳥あかみとり翔かけよ
  不二井伸平

古田史学会報一覧

神代と人余の相似形II -- もうひとつの海幸・山幸 西村秀己(会報121号)

隼人原郷 西村秀己(会報115号)


欠史八代」の実相

高松市 西村秀己

 

 「欠史八代」という日本史上の用語がある。第二代綏靖から第九代孝元までの系譜のみが存在する天皇家の歴史のことである。確かに、古事記にも日本書紀にもこの八代には説話は存在しない。だからこそ、古田武彦氏がその実在性を指摘するまでは、そしてその指摘のあった後も、通説学者たちは彼ら八代を架空の存在としてきた。勿論、筆者は古田説を支持するものだが、古事記をテキストとして、ここで更に踏み込んでみたい。本当に「欠史」なのかと。
 まず、第二代の綏靖にはその即位前記に権力奪取の説話が存在する。従って、これは「欠史」とは言い難い。
 次に第三代の安寧だが、彼は綏靖と河俣毘賣のたった一人の子供なのにも拘わらず、彼の母親には「師木縣主之祖」という注が付く。だが、安寧の子孫に師木縣主などいない。そもそも古事記には師木縣主など一切登場しないのだ。仮に安寧の子孫に師木縣主がいたとしても、これをもって河俣毘賣を「師木縣主之祖」と呼ぶのは不適切ではあるまいか。とすれば、この「祖」は「祖先」という意味ではなく「親」という意味であり、安寧自身が師木縣主そのものであることを示していることになる。安寧の和風謚号は「師木津日子玉手見」である。「師木津日子」が師木の長官を意味するのならば、安寧が師木縣主であって不自然ではない。
 だが、この「師木縣主之祖」という注が付くのは河俣毘賣一人ではない。第五代孝昭の母親である賦登麻和訶比賣も同様なのである。では、孝昭も師木縣主だったのだろうか。論理的にはそう断じざるを得ない。ところが、安寧と孝昭の間の第四代懿徳も師木縣主だったのであれば、その妻賦登麻和訶比賣がそう形容される謂れがない。つまり、懿徳は師木縣主ではなかった、のである。
 さて、もう一度安寧の系図に戻ってみよう。安寧の妻は河俣毘賣の姪(河俣毘賣之兄縣主波延之女)阿久斗比賣である。彼女の子供たちは、常根津日子伊呂泥、大倭日子鋤友(懿徳)、そして師木津日子の三名だが、ここに安寧の名を受け継ぐ者がいるのである。つまり、師木縣主の地位を受け継いだのは懿徳ではなくその弟なのだ。整理すると、初代師木縣主は安寧、二代がその三男の師木津日子、三代が孝昭ということになる。
 ところが、孝昭は師木津日子の名を持たない。その父懿徳は大倭日子である。一見すると、師木津日子より大倭日子の方が上位に思える。だがそれならば、父親より下の位に就いた孝昭の母親に「師木縣主之祖」と誇らしげな説明文をつけるだろうか。つまり、懿徳の「大倭日子」は称号を持たない懿徳に後の編纂者(安萬侶とは限らない)が貼り付けた物と考えられる。
 では、孝昭は何故「師木津日子」の名を持たないのだろうか。ここで、安寧の息子の師木津日子に注目してみよう。彼の子供は一人は和知都美、もう一人は「一子孫」と記述される。伊賀須知之稲置・那波理之稲置・三野之稲置之祖と、古事記編纂期の豪族が記されているにも拘わらず、である。実は「一子孫」という表記は、古事記にはここにしかない。これは、名が喪われたのではなく、消されたのではないかと疑うに十分な状況である。この人物は本来、「師木津日子○○○」だったのではないだろうか?つまり、孝昭と同世代のこの人物が既に「師木津日子」であったが為に、孝昭はその称号を名乗らなかったのではあるまいか。
 これらの考察が正しいとすれば、師木縣主の変遷はこうなる。初代は安寧、二代は安寧の息子の師木津日子、三代はその名を無くした息子、四代が孝昭となる。そして、三代の名が意図的に消されたとすれば、三代から四代への継承は正常なものではなかったと考えられるのだ。
 こうして系譜の中から説話が浮かび上がってきた。少なくとも、初期の天皇家は師木縣主だったのである。そして、崇神・垂仁・景行の宮が師木にあったとされることを思えば、師木縣主であった時期はかなり長期に亘るのではあるまいか。また、その師木縣主の地位ですら、記紀が描くような父子相続という直線的相続ではなかったのである。
 天皇家には名字が無い。だが、最初から無かったとは信じがたい。もし、有ったとすれば、それは「師木」若しくは「磯城」だっのではないだろうか。ひとつの候補としてここに提案したい。(本稿の趣旨にはそぐわない為詳述はさけるが、筆者は実は奈良県の旧国名も八世紀直前までは「大和国」ではなく、「師木国」或いは「磯城国」だったのではないか、と考えている)
 さて、このような論考は九州王朝説に何の関係もないではないかと、訝る諸兄も多いと推察できるが、実はそうでもない。神武の東侵が一世紀初頭の前後であるとすれば、安寧から孝昭までの彼らが師木縣主であった時代のいずれかは、永初元年(一〇七年)に重なる。即ち、近畿天皇家は倭王帥升の候補とはなりえない。同時に、「欠史八代架空説」をその根幹とする「邪馬台国東遷説」も成立しないのである。

追記

 懿徳とは「大いなる徳」の謂いである。「大いなる徳」とは「謙譲」すなわち権利があるにも拘わらずこれを行使しない、つまり呉の例で云えば季札の立場だ。孝昭がその師木縣主の正統性を主張するためには、その父親が本来の師木縣主の継承者であったことを喧伝する必要がある。その上で、父親はその位を兄弟に譲った。孝昭はこれを元の形に戻しただけなのだ、と主張しなければならない。
 もちろん、漢風諡号は孝昭から見て遙か後代に制定されたものだ。だが、これは偶然なのだろうか?


 これは会報の公開です。

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