2011年 8月 8日

古田史学会報

105号

1、論争のすすめ
 上城誠

2、古歌謡に現れた
「九州王朝」の史実
 西脇幸雄

3、斎藤里喜代さんへの反論
 水野孝夫

4、橿(モチのキ)はアワギ
イザナギは彦島で禊いだ
 西井健一郎

5、古田武彦講演
  九州王朝
  新発見の現在

6,星の子3
  深津栄美

穴埋めヨタ話5
ヤマトタケルは女だった?

 

古田史学会報一覧

連載小説『 彩神』 第十二話 梔子1    星の子1  

割付担当の穴埋めヨタ話5 ヤマトタケルは女だった?

     星 の 子(3)

 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
                          深津栄美
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 末廬(まつら)兵が退(しりぞ)くと、火照(ホデリ)と珠名(タマナ)も襲(そ)の国(=南九州)へ引き上げて行った。
「どうしてもここにはいられんのか?」
 天火明(ホノホアカリ)は名残(なごり)を惜しみ、
「兄者、俺(おれ)も連れて行ってくれ。」
火遠理(ホオリ)はせがんだが、
「駄目だ、」
火照は言下にはねつけた。
「お前は、ここで伯父上の手助けをするんだ。馨(かおる)と香山(かやま)が成人したら、周公の『左治天下』に習って立派な後見(うしろみ)役になってやれ。それが六年(むとせ 当時は二倍年暦従ってこの場合は、三年となる)も故国(くに)を留守にしていたお前の償(つぐな)いだ。うっかり自分が取って変わろうなどと野心を起こすなよ。そんな事をしたら、俺が黙っちゃいないからな。」
 火照が半ば恫喝したのは、母の墓前で馨が邇々芸(ニニギ)の件を告白した為でもあった。自分達の父親が妹同然の馨に倒されたと知って、兄弟はさすがに衝撃を受けたが、
「どうか私を殺して頂戴。私は間違っていたのですから。」
涙ながらに刃を差出す馨を、
「早まるなよ。」
二人は交互になだめた。
「親父は気の荒い野心家だった。おぬしでなくても、いつか必ず誰かに倒された
だろう。」
「親父がいたら末廬との間も余計、紛糾したかもしれんぞ。」
「伯母上に先立たれ、あなたにまで死なれたら、火明様はどうなるのです? 香山様は姉君の言うことしかお聞きにならない、との侍女達の話ではありませんか。」
珠名も口を添え、馨はやっと刃を納めた。
 岩長(イワナガ)は木の花と並んで、裏庭の池のほとりに埋葬された。墓標代りの桃の木は邇々芸に焼かれてしまったので、火明は新しい苗木を取り寄せ、植え直した。馨は、珠名が献上品として持って来た梔子(くちなし)の花を、桃の根方に植えた。
「嫌な思い出を募らせはしない?」
 岩長が死の直前、志々伎(シジキ)に贈られたこの花を髪に飾っていた、と聞いて珠名は眉をひそめたが、
「桃の花も梔子も、お母様が大好きだったから植えるのよ。」
馨は無邪気に答えた。
 それから十二年(六年)桃は立派な大木となり、梔子も見事に根を張って、時期が来る度(たび)に池辺を華やかに彩(いろど)るようになった。
 馨は「日の出祭り」のついでに弟と母の墓に詣(もう)で、誓いを新たにするのだった。
 「お母様は、建御名方タケミナカタに置き去りにされたばかりに、辛酸をなめたのだわ。だから、私達は、建御名方に復讐せねばなりません。それでなくても建御名方は出雲の残党で、このままでおいたら諏訪と結んで東の一大強国となり、邪馬(やま)を脅やかすようになるのは判り切っていますからね。」
 馨も三十二才(十六才)を迎え、母亡き後、家刀自として奥の切り盛りを預かる身となって、政治に関する洞察力も備わり出していた。
「勿論ですとも、姉上。」
 香山も十八才(九才)の少年に成長しており、「日の出祭り」にはいつも馨のお伴をして、自分も巫女達と一緒に暁に頬を紅潮させながら酒(みき)をまいて祭壇を清めたり、鏡を捧げたりした。鏡は、珠名に贈られた鼈甲細工である。
 火照のおかげで襲の国との友好は保たれていたが、伊都(いと 現福岡県糸島郡)、末廬(現佐賀県唐津市~松浦郡付近)、八女(やめ 現福岡県八女郡)など近隣諸国とは相変わらず緊張が続いていた。伯父の片腕の地位に納まってからも、火遠理はよく各地へ赴いて懐柔策に努めていたが、末廬の志々伎は熊襲に壊滅させられた軍事力の再興に全力を注いで、未だ執念深く邪馬への報復の折を狙っていたし、両国間に挟まれた伊都は保身の為、中国大陸へ頻繁に使節を派遣し、松峡の宮(まつおのみや 現福岡県朝倉郡三輪町付近)では王子が成人したので、かねて婚約していた八女の姫と近日中に挙式予定だという。
(夏羽なつはは海幸うみさち兄様が退治してくださったけれど、民は羽白はじろと一緒になったら、きっと邪馬へ葬い合戦をしかけて来るわ。)
 末廬兵と共に橿日宮(かしいのみや 現福岡県香椎宮)を襲った猛禽の大群を、馨は鮮明に覚えていた。騎馬兵や水軍には幾らでも立ち向かう方法があるが、鳥寄せの術には抗いようがない。唯一の手は、民と羽白の縁組を阻止する事だ。
 あれ以来、羽白とは会う折がなかったが、民よりも自分に好意を抱いていてくれるとの確信が、馨にはあった。理由如何を問わず、母も、大鷲に相乗りして娘を送り届けてくれた羽白を、あんなに歓待したのだ。松峡の宮も、どちらにつけば有利かと八女と橿日の宮を天秤にかけた事はある筈だ。
「遠からず筑紫の後しりえ を平定すべきね。」
 火遠理や香山と話し合っていた矢先、思わぬ椿事が降って湧いた。
「姉上、天国あまくにの御婦人二人が、門前で行き倒れになっていますよ。」
 ある午後、庭で遊んでいた香山が、走り込んで来て告げた。
 馨が返事をするより前に、
「では、すぐここへ御案内しろ。」
父の天火明が命じた。天国は自分達の母国だ。そこの人間なら、粗略には扱えない。ところが、香山は変な顔で父を眺めている。
「どうした? 早くせい。」
急(せ)かされて、香山は具合悪そうに、
「その方は、山(やま)幸(さち)の兄上の奥方なんだそうです。」    (続く)〔後記〕

 会報第百一号に、内倉武久氏への反論として古賀さんが「漢代の音韻と日本漢音」を載せておられましたが、大陸における漢音(現代の北京語も含む)は、元寇によって古代中国・朝鮮が事実上滅亡した事もあり、かなり問題ありと考えるべきでしょう。古田先生は以前、命令が正しく伝えられる為にも現地語は残された筈、と言っておられましたが、北中国の言語には元の言葉が相当混じっている可能性が高うございます。その為もあって、北京と南の香港辺りではまるで言葉が通じないのだと思われます。古代中国の真の姿を知るには、香港辺で使われている福建語、広東語(各れも元は呉音)を学ぶべきかもしれません。又、九州の方言にはこの呉音が多数取り入れられ、残っている(麻生前首相の云う「みぞゆう」や、筑紫舞の「しゃっきょう」)ようですから、橋本進吉の「甲類乙類」には当てはまらない日本語が出てきて当然でしょう。(深津)


割付担当の穴埋めヨタ話5

ヤマトタケルは女だった?

 皆様ご存知、ヤマトタケル(以下Y)の熊襲退治。あまりにも有名な説話なのだが、不審だらけでもある。Yは女装してクマソの酒宴に紛れ込み、隙を見てクマソタケル(以下K)(記では二人)を刺し殺す。まず、クマソ側には護衛兵はいなかったのだろうか?記の最初の一人はまあいい。二人目などは驚いて逃げる所を、尻を刺されて殺される。「どこがタケルやねん」と、突っ込みを入れたくなる程だが、ここでも衛兵の妨害はなく、Yは何の苦労もなく現場を立ち去るのだ。しかし、現場が宴席ではなく閨房であると考えれば衛兵の不在は理解できる。紀の原文にも、則携手同席擧坏令飲而戯弄、とあるからだ。
 だが、紀にはYは一六歳、しかも及壯容貌魁偉身長一丈、とある。この頃はまだ青年といえる年齢だからそれほどでもないにしても、遠目にはともかく、間近に於て(戯弄されて)女性に化けきれるものだろうか?特に、仏教伝来前なので剃刀はまだなく、髭をどう処理したのか?(二倍年暦では八歳だが、単身敵中に乗り込み暗殺が実行できる歳とは思えない)
 ところが、Kが女で、例えば卑弥呼のように男子禁制の宮殿に侍女に囲まれて暮らしていたとしよう。遠来より謁見に来た見目良い男を見そめ、その思いを遂げようとするならば、腹心に命じて男を女装させ、密かに引き込むしか方法がない。つまりYの女装は双方合意なのだから、バレるもなにもない。しかも、被害者が女性なのだから、閨で尻を刺されるのは不自然ではない。
 紀はKを取石鹿文とする。紀に登場する、○○鹿文全五名の内、明確に性別が判るのは市乾鹿文・市鹿文の、ともに女性である。
 天孫降臨前後より卑弥呼・壱与・倭王旨に至るまで、九州は女王の世紀だったのかもしれない。(西村)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"